事件の主人公、立石孫一郎が倉敷時代住んでいた居宅が現存していた。
場所:岡山県都窪郡早島町大字早島1619番地 森田平三郎氏住居

 以下、本文の一部は凡例で示している「早島の民家」から抜粋している。


昭和41年(1966)現在地に移築された西大橋家(倉敷時代の孫一郎居宅)
倉敷時代の孫一郎居宅  万延元年(1860)に敬之助が倉敷村年寄役就任を機に養父平右衛門が新居を 建てたものであろうと推定される。家屋解体の折り、「万延元年申9月」の 年紀のある瓦が見つかっている。

 倉敷を去ったのが元治元年(1864)12月であるから敬之助が西大橋のこの家 に住んだのはわずか3年あまりということになる。

現在の建坪70坪、往時は130坪の豪邸であった。
 倉敷には大橋姓が数件あるため大橋本家を「元大橋倉(敷市阿知3丁目21-31)」といい、重要文化財に指定されている。有料で観覧可。 孫一郎が住んだ家は本家の西50mほど西方にあったので「西大橋」と呼ばれていた。現在この場所は倉ビル(倉敷市阿知3丁目22?7)
 西大橋家は明治34年(1991)長谷部眼科医院となり後大橋家ゆかりの亀山内科医院となったが、当主が東京勤務となったことで昭和30年頃(1955)は 無住となっていた。 のち、森田平三郎氏が譲り受け移築された。移築に際して地形の関係で半分の大きさ(70坪)となってはいるが山口県人からみると堂々とした建物である。 工事は倉敷の藤木工務店により施工。あと100年は保つと職人は言ったとか。
『早島の民家』(早島の民家編集委員会編・早島町教育委員会発行・1984年)によると、昭和41年に現在地に移築。

西大橋家(立石孫一郎)住宅平面図 (「早島の民家」より転載)
 奥行き10間(約18m)といわれたこの豪勢な居宅のどこ に孫一郎は起居していたのであろうか。
 そして、元治元年(1864)12月室慶との間に2男1女を残して倉敷を出奔。各地を 転々としながら、最後には山口県光市小周防真宮の真行寺に潜伏した。倉敷の彼の居宅 から推し量るべくもない草庵であった。この男の志をいまとなっては知るすべもないが 間違いなく維新を前に夢潰えたといってよいであろう。
【閑話休題】
代官所を襲撃した隊が倉敷を離れるとき、道ばたの田圃の中に三人の子供を連れた 婦人が立っていた。彼女は大橋家の乳母「照」であった。数えで14才になる長男と9才ににる次男。 末娘はお照さんにおぶわれていたという。長男はしかと父の姿をみとめたことであろう。 この時の第二奇兵隊には長男と同年齢者が何人もいた。
注) この挿話は角田直一著 倉敷浅尾騒動記 初版:瀬戸内文化連盟発行頁134 に記述されている。ただし出典は示されていない。

孫一郎の2男1女の子供たちのその後
長男:千之甫 嘉永5年(1852)生 西大橋の家督を相続。大正9年3月31日没す。
千之甫が詠んだ歌として「ありし世をしのぶ涙に袖ぬれて 思いの雲のはれぬ今日かな」 とある。子として悶々とした胸の内が伝わる。
三男:正吉 孫一郎の生家播州佐用郡上月村(町)大谷の養子となる。
長女:勢以 大橋又四郎に嫁す。
孫一郎と慶の間には三男一女がいた。二男は夭折している。


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