慶応2年5月4日 都濃郡末武上村 宮原山
慶応2年5月4日 都濃郡末武上村宮原山
姓  名 所属部隊 出 身 地 享 年
橋本栄吉雷隊徳山市(周南市)久米
17
沼沢貞吉第二銃隊 鼓手大島郡大島町小松開作19
渡辺治助第一銃隊徳山市(周南市)小畑(花河原)25
仲井熊次郎第一銃隊 兼押伍下松市末武中村25
田中猪右衛門輜重大島郡橘町秋36
三好栄吉雷隊下松市米川高畑45
検断 藤井関次郎 後見 市川忠平 内田九市

仲井熊次郎について
推定下松市末武中西河原。 仲井家の菩提寺は同市和田にあったと伝えられている亀福山受天寺。 明治初期二寺と合寺し日尾山日天寺となり、さらに合寺し宝蔵山日天寺となって今日に至っているが同家については全く不明である。
三好栄吉について
下松市下谷高畑だが現在は転居され古屋敷跡が残る。昭和58年系につながる恒雄氏が墓域を整備され 栄吉の墓が不明になってしまっている。下谷地区には、大内氏の遺臣が 住み着いており同家にも刀槍が数行李もあったと伝えられ家臣であったかも知れない。

地下上申絵図 都濃宰判末武村

【左図の説明】
  下松市市街北部の末武地区である。 花岡、中村、上地等の地名が読み取れる。
  宮原山街道筋に川札、御立山などの高札が描かれている。現在も街道はそのまま現存し画面左の徳山市方面 から直進し末武川で左折するが現在は直進で和田橋が架かっている。
  街道を進んで末武川の渡河地点(高橋地区)には水中橋が掛かっている。川を渡って左に一里塚が描かれて いるが現在は跡形もない。


都濃宰判末武村 宮原山
 現在は花岡地区からの街道沿いに新幹線が開通し、和田橋の手前に国道2号線の高架がある。   記録では斬首は夜にかかったという。
  都濃郡代官所(現下松市花岡)にはこの他13名が幼少もしくわ途中からの参加者ということで留置されている。 絵図上では「御茶屋」という表現となり現在は四恩幼稚園の場所である。代官所の前が花岡脇本陣跡(武弘家)である。 昨年(1999)取り壊されて残念であったが往事の面影を残した作りが現存していた。当武弘家(武弘太兵衛)には吉田松陰護送の記録が残っている といわれている。
  四恩幼稚園の経営母体である法静寺には、室積で斬首された片野 武が過去帳に名を残す。花岡東町(過去帳では新町)であるが、東町に該当の家はない。 この片野家は明治9年を最後として法静寺の過去帳から姿を消す。病気その他で絶家したと思える。
  新春にしてはうららかな’90年1月20日、花岡勘場(代官所)から死地へと歩む彼らの思いを思いながら宮原山を散策していると 一人の農作業に汗している人に出会った。和田在住上田作平翁との最初の出会いであった。来意を告げるとその惨劇をご存知で早速 案内して戴いた。伝承は二個所でその内の一個所は、古墓(天保、文化、文政)の近くで山陽新幹線が開通し昔の地形を偲ぶよすがもな くなっている。 伝承1 【下松市末武中1425の2】

  もう一個所は山の北西の外れで今は畑地となったために僅かな平地となっている場所で直近に中国電力の高圧線、下松火力・光線14号 の鉄塔がある。

  私は最初の古墓の近くだと推察した。陰暦5月2日久賀松野斬首と5月3日室積黒磯の処刑が墓の直近で執行されていることによる。これ以上 の根拠があっての話ではない。ここは勘場(代官所)の公設処刑場であった可能性がある。徳山藩の公設処刑場は公然の秘密だが 徳山市五月町で宗藩(毛利)との境界に近く当然街道に面している。宮原山も街道に面しているといえなくもない。
花岡勘場から宮原山に上る道は二本が想定されるが国道2号線の北法面をあがると古墓に至る。
彼らがこの世の最後に目にした風景はここなのか、空は晴れかつ暖かな新春の陽光の中にありながら私には、寂寥感あふれるものがあった。
 最年少 橋本栄吉 17才 いまでいう高校2年生である。 合掌
 徳山市久米の橋本家には親の無念さをあらわすかのように立派な位牌があり石塔がある。位牌には「一舩入乗居士」とある。
 戒名をつけた住職(徳山市桜木2丁目 慈福寺)が誘われて船に乗ったばっかりに命を落とすことになったという想いで つけたのなら酷というものであろう。
 橋本家の伝承では晒された首はその夜の内に栄吉の母が奪還し床下に隠したという。
 幼少のため釈放された神本備後(立石の私怨説をその後陳述)の住居とは、はす向かいである。
渡辺治助の墓

父の名は元助。分家の西の渡辺は畔頭(くろがしら)である。  治助は一人息子で渡辺家では分家の息子に跡目を継がせた。
  写真下 【分家渡辺屋敷跡の石垣】
遺体が運び込まれたとき治助の母は「よう帰ってきたの」と声を かけ運びあげたと伝えられている。

生家跡は写真の右手奥の石垣のところ。花河原にかって寺は2つあり、 治助の墓所の上に「寺屋敷」という地名が今でも残っている。
治助の名は渡辺三郎夫妻と一緒に刻まれている。
墓 GPS 34-05-09,0 N 131-44-24,3 E
現在の菩提寺は新南陽市福川本陣町「真福寺」だが、かっては花河原に存した。  治助戒名 仏心治性居士
[史実と違う気になる記述]
森脇正之著「維新動乱の倉敷 倉敷文庫刊行会」では負傷した栄吉は追いつめられ海に飛び込みそこを銃撃され海面をあけに染め死んだとなっている。だが事実は栄吉は帰還した。 「維新動乱の倉敷」のなかのこの部分はそのような事実があったとしたら誠に悲惨な話ではある。
実は、この森脇正之著の原本は本城温「備中騒動記」と思える。 この書に倉敷市南畝から呼松にかけて隊士の脱出の状況が多く録されている。 その中に4月15日(新暦 5月29日)朝石田恵、浅尾正之介、橋本栄吉と後に合流した山本茂一郎とで下津井に逃れんと船に乗り込んだところを備前勢に襲われ、 石田・山本は捕らえられ橋本は虎口を脱したが浅尾は海に飛び込んだところを銃撃されて死亡したとある。 これが真実であろう。
浅尾から撤退する際、東高梁川の亀島渡しの西岸から幕軍の銃撃を受け隊が四散したが本隊以外の方法で各隊員は郷里に帰還している。 撤退を開始するとき当面の費用として各員に3両ほど分配した。 余談の余談として嘉永(1850年)の頃米1石(2.5俵 150Kg) が1両(関西では銀60匁)で購入できたある。ただし1俵の重量が全国的に統一されていない。
 
注 米1石は2.5俵 当時は保存上の問題などで籾付と玄米とが半々であった。 この解釈は籾付きとし1俵の重量を48Kgとした。通常玄米1俵は60Kgである。その場合1石は150Kg。
 市中販売米価(345円/Kg = 10Kg \3,450.-)×150Kg = 51,750円
 天保以降急激なインフレ傾向となったので当時の価値は40%位?だと思える。 余談だが当時の日本は三貨制度(金貨、銀貨、銭貨)で非常に分かりづらい。 七十七銀行のHP に詳しいので参照されたい。
以上の勝手推論から1両が約2万円前後であろう。 すると各隊員は最低6万円位を懐に入れていたことになる。室津白浦で殺害された本城藩人(山口県東和町船越)家の記録で 17日には帰宅したとあり、浅尾撤退が14日の朝であることを考えれば非常に早い帰還である。早く帰還した話はもうひとつ 久賀追原(松野)で斬首された浦上為吉にもこれに類する話が残っていた。
  宮本常一先生監修の東和町史には、逃避行を続ける隊士に備中(倉敷)の住民は非常に親切に遇したとあり「維新動乱の倉敷(森脇正之著)」の挿話は話を活劇風に面白くしたものであろう。
  また、「倉敷代官所焼討余聞(井上賢一著)」で逃避行を続ける隊士は、物品の購入等について余分に支払うなど、 決して粗暴な振舞いはなかったとも書かれている。
 
都濃郡代官所(現下松市花岡)には、この他13名が幼少もしくは途中からの 参加者ということで収監されている。

以下第二奇兵隊暴徒御処置一件より
帰省中脱走森重實一 大島郡遠崎村(出身不明) 30才
同断中島仙次郎同郡同村(出身不明) 27才
同断林 敬太郎粟屋帯刀家来(嶋原次郎事)22才
幼少神本備後都濃郡久米村天満宮神主14才
同断浅田猪吉同郡花岡百姓15才
遠崎より帰ル鷲塚五月苗同郡桐(切)山村誓教寺嫡子26才
同断村田要人 同郡桐(切)山村桃林寺26才
同断橘 頼母之助同郡末武村宗専寺41才
同断佐伯勝平同郡小畑村神上大明神 
  神祠官因幡嫡子18才
柳井より帰ル藤岡八郎都濃郡花岡村百姓19才
同断野田佳(嘉)作同郡三井村同24才
幼少河村勘助同郡桐山村同15才
外出中脱走高柳郁蔵同郡平田村同47才
神本備後が後にこの脱隊は立石の私怨であると吹聴する。
武弘家(現在取壊され別家が新築されている) 左写真 下松市花岡 都濃宰判 脇本陣跡 武弘家(往時の部分)
 天誅組の変が青史に残り、第二奇兵隊による倉敷暴動事件が叛乱で片付け られる要因を作ったのは、やがて幼少のため釈放された神本備後や流刑であった 吉田(田熊)又太郎らによる立石孫一郎私怨説吹聴 による。政府の手先となって帰還隊士を殺害したことの正当性の宣伝に利用されたと考えられる。
 芥川義天誌慶応2年4月下旬条を引用する。

 四月下旬
 赤祢武人の事件にて世良修蔵阿月(現柳井市阿月)にて謹慎を解かる。 事件後隊中には兵卒一名も居らず直ちに交代兵を呼び出す隊中一洗し大改革を成せり
 一、これより先、脱営者は倉敷代官所を破り代官を始め数多く首を切り 立石の兄入獄致し居るを出し・・・ 以下略
 末尾に相木重傷故全快は六つかしく思えども保養効ありて全快す。となっている。  ここでいう相木とは4月26日の夜、光市島田川千歳橋橋上での慕義会の連中 による立石孫一郎、引頭兵吉襲撃時に負傷した相木鷹之介のことであり、 よほどの重傷にもかかわらず全快したといわれ、義天はこれが全快したと記しておりかなり 後日の記述であることが判る。
 誰かがこの時点で立石私怨説のストーリーを作成したとみなしてよい。果してそれは誰なのであろうか。
芥川義天誌四月下旬条並びに関連事項を記す。
■慶応元年(1864)12月10日 脱藩赤祢武人主家に戻る。
■慶応2年元旦、赤祢探索のため林半七 浦(阿月)来訪。
■浦家処分回避のため白井小助・芥川十右衛門 山口に向かう。
■1月13日秋良敦之助,芥川十右衛門,木谷修蔵 三人主家慎(つつしみ・主家において謹慎)
  同主人滋之助差控(さしひかえ・職務停止)
■2月8日浦滋之助に第三大隊御用掛仰付に関し山口出頭を命ず。
■2月26日、木谷修蔵除隊処分。
■3月、立石孫一郎ら倒幕決起画策の下津井会議開催。
■3月、総督清水美作。木谷修蔵 復帰嘆願書藩庁提出。
■3月29日 藩庁木谷修蔵に帰陣許可。
■ 4月6日主家謹慎中の木谷修蔵に復帰許可届く。

 
処刑地及び関連写真
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下松市和田
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