処刑地推定の地:久賀(追原)松野

久賀維新公園 推定の地 左が奇兵隊追悼碑
久賀維新公園
楢崎剛十郎生誕の家(久賀町畑能庄)
楢崎剛十郎生誕の家

慶応2年陰暦5月2日(1866.06.14 木曜日) 4名が殺害された。

姓  名> 所属部隊 出 身 地 享 年
矢野小助第一銃隊大島郡久賀町18
高田兼助第二銃隊19
秋元三郎雷隊21
浦上為吉第二銃隊大島郡橘町25
検断 藤井関次郎 後見 市川忠平

推定−1
 ここではいつもの処刑メンバーに後見役の内田九市の名が記録に見えない。これは記録の漏もれなのであろうか。 ここは処刑地の特定が難しいところである。第二次長州戦争(四境の役)で唯一幕府軍が上陸した地点で町は戦火 で消失した。資料の「維新回天殉難者名鑑」および「高田兼助」の墓の右面に久賀村追原で殉難せり行年十九才と なっているのが唯一の手がかりである。地下上申絵図と現在の地形は大差ない地区である。久賀町教育委員会も町史 発行段階で場所の特定を試みたがとうとう不明であったという。現在の追原(熊本)地区のどこか松が生えていたので記録上 松野(暴徒御処置一件)と記したものと考えられる。
 地下上申絵図の熊本川(下段写真の右から3本目が熊本川)近くの街道沿いに竜頭神があるが当時久賀村中心部に墓地があり この墓地の小字が「追原」で人口増大にともない墓地を竜頭神のある場所に移動した。この竜頭神の小字は「熊本」であるが 墓地と地名がリンクし地元では「追原」で十分通用する。(詳しくは久賀町集成図を参照されたい) 時代が下ってこの竜頭神は大師堂となって現在に至っている。参考までに地下上申では「竜頭の近くに追原あり」となっている。

推定−2
 下段の画像を見て頂きたい。画面中央部分の鳥越川と熊本川の海側に樹木様のものが繁茂してい様子が描かれいるではないか。 記録の「松野」はここを指しているのではなかろうか。この調査の段階で森川喜八翁を入院中の久賀病院に訪ね 質問したが、伝聞だがということで勘場(代官所)の庭で斬首したとの話もあったが、四名もの斬首を庭先で行う はずもなく当然別の場所であるとの推理であった。 翁には著書「傑僧 大洲鉄然」がある。
 参考までに、この地で斬首された高田兼助の墓石の右面には、「追原で殉難」とある。墓は久賀町畑能庄にある。
 挿話として、「浦上為吉」の遺体は久賀から戸板に乗せ橘町(安下庄)に帰る途中、夫婦ガ池で体の血を洗い流して帰宅したと伝えられいる。
 彼の墓は橘町阿高にある。参考の参考だが地下上申絵図本図には瀬戸内海に注ぐ小河川名は描かれていない。
「推理のまとめ」
 ア.現在地名の「追原」は久賀町集成図では「熊本」である。
 イ.地下上申絵図下絵鳥越川と熊本川との間の海浜に樹木のようなものが描かれている。
   ただし、山口県文書館所蔵の本図には河川名は記入されていない。
 ウ.明治期の第二奇兵隊殉難者名簿では追原(熊本)とわざわざ( )書きされている。
 ハ.高田兼助の墓には「久賀村追原で殉難 行年十九才」とある。  以上のことから、現在の維新公園付近で処刑したと推理した。

 四境戦争のとき、絵図中央部の熊本川を挟んでの戦闘は激戦だったというが、この戦場に事件を担当した林半七は駆けつけたのでのであろうか?。

 
地下上申絵図 下絵模写 久賀民俗資料館蔵 地下上申絵図下絵部分(久賀民俗資料館蔵)
久賀町市街地図 久賀町集成図 追原の移動がわかる

 国道437号線で大島郡久賀町に入ると左手に維新公園がある。この公園には三基の碑がある。
@ 第二奇兵隊追悼碑 明治26年(1893) 8月 大洲鉄然
A 精忠不朽の碑 明治24年(1891) 5月 白井小助撰文
B 伊藤 敏頌徳碑 大正5年(1916) 5月 高島張輔
 @の追悼碑に、大島郡出身者と思われる17名の姓名が記されているが、次の二名については今まで調べた 資料や文献に名前が載っていない。
 「田中治右エ門」 ただし「次之助 」と同一人物か?
 「東城 籬」

である。 この碑文の人名に数名の誤りがある。別のページで詳述する。
 なお大洲たちが碑建立に際し盛大な法要を行なったと萩市河添真行寺の住職は記録している。 だが明治26年に至ってもも立石の私怨説としたのは以前の萩藩政府の声を代弁したものであろう。
 
新たな知見(2005.01.11) 秋元三郎と伝えられる肖像画  山口県大島郡久賀町の関係者で生家は判明していたが、唯一墓や事蹟の解明が進んでいなかった 秋元三郎について肖像画が残っており、彼の家系の子孫に連なる方が所持されていた。墓も久賀町阿弥陀寺の境内にあるという。 凛々しい若武者振りで親の無念さがにじみ出ているような立派な絵である。素人目にも絵具 は高価なもが使われているように見受けられ、130年の歳月の中で色褪せてもいない。
 秋元家は久賀浦で廻船問屋だったとも伝えられている。嘉永2年(1849)4月9日〜
6月7日までの庄内藩(山形県)の蔵米輸送の実態「海からの文化 渡辺信夫著」でみると33隻入港しその内12隻が長州藩の船でさらに10隻が防洲大島郡であり内3隻が久賀浦の船であった。 入港順の船主を記録でみると閏4月11日、甚助、同12日、善左衛門、同27日、幸左衛門とある。 秋元家がこれに関係あるという確証はないが廻船問屋を営んでいたという伝承は同家に残っている。
秋元三郎には神号と戒名の両方が残る。
 三郎秀弘
   神号 甲山彦秀弘大人命
   法名(戒名) 篤節院清譽甲山秀弘(居士)  慶応二年五月二日 軍律に没す
 三郎の九文字法名(戒名)は一般人では通常あり得ない。秋元家が余程の財力、菩提寺への貢献が無ければ不可能である。 墓は、山口県久賀町阿弥陀寺境内で、同寺は浄土宗知恩院派に属する。 なお、院号三,法名は四文字片野 武(下松市花岡)がいる。

 また、三郎の母は矢野家(矢野佐助四女)から嫁しており、矢野小助と秋元三郎は従兄弟であった可能性を否定できない。  小助の墓もやはり阿弥陀寺境内にある。 当時の婚姻関係は絶家防止(財産継承)のため、複雑にかつ濃厚に繰返される傾向があり秋元家と矢野家もそのような関係が思量される。
 県文書館資料では年齢21才とされているが、同家では年19才とある。当面確証が無いため(寺の過去帳ではまず年齢が記されている) 当資料での年齢の変更は行なわず21才とした。

 やがて矢野家は絶家し屋敷跡は久賀町戎町の「浦講会館」として現在に至っている。

高田兼助の法名は「隻月堂釈寂淨」とある。19才であった。  参考までに兼助の両親は直ぐに褒賞された。

 写真左端の「浦上為吉」の遺体は戸板に乗せ大島郡久賀から現橘町に運んだと同家に伝えられている。峠越え の途中に夫婦が池というところで血を洗った。この夫婦池は現在大島郡久賀から「嵩山(大島富士)」越えのルート があるがその峠を安下庄(大島郡橘町)側に下ったところにあるため池(潅漑用水)と思われる。

京都大学維新関係データベースで
一手負行倒死人  所持之合印ニ 奇兵隊  浦上為吉  忠成ト有
 合印とは「書類を他の帳簿・書類と照らし合わせたしるしに押す印。合い判。あいじるし。」 であり彼の担当部署はどこだったのだろうか? また為吉は生還しておりこの死人とは誰なのか?

浦上為吉墓 大島郡橘町阿高 「釈明観浄鏡居士」
浦上為吉墓
33-54-02.2N
132-17-35.4E
矢野小助墓 大島郡久賀町 阿弥陀寺境内
矢野小助墓
久賀町
 阿弥陀寺境内
高田兼助墓 大島郡久賀町畑能庄 「隻月堂釈寂淨」
高田兼助墓
33-55-45.9N
132-26-42.9E
秋元三郎墓 大島郡久賀町阿弥陀寺境内
秋元三郎墓
久賀町
 阿弥陀寺境内

当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail 
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    総目次に戻る