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加藤吉之進=加藤乕千代? 本城富之進=本城藩人 兄の備忘録では本城伴右衛門とある。
「東城 籬」はこの碑文に初見である。久賀町の教育委員会にもこの碑文の印刷物は存在しない。
加藤武熊は藤田武熊 注) の誤り。 正田 作次郎(作右衛門) 正田 正次郎(久二郎)も名前が誤っている。
( )が正しい。
田中 治右ェ門についても倉敷事件の関係文書に該当者はいない。
建碑30年も前のことで関係者の記憶が薄くなったものと考えられる。 石田 恵も京都大学附属図書館 維新資料画像データベース で帰国の上斬首とあるが筆者斬首記録未見、また未発見。 京都大学附属図書館 維新資料によると大島郡大島町小松浄蓮寺(浄土真宗本願寺派)徒弟とある。 |
(左側面)阿武郡萩町 彫刻師 武林長治 注)碑文は縦書き (注1、注2 )は現代文字に無い。 (注1)
(注2) ![]() 右の写真 左端の碑が倉敷事件の碑。 |
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碑文には縦に次の17名の人名が刻まれている。 先述したように「東城 籬」は隊士(員)名簿にもない。 |
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碑文釈
慶応2年夏、幕府再び兵を興して来たり我が旧藩を攻む。第二奇兵隊周防岩城山に屯す。
小隊長立石孫一郎、櫛部坂太郎等窃に隊中の少壮数十の輩と議して日はく、坐して大敵
を待つは策にあらざるなり。進んでその不備を襲い、夜に乗じて営を脱し、備中倉敷代
官所を屠り、浅尾に進攻するにしかずと。
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山口県では、脱隊関係者は犯罪人であると人口に膾炙しており、この碑が今でも
大島郡関係遺家族の悩みの種(関係者の姓名がわかり自ずとどこの誰かということが解ってしまう)
である。 この碑そのものは追悼のかたちをとっているが、立石の私怨を強調することで 随伴した隊員の斬罪もやむなしという世論操作と私はみる。庶民は「正義をたてた立石」が 一般的でありこれを否定する意味で建碑する必要があったのであろう。大洲そのものが諸隊の結成に大きく関わっており 晩年の彼に地元の目は決して暖かくなかったであろう。 |
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注) 碑文に加藤武熊とあるが、第二奇兵隊暴徒御処置一件の記述者槇村半九郎は藤田武熊と書いている。記録に大島郡小松村庄屋永田幸右衛門存内(ぞんじうち)、畔頭(くろがしら)源兵衛組源蔵次男。
小松村妙善寺(浄土真宗本願寺派)の過去帳でも加藤武熊である。 石田恵について、小松浄蓮寺(浄土真宗本願寺派)弟子。とあり大島宰判小松村浄蓮寺と考えられるが、浄蓮寺の過去帳に彼の法名はない。 |
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