久賀維新公園 第二奇兵隊 精忠不朽之碑

慶応二季夏幕府再興兵来攻我舊藩第二奇兵隊屯于周防熊毛郡岩城山小隊長立石 孫一郎櫛部坂太郎等窃興隊中少壮数十輩議日坐待大敵非策也不若進韶其不備乘 夜脱営屠備中倉敷代官所進攻浅尾蓋立石者本美作之人曽有憾于倉敷代官故有此 擧也舊藩聞之大愕直発兵追捕且告幕府及岡山藩夾撃之立石等腹背受兵遂潰少年 輩始知共為所(注1)誤自首本隊譜罪舊藩以軍法皆(注2)斬實五月某日也夫立石 等身為隊                                長藩犯法以報私怨罪死尚輕至於小季輩唯奉隊長命耳其哀情可憐者焉此輩多係余 郷人余初勧誘之以入隊及事変余時在萩馳帰救之而刑名巳定系可復奈之何也乃請 軍吏為説法其従容念佛就刑之状今尚在目鳴乎曩使比輩発縦得人其勇敢奮戦報効 于國家果何如一死無名實者可惜也頃日郷友相謀建石干精忠不朽之碑側以存其名 字余因記其梗概以慰死者霊云                         明治二十六年八月 大洲 鐵然 撰並書  秋元 三郎 矢野 小助 高田 兼助 桜井 軍記 岡本 亀之助 加藤 武熊  加藤 治之助 加藤 吉之進 石田 恵 田中 伊右ェ門 田中 治右ェ門 浦上 為吉  大沼 幸助 東城 籬 本城 富之進 正田 作次郎 正田 正次郎 其他不詳

加藤吉之進=加藤乕千代?  本城富之進=本城藩人 兄の備忘録では本城伴右衛門とある。 「東城 籬」はこの碑文に初見である。久賀町の教育委員会にもこの碑文の印刷物は存在しない。 加藤武熊は藤田武熊 注) の誤り。 正田 作次郎(作右衛門) 正田 正次郎(久二郎)も名前が誤っている。 ( )が正しい。 田中 治右ェ門についても倉敷事件の関係文書に該当者はいない。 建碑30年も前のことで関係者の記憶が薄くなったものと考えられる。

石田 恵も京都大学附属図書館 維新資料画像データベース で帰国の上斬首とあるが筆者斬首記録未見、また未発見。 京都大学附属図書館 維新資料によると大島郡大島町小松浄蓮寺(浄土真宗本願寺派)徒弟とある。


大島郡久賀町維新公園 倉敷事件碑部分 (左側面)
阿武郡萩町
彫刻師 武林長治
注)碑文は縦書き (注1、注2 )は現代文字に無い。
(注1)
「かいご」と読む。

(注2)
に処すと読む。

大島郡久賀町 維新公園全景



右の写真 左端の碑が倉敷事件の碑。

碑文には縦に次の17名の人名が刻まれている。
先述したように「東城 籬」は隊士(員)名簿にもない。


人名三段目
人名二段目
人名一段目
 
人名六段目
人名五段目
人名四段目



碑文釈
       慶応2年夏、幕府再び兵を興して来たり我が旧藩を攻む。第二奇兵隊周防岩城山に屯す。
       小隊長立石孫一郎、櫛部坂太郎等窃に隊中の少壮数十の輩と議して日はく、坐して大敵
       を待つは策にあらざるなり。進んでその不備を襲い、夜に乗じて営を脱し、備中倉敷代
       官所を屠り、浅尾に進攻するにしかずと。
けだし立石なる者はもと美作の人、かつて倉敷代官に憾みあり、故にこの挙あるなり。 旧藩これを聞きて大いに驚き、直ちに兵を発して追捕し、かつ幕府及び岡山藩に告げて これ夾撃す。立石等腹背に兵を受け、遂に潰ゆ。 少年の輩始めてその(カイ)誤する所となるを知り、本隊に自首す。罪を譜するに旧藩軍法 を以ってし、皆斬に()す。 実に五月某日也。それ立石等の身は隊長となりて法を犯し、報ゆるに私怨を以ってする は罪死もなほ軽し。少年の輩に至りてはたゞ隊長の命を奉ずるのみ。その哀情憐れむべ きものあり。いずくんぞこの輩に余係わり多し。
郷人の余初めてこれに勧誘して以って入隊せしむ。事変に及び、余ときに萩に在り、 馳帰りてこれを救わんとするも刑名すでに定まる。系またいかんともすべき。ために軍 吏に請いて説法す。その従容として念仏し刑に就くの状、今なを目に在り。あゝまさに この輩をして発せめんこと、たとひ人それ勇敢に奮戦し、国家に報効するを得とも、果 していかん。ひとたび死して名実無きは惜しむべきなり。 頃日郷友相謀りて精忠不朽して碑を建石し、かたわらに以ってその名字を存ぜしむ。 余よりその梗概を記し以って死者の霊を慰むと云く。
 山口県では、脱隊関係者は犯罪人であると人口に膾炙しており、この碑が今でも 大島郡関係遺家族の悩みの種(関係者の姓名がわかり自ずとどこの誰かということが解ってしまう) である。
 この碑そのものは追悼のかたちをとっているが、立石の私怨を強調することで 随伴した隊員の斬罪もやむなしという世論操作と私はみる。庶民は「正義をたてた立石」が 一般的でありこれを否定する意味で建碑する必要があったのであろう。大洲そのものが諸隊の結成に大きく関わっており 晩年の彼に地元の目は決して暖かくなかったであろう。
注) 碑文に加藤武熊とあるが、第二奇兵隊暴徒御処置一件の記述者槇村半九郎は藤田武熊と書いている。記録に大島郡小松村庄屋永田幸右衛門存内(ぞんじうち)、畔頭(くろがしら)源兵衛組源蔵次男。
小松村妙善寺(浄土真宗本願寺派)の過去帳でも加藤武熊である。
石田恵について、小松浄蓮寺(浄土真宗本願寺派)弟子。とあり大島宰判小松村浄蓮寺と考えられるが、浄蓮寺の過去帳に彼の法名はない。


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