| 天誅組の変と立石孫一郎
下津井屋吉左衛門は自らの非を棚にあげ下獄の原因は大橋敬之助(立石孫一郎)にありと密かに報復の機会を窺っていたが、
文久3年(1863)8月17日天誅組の変が発生し敬之助(孫一郎)は藤本真金(鉄石)吉村重郷(虎太郎)等と面識がありこれの救援を画策した。
敬之助(孫一郎)は同志の忠告を入れ救援決起は断念しが・・・・ |
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(彼らは大坂長州藩邸に逃れ全員山口県へ)敬之助はこの戦跡を視察したと伝えられている。 |
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(伝えられている新選組隊士:谷三十郎、万太郎等) 出典:総社市史 |
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敬之助はやがて長州に現れ立石孫一郎と名を変え第二奇兵隊に入隊する。慶応元年(1865)1月末頃入隊した。(義天誌 慶応元年1月28日 条) 天誅組の変がなかったら立石の運命も違ったものになったかも知れない。 敬之助の行方不明期間は文久3年(1863)12月18日〜慶応元年(1865)1月下旬の約13カ月であり、 この期間の動きについては断片的にしか判明していない。 |
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天誅組総裁中山忠光(20才)は、元治元年(1864)11月5日長府藩士により、
山口県豊浦郡豊北町田耕(たすき、暗殺の場所は諸説ありまた殺害日6日説もある)で
逃避行の末、暗殺された。余談だが忠光が山口県に逃れたわずかの期間に生まれた
ひ孫にあたる浩(ひろ)さんが、 清朝のラストエンペラーとなった愛新覚羅溥儀の弟溥傑の嫁さんである。 【忠光の墓】 下関市綾羅木本町7−10−8 中山神社境内 JR山陰線綾羅木駅下車徒歩8分程。 | ![]() |
![]() | 座標: N 34.00.23.34 E 130.55.06.26 |
| 中山忠光終焉の地 |
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中山忠光は議奏中山忠能の子。弘化二年(1845) 四月十三日生まれ。 |
忠光辞世の歌碑につてい、天狗党の乱に揺れる藩内抗争沈静のため水戸藩主慶篤は支藩宍戸藩主松平頼徳(34才)を名代として派遣。だが藩内を掌握している反天狗派(門閥派)により入城を阻まれた。入城支援を申し出た天狗党藤田小四郎軍と共同し門閥派と交戦。これが天狗討伐を決めていた幕閣の逆鱗にふれ、 元治元年(1864)十月五日頼徳に切腹を命じた。この時の辞世が次である。 忠 光 思いきや野田の案山子のあつさ弓引きもはなたで朽ちはつるとは 一つのマジックでこれが忠光の辞世の句と勘違いさせるような締めくくりとなっているのだ。 |
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現在この短歌は豊北町田耕の忠光終焉地とされる場所と下関綾羅木中山神社境内の二カ所に建立されている。
画像右は下関市綾羅木中山神社境内歌碑。揮毫は海軍大将末次信正。信正は昭和九年(1933)三月三十日に海軍大将に昇任したので、辞世歌碑建立有志者が末次大将に揮毫を依頼したのであろう。 | |
同歌碑は1990年10月に建立されている。この事態に泉下の忠光も苦笑していることであろう。いずれにしろ限りなく盗作に近い。海軍大将末次信正も一杯喰わされた格好となった。
弓余談 | ||
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彼ら六名が生き残るために |
| 中山忠光と脱出し長州へ逃げた者たち |
1.後藤深蔵正則(土佐、上田宗児)
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禁門の変(1864/07/05)では忠勇隊に属して参戦。遊撃軍好義隊司令(慶応元年2月)として後藤新蔵の名あり。
第二次長州戦争(1866/06/07〜)では、遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦。
戦闘の帰路一人の敵兵と不時遭遇となり組み合ったまま一段下の畠に両人とも転落。
その際組み伏せられ深蔵が下であった。従兵山代国府ノ谷品川真熊は上から敵兵を銃撃、弾丸は深蔵の右肩まで打ち抜いた。
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松吉武雄著 「天誅組残照(その一)」によると伏見奉行所に布陣する会津、新選組に宮田半四郎と共に白兵突撃し戦死。
宮田も負傷とある。
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2.嶋浪間(土佐) |
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