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第二奇兵隊倉敷暴動事件裁判担当関係者略歴
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山口県田布施町 真福寺(往時の写真)![]() 円立寺:熊毛郡田布施町本町590 TEL 0820-52-1058 |
脱隊事件後、第二奇兵隊の屯所になった。 裁判の行われた田布施町本町 円立寺(往時)
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■ 第二奇兵隊脱隊騒動担当国務長官天保4年(1833)12月29日〜明治4年(1871)1月9日 身分 家禄100石4斗3升2合 八士組 弘化元年(1844)12月波多野家の養子となり、嘉永4年(1851)4月御前警護を命ぜられ6年(1853)6月米艦来航に備え大森台場警衛のため出張、安政 元年(1854)帰国、文久3年(1863)正月京都詰として当役手元役に転じ、5月蔵元役助役に転任、元治元年(1864)7月禁門の変(蛤御門の変)後、俗論派(恭 順)のために萩野山獄に投獄され、同年12月高杉晋作の挙兵と正義派の勝利によって慶応元年(1865)2月出獄し、3月御手当御用掛となり政務役 (国務長官)に就任、時に31才である。4月藩命により広沢藤右衛門と改称し、同月第二次長州出兵命令が幕府より発せられ、11月幕府監察使と応接のため広 島に出張する。翌年(1866)5月兵助と称するが、倉敷脱隊事件のときの名前は藤右衛門が使われている。 6月7日第二次長州戦争の勃発に伴い戦略、戦術、政略等に参画、9月には安芸国厳島で幕使勝海舟と会見し止戦協定を締結した。このとき、勝の奉納し た刀が厳島神社に残るという。 同月薩摩藩の大久保一蔵(利通)らと対幕戦について協定し、10月上洛し討幕の密勅を一蔵と共に受け帰国した。 やがて維新となり参議に任ぜられ、明治4年(1871)1月9日未明妾福井かねと同衾中刺客のため暗殺される。犯人不明。容疑者として福井かねが逮捕 され繰り返し拷問を加えられたが、証拠不十分で釈放された。第二奇兵隊士と同じく39才で非業の死をとげた。歴史に「if」は禁句だが、彼がもし生き永がらえていたならば、 伊藤俊介(博文)や山県狂介(有朋)の出番はまずなく、大久保利道と新生日本の建設に参画したであろし、当然彼ら2人(伊藤、山県)の人生は変わったものになったはず である。いや日本の歴史が変ったものになったはずである。 少なくとも人間としての格が違った。彼広沢は吉田松陰の教育は受けておらず(吉田は熱心な征韓論者) 軍国日本の有りようも変わったものとなったであろう。話はそれるが山口県の教育会は吉田の征韓論をおくびにも出さず、専ら教育者としての側面を強調する。 彼の教育があったからこその影響か伊藤博文は、初代朝鮮総督として君臨し安重根にハルピン駅頭で射殺された。 |
![]() ■ 第二奇兵隊脱隊騒動担当裁判官 天保5年(1834)5月23日〜明治29年(1896)4月21日 63才没 身分 無給通(むきゅうどおり)士 出生 美祢郡大田村(美東町) 元治元年(1864)密用方聞次役(情報・諜報)となって藩内各地を巡察した。 このことが各地の地理と実状に詳しいということで、 この事件の裁判官に任命されることになったのではなかろうか。 慶応元年(1865)家督を相続し、身柄一代遠近付となる。 無給通(文字どおり給領地がない)からすると格段の出世となったが、身柄一代という幕藩体制の枠組みから抜け切って いない長州藩体制が判る。同2年(1866)手廻組に組み入れられ、第二次長州戦争では大島口に出張し、さらに同年3年(1867)石州に出張し右筆役となる。 明治10年(1877)京都府の大参事(知事)となり、雇用確保のため府の勧業場を旧長州藩邸に設立し諸産業の振興を図った。また、学校、図書館、病院の設立、 種痘の推進等新文化の導入に積極的努力し、最後には行政裁判所長官となる。 経歴をみると華々しいものがあるが、室津白浦では、脱隊兵処罰案をこえ林半七の意見のもとに秋田五郎、吾妻左源次を処刑し、弁明書を政事堂に提出している。 慶応2年(1866)4月22日槙村は政事堂に隊士たちの処置方針を示し、 同日誅殺等臨機処断の権を与えるむねの辞令をもらい、翌23日現地に向け出発した。 当初の処刑地と考えていたところは、すでに述べたように戎ケ下外、最寄りの地3個所である。 槙村がこのときもう少し温情のある処罰案を提示していたら、この悲劇は存在しなかったかも知れないと考えるのは、果たして私だけであろうか。 旧藩時代、彼の役職は山口県警刑事部次長のようなものであった。ご一新なって逮捕歴がある。 京都府大参事の職にあるとき起きた「小野組東京移転事件」である。明治6年小野組が一家をあげて東京への移転申請行った。 ところが、悪代官宜しく小野組の京都移転に反対を表明し申請を握りつぶした。江藤慎平司法卿により司法と行政の分権は確立されつつあった。小野組は京都裁判所に訴訟を起こす。 当然のこと勝訴になった。京都裁判所の所長は数少ない天誅組生残りの北畠治房(はるふさ・平岡鳩平)である。 治房は槇村の行為は職権乱用として懲役20日、または罰金6円を科した。ところが槇村はこの判決に従わなかった。 京都府を取り仕切っている俺様に懲役,罰金は笑止千万と考えたかどうかわからないが、 裁判所の判決を無視したのである。槇村はかって警察権と裁判権を同時に有したことがある。治房は激怒し槇村を逮捕したいと江藤司法卿に上申する。 近代国家を背負う気骨のある江藤は直ちに許可。治房は京都府庁に乗込み槇村を逮捕。捕縄をつけたまま東京に送致した。木戸孝允が手を回し超法規的手段で槇村を釈放する。 新政府高官で汚職を行なったのも長州(山県有朋・井上馨)。特権意識で法治国家を踏みにじったのも長州。維新で主導的役割をはたしながら、勝てばかつてのお殿様気分が抜けきれなかったのであろう。 世上、さすが裁判官様は天誅組の生き残りだけはある。と話したとか。 |
![]() 第二奇兵隊脱隊騒動担当検察官 (当時第二奇兵隊軍監兼参謀) 文政6年(1823)2月6日〜明治40年(1907)11月8日 身分 無給通(むきゅうどおり)士 出生 萩土原村黒沢縄手(萩市内) 天保10年(1839)以来下横目役(さしずめ山口県警刑事)、安政5年(1558)当職所横目役、文久3年(1863)奇兵隊に入る。 元治元年(1864)8月四カ国連合艦隊の下関砲撃戦に負傷する。 ちなみにこの年6月には新選組による池田屋事件、7月禁門の変(蛤御紋の変)8月第一次長州戦争、11月長州藩幕府に謝罪、 12月高杉挙兵と続く動乱の幕開けの年であった。 この事件(倉敷脱隊事件)直後の第二次長州戦争にあっては第二奇兵隊を率い大島口で戦う。 久賀町追原の熊本川を挟んでの地上戦は激戦であったと伝えられているがこの戦闘に半七は加わっていたのだろうか。 別章にゆずるが第二奇兵隊と疎遠な林半七が軍監に任命されたことが、 この倉敷事件の成因のひとつと伝えられている。 慶応2年(1866)1月第三代奇兵隊総督の赤祢武人が山口鰐石河原で処刑されたが、 この前に知己の軍監の世良修蔵が赤祢と会ったことで謹慎処分(後除隊処分)を受けよって後任軍監に林が任命された経緯がある。 生粋の第二奇兵隊士にとっては林は体内の癌細胞のような存在と推察される。 世良が軍監であればこの暴発(倉敷事件)はありえなかったように思える。 赤祢武人、山口(岩国市柱島に潜伏)に帰るとの情報に藩政府は林半七に捕縛の内示を行うが半七は 「赤祢の行方知れず。われその任にあらず」と固辞したとも伝えられている。捕縛責任者として前出の槇村が担当した。 晩年には伯爵に列せられる。 林の後日談 第二次長州戦争も幕府軍の敗北に終わる。大島郡に攻め込んだ伊予松山藩との休戦協定。 長州藩政府は林半七を委員の一人とした。悪かった。と謝る松山藩に向かって恫喝する。我々は極力藩内激徒の暴発を押さえるが、 ややもすると第二奇兵隊のように抜け駆け脱走するものを押さえることはできない。長州軍の強さ(兵器・装備,闘志)を知った松山藩。恐らく震え上がったはずである。 |
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