立石孫一郎 流転  倉敷・浅尾暴動事件 (第二奇兵隊の悲劇)
いきなりこの頁を訪れた方に
立石孫一郎は慶応2年(1866)4月10日に発生した倉敷幕府代官所を長州兵を率いて 襲撃。引き続き13日夜半総社市門田浅尾藩陣屋を焼討ち。 備中の天地を猛虎のように咆吼し 、里人を恐怖のどん底におとし入れた。 第二次幕長戦争の二ヶ月前の出来事であった。

時代背景
立石孫一郎は天保3年(1832)兵庫県佐用郡上月村に生を受けた。 翌年から日本は大飢饉に見舞われる。 世にいう 天保の大飢饉(1833〜39、天保4〜10)の始まりである。  全国的に天候不順・冷害、 全国平均で平年の3〜4分作であった。 日本各地で餓死者が記録されている。
 天保8年(1837)2月には、大坂東町奉行所与力大塩平八郎が飢民の惨状黙しがたく反乱を起こしている。この乱は 半日で鎮圧されたが幕政や諸藩に大きな影響を及ぼした。
 天保12年(1841)幕府は奢侈禁止令を出した。 諸藩も翌年にかけて生活全般にわたる倹約令を示したが常に特権階級は除く例外が付さ実効は覚束ないものであった。  藩目付が郷中に出掛け下駄類や女子の鬢留(びんどめ)や簪(かんざし)まで 奢侈とみまがうものを摘発して歩いた。 それは年貢増徴の目論見の中でなされたのである。
 激動の幕末期、志士と称される多くの有名、無名の若者たちが死んで行った。 吉田松陰、橋本左内、久坂玄瑞、坂本龍馬、中岡慎太郎など枚挙にいとまがない。 なぜ彼らはそれほど政治的だたのか。 それは経済的理由が大きく影響した。
 やがて諸外国との通商がはじまったが、国内流通物資が外国に流れ供給不足で物価は騰貴を続けた。 幕府や藩は騰貴の要因として賃仕事の賃金切り下げなど弱者へのしわ寄せで 対応しようとした。 商人は流通で利益をあげ 金融で資本を膨らませた。 とんでもない格差社会が出現した。 幕府の政治や政策は 庶民や弱者から生きる希望さえ失わせていた。 生活者の視点を欠く禁令が次から 次えと出され続けた。 識者による「多様な働き方」をうたい文句に全産業に まで拡大された派遣労働者法による「新・日雇い者群」にみられる 生活者の視点を欠いた諸法が購買力低下を招き、ファンドというマネーゲム が蔓延(はびこる)る昨今の社会と時代は変われど何か似通っていると感じるのは筆者だけか。
そして、攘夷反幕と百姓一揆は燎原の火のごとく拡がり幕末に掛けてピークを迎える。  やがて天誅組の変が勃発。 幕府に反旗を飜した。  これも、一つのトリガーとなり心ある青年をより政治的にさせた。 そして幕藩体制下諸藩の青年は脱藩し攘夷を掲げる長州に逃れた。   日本で唯一長州は救いであった。
 資本の蓄積を果たした商人は大名家に資金を融資した。 よって債権者と債務者の関係となった。 どの藩でも商人に 課税を試みようとしたが藩役人への贈賄で果たせなかった。 侍の論理は武士たるものが 賄賂を受けるような恥ずべき人間はいない。 それは収賄を行う商人が悪い。  よって収賄を行ったら罰する。 こんな無茶苦茶な論理がまかり通っていた。  現在のキャリア官僚の横暴と何となく似通っているような気がする。   結局どこの藩でも商人から有効な課税策は取れなかった。 山形庄内藩、戊辰戦争戦費の全てを 本間家が調達した。 新政府軍庄内藩に限って本間家と戦争したことになる。  また河合継之助を擁した長岡藩(現新潟県)戦費調達の財政赤字償還の目途がたたず廃藩置県をまたず 廃藩に追い込まれていく。 ガットリング砲など身の程知らずの武器を買い込み領国を焦土とし 挙げ句の果てが破産である。 山口県も累積財政赤字1兆円。 償還できる訳がない。 さっさと倒産したらどうだろう。  日本も似たようなものだけど。 一体誰が責任をとるのだろう??
  この当たりのこと高梁市史(高梁市史編纂委員会/編 S54/12/25発行)に詳しい。
 歴史が明治維新に向けて大転換しようとしていた慶応2年(1866) 4月、 山口県東部石城山(いわき)に駐屯していた第二奇兵隊約100名が 当時の最新式武器を携え脱営。  幕領備中倉敷代官所を襲撃し、続いて総社市浅尾藩(1万石)を焼討ち。   備中の天地を恐怖に陥し入れた。 歴史に倉敷暴動事件という。 このリーダーが兵庫県佐用郡 上月村に生を受けた大谷恵吉であった。  彼が名前を変える毎に大事件が発生した。  最初の名は親が付けた「大谷恵吉」 17才のとき庄屋見習いとなった。  この見習い期間中に役人と衝突。 母方の弟、(立石正介)を頼り岡山県津山に転居。   縁あって倉敷の大商人大橋家の長女慶の婿となり「大橋敬之助」と名乗った。  ここでも下津井屋事件の被疑者となる。  大坂に逃げたが新選組に追われ親戚津山二宮の立石家に伝わる毛利家感状と刀(一尺六寸五分)を持参し長州に逃れた。   終(つい)の名は立石孫一郎であった。 終の場所 はこちら。
大谷恵吉 → 大橋敬之助 → 立石孫一郎 と変転しその 都度居住地が変わり、その都度また大事件が発生した。  この頁は彼の流転の住居を概観したものである。

兵庫県佐用郡佐用町中上月 大谷恵吉生家
大谷恵吉生家  大谷恵吉生家 兵庫県佐用郡佐用町中上月
位置:N 34°58′42.8″
    E134°19′31.5″

天保3年(1832) 1月 恵吉誕生
孫一郎の誕生日について諸説あり。
天保3年(1832)1月1日とするもの 倉敷浅尾騒動史(渡辺頼母)
天保5年(1834)1月1日とするもの 津山市史 第五巻
天保4年(1833)1月1日とするもの 大谷家文書 人別増減差引巨細帳によると
大谷虎吉(孫一郎 父)と「みつ」は天保3年(1832)4月に結婚。翌天保4年(1833)虎吉倅栄吉(孫一郎)巳ノ正月朔日出生としている。
注) 倉敷村大橋家へ婿養子に入ったのが嘉永2年(1849)とされている。津山市史の天保5年(1834)説は経歴的に符合しない面がある。 母みつは文化13年(1816)年生まれだという。総体的に早熟・早出産である。
孫一郎に関する関係系図はこちら
更に詳しくはごさんべえのぺーじで  父 五左衛門義孝(嘉道)、 母、西西條郡二宮村立石助右衛門の娘みつとの間に長男として生まる。
生家はほぼ真東に面している。 狭隘の地である。その先は佐用川。  尼子の再興を狙った山中鹿之助が籠もった上月城がある。  主家再興を願った鹿之助は信長に与した。  覇権を確立したい毛利は十重二十重の重囲で対峙。  羽柴秀吉は鹿之助の救援を信長に進言したが 命(めい)は鹿之助を見捨てよとつれないものであった。  毛利の前にあえなく天正5年(1579)7月3日落城 尼子勝久、弟通久と共に自刃し果てた。  鹿之助は尼子の再起を期すため偽って降った。  これを見抜いた輝元は阿部(あい、高梁市落合町阿部) の渡しで鹿之助を斬り捨てた。
恵吉もこの物語を聞きながら育ったであろう。  内陸にあるも昔も今も交通の要衝である。 現在はJR姫新線が東西に走り、国道179号線が通ずる。 大谷家は名家である。  代々当主は五左衛門を称した。 現在も続いている。
太平洋戦争のさなか軍部主導か倉敷市他6団体は挺身殉国の士気昂揚に資するとして 昭和18年(1943)4月彼に勤皇護国烈士の称号を与えた。  今もその碑は生家入り口の左に鎮座する。 後、国家総動員体制における軍部は 戦いにあって生きて戦うことより、進んで死ぬことを命ずるようになる。 戦闘で死ぬことを強要した倒錯した考えに支配された。
入り口に建つ志士の碑
嘉永元年(1848) 家督相続 数え17才
歳17 家督を継ぎ庄屋見習いとなるも役人と衝突。 母の弟(立石正介)美作国二宮村(津山市二宮)に寄食し立石姓を名乗った。   出典:倉敷市史(10冊) 永山卯三郎著/編 S49.04
立石孫一郎を挺身殉国烈士として顕彰推挙した団体は次の七団体である。
1.倉敷市  2.倉敷文化連盟  3.大政翼賛会倉敷支部  4.倉敷市翼賛壮年団  5.倉敷市教育会
6.大日本婦人会倉敷支部  7.大日本神祗会倉敷支部
私見 立石孫一郎の顕彰
慶応のこの時期として問題は残るが、 幕府代官所襲撃は天誅組の変、 生野の変がありいずれも義挙とされている。 孫一郎の動機はどうであれ私怨・公憤評価の別れるところではあるが強弁すれば慶応期に問題はあるももの義挙といっても差し支えはないであろう。 ただし、脱隊(決起)に当たり理由の如何を問わず、 隊役付きの者を殺害した分は差し引かねばならない。 また、小藩浅尾を攻撃する理由が見いだせない。  禁門の変に浅尾藩は蛤御門を会津藩の後ろに隠れるように守備していた。  脱隊隊士一行が通過しただけでこの小藩は混乱を極めた。 浅尾藩は見境なく自領の百姓多数を強制割当てし総社に集めた。 そのことが、多くの犠牲者を生んでしまった。
挺身殉国勤皇烈士。軍部が利用したと筆者はみる。 教育会・婦人会まで賛成とはその体質が問われる。  戦後、彼女たちは反省したであろうか?。
嘉永2年(1849)倉敷へ 大橋恵吉(敬之助) 17才
移設され往時の半分となった大橋敬之助住居
【早島町に移設された西大橋家】
  大橋敬之助住居 移設 岡山県都窪郡早島町
歳十七 縁あって倉敷市の豪商で町年寄を務める大橋平右衛門正直の娘慶と結婚し、 同家の分家養子となり敬之助と名乗った。 万延元年(1860)に敬之助が倉敷村年寄役就任を機に養父平右衛門が 新居を建てたものであろうと推定される。 家屋解体の折り、「万延元年(1860)申9月」の年紀のある瓦が見つかっている。
倉敷を去ったのが元治元年(1864)12月であるから敬之助が西大橋のこの家に住んだのはわずか3年あまりということになる。 この平穏な生活も元治元年(1864)12月で終わりとなる。 立石が去った翌日、下津井屋事件は発生する。
注) 笠岡市史資料編上 P154 備中村鑑上で年寄大橋恵吉とある。
 立石孫一郎、隊での評価はこちら
大橋家は現在一般公開されている。
岡山県倉敷市阿知3-21-31
孫一郎の妻慶さんの末弟、六代目友蔵直諒(代官所宿直・仁吉)の肖像画が展示してある。お世辞にも美男子ではない。 孫一郎が、倉敷村の年寄りになったとき別家し西大橋家となるが、その屋敷は現在の倉ビルマンションのところである。
岡山県倉敷市阿知3-22-7。
一時期無住となり昭和41年(1966)売却、解体され現在は早島町に移転した。
明治初期の屋敷は現在の三倍はあったと伝えられている。

左【大橋家現況】       【右】大橋家墓地 倉敷労働会館(倉敷市稲荷町5-38)裏手
元治元年(1864)12月18日 下津井屋事件 敬之助 数え33才
元治元年(1864)9月下津井屋吉左衛門が米買い占めと抜け売り(米の領外搬出を禁止した[津留]の侵犯)の違法行為を犯しているとの訴えが 同業者7人から倉敷の会所に出されたが、月番は取り上げなかった。 敬之助は10月には月番に当たり、 会所常務を務めていたので、今度は訴えを取り上げ、下津井屋は代官所で尋問された。 代官大竹左馬太郎は渋々ながら下津井屋一統を処罰した。
移設された西大橋家の場所
【移設された西大橋家の場所】
  幽栖(ゆうせい)日記(記述者/岡熊之助10月11日条に「昨日より村中、小山、下津ゐ屋相手取、 出願之積り評議之由、大黒屋弥三郎、宇治屋大次郎、村役人呼調中、 役所より直召取、三和屋広助江船御鑑札返上」、12日に「右米一件ニ付、 惣代より調印頼ミニ付、代判五郎助、水沢者梅助いたし、 蔦屋、松屋、坂等、直ニ印形致候由、小山、下津井屋御呼出之由」、 14日に「夜前、小山、下津ゐ、両人、手錠村預ヶ之由」、 15日に「今朝、桐三郎御召出ニ付代人磐八出ス。
村預・被仰付、寿太郎[下津井屋忰]、常助、入牢、仁兵衛忰喜八、 下津井屋召遣粂吉、手錠、内藤忠兵衛、桐三郎、村預ヶ」とある。
ところがこの直後(11月15日)に代官が桜井久之助に交代する。 着任早々に下津井屋の処分を解いてしまった。 当時から桜井代官は下津井屋派に買収されているという噂がしきりであった。 下津井屋は敬之助の讒訴(ざんそ)にかかる。 身の危険を感じた敬之助は妻と3人の子供を残して出奔。 伊庭清吉(平松精一と同一人物か?・旧版倉敷市史5冊 永山卯三郎著/編 頁214)と大坂に逃れた。   当時贈賄は常識であった。

左図は、高梁川50号(井上賢一/著)に掲載されている倉敷村の居住場所である。下津井屋は神前橋のたもとにあったと伝えられている。

 現在の前神橋は昭和29年になって南側に橋幅を広げて新築された。旧時の位置には高砂橋を移築した。
 よって二つの橋がならんでいる。
不正を訴え出る立場のTOPから賄賂を要求されると贈賄側は断り切れなかった。 幕府収賄側の役人の処罰例を筆者は見ていない。
「是に於て、下津井屋吉左衛門、深く敬之介を恨み、去年(文久3年) 八月、大和五条の変(天誅組の変)に敬之介等密かにこれを援けんとして果さず、単身大和に入り、 戦況を視察して帰れるの状を知り、之を新選組に告ぐる所あり。和栗謙次(羽栗淵)、 之を聞き、急を敬之介に報じ、速かに倉敷を去らしむ」と事情を伝えている。  「旧版倉敷市史5冊」はこの記事に続いて「敬之介、十二月十七日の夕、急に倉敷を発して 大坂に赴かんとし、天城に至る。和栗吉次郎(別名井汲恭平)之に従う。
翌十八日浪士数輩来り会し、深更相携えて急に倉敷に帰り、 前神橋々畔の下津井屋を襲い、吉左衛門、寿太郎父子を斬って、首級を川に投じ、 従僕の者二人を殺し、吉左衛門の妻里う、外一人を傷つけ、火を放って去る。 下津井屋騒動是なり」。  別の資料に浪士は土佐脱藩浪士とある。
天城   児島郡藤戸村の大字
  • 清水慶一先生の下津井屋事件(備中窪屋郡倉敷村の歴史)   小山家・浜田屋(窪屋郡倉敷村)はこちら
    出典:倉敷市史(第5冊 S48/08) 第57章「備中騒動と下津井屋事件」
  • 元治元年(1864)12月 大橋敬之助 数え33才 倉敷脱出
    大橋敬之助が倉敷を去るとき同行したのが和栗吉次郎(井汲恭平)と伊庭清吉(平松精一と同一人物か?)である。 下津井屋襲撃者が誰かは当時確認はできなかったが、倉敷の人々は敬之介一統の仕業であると信じていた。 真相が明らかになったのは、 後年敬之助と不和になった吉次郎が帰郷した際の話だった。明治2年(1869)11月、 吉次郎が倉敷村に帰り養父謙次が県庁に手続書上(陳述書・弁明書)を提出した。  それによると自分(吉次郎)は事情を知らずに下津井屋襲撃の一行に加わろうと してはいたが、結局下津井屋に到着した頃には襲撃は終わってしまい、 そのまま大阪に向かったとある。
    また、倉敷村吉左衛門後家「里う」より県庁に対し仇討ち願いが明治2年(1869)12月に提出されている。  それには、「当村大橋平右衛門婿、年寄敬之助、同仁左衛門弟吉次郎儀、 無頼之党を相かたらい、夜中罷越、奸謀を以、夫吉左衛門、悴寿太郎並 召遣イ弐人、都合四人暗殺ニ及、」  ------ 以下略
    暗殺犯として、妻里うは敬之助と吉次郎を目撃したのであろう。
    倉敷幕府代官所着任表
    大竹左馬太郎勝昌  万延元年(1860) 3月28日着任
    桜井久之助知寿    元治元年(1864)11月15日着任
    (元治元年の事件)  ■ 天狗党の乱  ■ 池田屋事件 ■ 禁門の変 ■ 第一次幕長戦争
       ■ 英仏蘭米四国艦隊下関砲撃事件
    横田新之丞       慶応3年(1867) 4月29日着任
    長坂半八郎司任    慶応3年(1867) 7月27日着任
    幕領没収 備前藩預  慶応4年(1868) 1月26日


     津山市二宮立石家

    津山二宮立石家   「旧版倉敷市史5冊」は「敬之介、十二月十七日の夕、 急に倉敷を発して大坂に赴かんとし、天城に至る。和栗吉次郎(井汲恭平)之に従う。 すなわち、天城で一席設け、下津井屋襲撃を決め、吉次郎も参加。 襲撃終了後敬之助は吉次郎と大坂に逃れる。 ところが世にいう「ぜんざい屋」事件が発生する。  すなわち、新選組隊士に襲撃されたとされている。
    やがて吉次郎は谷川辰造と名を変えて新選組に入る。
    津山二宮 立石家 位置
    N 35°03′34.5″
    E133°58′00.6″
      新選組の副長助勤、組長、副長などを勤めた幹部、弟の万太郎は松屋町の道場にいたので 平隊士だったという。
    彼らの父は備中松山(高梁)藩板倉家の家臣だったが浪人した。
    (伝えられている襲撃新選組隊士:谷三十郎、万太郎等) 出典:総社市史
    立石家はまるで城塞の感を呈する。小さいながら堀割もある。
    新選組に追われる身となった敬之助は伊庭清吉(平松精一と同一人物か)?と長州に逃れることになる。  やがて敬之助は長州に現れ第二奇兵隊に入隊する。慶応元年(1864)1月末頃であった。 長州に現れるとき津山二宮母方の叔父立石家を訪れ、かって立石家が毛利に従臣した頃の感状と拝領した刀(一尺六寸五分)を持って長州に下ったと伝えられている。 (義天誌 慶応元年1月28日 条)

    慶応元年(1865)2月 立石孫一郎 34才 歴史に現る

    山口県光市小周防真行寺
    真行寺位置:N 34°00′54.1″
            E131°58′07.9″

    次に大橋敬之助が歴史に現れたのがここ真行寺である。山口県光市小周防新宮。
    名前は立石孫一郎になっていた。 小さな寺院である。直線距離で約1.5kmに備中高松城主だった清水宗治の子孫の給領地となった毛利重臣清水美作の屋敷がある。 この付近一帯に家臣団は住む。 元治元年(1864)光市立野に給領地を持つ清水美作は家宰の難波覃庵(たんあん)に命じ長徳寺に家臣や農民を集め文武を練磨する道場を創設し名を慕義塾とした。
      清水本家は百姓として総社に残り、総社清水家では子息に侍奉公をさせていた。 当時ここに清水宗義(水島東九郎)が奉公に来ていた。  また立石孫一郎と同道した可能性を捨てきれない者に平松清一、結城小六がいる。 だが彼らは隊惣務であった芥川義天の日記に名はない。 暴徒御処置一件で本陣に水島東九郎、平松清一。第一銃隊所属として結城小六の名がある。
    当時の長州藩は攘夷派志士の亡命先になってた。 御処置一件にも脱走者として肥州藩里見次郎。尾州藩加藤喜美之助の名が見える。 だが彼らのその後の消息はつかめない。 なお、前出の水島、平松、結城の三名はいずれも浅尾陣屋攻撃で負傷。介錯死している。
    慶応元年(1865)2月第二奇兵隊の前身南奇兵隊が2月上旬、 周防東部の諸隊を糾合し白井小助を総督として「南奇兵隊」が結成された。  その隊で彼は隊尾兼応接方に就任。 その他他藩人として第一小隊長 大伴三郎 膳所藩(浪士) 第三小隊長 石田英吉 土佐藩(浪士) 第五小隊長 景山 桂 因州藩士(浪士) などがいる。 ちなみに、軍監は後奥羽鎮撫総督府参謀となった 世良修蔵であった。
    慶応2年(1866)4月5日隊中一兵もなしという状態で隊員を引き連れ脱営した。 その際、隊書記であった楢崎剛十郎を殺害。 脱営の目的は対幕戦に備えて武備の充実、 待遇改善の折衝に藩庁(山口)に赴くというものであった。


    後に、岡山藩に捕まった西岡龍太、長尾喜代熊の供述に船の舳先が画像右上方に向かったので隊長に「どこに向かうのか」と問うと讃岐と答えたと伝えられている。 山口藩庁なら上関海峡を通過する赤の軌跡でなければならない。 屋代島安下庄安楽寺(脱隊副隊長櫛部坂太郎の母生家) で休息の折、立石孫一郎は隊員に「我等脱営の折り、隊幹部を殺害した。 このまま藩庁に掛け合いしたとて到底我等の要求叶えられ難し、 よって我に一策あり、このまま倉敷に義兵を挙げ功をなさんとす。」_ と説明し賛同を求めている。  最早のっぴきならない時点で決断を求めた。 (第二奇兵隊記録 芥川義天)
    唯一山口県側で隊士の供述が残る本城藩人は、倉敷襲撃を連島西之浦に到着してから聞いたとしている。
    本城藩人口書(大村益次郎史料,内田伸/編 徳山マツノ書店 2000/3) 頁274
    備中連島西浦に到着(04/09)しリーダーの一人櫛部坂太郎より、明朝倉敷代官所を攻撃すると聞かされ 「初めて承り当惑致し候」と供述している。
    総社蒔田を撤退し、呼松、多度津、と逃避行を続け主隊は祝島に至った。 立石は、慶応2年(1866)陰暦4月26日清水美作の家来(慕義塾生) の狙撃隊により千歳橋上落命した。
    立石孫一郎所持として 刀 白鞘入 無名備前物 半太刀金物一具 地鉄金銀二葉葵ノ模様。とある。 これは立石狙撃に活躍した美作家来相木鷹之介に下された。 片岡波門には画像の物品が分捕りとして下された。 すなわち立石は、佩刀以外にもう一本刀を持ち歩いていたのである。
    伊庭清吉について
    下津井屋事件の後、大橋敬之助(立石孫一郎)は逐電の節、伊庭清吉を召連れ大坂に逃れたと旧版倉敷市史5冊で著者永山卯三郎は書いている。倉敷町史・市史など古いほどその史料・資料の多くは 倉敷本町大森一治(明治10年5月29日〜昭和11年6月30日)が蒐集・採録したと伝えられている。大森一治は平松の姓は佐々木。屋号弓場と書き残している。よって旧版倉敷市史5冊の伊庭は別の史料から引いたのであろう。
    これらは倉敷墓碑記文集録(大森久雄蔵)に残されている。
    つまるところ、元資料蒐集・採録者が弓場(yuba)を伊庭(iba)と書き違えたと考えられる。 永山卯三郎は皇国史観に洗脳?され、倉敷の歴史には全くド素人の域を出なかったと伝えられている。
    幽栖日記
    銭屋(蔦屋分家)岡熊之助克積(号翠竹)の日記。文久2年(1862)10月19日〜慶応元年(1865)10月15日まで。全10巻(第7巻欠)。 倉敷本町大森久雄氏所蔵。  孫一郎と熊之助は知友であった。
    熊之助は後年宇津蘇平を名乗った。墓は倉敷本町本栄寺(倉敷市本町1-41)墓地。下津井屋夫妻墓(安部成章夫妻)の墓も同墓地に。  本堂右脇を抜け最上段墓域。左奥安部夫妻。右墓域中程 宇津蘇平夫妻。
    日記を手書きで起こしたものは倉敷市立図書館〔幽栖日記(写)著者名岡 克積(宇津蘇平のこと)/著〕で有る。活字化されたものは存在しない。 手書きで起こしたものが倉敷市立図書館にある。  幽栖日記は下津井屋事件を知る一級史料。 記載されているものを列挙すると
    旧版「倉敷市史(永山卯三郎/偏)」第五冊の第55章幕末世相(頁95〜)の中に部分的に収録されている。この文芸部分は、本町大森一治の筆と伝えられている。一治によると、永山卯三郎は倉敷の歴史に関してド素人。だったと編輯日記に書き残している。 「倉敷雑記2(森田平三郎/著)」には文久2年分が、「倉敷雑記3(森田平三郎/著)」には文久3年4月までが部分的に収録されている。「倉子城遺聞(井上賢一/著)」第1集の頁87〜88に幽栖日記についてという章があるが、日記の解説だけである。
    なお、先の一治が残した編輯日記は「倉敷町史編輯日記(倉敷市立図書館/蔵書)」として刊行されている。
    余談だが、第二奇兵隊に関して旧版倉敷市史、5冊、10冊と併せ、苫田郡史をお読みになることをお勧めする。

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