処刑地伝承の地

現在の千歳橋 【光市島田川千歳橋(西岸)】
慕義会の狙撃隊は浅江側から
橋を渡る提灯をめがけて射撃した。
司馬遼太郎 : 倉敷の若旦那

慕義会については
立石・引頭検死記録(V.1)を
  参照して下さい。


木谷(世良)修蔵,林半七連名による藩庁への届書で銃撃は浅江橋本としているが、検視記録は進行方向前方からのすなわち島田側からの銃撃を示している。

慶応2年陰暦4月26日(1866.06.09 土曜日) 2人が殺害された。
姓  名 所属部隊 出 身 地 享 年
立石孫一郎倉敷事件リーダー岡山県倉敷市(兵庫県上月町)35
引頭兵吉第一銃隊司令士光市立野(清水家家臣)23
奸 計
 慶応2年陰暦4月25日(1866.06.08 金曜)立石と引頭は、 祝島から小舟で現下松市国道188号線の終末処理場付近の浜に上陸。同日浅江村に宿泊。 清鏡寺住職片山瑞明に自分のことはさておき、隊士の赦免の方法の相談に訪れたが住職は翌日光市立野の清水家の位牌所である長徳寺住職(石井玄卿)に内密で清水総督に隊士の助命嘆願の取りなしを依頼した。 依頼を受けた住職は清鏡寺住職との約束を反故としすぐさま清水家に立石、引頭が帰郷し清鏡寺に潜伏していることを通報した。
 密告を受けた清水家では、石井住職(長徳寺住職)に言葉巧みに彼ら誘い出す(殺害の意を含む)任務を与えた。 翌26日(陽暦6月9日、土曜)石井住職は立石を誘い出すべく清鏡寺を訪ねた。 住職はよくその務めを果たし立石、引頭を島田宿(浅江の対岸)まで誘い出すことに成功した。
 宵五つ(20:00)時頃、石井住職と三人で島田宿に向かった。 清鏡寺から千歳橋まで約500mである。橋の西岸に着くと石井住職は、清鏡寺に忘れ物をしたので引き返すと清水家兵で構成された狙撃隊(20名)との 打ち合わせどおり持っていた提灯を立石に渡し先に行くよう促した。奸計とも知らない両名は千歳橋を東岸に向けて歩いた。
 橋の中程に差掛かったとき、狙撃隊は提灯をめがけて一斉に銃火を浴びせた。
四月二七日付、木谷(世良)修蔵,林半七連名による藩庁への届けは「昨四月二六日暮六ツ半(19:00)時」としている。 ただし、4月26日は新暦に直すと6月9日であり当該場所の日没は 19:24 頃で明るい。やはり襲撃時刻は宵五つ(20:00)頃であろう。

闘 争
 銃弾は立石の脇腹に命中し橋の上に仰向けで倒れ、駆寄った部下の引頭兵吉に島田川に飛び込んで逃れるよう指示した。 引頭は護身用のレボルバー(回転式6連発拳銃)を携えて虎口を脱し東岸(島田側)に達した。抜身の刀を島田横町に捨て、 義母の駄屋(屋号「かじや」姓岡村、現朝日プロパン前路上付近、牛小屋)に潜んだ。  倒れた立石をめがけて、相木鷹之助が切りかかったが死力を振り絞って立ち上った立石に逆に切りかかられ、 辛うじて所持していた銃で受け止めはしたものの、眉間を左から切り下げられ、 銃を支えていた左手の親指と中指を飛ばされ右手首まで斬りさげられ、 逆に立石に馬乗りされとどめを刺されそうなったとき片岡波門が銃の台尻で立石の頭部を打ち砕いた。相木鷹之助は重傷だったが辛うじて命をとりとめた。

【引頭兵吉自決推定地】

牛の駄屋(だや)だったという
立っているのは場所を示す中本友治翁

記録
 「かじや仁右衛門後家長屋」とある。


引頭兵吉の自決
 引頭所持の拳銃には残弾があったが争うことなく自決する。一部の資料では、兵吉の死を陰暦28日(11日、月)としているが筆者は 陰暦26日(9日、土曜)とする。理由は梟首が史料で28日となっており2日間も隠れ潜んだとは思えない。 リーダーを失い生きる希望を失った若者は、その夜と考えるのが自然であろう。  引頭は萩藩の家老で光市立野に給領地を持つ清水家の家臣である。当然菩提寺は光市立野の長徳寺であるが 引頭家も一度はこの寺で葬儀を行い戒名も付けてもらっていた。だが、兵吉の死の真相が判明すると寺の過去帳を抹消した上で改めて 神式で葬儀を行った。よって兵吉の墓標は神式墓標である。現在は移設され光墓苑の一角にある。
 上段の写真の位置がほぼ兵吉の自決場所だったという。このあたりは徳山藩と宗藩(毛利藩)の入り組んだ場所で島田宿の絵図が 光文化センターに残されている。館に閲覧を希望すれば快く拝見させて頂ける。今となっては、本当の兵吉の自決地は捜しようもなくなった。 光市小周防の長徳寺(石井住職)が先述したように菩提寺である。同じく清水家家臣の西村幸治郎(4月26日、室津で斬首)の菩提寺でもあるが、
幸次郎の墓は現在も長徳寺境内にある。

山口県光市 立石孫一郎の碑 碑の尖ったものが立石霊社の碑
 現在国道188号線を浅江(徳山方向)から島田側に渡った右河畔に明治2年(1869)3月に建てられた立石霊社という 小祠がある。
千歳橋東岸 狙撃隊が陣どった下流から 地蔵の意味を知る人は少ない  すでにこの時点では民衆の間には立石は神として祭る存在に映っていた。
 民衆は、体制に逆らい非業に死んだ者を神として崇めた。この場合の体制は、藩政府 とみたことが霊社を造る大きな動機であろう。
 碑文に曰く
「君は岩城山隊長にして、当時わが藩をして速やかに討幕の義兵を挙げしめんが為、掟にそむき慶応二年四月四日 隊兵九十余人と共に同隊を脱走、倉敷に出で幕府の陣営を打はらい、帰国したるを同年月四月二十六日、千歳橋上にて殺害される。行年三十六歳」
と刻まれいる。
 近郊の民衆は「正義立てたる立石様を騙し打ちとは情けない」と囃し立てたと伝えられている。
 
左の地図は「島田郷土の研究」に所載。

昭和14年(1939)年1月より、この地に海軍工廠の建設が始まった。地形は大きく変貌。暗殺場所の千歳橋下流260mの所にJR光駅より 片側2車線の道路が建設された。終戦後しばらく中央2車線がコンクリート舗装のままだった。


立石、引頭暗殺を実行した清水家兵慕義会20人に褒美として一人当たり15匁。計300匁が渡された。負傷した相木鷹之助には療養銀75匁が別枠で下賜され、 暗殺に大きく貢献した長徳寺石井玄郷には7両,清鏡寺片山住職には3両の褒美が渡された。

【光市文化センター蔵】
明治2年(1869)藩庁は幕末の戦功人を書き出し提出するように命じた。 立石暗殺に貢献した相木と片岡両士の下書き原稿が清水家と家宰難波家分の二通が保存されている。
読み物風に第二奇兵隊事件を記述したものに、この慕義会(清水家兵)による立石孫一郎の暗殺を白井小助が指揮したように記述している。 間違いである。この暗殺が発生した26〜27日にかけて倉敷より帰還した隊士ら六七拾人が祝島付近海上に停泊していることが判明。この捕縛隊指揮のため白井小助麻郷に出張していた。
山口県史幕末維新6 頁546 立石孫一郎討留等の事(諸隊沙汰控)
先刻難波伝兵衛より報知之書面差送候処、只今注進之者罷越候、然処立石孫一郎は島田橋之上ニて討留候、 引頭兵吉は近辺之農家牛固屋(牛小屋)え駆込ミ自殺致し居候段、 過刻之書面と齟齬致し候間、左様御承知可被成候、為右如此御座候、以上
    四月廿六日           木谷(世良)修蔵
      小川市右衛門様
      白井小介様

白井が暗殺の現場にいるのに木谷がその現場にいた白井に報告はしない。

世良修蔵の生家 山口県大島郡大島町椋野

国道437号線を久賀町方向へ。
椋野郵便局先を山手へ約1.1Km。


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第二奇兵隊取材班
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