最大の悲劇がここで行われた。
 慶応2年陰暦5月3日(1866.06.15 金曜日)
  14名が殺害された。
下松市花岡東町(新町) 片野 武
下松市花岡 法静寺
〔下松市花岡 法静寺〕
法静寺の過去帳では明治9年を最後に片野家の名前が出てこない。 私が調べた過去帳の戒名(法名)で院号が付いているのは数名(片野武,秦野常若,藤田武熊,秋元三郎)だけである。注記に片野與兵衛忰コト金助とある。 現在は簡単に金銭で院号は買えると信じられているが、かつてはそうでなかった。ましてや長州藩政府の扱いは犯罪者である。 寺はなぜ院号を付けたのか? 寺に対して大きな影響力を持っていた実力者であろう。墓地や墓不明。 
隊では輜重助役である。学問、見識があったのであろう。伝承では萩藩士武弘家の隣、花岡1250番地が片野家だったという。

片野 武 位牌 片野 武 位牌 輜重方助役

現在片野家は山口県山口市の郊外に転居されている。 転居の理由はよく分からない。 当然武(たけし)と同時代の墓石なども不明となった。 父與兵衛、母の名はミチ。 次兄にあたる系の方が武の位牌と祭祀を継承し現在に至る。
実は、'07年11月末、片野 武の系につながる方からeメールを頂戴した。 生来の不精者で踏ん切りが付かなかったが意を決して'08年4月6日片野家を訪問。聞くと中世山口県に覇をとなえた大内家の家臣だったという。 つい最近まで甲冑もあったそうな。
下松市花岡法静寺(浄土宗)過去帳 亮光院信誉元為居士。

長州にあって誰が何のために倉敷・浅尾事件を立石孫一郎義兄在獄救出譚に事件を矮小化させたのか究明する必要があろう。

 
姓  名 所属部隊 出 身 地 享 年
宮本忠吉第二銃隊光市光井(熊毛郡野原村)18
岡本亀之助第二銃隊大島郡大島町三蒲18
加藤次之助第二銃隊 鼓手大島郡大島町小松18
別木小次郎器械方 助役光市光井玉泉寺弟子20
正田久二郎大炮隊大島郡東和町船越22
桜井政太郎第二銃隊光市小周防虹川23
渡辺源蔵第二銃隊 大伍長光市立野24
山根岩太第二銃隊田布施町川西24
相本(愛本)熊太郎第一銃隊光市光井25
水木敬太第二銃隊光市立野28
尾崎四郎第二銃隊熊毛郡大和町岩田32
正田作右衛門器械方大島郡東和町船越30
片野 武(金助)輜重 助役下松市花岡東町22
兼光(金光)勇吉器械方 助役光市光井27
「正田作右衛門」まで検断 藤井関次郎、「片野」 内田九市、「兼光」 市川忠平

地下上申絵図(熊毛郡室積 現光市室積地区)

【左図の説明】(山口県文書館蔵)

 光市の東に位置する。地下上申絵図すべてにいえることは近代的測量法のなかった時代地形をよく俯瞰的に捉え表している。
 この絵図も概観的には現在の地形と同じだが昭和14年海軍工廠建設に伴い中央部のくびれがなくなりズン胴の室積となった。もともとこの地区は北前船の風待ち、 潮待ちの港であり、それに伴い何軒かの商家が発達した。港は本図の右湾曲している部分で「御手洗湾」と呼ばれている。
 絵図では中央部分に奇兵隊発祥の地である専光寺や普賢寺も描かれているが、 子細にみても「黒磯」なる地名はない。伝承で斬首は黒磯となっており現在市営住宅が立っているあたりに古墓群があった。 住宅建設のため墓は移設されたがこの北端が「黒磯」といわれたという。
この場所は推定より一歩踏み込んで【伝承の地】とした。 現在はさる割烹の別館となっている。

桜井政太郎墓  光市小周防   右写真 桜井政太郎墓 光市小周防

 都濃郡宮原山の項で述べた上田作平翁(故人)は光市光井のご出身で、祖父は幼少の頃、この処刑を実際に見物し、その衝撃を幼い翁に繰り返話されたという。 一連の取材を通じて同じご記憶(斬首)をされている方が翁以外にもう一人いらっしやる。
 その処刑は「すみの浜」で行われたとご記憶をされておられた。残っている絵図に「すみの浜」の記載はない。 あるいは前項で記述した上関宰判麻郷戎ケ下の処刑地は通称「洲の鼻(すのはな)」と呼ばれていたので、混同したと考えられなくもない。
 また、『会誌 田布施地方史研究會 第174号』「平生湾岸小史・金谷匡人」によると、この地は塩田で塩を煮詰めるために石炭が使われ、その残滓(燃えガラ)を活用し埋め立てられたという。すなわち「炭(すみ)の浜」だったのかも知れない。

過去帳、正田作右衛門、正田久二郎、他宗旨の本城藩人まで記載 本件事件の最大の処刑(14名)がこの場所で執行された。話は前後するが4月26日、リーダーの立石孫一郎が光市島田川千歳橋上で奸計により殺害されるが打ち合わせ通り(助命嘆願)迎えに来た櫛部坂太郎は悲報に接し残存隊士と今後の身の振り方を相談し、 今後は自分の判断で生き抜こうとの結論になった。同日朝、戎ケ下の処刑が行われ午後は当地で処刑が実施された。5月に入ってからの処刑は、 遺体返還の便宜かあるいは見せしめのどちらかと思うが隊士の出身地近くで処刑する方針に転換される。処刑(斬首)地について処罰案では「場所之儀は大島郡上ノ関三ケ所最寄之地に於て被仰付候事」であった。 この地は第二奇兵隊発祥の地である。大量の処刑は、当地が港町で対幕府への宣伝効果の狙いもあったのかもしれない。
 現大和町塩田出身の森田與(与)市(神田与一郎)と吉田又太郎(田熊又太郎)は当初処刑組に入れられていたが、途中からの参加者ということが判明し萩に連行されている。 やがて釈放されるが、彼らが倉敷事件は立石孫一郎の私怨に発するものであるということを流布する。

[新しい知見(H12.10.08)]  県文書館資料で、正田作右衛門、久二郎は、大島郡秋村とされているが、 彼らは大島郡船越であったことが今回発掘した過去帳で判明。
 よほど衝撃的な事件だったのかこの寺の住職は他宗旨の本城伴右衛門(藩人)の戒名まで記載している。 また作右衛門の年齢は37才とされていだが30才であったことも判明した。
左写真 山口県大島郡東和町船越 作右衛門の墓。
墓面に三名の名が刻まれている。右端が「作右衛門」。
墓面には「法忍義忠信士」とある。
非常におとなしい青年であったという。
墓の写真のさらに左、 大島郡橘町の菩提寺の過去帳には百合八弟「法忍信士」とある。

 左、玄藤倅「久二郎」につい家、屋敷及び系について不明。


慶応元年(1865)2月上旬、周防東部の諸隊を統合し光市室積  専光寺で結成された。  前述したようにこの日の午前中は戎ケ下で処刑が行われた。陸路で約10Kmである。 処刑は午後になった。隊士たちは専光寺に集められた。  左の画像は専光寺の過去帳である。十一人の名がある。  画像左端は立石孫一郎の戒名で「義光院順岳維敬居士」と読める。一行置いて、
俗名は
一、加藤冶之祐(加藤次之助) 片埜金助(片野 武) 金光勇吉
一、別木小冶良 宮本忠吉 渡辺源蔵
一、桜井政太郎 吉田又太郎 森田与市
一、山根岩太 尾崎四郎
ちなみに、吉田又太郎、森田與市(両名は塩田村)は帰宅していたところを誘われ倉敷事件に加わった。 よって打首されていない。住職が一連託生として記入したであろうか。

この内の六人は遺体の引取り手が無かったか六ツ首塚として室積小学校校庭にある。
過去帳に記載の無い者は次の五人である。
岡本亀之助、正田久二郎、相本(愛本)熊太郎、水木敬太
正田作右衛門

脱走の項で述べたが、石城山を脱走した一行はまず井上庄屋に入った。 この集落から二人の隊士が合流した。
吉田又太郎(田熊・源城)
森田與市(神田・稲葉)。
山口県関係史料で、立石孫一郎の兄が倉敷の牢に繋がれ、その奪還のためだった。とされているが、この私怨説を言いふらしたのは吉田又太郎や神本備後らだ伝えられている。  第二奇兵隊日記部分こちら

右之拾一人岩城山隊中之者ニ候処、四月五日脱走致シ備中江行浪籍ノ 罪ニ於テ当所黒磯ニオイテ、五月三日夕方ニ打首被行者、此霊位ノ為 五月十七日当山ヨリ彼地ニて施餓鬼執行ノ事、

 この事件後担当国務長官の広沢真臣(藤右衛門)は書簡のなかで
『案ずるに当時長藩の態度はあたかも満を持して放たざるの状あり隊兵等にありては 広島談判(武備恭順の方針)の曠日弥久に堪えずして動もすれば自ら事を挙げんと欲せりて暴動者の多数は事情憫諒すべきものあり而も藩政府及び使節 の方針はあくまで正路に拠り名義を全くして天下大方の同情を失はざらんとしたり』 であった。
 
【伝承の地】
(山根町黒磯)


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