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慶応2年陰暦5月3日(1866.06.15 金曜日) 3名が殺害された。 さらに闘争の上死亡したもの1名梟首された。 |
| 上関宰判 麻郷戎ケ下 | |||
| 姓 名 | 所属部隊 | 出 身 地 | 享 年 |
| 玉木熊吉 | 第二銃隊 | 徳山市中須南村 | 22 |
| 佐川栄次 | 雷隊 | 熊毛郡平生町 町人 | 26 |
| 山本熊之進 | 第二銃隊 | 熊毛郡平生町秋森 | 29 |
| 上山力之助 | 第二銃隊 | 光市室積 | 29 |
| 検断 藤井関次郎 後見 内田九市、市川忠平 最下段 上山力之助 逮捕時、即死の者 梟首 |
裁判官槙村半九郎の藩政府への報告書。 「右明二日(6月14日)、上ノ関宰判麻郷戎ケ下において、誅伐被仰付都合により御座候事、」 右寅五月二日、上関役人柏村寛蔵に書渡之、 上山力之助 右重科之者に付き、死首被成御打せ候事、 右四日、検断に授之、 |
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「検断に授之」(検断とは藤井関次郎である。すなわち死人(上山)の首をはねる指示書である。
文章の前後から判決は陰暦5月2日(6月14日)で斬首は陰暦5月3日(6月15日)の朝であったという。
ただ上山力之助の首を切り落とす指示書は陰暦5月4日(6月16日)渡しであり。ことの前後がこの文書ではよく分からなくなってしまう。 隊士一行が祝島付近に漂白しているとの情報を得た藩政府は、陰暦4月27日(5月27日)逮捕のため麻郷司令士小屋又八、塩谷弥五右衛門(登四郎)らが一小隊を 桂小市、近藤半蔵たちは大砲一門を備え、第二奇兵隊より白井小助、山縣直一、小方謙九郎(殺害された楢崎剛十郎と妻が姉妹)、らも兵を率い 逮捕に向かった。この時上山力之助は死亡し、相本熊太郎、水木敬太が負傷した。舟方(日向の木材船)を含め21名(浪士18,舟方3)が逮捕されている。 立石帰るの情報は、祝島の庄屋石丸角平が通報させた。この前日の夜(陰暦4月26日)立石達が千歳橋で死亡しており、翌陰暦27日打ち合せで櫛部坂太郎が首尾を聞きに 浅江(光市)に立寄り前日の顛末を聞いて残存隊士と今後の行動を隊員と相談している。時系列的なものは記録からでは判然としないが櫛部を含め何人かは この逮捕劇を脱している。この時の小方謙九郎の活躍と事績を記す撰文が上関町室津に残る。 ちなみにこの逮捕劇を浦日記(柳井市阿月浦靱負・Ura Ukie)4月28日条 脱走者岩見島え八百石位之船へ乗繋船いたし風無之付小舟出呉候様石丸角平申込候て急候を角平種々操り時刻を移し其間ニ地方へ注進。右ニ付岩(石)城一隊・勘場一隊(上関宰判)・ 立野一隊押寄、船を取巻放発ニ付、脱走船碇切捨、風{舟偏に風}去二隊丈追行候由、且又揚陸いたし候者十八人捕、哨船へ乗候て洲之鼻へ送り --- 中略 --- 猶脱走之節持出候筒丈ハ不残差返候由ニ御座候事。 と、書き残している。 この船に乗っていたサブリーダーの櫛部坂太郎はこの逮捕劇を逃れ逃げ去っている。 この日記で洲之鼻とは田布施町戎ケ下のことである。 |
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逮捕者の裁判の多くは田布施町本町の円立寺で行われた。 なお5月朔日付で槙村が藩庁の桂小五郎、山田宇右衛門、広沢藤右衛門宛てに 「尚々、麻郷一ケ所にていづれも誅伐仕候得は、便利宜敷候得とも是ニハ差支り段々有之事ニて、帰山之上ならてハ難申奉存候」との報告書がある。 当初は麻郷ほか最寄りの地三個所であったが、どうして殺害の地に不都合が起きたのであろうか。 戎ケ下から祝島までは海上14.5Km。 ほぼ中間地点に牛島があり 逮捕部隊の動静は島が邪魔して隊士側は視認できなかったと考えられる。 |
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| 処刑地は旧街道からわずかに外れ沖合いに出る。田布施川がそのまま水道になった先端(鼻)にある。風雲急を告げる幕末上関宰判の練兵場として整備 され、その後この地は旧日本海軍の管轄となったが今は苦塩工場の廃屋と煙突がうらびれて立っている。 梟首は街道に晒された。この日の夕刻には光市室積で14名が処刑されることになる。 |

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