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| 姓 名 | 所属部隊 | 出 身 地 | 享 年 |
| 藤田熊人 | 第一銃隊 | 玖珂郡美川町南桑 | 21 |
| 田中嘉一 | 第二銃隊 | 玖珂郡本郷村波野 | 24 |
| 森田 一 | 第二銃隊 | 玖珂郡本郷村波野 | 24 |
| 片山藤蔵 | 第二銃隊 | 玖珂郡本郷村波野 | 27 |
| 手嶋平一 | 第一銃隊 | 玖珂郡周東町三瀬川 | 28 |
| 山中忠左衛門 | 第二銃隊 | 熊毛郡田布施町御蔵戸 | 31 |
| 検断 藤井関次郎 後見 市川忠平 内田九市 |
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藤田熊人 生家 美川町伊田川 墓 同所 GPS 34-14-05,7 N 132-01-51,8E 田中嘉一 森田 一 片山藤蔵 手嶋平一 山中忠左衛門 詳細 不明 |
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奥山代の国
公設処刑場毛利藩 藩政時代 合計 二十八名斬首された。 |
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案内を頂いたのは美和町下畑在住の渡隆光氏である。今にも雨が降りそうな’91年5月6日
午後3時すぎであった。訪れる人とてなく梢は高く氏と二人粛然たる思いのなかで125年の時空
を越えてその瞬間が眼前にあった。これらの悲劇を平和な時代に生きる今、子々孫々にまで語り嗣
ぐ気概を山代人の誇りとしている風情が氏の後ろ姿の中に重なった。 彼らは岩国領大畠で逮捕されたが、本藩に対する引渡しが遅延し、いらだっている5月4日付の 槙村半九郎の文書がの残る。やがてこの問題は解決し引渡しのために5月7日朝上野武左衛門、 徒士目付安富三左衛門、同人組肝入五郎兵衛、下横目龍助が派遣された。指示は本郷に連れて行き処刑する こと、子細は代官井上小豊後に当方から連絡するであった。 なお、5月朔付での報告書では麻郷室積のどちらかに連れてくる計画となっていたようである。 |
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なお、先述したように、この地で処刑する予定で砂本松吉は、下松〜本郷〜山口〜防府と歩くことになる。
そのために松吉は10日間束の間延命となった。 本郷の勘場は、現在の本郷小学校の地であり現在立派な資料館が造られている。県文書館に残されている 御国廻御行程記絵図と現在の通りとは大差ないことがわかるが、彼達はこの左手に延びる街道を歩き真宗専念寺 の辻を右にまわり本郷川を渡って滝か迫山の麓を刑場に引かれて行った。 本営を脱走したとはいえ第二奇兵隊も軍隊である。ことを決するに当たって総意を取付ながら 行動をする規範を軍隊はもたない。彼達は一兵卒である。殺されなければならない理由はどこにもなかった。 処刑場の手前本郷村側に斬首の血刀を洗ったと伝えられる池跡が史跡として保存されている。 |
ここは、当宰判の公設処刑 場である。藩政時代幾多の 悲劇が繰返された地でもあ る。 処刑場は旧往還名でいえば、 石州街道南道にある。引地 峠は耳切峠といわれ標高 500mの高さにあり県道 134号線から少し奥に入 らなければならない。 案内がないとこの処刑場に なかなか行き着けない。 ここは、県内ではここ引地 峠と萩大谷と二個所だけだ と思うが一里塚がきれいに 残っている。本郷村の釜ケ 原側からだと県道を左にと って林道に入りさらに林道 から往還に折れる。 現在の引地峠は樹木が生い 茂り見通しの効かないもの になってしまったが、昔は 里山で地元民の草刈り場で あった。 |
玖珂郡美和町引地峠処刑場説明板 参照:本郷村史 記述部分 | |
![]() ![]() 奥山代の人にとって苛政から逃れる意味で 明治維新は待ち望んでいたのであった。 |
最近はどこの市町村でも観光 案内板があるが、その案内板 に処刑場を記入してあるのは 寡聞にして美和町を除いて知 らない。藩政時代毛利の圧政 により山口県は民謡などゆと りの文化が生まれようもない ほど疲弊し塗炭の苦しさを人 々は生き抜いた。 特に奥山代一円はさらなる苦 しい生活を強いられた地域で もある。 毛利の検地は峻烈を極め耕作 不能地も耕作可能とした。 結果的に年収を約三倍半され それに60%の税率を掛けた 税金をとられた。単純計算で 年収を超える税金を徴収され た。 |
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| 写真の説明文は、引地峠説明文を参照して下さい。 | ||
藤田熊人は、藤田家の
次男であり本郷村に護
送される時自宅前を通
ったが家人が差し出し
た「お茶」を死ぬ者に
「茶」は要らぬと断っ
たという。
分家の福田定夫氏が
伝承として受け継いで
おられた。
彼の墓は自然石である
が、墓の裏面には
「元治三年」
と刻まれている。
元治三年は慶応二年で
あり、親の反逆精神が
そうさせたのであろう
か。
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玖珂郡美和町 引地峠処刑場 処刑場GPS 34-18-04-62N 132-03-29-88E |
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![]() 行政区画で処刑場は美和町に入ってしまったが、血刀を洗った跡は本郷村史跡として保存 してある。 遺歌の「心にかかる国の行末」でわかるように彼らは開かれた世界観をもって刑場 の露と消えた。 |
彼らの遺歌を列記する。 山代宰判南桑村社人采人 次男藤田熊人 豊則 不義の身ハ 草葉の露 と きへ行て わすれか たきハ 皇国の事 保武(藤田熊人藤原保武) 不義の身ハ けふをか きりと成りぬれと たゝ思わるゝ 勤攘の事 山中忠左衛門 五月雨の草葉の露と きへゆく我身かな 盛清 今日迄ハ 不義と名を 受け 死するとも こころにかかる 国の 行末 |
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処刑寸前の盛清は
「こころにかかる 国の行末」と読んだ。
窮鼠の自刃をした 会津白虎隊士とその理想はどちらが高邁であろうか。 | ||
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