|
|
|
ここで使用した系図は「杏葉紋の族譜・立石定夫著,昭和61年」及び「美作 立石一族」による。 倉敷村の村役人については「笠岡市史資料編上巻・笠岡市史編さん室/編集 1999年10月」 註 「杏葉紋の族譜」並びに「美作 立石一族」それぞれ限定百冊と思われる。よってごく限られた方が保有されている。 |
| 中島屋大橋家 窪屋郡倉敷村 |
|
先祖は近江源氏佐々木氏といわれ、豊臣方の侍であった種紀が、大坂落城の後、京都五条大橋のあたりに住した。窪屋郡中洲汁村中島(倉敷市中島)に移住し、
その五世の孫平右衛門剛重が、宝永元年(1704)に窪屋郡倉敷村に移住し最初の地名から中島屋と称した。 移住してからの大橋家は、質商のかたわら、新田と塩田の開発で次第に財をなし、江戸幕府草創期からの倉敷村を牛耳ってきた勢力 古禄に対抗する新興勢力(新禄)の頭格として文政11年(1828)には年寄に列し、村政の中枢を担った。嘉永2年(1849)には庄屋格とり、この時期に妻(源・もと)の妹(光・みつ)の長男恵吉を正直長女慶の婿養子とし西大橋を興した。 文久元年(1861)から庄屋*を務めた。また庄屋の傍ら掛屋も営んでいた。掛屋は庄屋就任より早く嘉永5年(1852)のことである。 掛屋とは 代官所の年貢金銀の出納を掌る。倉敷代官所の管下村落の年貢銀を大阪幕府金蔵に納入することで、その額は大橋掛屋時代では年一万両に達したといわれている。 出典:倉敷の歴史 第19号 2009年3月 掛屋になること−幕末社会における情報蒐集 岩城卓二論文 * 岡山県史研究10 吉田雅恵論文 −幕末における民衆的情報伝達ルートについての一考査−によると庄屋就任は文久3年(1863)からとしている。 |
〔系図−1〕 ┌――玉栄 長男 夭折 | ├――義澄 次男 夭折 | ├――仁吉 三男 嘉永元年(1848)生 慶応3年(1867)没 | 平右衛門正直――┼――友蔵直諒 ――――┬――康之助 室立石氏・源 | 嘉永2年(1849)生 | 明治44没 | 室亀山氏 | | 大正11年没 | | ├――隣吉 ├――慶正直 長女 | 西大橋嗣 | 敬之助妻西大橋 | | 天保7年(1836)生 ├――平右衛門剛吉 | | 昭和53没 ├――高 次女 | 室廣田氏 | 大橋重正妻 | | ├――祥介 ├――政 三女 | 分家 | 田中家嗣 | | ├――伴 ├――潤 四女 | 大橋信吉妻 | 戸部家妻 | | ├――睦 ├――竹 五女 | 林一美妻 | 永富宗定妻 | | ├――悦 ├――婦由 六女 | 武藤孝太郎妻 | 宮家隆興妻 | | └――直吉 ├――満佐 七女 | 井口家嫁 | ├――鶴 八女 | 立石(津山二宮)岐妻 | 孫一郎母実家 | | └==五郎 緒形氏 室正直娘 澄 九女 南大橋祖 |
〔系図−2〕 ┌――玉栄 長男 夭折 | ├――義澄 次男 夭折 | ├――仁吉 三男 嘉永元年(1848)生 慶応3年(1867)没? | 平右衛門正直――┼――友蔵直諒 平右衛門号竹林 室立石氏・源 | 嘉永2年(1849)生 | 室亀山氏 | 大正11年没 | ├――慶正直 長女 | 敬之助妻西大橋 | 天保7年(1836)生 | ├――高 次女 | 大橋重正妻 | ├――政 三女 | 田中家嗣 | ├――潤 四女 | 戸部家妻 | ├――竹 五女 | 永富宗定妻 | ├――婦由 六女 | 宮家隆興妻 | ├――満佐 七女 | 井口家嫁 | ├――鶴 八女 | 立石(津山二宮)岐妻 | 孫一郎母実家 | └==五郎 緒形氏 室正直娘 澄 九女 南大橋祖 |
|
系図−1は「杏葉紋の族譜・立石定夫著」第五章倉敷大橋氏による。これによると三男仁吉は嘉永元年生まれで慶応3年7月17日に死亡したことになっている。 一方、大正8年9月20日発行された「倉敷浅尾騒動史・渡邊知水編」頁126に「五十年前の夢」という標題で大橋草秋(竹林)の回想が掲載され、脚注に当時宿直で倉敷陣屋に詰めていた。としている。陣屋に詰めていた仁吉なる人物は諸資料から大橋平右衛門嫡子大橋仁吉である。知水(頼母注1)は彼仁吉に直接取材していると考えられる。 六代目大橋家を継いだ直諒は大正11年(1822)に没している。 よって系図−1は信じがたい面がある。 全部で四男九女であり、おそらく妾腹の子も含まれていると考えられる。 旧版倉敷市史(5冊)で直諒を五代目とし正直の四男としている。 ご参考までに '09年6月30日発行された「倉敷町史編輯日記・大森一治著」によると一治は昭和4年(1929)4月から倉敷町(村)の墓碑全部を調べる作業をしている。 そのようなことを踏まえ上の系図、以下の記述を参照願いたい。 ※ 大橋家(岡山県倉敷市阿知3-21-31)は重要文化財の指定を受け公開されている。また、展示されている六代目友蔵直諒(代官所宿直・仁吉)の肖像画がある。 お世辞にも美男とは言い難い。孫一郎の妻お慶姉さんもこんな顔立ちだったのか? 注1 渡邊頼母(知水) 明治13年(1880)3月18日〜昭和45年6月12日。友蔵直諒(仁吉)は代官所宿直に入っていたが、年齢数えで17才。 50年後は大正5年(1916)で知水36才である。知水は倉敷・浅尾騒動史を書くにあたって当時の生存者に取材したものと考えても不思議ではない。 |
|
直諒(友蔵)の姉長女慶に播磨国佐用郡上月村の大谷家から迎えられた。婿養子敬之助(恵吉)は、
分家して西大橋と称す。のちに倉敷町から出奔し、立石孫一郎と名乗り長州に奔る。 ■大橋平右衛門正直は妻(源・もと)さんとの間に四男九女があった。 山口県で倉敷・浅尾事件は立石孫一郎の義兄在獄奪還をめざした私怨説だが義兄はあり得ない。なにしろ、平右衛門正直の三男仁吉は孫一郎が娘慶と結婚した当時数えで1才。仁吉は慶応3年(1867)7月17日残念ながら没している。 四男に当たる友蔵は生まれたばかりである。彼は大橋家の家督を相続し直諒と名乗った。 十四才にして井汲唯一に剣を学び、剣技は衆に抜きんでいたと伝えられている。だが、丙寅初夏倉子城日記記述者から不戦隠遁と嘲笑われている。 注) 婦由(ふゆ) 【美作立石一族 立石定夫著 頁165】に宮家隆興(尊龍院)妻冬(ふゆ)の記載あり。 ■孫一郎(敬之助)の父大谷虎吉(五左衛門義孝)の室(妻・光)は立石助右衛門の次女でやはり立石正介の姉にあたる。正介は立石助右衛門の末子で文政7年(1824)生まれ。孫一郎より8才年上であった。 ■慶(母、久達の長女源・もと)と孫一郎(母、久達の次女光・みつ)の母親はいずれも津山立石家の姉妹。 よって彼らは従姉妹婚となる。 富裕層は近年まで財産保全のためか、このような婚姻関係を続けた。 ■大谷五左衛門義孝は室との間に一男四女をもうけた。長男は恵吉後の立石孫一郎。生誕に次の説。あり。 |
|
■ 倉敷代官大竹左馬太郎時代同格(年寄)だった人物 ► 和栗仁左衛門 ► 植田孫太郎(新録・児島屋) ► 大橋勝之丞 ► 小山安右衛門(成章・浜田屋) ► 大橋恵吉(敬之助・立石孫一郎) ► 原 與平(大原家の元姓) 小山安右衛門成章の父安右衛門敏行の妻は大原家の娘である。すなわち、小山家、阿部家(下津井屋)、大原家は何らかの血縁がある。 和栗仁左衛門の系から、この時期異色の人物が出ている。吉次郎。後、新選組に入り、谷川辰三を名乗った。下津井屋事件に加わったと伝えられているが、本人は否定。在所は大橋敬之助と同じく阿智である。 | |
|
► 大橋平右衛門(恵吉義父・妻慶の父) ► 小野丹右衛門 (笠岡市史資料編上 頁154) | |
|
■ 倉敷代官所襲撃に関わった人物 ► 立石孫一郎(大橋恵吉・敬之助) ► 伊庭清吉(平松精一) 注) 倉敷側の資料に平松精一を伊庭(Iba)清吉と記するものがあるが、弓場(Yuba)の間違いであろう。郷土史家大森一治(倉敷市本町)は昭和4年4月から倉敷墓碑調査を始め佐々木家は近江源氏を祖とし弓術指南をし 因国(因幡国・鳥取県)の地名弓場を唱えたとしている。 また、現在の本町に小字で弓場があったので、弓場清(ゆばきよ・平松精一)と呼ばれたのかも知れない。 | |
| 西大橋家 |
敬之助 ――┬――千之甫 長男 ====隣吉 大谷氏 | 嘉永5年(1852) 生 大橋氏 室正直娘慶 | 大正9年没 大正11年没 | 室藤田氏 室大川氏 | ├――勇吉 次男夭折 | ├――正吉 | 大谷家嗣(孫一郎生家) | └――勢以 |
|
立石孫一郎には四人の子供がいた。次男勇吉(広説あり)夭折し、三男正吉は孫一郎の生家大谷家を継ぐ。 襲撃時長男千之甫は14才と伝えられている。 孫一郎生誕説 こちら。
注) 長男千之輔 嘉永5年(1852)2月22日生まれ。大正9年3月31日没。 【岡山県史研究10 岡山県総務部県史編纂室 1988年3月発行 非売品】 吉田雅恵氏の論文が掲載されている。題名は「幕末における民衆的情報伝達ルートについての一考査」である。その中で大橋家には近世、近代の史料が多数残されている。その中に「風聞」として一括され柳行李に納められた300点あまりの文書群があるという。 これらを年代順に整理すると文久二年(1862)と元治元年(1864)に集中しているという。そして内容は多岐にわたるともいう。またある意図をもって整理したことがわかるという。 その人物は敬之助ではなかろうか。 著者吉田雅恵氏はこれを特定していない。 |
| 津山 立石家系図 |
|
助右衛門久達――┬―源(倉敷村 大橋平右衛門正直妻) 慶の母(慶は敬之助、孫一郎妻) | ├―光(上月村 大谷五左衛門義孝妻)孫一郎母 | ├―仲(江田定邦妻) | ├―伊佐 | 大橋盛輝妻 | └―正介公久(継嗣なし) ==夏五郎岐 |
|
立石正介と二卿事件 立石正介は、二卿事件(愛宕事件)に連座し明治10年(1877)10月17日青森刑務所で病死。 二卿事件(にきょうじけん)とは、明治4年(1871年)4月、攘夷派の公卿、 愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件。中川宮を取り込もうとしたところ発覚し、 捕らえられた。東京に火を放ち、天皇を京都へ連れ帰って攘夷を断行する計画で、久留米藩や赤報隊残党、 河上彦斎も策謀に加わっていたという。首謀者の二人は明治4年12月3日、切腹させられた。翌4日、彦斎以下4人は 斬首。正介以下14人は終身禁固。逮捕者は120余人にのぼったという。 連島西之浦には三宅定太郎(高幸)という筋金入りの尊攘家がいた。立石孫一郎は三宅の手引きで西の浦に来た。 と岡長平:著「巷説岡山開化史」に述べる。Webサイト「ごさんべえのぺーじ・清水慶一先生」は高幸は祖父(高雅)がビックリするような筋金入りの勤王家に成長し、 梅田雲浜、平野国臣などと交わり、家産を傾けて討幕運動に挺身した。しかし、維新後は二卿事件に連座して 終身刑となる。 |
|
明治13年(1880年)に特赦で帰郷して、以前から交遊のあった
高崎善兵衛*の子五六(いつむ、岡山県知事)のはからいで岡山県修史編纂事業に関わっている。
同志田淵敬二(磐梨郡下村)も明治十三年(1880年)に減刑されて出獄、帰郷して開業医となった。元プロ野球選手(監督)の田淵幸一は敬二の曾孫である。
出典:立石正介とその周辺(原正三/著 S59/06/05発行 倉敷史談会) 正介に継嗣がなく養子立石岐を迎えた。彼は、後に美作自由党を組織する。立石家は幕末・明治初期の自由民権運動に大きく足跡を残している。 また、遠祖には浄土宗開祖の法然上人に連なる。 * 安政3年(1856)に入って梅田雲浜画策による西国雄藩の交易活動を行うが、雲浜の活動資金は備中連島三宅高幸が出した。 薩摩の窓口が高崎善兵衛であった。 注) 立石正介が青森の獄で死するや、津山二宮立石家を継いだ岐(ちまた)は千之甫に指示し青森に赴かせ、同地で正介を弔い、遺骨を引き取って帰ったという。 立石岐の妻は平右衛門正直の娘鶴である。 二卿事件出典:立石正介とその周辺(原正三/著 S59/06/05発行 倉敷史談会) 二卿事件と立石家についての調査は詳細を究めている。 |