慶応2年陰暦5月5日
姓  名 所属部隊 出 身 地 享 年
河谷鹿槌第一銃隊熊毛郡呼坂村関屋26

【熊毛宰判代官林喜八郎から槙村半九郎宛て伺書】

 小周防村庄屋三輪辰之助存内(ぞんじうち)鴉迫尻と申処ニおいて、男壱人令自害果居候を地下人見当り 届出候付、早速役人衆差出死骸見分為致候処、第二奇兵隊脱走人数之内河谷鹿槌と申者 之由、書面も致所持相違無之候処、如何取計可被仰付哉、御急答可被下候、為右如是御座候、以上
 林喜八郎があわてて槙村半九郎に伺書を送った。自害しているのが発見されたのが5日(17日、日)で あるが、自決は遺書から4日(16日、土)である。自宅から目と鼻の先での自決であった。 また戦友桜井政太郎の生家の近くでもある。政太郎は5月3日、室積において処刑されていた。もはや彼は生きる希望を失った。

 一説によると自宅に帰ってきた鹿槌を見つけた父と兄は、孫一郎の死を知らせ 無理やり自決させたという。文献によっては千歳橋のたもとで兄に斬首させたというものもある。 1991年4月7日その地に立ったのは、彼の涙のように小雨そぼ降る日であった。 生家を目前にしての自決である。辞世の詩の無念さが、ひしと私の胸を打つ。 若さは政治の裏を見抜くほど老獪ではない。決起が討幕のさきがけとなることを信じていたことを 彼の詩は如実に物語っている。この野辺に彼は自らの手で永遠の眠りについた。 開発の進んだいまでもこのあたりに民家はない。寂しかったであろう、人恋しかったであろう、 そして母に会えたのであろうか、記録から判る手掛かりはなにもない。自決前の胸中いかばかりか ・・・・
(参考 鹿槌の死亡場所は多くの書類が熊毛郡河田原となっておりこれが 千歳橋のたもとでという作り話しのもとではなかろうか?)
 そして山口県の歴史は現在も彼らを抹殺し続けている。
 

自決推定地 鴉迫尻付近(99年この写真の風景は失せた) 【遺 書】
 「先月五日夜岩(石)城脱走つかまつり候へばその罪軽からず次第、ごもっとも存じ候へども、まずは 軍監(林半七)、書記(楢崎剛十郎)の処置よろしかる義はいちいち申しつくし難く・・・」
 彼の遺書から隊幹部に問題があったことがわかる。槙村半九郎も別の機会に楢崎剛十郎や松宮相良について 上関その他で粗暴な振舞いがあったことを報告している。はっきりしているところでは現下松市の妙見宮近くの 茶屋の主人にささいなことで暴力を振るいこれがもとで主家の牢に入れられている。 楢崎剛十郎は維新後贈位されているが、鹿槌の遺書 からは、管理者として相応しくない様子が伺える。

光市鴉迫尻 自決推定地

 【辞 世】
   「国のため 立てし功も 今ははや はかなく消る
    身とそなりける」
   彼はこの野辺に自らの手で永遠の眠りについた。 合掌

   今や開発が進んで、上の写真とまるで様子の違ったものと
   なってしまった。

   なお、藩政時代の熊毛宰判勘場跡は光市立つきき幼稚園
   山口県光市小周防1656


生家は現周南市呼坂関屋である。豪壮な建築で屋敷内に小祀がある。明治初期ここに関屋小学が設置された。現在は全く別の人が住んでいる。河谷家この事件後宇賀姓に変わり、河谷姓は別の地所に居を構えた。

 

河谷鹿槌墓碑面
左面 自詠 君のため立し功も今ハはや 朝乃つゆと消る はかなさ 實重三男
正面 河谷鹿槌墓標
右面 慶応二年寅五月四日
墓は大規模農道脇の小山にある。この時代の河谷家の墓碑は現在宇賀家の墓域である。
■ 生家GPS座標
  34-03-19-73N 131-57-18-46E
■ 墓地GPS座標
  34-03-15-47N 131-57-16-26E
墓地は樹木に覆われ上空の視界はない。よってGPSの座標は参考程度にして戴きたい。


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第二奇兵隊取材班
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