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| 姓 名 | 所属部隊 | 出 身 地 | 享 年 |
| 藤田武熊 注1 | 大炮隊 | 大島郡大島町小松 | 不祥 |
| 大沼鴻介 | 第一銃隊 | 大島郡橘町日前(荘厳寺弟子) | 不祥 |
| 山根甲吉 | 不 明 | 光市立野(清水家来) | 不祥 |
| 杉本伸太郎 | 大炮隊 | 光市三井(金山) | 不祥 |
| 検断 内田清三郎(藤田) 後見 香川 忠平 検断 内田清三郎(大沼) 後見 元田惣兵衛 |
| 検断 内田清三郎(山根) 後見 文屋 与市 検断 内田清三郎(杉本) 後見 文屋 与市 |
右今廿六日、大屋において誅伐被仰付候事、 |
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槙村はこのように政事堂(藩政府、山口市)に対し報告している。長州藩にあって当役(江戸詰め家老)・当職(国詰め家老) (長州藩の職制)は重臣が歴任することになるが、どんな用件があって 当役が萩まで出張していたのであろうか。 杉本伸太郎について出身地の記述がないが「岩崎家文書・岩崎年代記(光市玉泉寺蔵)」 に当所山代屋和助二男宮本忠吉(室積で処刑)と申す者、金山後ノ杉本ヤノ勇と申者、 川畑熊屋勇吉壱人岡庄ノ二人 ...... の記録がありこのヤノ勇が伸太郎であろう。 |
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藤田武熊は、岩国藩農兵松二郎に時刻を聞いた本人である。その時の松二郎の返事が人を
馬鹿にしたような「昨日のこの頃」と答えたために、脱隊騒動の契機となった。
脱隊時、藤田は大炮隊司令士で杉本伸太郎は彼の部下である。大沼鴻介は引頭兵吉
の部下で、山根甲吉は本陣に詰めている。
こうみてくるとこゝで彼らが処刑される理由が見あたらない。藤田は事件のきっかけに
なったかも知れないが、本営で謹慎処分を受けており最初から積極的にこの騒動に参加できるわけがなく
、山根甲吉も記録上では最初から騒動に参加していない。途中から参加した者については
遠島処分とされることになるが流刑組と共に萩まで連れてこられ詮議の結果処刑する
ことにしたのであろうか。脱兵処罰案通りの処刑対象者は杉本伸太郎だけである。
現大島郡橘町日前荘厳寺過去帳に
楢崎剛一郎、西村(高田)兼松、大沼鴻介の順に記載される。 ちなみに鴻介の法名は 「寂定軒釈宏城法子」 五月二六日當山十世弟子 二七 これによって彼の年齢が27才であったことが判明する。生家は不明。 大沼姓は同郡東和町に多い姓であり、あるいは東和町かもしれない。 大屋は茶臼山と焼下山に挟まれ大屋川流域にわずかに平地が開けていると所である。 県道329号明木萩線の傍らに松陰ゆかりの涙松の碑があるが、そこからさらに登り県道と別れ右にそれると悴坂(かせがさか)一里塚がある。 残念なことに1991年8月現在萩有料道路の建設で大屋刑場以降の往還は工事のため破壊されてしまった。 先人の遺産の文化財と、とるに足らない道路とどちらが優先するのか訳の分からない行政に怒りを禁じ得ない。 この一里塚から約320〜30メートル進むと処刑場跡に至る。今は地蔵と栗山孝庵女刑屍体腑分跡の石碑(女性については日本で最初の例)がある場所である。 |
萩大屋(おおや)は城下町萩の公設処刑場である。萩市側から萩有料道路料金所の手前右手の駐車場の下、竹薮
の中である。大きな地蔵が伏し目がちに大屋川に向かって立っている。ここは藩政時代幾多の悲劇が繰返された土地である。残念なことに萩有料道路の建設によりかっての往還 道は失われてしまった。余談だがここで宝暦9年(1759)日本最初の女性の腑分けが行われた。執刀は栗山孝庵である。 この不幸な女性は萩城下郊外川上村の百姓久衛門の妻阿美濃(おみの、17才)である。虐待する夫にたまりかねて夫を殺害してしまった。 その罪で同年6月21日磔刑されるところを栗山は藩政府に働きかけ斬首とし屍体を下げ渡してもらった。磔にすると体が槍でぶすぶす にされ解剖できないからである。女性の解剖の主眼は子宮・乳房などであったという。外科治療が展開される以前の解剖であり栗山の好奇心 を満足させる何物でもないであろう。臣は領主に嫁しては夫に従いの時代封建主従に反する行為は死刑であった。現在なら夫の虐待の事実があり 十分情状酌量の余地がある。したがって場合によっては執行猶予ものであろう。 |
| すでに述べた美和町引地峠の処刑にみられるように必ずしも犯罪者が処刑されたわけではない。 圧政に耐えかねた百姓や武家支配を否定する 行為や行動は処刑の対象であった。阿美濃(おみの)さんもその例外ではない。この処刑場には、 郷土史会による栗山孝庵女体腑分の地の碑が 誇らしげに建立されているが、せめて封建思想にそぐわなかった阿美濃さんが 死刑となった背景も併記して欲しいと思っているのは私だけではあるまい。 合掌 |
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本題に戻る。藤田武熊は、この倉敷脱隊事件の引金となったある些細な事件を起こした人物である。柳井市余田中郷の現森田家の門先を
石城山に帰隊するとき、家の中の農兵松二郎に時刻を聞いたがこの松二郎が「昨日のこの頃」と答えたために腹を立てた隊士一行が松二郎
を縛り上げ帰隊したことがことの発端となった。これについては別章に記述する。 脱隊時、藤田は大炮隊司令士で杉本伸太郎は彼の部下である。大沼鴻介は引頭兵吉の部下、山根甲吉は本陣詰である。処刑は出身地主義 に転換されたがここで(大屋)処刑される理由について暴徒御処置一件はなにも触れていない。山根甲吉(清水家家来)について記録をつぶさにみても 最初から騒動に加わっていない。室津白浦で処刑された秋田五郎(清水家家来)と同等の理由と考えられる。 杉本伸太郎について出身地の記載がないが、光市玉泉寺蔵の「岩崎家文書・岩崎家年代記」に当所山城屋和助二男宮本忠吉(室積で処刑)と申す者 、金山後ノ杉本ヤノ勇と申す者、川畑熊屋勇吉壱人岡庄ノ二人・・・・」の記録がありこのヤノ勇が杉本伸太郎と思える。 大谷で斬首された者たちの埋葬地不明。 合掌。 ![]() |
人名二段目左端 東城 籬についてこの碑が初見である。 【写真右 栗山孝庵 女体腑分の碑】 |
地蔵がひとつ大屋川に向かって伏し目がちに建立されている
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ときに萩に行ったようなときここ大屋(谷)を再訪し合掌するが、筍シーズンともなれば
ここの竹の子も掘られている。 百うん十年も前の処刑地だから血の匂いがするわけもないけど 何もこんな場所の筍を食べなくてもと筆者は思う。 藩政時代の公設処刑場と表示しない萩市 にも責任はある。美和町のように善は善、悪は悪と割り切れば宜しい。 |
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注1 当事件裁判官を務めた槇村半九郎による第二奇兵隊暴徒御処置一件で藤田武熊とされいる人物の 姓名は久賀維新公園では加藤武熊とされている。 槇村半九郎は彼について大島郡小松村庄屋永田幸右衛門存内(ぞんじうち・管轄の意)、畔頭(しろがしら・自治会長クラス)源兵衛組源蔵次男と記録している。 また菩提寺に残っている過去帳も加藤武熊である。 この寺は、南奇兵隊(第二奇兵隊)結成当初輜重方を務めた三国管領(Mikuni Kanrei)が住職だった大島郡小松村妙善寺である。 加藤武熊 法名 忠勇軒釈義幸俊刃居士 五月廿六日 加藤武熊事 第二奇兵隊脱走帰国シテ斬首 後改 釈忠勇義幸居士 なお、唯一脱走隊士の供述調書 注2が残っている本城藩人は藤田と申し述べている。 注2 大村益次郎史料 内田 伸/編 2000/03・P274〜 山口県立図書館貸出し可 |
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畔頭(Kurogashira) 身分上は庄屋の下に置かれた。長州藩にあって村は数千石と大きく行政上いくつかの組に分けられた。その組毎に畔頭が置かれた。畔頭は、自らの組内での年貢収納・戸籍による人身把握・勧農などを直接的に担当していた。これらの畔頭を庄屋が統括していた。 よって、必ずしも単なる上意下達の関係になく、ある程度の職務権限を有していた。今回の場合源兵衛が畔頭で源兵衛は永田幸右衛門という名の庄屋に属していた。 |
| 後見 元田惣兵衛が次に名前が出てくるのは慶応3年(1867)11月25日奇兵隊人殺し八郎の処刑場面である。 千本弥七郎が執行し、後見が惣兵衛でった。 |
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