天誅組の変と立石孫一郎

 下津井屋吉左衛門は自らの非を棚にあげ下獄の原因は立石孫一郎にありと密かに報復の 機会を窺っていたが、文久3年(1863)8月17日天誅組の変が発生し孫一郎は藤本真金(鉄石) 吉村重郷(虎太郎)等と面識がありこれの救援を画策した。孫一郎は同志の忠告を入れ救援決起は断念しが・・・・

 そして天誅組は十津川郷士の離反のなか、藤本、吉村らは次々に闘死し、9月27日鷲家口の戦闘で組織は壊滅した。 山口県に脱出した者は中山忠光ら七名であったという。その他、重囲の中奇跡的に別ルートで脱出に成功した者数名あり。

(彼らは大坂長州藩邸に逃れ全員山口県へ)立石はこの戦跡を視察したと伝えられている。
一方このことを知った吉左衛門は、孫一郎が倒幕の志士と交際していることを新選組に密告。
孫一郎に命の危険が迫っていることを知り倉敷を去ったという。 時に文久3年も暮れようとしている12月17日であった。

立石が去った翌日、下津井屋事件は発生する。立石は一旦大坂に逃れるが新選組隊士 に襲撃されたとされている。 世にいう「ぜんざい屋」事件である。

(伝えられている新選組隊士:谷三十郎、万太郎等) 出典:総社市史
新選組の副長助勤、組長、副長などを勤めた幹部、弟の万太郎は松屋町の 道場にいたので平隊士だったという。父は備中松山(高梁)藩板倉家の家臣だったが浪人した。

 やがて長州に現れ第二奇兵隊に入隊する。慶応元年(1865)1月末頃入隊した。(義天誌 慶応元年1月28日 条)
天誅組の変がなかったら立石の運命も違ったものになったかも知れない。
 立石の行方不明期間は文久3年(1863)12月18日〜慶応元年(1865)1月下旬の約13カ月であり、 この期間の動きについては断片的にしか判明していない。
 天誅組総裁中山忠光(20才)は、元治元年(1864)11月5日長府藩士により、 山口県豊浦郡豊北町田耕(たすき、暗殺の場所は諸説ありまた殺害日6日説もある)で 逃避行の末、暗殺された。余談だが忠光が山口県に逃れたわずかの期間に生まれた ひ孫にあたる浩(ひろ)さんが、
清朝のラストエンペラーとなった愛新覚羅溥儀の弟溥傑の嫁さんである。
 【忠光の墓】
 下関市綾羅木本町7−10−8 中山神社境内
 JR山陰線綾羅木駅下車徒歩8分程。
  座標: N 34.00.23.34  E 130.55.06.26
中山忠光終焉の地
中山忠光の肖像画 中山忠光の肖像画

 明治天皇は母方の叔父にあたる。 この肖像画は中山神社が蔵している。

 (同神社に掲げてある肖像画を画像処理)

 
中山忠光の辞世 中山神社にある中山忠光辞世の碑

思ひきや
野田の案山子の梓弓
引きも放たで 朽ち果つるとは

「恭順派政権のもと逃避行続ける忠光に暗殺の魔手は刻々と山里に迫っていた。」

(山口県豊北町の現地にある碑を画像処理)

中山神社の忠光辞世の碑につてい、天狗党の乱に揺れる藩内抗争沈静のため水戸藩主慶篤(35)は支藩 宍戸藩主松平頼徳(34)を名代として派遣。だが藩内を掌握している反天狗派(門閥派)により入城を阻まれた。 入城支援を申し出た天狗党藤田小四郎軍と共同し門閥派と交戦。これが天狗討伐を決めていた幕閣の 逆鱗にふれ、元治元年(1864)10月15日頼徳に切腹を命じた。この時の辞世が次である。
思ひきや
野田の案山子の竹の弓
引きも放たで 朽ち果てんとは

であると伝えられている。忠光の死が元治元年(1864)11月5日(6日説あり)であり、頼徳の死から20日あまりで、 潜居中の身にはるか茨城県から山口県まで辞世が伝わったとも 思えず推量だが忠光の辞世なるものは後世の作と考えられる。また完全な盗作である。
  頼徳の辞世
   野田の案山子の竹の弓 と 朽ち果てんとは が
  忠光では
   野田の案山子の梓弓 と 朽ち果つるとは  に置き換えられている。
     梓弓は万葉でよく唄われており、少し考えると田んぼの案山子が梓の立派な弓を持つわけがない。


豊北町の中山神社 忠光はこの場所で暗殺された
 
文久3年(1863)天誅組の変 中山忠光と逃避行を続けた六名のその後

彼ら六名が生き残るために
 文久3年9月24日夜、天誅組本隊は、鷲家口の彦根藩脇本陣に突入する決死隊が編成された。 那須信吾、宍戸弥四郎、林豹吉郎、植村定七、名所繁馬、鍋島米之助の死があった。生還した者たちは 長州にあって回天の志ならずに倒れた同志たちの分までも生き戦った。 秋霜烈日の日々を生きた。
彼らの志は自己の栄達になく、ただ一点この日本を変えたい。であった。

 
1.後藤深蔵正則(土佐、上田宗児)
後藤深蔵正則肖像 通化寺蔵
 

 禁門の変(1864/07/05)では忠勇隊に属して参戦。遊撃軍好義隊司令(慶応元年2月)として後藤新蔵の名あり。 第二次長州戦争(1866/06/07〜)では、遊撃隊先鋒隊長として小瀬川口の戦闘に参戦。 戦闘の帰路一人の敵兵と不時遭遇となり組み合ったまま一段下の畠に両人とも転落。 その際組み伏せられ深蔵が下であった。従兵山代の国府ノ谷品川真熊は上から 敵兵を銃撃、弾丸は深蔵の右肩まで打ち抜いた。
 この戦功により士籍を取得。右手の負傷重く、以降左手で剣も筆も使いこなしたと伝えられている。
 鳥羽・伏見の戦い(1868/01/03)に第二中隊(遊撃隊)を率いて出陣。身に数発の銃弾を受け戦死。享年26。

 松吉武雄著 「天誅組残照(その一)」によると伏見奉行所に布陣する会津、新選組に宮田半四郎と共に白兵突撃し戦死。 宮田も負傷とある。
 山口県周東町教育委員会編「諸隊の雄 遊撃軍」文中では1月3日の戦闘が終了し東福寺に帰営。酒を飲みどうという事はない、と云ってひょいと出た ところを撃たれた。とある。

2.嶋浪間(土佐)
脱出後忠勇隊員となって禁門の変(1864/07/05)に参戦しようとしたが急病となって長州大坂藩邸で病臥。美作国久米郡吉岡村 にて冤死。

3.半田門吉(久留米)
当初庸徴隊、その後忠勇隊に所属し禁門の変(1864/07/05)では久坂玄瑞らと鷹司邸で自刃。(31才)

4.石田英吉 (伊吹周吉、土佐)

5.山口松蔵

6.安積家来 藤吉の六名であった。
山口松蔵、藤吉の活躍につては伝えられていない。

別ルートで生還した者で姓名判明者。
池内蔵太 (土佐、細川左馬之助) 禁門の変時忠勇隊所属その後遊撃軍参謀兼使番(慶応元年2月) 慶応元年坂本龍馬が 亀山社中を結成するや請われてこれに参加。慶応2年5月2日ワイル・ウエフ号(薩船名:太極丸)士官として搭乗中難破し遭難死。享年26。  内蔵太の死について幕末幕府諸藩輸入艦船一覧表 薩摩藩の項参照。

宮田半四郎 (久留米、小川佐吉) 慶応元年(1865)2月遊撃軍狙撃隊司令 鳥羽伏見の戦いでは同隊参謀で出陣。負傷し 現防府市三田尻病院で死亡(3月11日、37才)

池田謙次郎 (膳所藩、中村小次郎)奥羽鎮撫総督府世良修蔵麾下。奥州二本松領清水町路傍にて斬殺体で発見。 (慶応4年(1868)4月22日、25才)

橋本若狭

平岡鳩平 (北畠治房) 天誅組に参加しているが鷲家口の戦闘に加わっていない。司法省出仕。明治31年(1891)引退。

乾十郎 事績未発見。

小林景春 (加賀藩下級武士) 天誅組に参加しているが鷲家口の戦闘に加わっていない。長州に逃れ禁門の変、戊辰戦争に 出陣。山形県白鷹町に隠棲。生涯同志の無念を子孫に伝えたという。

中井越前 事績未発見。

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