![]() |
![]() |
|
慶応3年陰暦11月12日、18日(1867.12.25 金 12.31 木) 1名が入牢病死、1名が殺害された。 |
| 姓 名 | 所属部隊 | 出 身 地 | 享 年 |
| 櫛部坂太郎 | 大島郡東和町浄専寺嫡子 | 26 | |
| 桜井軍記 | 第一銃隊 大伍長 | 大島郡東和町 渡辺雅太郎弟秀道五男 | 25 |
|
櫛部坂太郎 東和町浄専寺宗学長男 法名 堅正法師 墓 同所 浄専寺文書あり。経歴漢詩等が記されている。 桜井軍記 浄専寺過去帳 法名 釈教信 渡辺雅太郎弟秀道五男 生家判明 墓不明。 |
| 経過−1 櫛部坂太郎は、倉敷襲撃隊のサブリーダーである。僧侶であるから基礎学問の素養があり、襲撃隊の本陣に詰め、 岡山藩の戦書(戦闘開始通告文)も立石、櫛部の連名となっている。 大畠町から倉敷までの寄港地の一つである山口県の沖家室島までは清水家中の秋田五郎がいたが彼がこの地で離脱 した後は実質的に立石、櫛部、引頭の三名が主要な役割を担ったものと思える。浅尾(総社市)から下津井、多度津 祝島、さらには立石、引頭たちが残存隊士の助命の方策の結果の首尾を聞く重要な役割も櫛部が担っている。 4月27日、前日の結果を聞くために光市に上陸した彼は立石・引頭の悲報に接し、すぐさま残存隊士の待つ 島にとってかえした。 残存隊士と今後の方策を協議したがよい結論が出るでもなく最終的には個人の判断で行動するということに 帰結した。 総社市を撤退するとき、不必要な武器弾薬は遺棄したが、組織的には一つの大きな戦力を保持していた。 だがこの日、4月27日(1866.06.10 日)をもって第二奇兵隊倉敷襲撃隊は蒸発崩壊した。後は自分と戦友の絆の中で 個々に判断し行動することになる。組織として行動するときの鉄壁の団結も、最早なんら期待できず雪達磨が 急坂を転げ落ちるように第二奇兵隊は雲散霧消してしまった。 |
| 経過−2 4月14日(5.28 月)、岡山藩の使者佐藤瀧之助が戦書を携え陣屋(屯所)を訪れたときには、すでに誰もいなかった。 石城脱隊兵士(第二奇兵隊)がほぼ敗走に近い状態であるという情報の下に山口藩政府の警戒は厳重を極め 彼らが墳墓の地を踏める保障はどこにも残されていなかった。目標を失った軍隊が望郷の念にかられ帰還の途 についたとき大方の隊士はこのまま生き延びられるとは考えていなかった。 帰還途中の東高梁川での銃撃戦(亀島戦)で本隊とはぐれ、岡山藩軍に逮捕された西岡龍太と長尾清熊(幸運にも彼は大正 年間まで故郷で生存)の調書には覚悟の程が記されている。 彼ら二人は岡山藩の物々しい警護で幕長戦争準備のため幕府側本営のあった広島の老中小笠原長行(戦争指導部、唐津藩主)のもとに送られた。 −閑話休題− 幕長戦争(第二次長州戦争)が始まると長行は小倉口の総司令官として着任する。だが戦闘さなかの8月1日 幕艦富士山丸にて戦場を捨てる。捨てられた小倉藩兵こそ哀れである。熊本藩兵の勇戦状態の中彼の適切な戦闘指揮 があればまず間違いなくこの小倉口では高杉指揮する長州兵に負けはしなかったであろう。この逃亡により戦局は一気に長州有利となる。 この時の小倉城にあった陣太鼓はいま下関市が保存している。小倉側は何度も返還を要望したが下関市は返そうとしない。 稚気に類する話で失礼。 |
| 経過−3 櫛部、桜井、重野貞斎、嶋橘太郎の四名は、別府、大洲(藩領内・青島など)、佐賀関と転々とし、桜井と一緒に愛媛県西條藩領(伊豫)へと移る。 第二奇兵隊探索方の相木又兵衛により慶応3年6月8日(1867.07.19 木)西條藩領(波布村・新居浜市垣生)にて逮捕された。 その二日後山口県大畠町に着舟。7月18日山口羽坂村に入牢。やがて坂太郎は10月中旬頃病を得て同年陰暦11月12日病没し18日牢門の中において斬首されると東和町伊保田浄専寺文書は録す。 拘留期間の長さから坂太郎の死が契機となって桜井軍記が斬首されたことがわかる。 彼らは密告(油宇村・浄光寺)により探索されたと、浄専寺に伝承が残る。ただしそれを証明する記録はない。 坂太郎の生家は前出の寺である。寺は浄土真宗本願寺派に属する。目をあげれば前は安芸灘、 海は明るく自然と気宇壮大となる。この明るさが坂太郎を育んだ。 ちなみに桜井の生家もすぐ近くである。 合掌 |
| 羽坂村牢屋跡 |
![]() 位置 33-10-05.8N 131-28-18.0E
牢屋の跡には慰霊のために地蔵堂がある。藩政時代は犯罪者が収容されただけではない。 |
東和町伊保田 櫛部坂太郎墓
![]() | 櫛部は浄専寺の息子である。 浄専寺文書と云われるほどの多くの私信・書簡を残した。 墓位置 33-56-29.9N 132-24-18.7E |
第三代奇兵隊総督 赤祢武人 顕彰碑(山口市)
![]() 慶応2年1月、第三代奇兵隊総督赤祢武人が斬首された同じ場所で桜井軍記も斬首された。 その現場近くに赤祢武人の顕彰碑が建立されている。二代目総督の河上弥一は生野の変で自刃。 |
| 当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。 |
![]()
|
第二奇兵隊取材班![]() ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000 |