悲運の志士 第三代奇兵隊総管 赤祢武人

 山口県岩国市柱島。連絡船で50分もかかるこの島に、 日本の夜明けとなる明治維新前夜彗星のごとく現れ非業に死んだ一人の男が存在した。その名は松崎(赤祢)武人。以下彼の年表をみてみよう。
 彼こそは武士支配の世の中に風穴を開けようと必死にもがきそして殺害された。彼の郷校の学徒(浦家臣団 世良修蔵もその一人)はこぞって奇兵隊に入隊した。


文久3年11月7日付け入隊として、木谷修蔵、松村久馬、芥川雅亮、芥川正人、芥川義天、赤祢堅次、坂田祥助、 矢野範助、尾川猪三郎、末永良太郎、国行市之丞、錫川寛三郎の12人。
楢崎剛十郎も親友松宮相良と11月9日に入隊する。翌12月14日両名は読書掛りとなっている。

 
天保9年 (1838)1月13日 松崎(まつさき・後の赤祢)武人生誕 (生誕15日説あり)
嘉永4年(1851)  遠崎村妙円寺住職月性の清狂草堂入塾 武人14才。
安政3年(1856)8月吉田松陰 松陰村塾を開く。赤祢武人入門 19才。
  〃      12月梅田雲浜、萩に来る。翌年、赤祢武人 雲浜に師事。
安政5年(1858) 9月井伊直弼の安政の大獄で梅田雲浜逮捕。江戸小倉藩預け中に病没。弟子赤祢武人関係書類を焼却し累を他に及ぼすを防ぐ。
文久3年(1863) 6月27日 高杉晋作、長州奇兵隊惣管仰付。武人隊員募集に貢献。
  〃       9月第二代目奇兵隊総管(督)河上弥一、滝弥太郎両人就任。
  〃      10月生野の変(討幕)奇兵隊総管河上弥一参加 憤死
  〃      10月4日 赤祢武人奇兵隊総管御用取計仰付。
元治元年(1864)4月武人 百姓・町人の長州藩に対し士分格申請。(全員武士とせよの申請を行う)
  〃      6月新選組による池田屋事件発生。長州藩 吉田稔麿(榮太郎)討死。
  〃      7月19日 禁門の変 長州敗退 政権椋梨(重商派・俗論)となる。
  〃      11月長州重商派(俗論)政権 幕府に恭順謝罪、三家老四参謀処刑
24日、奇兵隊総管(督)赤祢武人、時山直八他に附属二人と共に諸隊解散令撤回の目的をもって萩に出張。
  〃      12月暁七つ(04:00)高杉晋作遊撃隊、力士隊を率い決起す。
19日 高杉晋作功山寺決起の報復として七政務員処刑。
  〃      12月25日 高杉晋作功山寺決起の報復として清水清太郎賜死。
慶応元年(1865)正月2日 赤祢武人馬関脱走。
慶応2年(1866)1月25日 赤祢武人、重農派(正義)政権により山口で斬殺される。
注) 赤根武人下鎌苅島生誕説は否定されている。詳しくは
柳井市郷談会誌第29号(平成17年3月・赤祢武人の生誕地について,石永 雅/著) を参照下さい。
実は武人には14才違いの松村剛哉(Kousai)という弟さんがいる。剛哉氏は「生きている歴史(サンデー毎日・S11年)」で俺も武人も柱島で生まれた。書き残している。実の弟が、兄の生誕地を間違えるとは考えられない。

岩国市柱島 赤祢武人生誕の地   岩国市新港より直行連絡船で約50分程で250所帯約500人の漁業の島柱島に 天保9年(1838)1月15日島医師父松崎三宅次男として生まれた。  武人は幼名を文平、あざなを貞一といった。母は広島藩主の侍医原田玄庵の長女光恵。 母光恵は弘化3年(1846)1月13日死去享年39才。武人は9才であった。
 幼くして非凡、文武を好んだ。十四歳の春から同郡遠崎村(現大畠町)の妙円寺の僧、  月性(清狂)に師事し文学を修めた。
 月性の有名な漢詩を紹介。戦前(1945年以前)は教科書に掲載されていた。

  男児立志出郷関    (男児志しを立てゝ郷関を出づ)
  学若無成不復還    (学もし成るなくんばまたかえらず)
  埋骨何期墳墓地    (埋骨なんぞ期せん墳墓の地)
  人間到処有青山    (じんかん到るところ青山有り)

 武人の才能は抜群であり、柱島の庄屋中富十兵衛は、有為の人材であることを知っ て養子にし、娘マキを武人に嫁がせた。 ちょうどその頃、諸外国は開国と通商を求め、国家経営は前途多難な時代を迎えた。
 武人は、遠崎村(現大畠町)妙円寺の海防僧月性にみいだされ師事することに なった。月性は武人の才能をさらに開花させるため柳井市阿月の浦家 (毛利水軍の一翼を担う家)の克己堂におもむき、安政3年(1856)秋には 浦家克己堂(浦家の子弟教育学校)で漢学を教えた。
   武人は教師として浦家家臣団の子弟の教育に熱心で、子弟は武人を深く 敬慕したという。このことで奇兵隊結成時には浦家家臣の多くが隊員として参加することになった。 浦家は武人を赤祢雅平の育(はぐくみ)とし陪臣ではあるが武士となった。
 安政3年(1856)12月、小浜藩士の梅田雲浜が来藩した折り雲浜についてさらに 学問を磨くために師事することとなった。安政5年(1858)9月、梅田雲浜が 安政の大獄で幕府に捕らえられたとき、幕吏は雲浜の家宅捜索を行ったが、 武人は関係書類をすべてを焼却し、その他の同志に累が及ぶことを防いだ。 世は安政の大獄にゆれ通商による物価騰貴によって下層民の生計は破綻し 一揆は続発、世情は不安定な状態となりつつあった。
 水戸天狗党(1864.3)の乱に象徴される尊王攘夷論の時代に突入したのである。
赤祢武人の肖像と伝えられている画 文久2年(1862)1月、浦家が上京するのに従って再び江戸に入り、  文久2年(1862)12月12日、赤祢、高杉、伊藤、久坂、井上を含め13名と共に攘夷実行の名のもとに 江戸品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行った。 歴史上イギリス公使館焼討事件である。
 翌文久3年(1863)5月10日、攘夷の詔勅が発せられそれにより長州藩は関門海峡を通過 する諸外国の商船を砲撃した。下関戦争の幕開けである。 やがて手痛い反撃を受け、これを契機として長州は攘夷から開国へと急展開してゆく。
 この海峡戦で既存の武士集団がまるで卑怯で戦意に欠けていることが露呈し、 藩主は高杉晋作に打開策を命じた。文久3年(1863)6月、下関の豪商白石正一郎の資金 でもって奇兵隊を創設することとなったが武人は隊員の確保に東東奔西走し、ついに奇兵隊を作り上げた。
 余談だが奇兵隊は長門の国下関で結成されたが初期隊員で長門部出身者は 白石兄弟のみで残りは周防の国の出身者であった。 武人の人徳を慕って浦家の家臣はこぞって入隊している。隊士はみな、 武人を推薦して総管になってくれるように頼んだという。
 文久3年(1863)10月武人はついに奇兵隊の総管となった。元治元年(1864)6月 新撰組による池田屋事件(長州藩関係 吉田稔麿他7名死亡)が発生し長州藩内は、熱病に冒されたぼど沸騰し京都に攻め上ってしまった。 世にいう禁門の変(1864.7)の勃発である。この戦闘で長州藩は久坂、寺島ほか有為の人材多 数失ってしまった。
 余談だがこの戦闘に奇兵隊は部隊しとて参戦していない。 さらに、元治元年(1864)8月5日、英仏米蘭の四カ国の連合艦隊が下関を攻撃し 上陸を許してしまった。武人は諸隊士を指揮してよく奮戦したという。 その時藩内に政変が発生し重商派(俗論)が政権を担うこととなった。長州藩は、 下関戦争の敗戦と禁門の変の敗戦とが重なり窮地にたたされた。 さらに幕府は第一次長州戦争準備の動員令を諸藩に通知し戦争の準備を着々と すすめた。
赤祢武人の書  それにより長州藩は絶対絶命の縁にたたされることとなってしまった。 この混乱をとりあえず回避するため11月禁門の変の軍事統帥関係者として 三家老四参謀を処刑し、諸隊の解散を命じ、ひたすら幕府に恭順の意を表明した。 12月、武人は禁門の変時の責任者として収監されている7名の政務員を 釈放するよう働きかけた。
 俗論派政権は、政務員の救命と引き替えに赤祢武人に奇兵隊を解散するように命じた。 そのさなかに高杉晋作の功山寺決起が発生した。藩政府はこの高杉の決起によって 7政務員の殺害と名門清水清太郎(22才)に切腹を命じた。
−閑話休題 名門清水家について−−
 有名なのは、豊臣秀吉の備中(岡山県)高松城の水攻めのときの城主。 明智光秀による本能寺の変(天正10年6月2日・1582年)の情報をいち早く知った秀吉は城主宗治の切腹を条件に 和睦した。関ヶ原の戦いの敗戦によりこの一族は山口県光市小周防に居を構えた。 昭和天皇暗殺未遂で有名な虎ノ門事件(大正12年、1923)の犯人難波大助は清水家 の家老職。清水本家は岡山県総社市で農業に戻り次男が武士として毛利藩(寄組)に仕えた。
 この末裔が光市小周防に采邑地を与えられた清水家である。  この倉敷暴動事件に参加した水島東九郎(清水宗義)は、総社清水家出身である。また 第二奇兵隊士の中に多数の清水家臣団が加わっている。彼らにとってこの付近は出身地 であり、旧怨の地でもあった。
 本家清水家は総社市にあっても名門で近年商工会議所の会頭なども務められている。 天皇(昭和天皇皇太子時代の暗殺未遂事件・虎の門事件)暗殺については毎日新聞記者であった 岩田礼著「天皇暗殺」にチョー詳しい。ビックリするような明治から昭和にかけての 人物史に彩られている。
閲覧者の雑学に資するために、天正10年(1852)備中高松城攻めを記す。
1852年3月15日、秀吉姫路出発
 〃 4月 4日、秀吉岡山城に入る
 〃 5月 7日、備中高松城水攻め築堤開始
 〃 5月13日、城、囲域築堤完成(総延長3Km)
 〃 6月 2日、本能寺の変。信長自害
 〃 6月 4日、城主清水宗治以下切腹
 〃 6月 6日、秀吉、備中高松城撤収
 〃 6月13日、秀吉、明智光秀討つ

 武人は解散の命令を受け、下関に戻ってこの命令を隊士に伝えた。晋作は武人が 俗論派の連中に抗論せずに戻ってきたことを罵り、ほとんど斬り合いになりそうに なった。隊士たちもまた、「解散はできない」ということを主張し、 武人を殺そうと計った。武人の主張は外国の脅威に直面している現在藩内で争って いる場合ではく挙国一致政府のもとで国難に当たるべき時代とのべたが、 どうしても自分の意見と隊士の意見が相容れないものであることを悟り、 隊を脱して下関の商家某の家に潜伏した。
 
岩国市柱島栄西寺 赤祢武人の墓
岩国市柱島赤祢武人の墓
   慶応元年(1865)正月、藩内で再度の政治主導権争いが発生し俗論派と正義派間の 内戦となった。結果は高杉派(重農派・正義派)の勝利となった。 武人は、上京して御所に入り第一次長州戦争が実際に発生した場合の不利益を説いて、 同年(1865)5月、薩摩藩士西郷隆盛とともに出帆した。大阪に到着したその夜に 幕吏に捕らえられ、収監されてしまった。その間、幕吏は武人の前歴や考えを聴取し 武人に幕府と長州の和解の路を見いだすために釈放し、武人は阿月に帰り浦氏(家) 家臣の秋良敦之介(浦家家宰)や世良修蔵たちに相談したが、 彼らは「今はその時機ではない」と言って武人を止めた。
 この後世良修蔵は武人と会ったという理由で第二奇兵隊除隊処分を受けた。この除隊主家預のさなか立石孫一郎による倉敷暴動事件 が発生してしまった。 紆余曲折のすえ藩政府は、武人を幕府のスパイにでっちあげてしまうのである。 亡命帰国者と会うことの責任を問うとなれば、高杉晋作も亡命し帰国した前歴がある。このときの藩政府 は晋作と会った誰も謹慎処分にしていない。長門人の周防人(陪臣)に対する差別意識を感じるのは 私だけであろうか。?
 12月26日朝、捕縛責任者の槇村半九郎は、大島の農民兵を指揮し柱島を包囲し、武人を捕縛しようとした。
 翌27日、藩政府から槇村半九郎が、岩国藩からは戸田新左エ門がやって来て、 藩政府の命令であることを告げた。そして武人は槇村の手に落ちた。
 このあたりの大筋について童門冬二著「志士の海峡」に詳しい一読されたい。
 武人は獄中から自分の意見を訴えようとしたが、かなわず握り潰されて、 まったく尋問されることもなかった。
(旧配下の奇兵隊士たちが、元総管の面目の故をもって、 武人を隊営に引き取って切腹させることを請願したけれども許さず。 武人もまた、志を述べて刑に就くことを求めたけれども、それも許さることはなかった。)
 そして、慶応2年(1866)1月25日、山口市の出合河原において斬首されたうえ、罪人同様首をさらされた。 その夜、数名の覆面の士が首を奪い去ったという。その最後を見た者は、武人の死を惜しまない者はなかった。 それ以来、武人が殺害された場所を武人河原と人は呼ぶようになったと伝えられている。

 死に臨んで獄衣の背中に墨痕も鮮やかに 「真は疑に似たり。疑は誠に真に似たり」とあったという。

 武人とマキの一人娘のリウは、中富家を嗣ぎ、その後、明治35年4月、 リウの夫の中富信次郎が武人の遺骨を請い受け、山口県岩国市柱島西栄寺の先祖の傍らに葬った。
 武人の墓は、山口県柳井市阿月願成寺裏山赤崎山の中腹にもある。また山口市出合河原には、 赤祢武人の立派な顕彰碑がある。
 
赤祢武人終焉の地 慰霊碑
注)
奇兵隊を脱した赤祢武人は慶応元年(1865)12月10日養家赤祢(根)篤太郎宅へ帰宅、秋良敦之助・世良修蔵らと一席設け懇談した。 この帰宅したことを一切藩庁に届けなかった。 だが藩庁の知るところとなり、主家浦滋之助は逼塞の処分を受け、浦家臣芥川十右衛門は蟄居を命じられた。 世良修蔵は除隊処分の上主家預けの沙汰を受けた。

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