余話 −櫛部坂太郎について−
倉敷春秋櫛部坂太郎写真 左の画像は、倉敷郷土史の大家角田直一先生が、昭和49年、倉敷春秋第十一号で「櫛部坂太郎のこと ――倉敷浅尾騒動余録」として発表された小論掲載の画像である。 画像の説明に櫛部坂太郎二十四才 世良修蔵(大島椋野)の子孫所蔵としている。この小論発表の写真と資料は柳井市の研究家河村角治氏から提供を受けた。と末尾に註が入れてある。
世良修蔵の子孫とは大島町椋野の世良徳太郎氏である。実はこの小論の存在を「倉敷の歴史 第18号 (2008年3月)」の中で史料紹介として角田直一主要著作目録(下) 大森久雄/著によって管理者の知るところとなった。
管理者は数十年にわたり、倉敷・浅尾騒動に関して大島町(東和町)伊保田浄専寺など取材するも坂太郎の写真などの話は全く初耳であり初見であった。 早速('09年4月下旬〜)この写真の真偽について取材を行った。写真提供主の世良徳太郎氏に取材を申込む('09/4/30 10:00)と快く応じて戴けた。
徳太郎氏談
今から40年以上ほど前屋根裏の物置の古文書類を整理していたら箱に入った湿版写真ガラスネガを発見。客間の違棚に立てかけていた。あるとき、畑(大島町久賀畑能庄)のN氏がやってきて第二奇兵隊関係物など残っていませんか?と訪れた。 そこで、ガラスのネガを渡したところ、後日それをプリントし持参。それが、この画像である。その時N氏には櫛部坂太郎の坂という話さえしていない。また、河村角治氏なる人物が当家を訪れたという記憶もないし面識もない。
実は、河村角治氏は何十年か前に、地元のタブロイド紙に秋田小五郎といペンネームで第二奇兵隊始末という読み物を連載されていた。その中に先ほどの写真を櫛部坂太郎の写真と思われる。と発表されている。
すなわち坂太郎の写真なるものは
@世良徳太郎氏→AN氏→B河村角治氏→C角田直一氏 と流れた可能性が大きい。徳太郎氏は直一先生の名前さえご存じなかった。
@世良徳太郎氏では誰かわからない写真。
AN氏→B河村角治氏に渡った段階で「坂太郎かも」。
C角田直一氏で櫛部坂太郎と断定的に記述。
幕末の古写真に多く見られる市松模様敷物写真
幕末京都の堀与兵衛の写場で写された人物写真に使われている。堀与兵衛は文久3年(1863)同好の士と紙焼き写真に成功し、元治元年(1864)七月の禁門のにより京都市街の大半が消失し 生業だったガラス製造場も焼けてしまい、それを機に本格的に写場経営に乗り出した。 慶応元年(1865)三月、母シナの隠居所を造りそこを写場とし、「西洋伝方写真處 祇園町出店写真場 保利与兵衛」の看板を掲げたと云われている。 (京都写真師年表には、慶応二年、堀与兵衛祗園切通に支店開設とある。)
この事件は慶応2年(1866)4月に発生した。同下旬から坂太郎は逃亡生活に入る。逮捕は翌慶応3年(1867)6月である。逮捕された場所は現新居浜市垣生(伊予西條藩垣生)である。坂太郎の写真とされる市松模様の敷物の線だけでも 坂太郎の写真の可能性は低い。  京都府写真師会はこちら
坂太郎 着衣の家紋考
左の画像は、坂太郎の寺浄専寺に現存する文箱(教典箱)の上蓋に描かれている紋である。上段右が浄専寺寺紋、下段左が櫛部家の家紋である。
家という観念が現在と格段違う時代。他家の家紋の着衣で写真を撮るなど、まずあり得なかったはずである。啄木鳥氏のサイトで堀(大阪屋)与兵衛は慶応元年(1865)三月に京都祇園に写場を設けた。とあり、 坂太郎は天保13年(1842)生まれで、その写真で坂太郎24才とあるから撮影は慶応2年(1866)となる。時間的に坂太郎が京都に出かける余裕はない。
市松模様を手がかりに坂太郎の写真である線はほぼ消えた。また家紋の線からも坂太郎である線は極めて低い。 得体の知れない写真が人の手を経ることで別の命を吹き込まれた。
結局写真を一等最初に入手したN氏か河村角治氏あたりで間違えられたのであろう。 意識して間違えたのか単なるミスなのか?
角田直一氏もこの場合被害者であろう。更に後世の読者である我々にとっても迷惑な話である。 ついでに櫛部坂太郎のこと 30頁上段月性門下生の三人の写真説明で、中央島地黙雷、右は赤松連城としているが中央が赤松連城師である。 連城師の一人娘の婿が与謝野鉄幹のお兄さんである。与謝野鉄幹氏の孫が自民党代議士与謝野薫氏である。

山口県大島郡東和町伊保田 櫛部坂太郎の墓
生誕地 : 山口県大島郡東和町伊保田 浄専寺 長男
没年齢 : 25才
 この事件では、副将(サブーリーダー) 倉敷から総社に進撃するとき、大将、 副将騎馬にて・・・と記録されており馬上颯爽の坂太郎の顔が浮かぶ。
逮捕の経緯 :
 慶応2年陰暦4月27日、隊士の赦免の首尾を聞くため祝島から再度光市に上陸し ところ前夜(26日)立石が殺害されたことを知った坂太郎は、祝島に引き返し残存隊士と今後 の身の振り方について相談し、今後は銘々勝手に逃亡することとし、櫛部は別府、大洲(藩)中島(旧愛媛県温泉郡中島)や青島(旧喜多郡青島・長浜町)と逃亡 を続け最後には愛媛県新居浜市垣生(西條藩)に落ち着く。この頃は気持ちに余裕が出来たのか、同郷の桜井軍記 ともども、厳島神社(広島県宮島町)の参拝などを行なっている。浄専寺の伝承では彼の潜伏 場所を密告(油宇・浄光寺)されたことで逮捕されたという。
当時の自治組織は、人別によって代表されるように外来者の居住は確かな身元保証がなければ 困難であったと思える。だが幕末のこの時期には各藩とも締め付けのダカが緩んだのか長州に においては、さしたる摩擦を起こしたように思えない。そのような背景のもと長期の逃亡生活 が可能であったのではなかろうか。
 逮捕は探索方第二奇兵隊書記伊藤三亮をリーダーとし相木又兵衛(第二奇兵隊小隊長)以下9人であった。逮捕は6月8日であったが 7月18日山口羽坂の牢に収容された。以前だと即決裁判のような形で処刑されたが、 どんな理由があったのか一向に処刑するでもなく、ずるずると日時だけが経過した。10月 中旬頃病気となって11月17日に死亡した。
 牢屋の劣悪な環境が彼をして死に至らしめた のであろう。死亡した後牢門の内に斬首す。となっており、坂太郎の死去が契機となって 11月22日、友人の桜井軍記が出合河原(山口市・椹野川と仁保川合流点)で処刑された。すでに戊辰戦争が始まっており 彼らを即決裁判で殺害する意味は全く失われ、それによってずるずると収容され続けた ものと考えられる。
 倉敷事件の隊士の処刑が本当に倒幕のための大義名分であったことがこれでわかる。
櫛部坂太郎と桜井軍記の処刑場所で幕末人物史などで熊毛郡河田原となっているが間違いであ。間違いのもとは、第二奇兵隊暴徒御処置一件(山口県文書館蔵)櫛部坂太郎の項で「丁卯(ひのとう・慶応3年-1867)十一月十八日於河田原首打捨」に依るものと考えられる。    死亡場所はこちら
注)
坂太郎らの逮捕に当たった者は
第二奇兵隊書記伊藤三亮,同小隊長相木又兵衛,隊員岡村嘉蔵,諏訪貢,富永庫太,倉成吉郎,藤山又右衛門,山本市郎,大津吉郎である。 同年6月26日付けで褒美を貰った。札銀八拾六匁 伊藤,相木。同七拾五匁 参加隊員全員。
伊藤三亮 児玉主税(台道,小郡宰判・毛利寄組)家臣。後第二奇兵隊は建武隊となるが北越戦争帰還兵による脱隊事件において明治3年11月17日陶において斬首。
第二奇兵隊倉敷・浅尾暴動事件に関して、山口県関係者によって、事件全体を一冊にまとめた書籍は存在しない。各市町村史も当該市町村隊員と事件の概略を書くのみである。 山口県地方史学会も「山口県地方史研究 巻号:1968年10月 明治維新特集(通巻20号)岡本/正よる」『櫛部坂太郎と桜井軍記』のみである。

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第二奇兵隊取材班
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