倉敷・浅尾暴動事件 第二奇兵隊(南奇兵隊)関連年表

年 号月 日内            容
天保2年(1831) 高島秋帆により最初のゲベール銃輸入さる
天保3年(1832) 大谷恵吉 (立石孫一郎)生誕 播州(兵庫県)作用郡上月村
天保9年(1838) 松崎(後の赤祢)武人生誕 第三代奇兵隊総管 岩国市柱島
天保10年(1839) 高杉晋作生誕(初代奇兵隊総管)
天保13年(1842) 

櫛部坂太郎生誕 山口県大島郡東和町伊保田浄専寺
【脱隊事件サブリーダー】

天保14年(1843) 河上弥一生誕(第二代奇兵隊総管) 萩市
安政元年(1854)3月徳川幕府、日米和親条約締結
  〃 3月吉田松陰、米艦に密航を求め拒絶される
安政2年(1855)10月安政大地震 藤田東湖被災死
  〃  安政2年(1855)倉敷へ 大橋敬之助
安政3年(1856)11月吉田松陰 松陰村塾を開塾
  〃 12月梅田雲浜、萩に来る。赤祢武人 雲浜に師事
安政5年(1858)4月彦根藩主 井伊直弼 徳川幕府の大老就任
  〃 6月日米修好条約締結
  〃 7月続いて英・露・蘭と修好条約締結
  〃 8月井伊直弼による安政の大獄
  〃 9月

梅田雲浜 江戸小倉藩預け中に病没。赤祢武人
関係書類を焼却し累を他に及ぼすを防ぐ

  〃 10月対外貿易急増に伴い国内経済(物価高騰)混乱
安政6年(1859)10月大獄により吉田松陰、橋本左内ら刑死
万延元年(1860) 貿易拡大に伴い国内物資極度に不足。物価騰貴
  〃 (1860) 大橋敬之助(立石孫一郎) 倉敷村年寄役(庄屋補佐役)に列する 注1
  〃 (1860)3月 3日桜田門外の変 井伊直弼暗殺
  〃 (1860)3月幕府貿易独占を狙い五品江戸廻送令発布
文久2年(1862) 大橋敬之助(立石孫一郎) 倉敷村年寄役に公選される
文久2年(1862)4月薩摩藩による寺田屋騒動
  〃 7月長州藩長井雅楽、尊攘派により失脚。藩是攘夷に決定
  〃 8月会津藩主 松平容保京都守護職就任
  〃 12月11日伊藤俊輔(博文)幕府方国学者塙次郎暗殺
  〃 12月12日長州藩士高輪イギリス公使館襲撃(高杉・赤祢ら)
文久3年(1863)2月 6日長井雅楽、尊攘派政権により不条理の死を命ぜられる
  〃 3月 新選組の前身創設される
  〃 4月 徳川幕府5月10日を攘夷期限と朝廷に上奏
  〃 5月11日未明、長州藩関門海峡通過の外国艦船砲撃を行う。
  〃 6月長州藩、報復砲撃を受ける
  〃 6月27日高杉晋作奇兵隊総管仰付
  〃 7月 4日赤根幹之助(武人)・白井小助 其身一代(士)御雇被召出
  〃 8月18日八.一八政変 京都政局より長州藩駆逐。七卿出奔
  〃 8月17日天誅組(攘夷実行・討幕)の変 奈良五条陣屋襲撃後壊滅。
  〃 9月12日河上弥一第二代奇兵隊総管仰付
  〃 10月 2日第二代奇兵隊総管(督)河上弥一、沢卿らと脱走。生野の変。
  〃 10月 4日赤祢武人(第三代)奇兵隊総管(督)御用取計仰付。
  〃 10月14日生野の変(討幕)奇兵隊総管河上弥一ら憤死。
元治元年(1864)3月水戸天狗党の乱(主張は攘夷決行の実現)
  〃 4月

第三代目奇兵隊総管(督)赤祢武人 百姓・町人の
士分格申請(全員武士とする)

  〃 5月11日佐久間象山暗殺さる
  〃 5月18日大島郡 真武隊号差免につき諸器械貸渡仰付
  〃 6月 5日

新選組による池田屋事件発生。 長州藩 吉田稔麿(榮太郎)討死

  〃 7月19日禁門の変 長州敗退 政権椋梨(重商派・俗論)となる
  〃 8月 5日四國艦隊、文久3年の報復として下関砲台占拠
  〃 真武隊 秋良雄太郎惣管の心得にて引立仰付。
  〃 幕府 禁門(蛤御門)攻撃に対し第一次長州戦争発令
  〃  〃 19日赤根武人奇兵隊総督仰付。
  〃 10月21日重商派(俗論)政権 諸隊(奇兵隊・八幡隊・真武隊)に解散を命ず。
  〃 10月23日続いて 諸隊(奇兵隊・八幡隊・真武隊)に恭順を命ず。
  〃 11月 4日諸隊解散令撤回嘆願書を加判役浦靱負(Yukie)を通じて提出。
同4日、他国人関門通行規制強化発令。
  〃 11月重商派(俗論)政権 幕府に恭順謝罪、三家老四参謀処刑
  〃 12月  奇兵隊総管(督)赤祢武人、時山直八と共に
諸隊解散令撤回の目的をもって萩に出張
  〃 12月16日赤祢不在の隙に高杉晋作ら下関新地会所襲撃。
  〃  〃 17日下津井屋事件 大橋敬之助(立石孫一郎) 倉敷脱出
  〃  〃 19日高杉晋作功山寺決起の報復として7政務員処刑。
  〃  〃 25日高杉晋作功山寺決起の報復として清水清太郎賜死。
慶応元年(1865) 貿易拡大に伴い国内経済(物資極度に不足)混乱
  〃 1月10日諸隊,萩軍 藩内内訌戦い。 萩軍敗北濃厚となる。
  〃 1月28日南奇兵隊、天造隊を合併。
  〃 2月  大橋敬之助(立石孫一郎)第二奇兵隊入隊
  〃  〃 24日高杉晋作ら重農派(本百姓優遇、正義)政権樹立
  〃 3月13日南奇兵隊石城山転陣。第二奇兵隊と隊名変更
  〃  〃 23日長州新政権 武備恭順を藩是とする。
  〃  〃 15日真武隊解散
  〃  〃 24日第二奇兵隊大島郡にて硝石製造開始。
  〃 正確には4月6日まで年号は元治である。
  〃 4月第二奇兵隊惣管山内梅三郎・白井小助,木谷(世良)修蔵軍監仰付。
  〃  〃 12日幕府 第二次征長令を発す。
  〃 5月長州藩 倒幕を藩の方針とするむね告示
  〃 重農派(正義)政権 椋梨藤太(重商派)ら処刑
  〃  〃 22日諸隊銃砲卒の者入隊中苗字帯刀差免の事。
  〃  〃 26日第二奇兵隊定員百二十五人に定める。増員弐拾五人
  〃  〃 27日長州軍政改革を実施。村田蔵六(大村益次郎)改革責任者に任命。
  〃 8月  長州藩 坂本竜馬により薩摩藩の名目で武器購入
  〃 秋   立石孫一郎、第一回下津井会議開催 討幕蜂起を相談
  〃 10月  第二奇兵隊の一部脱営し大和町光明寺に入る。隊内不和
  〃 11月26日光市立野の清水美作第二奇兵隊総督仰付
慶応2年(1866) 諸国凶作 米価騰貴、農民一揆や打ちこわし多発
  〃 正月

作州尊攘派桜井新三郎と第二奇兵隊書記芥川義天と意見交換
新三郎と孫一郎叔父立石正介(母の弟)とは同志である。

  〃 1月坂本竜馬、中岡晋太郎の斡旋により薩長連合成立
  〃  〃 25日赤祢武人、重農派(正義)政権により山口で斬殺される
  〃 2月立石孫一郎、第二回下津井会議開催(倉敷浅尾騒動史)
  〃  〃 26日

木谷修蔵(軍監) 第二奇兵隊除隊仰付の事。
赤祢武人と接触を理由に譴責処分

  〃 3月

立石孫一郎、第二回下津井会議開催(苫田郡史 P1403)
新修尾道市史第二巻 竹内要助(隼人)履歴書
「慶応2年3月 防州岩城山の激徒・・・・・尾道に来り・・・・・
余に図て曰く」の記載(P513)あり。

  〃  〃 6日白井小助第二奇兵隊軍監。参謀仰付。
  〃  〃 29日

木谷修蔵第二奇兵隊復帰を総督清水美作に示達。
この示達が主家浦にもたらされた日付4月11日。

  〃 4月 5日

第二奇兵隊屯所石城山脱走

  〃 4月10日

第二奇兵隊脱隊事件発生 幕府倉敷代官所
浅尾藩陣屋襲撃

  〃  〃 26日

立石孫一郎、光市島田川橋上で襲撃され落命(26日)
現場離脱隊士1名、島田でピストル自決(27日?)

  〃 5月第二奇兵隊脱隊事件関係者山口県各地での処刑終了
  〃 6月7日第二次長州戦争勃発
慶応3年(1867) 9月18日筒袖の軍服制定
  〃 (1867)11月18日櫛部坂太郎、桜井軍記 山口市で斬首
昭和18年(1943) 立石孫一郎、倉敷市で勤王烈士として顕彰

重商派政権による禁門の変 責任者の処刑
【三家老】
元治元年(1864)11月11日徳山(周南市)惣持院 (賜死) 益田右衛門介親施(ちかのぶ、32)
徳山(周南市)澄泉寺 (賜死) 国司信濃親相(ちかすけ、24)
元治元年(1864)11月12日 岩国竜護寺 (賜死) 福原越後元|(もとたけ、50)
 惣持院、澄泉寺 いずれも明治4年(1871)廃寺 惣持院・澄泉寺の古図はこちら
【四参謀】
元治元年(1864)11月12日 萩野山獄 (斬) 中村九郎(37)・佐久間佐兵衛(32)・宍戸左馬介(61)
・竹内正兵衛(46)
【七政務員】
元治元年(1864)12月19日 萩野山獄 (斬) 楢崎弥八郎(28)・山田亦介(56)・大和国之助(30)
・前田孫右衛門(47)・松島剛蔵(40)・毛利登人(44)・渡辺内蔵太(29)
政務員は高杉晋作による下関新地会所攻撃に対する報復処刑であった。 続いて 元治元年(1864)12月25日萩自邸 (賜死) 寄組清水美作嫡子清水清太郎(22)   後清水美作は第二奇兵隊総督就任
補追 第二代奇兵隊総管川上弥一ら脱走の件。 随番者、白石廉作、伊藤合五郎、長野熊之丞、 和田伝二、小田村信之進、下瀬熊之進、井関英太郎の8人。

注1) 大橋敬之助は「杏葉紋の族譜・立石定夫著」によると万延元年(1860)に年寄りに列し倉敷村年寄役就任を文久2年(1862)としている。

注2) 慶応元年(1865年)秋、立石孫一郎が下津井を訪れたのは、9月とされている。集合場所は下津井堀上利平宅。 翌年下津井再会同は、櫛部坂太郎、引頭兵吉同道とある。(明治維新草莽運動史[脱隊騒動・備中騒動の研究] 高木俊輔/著・勁草書房 1974/10/1)

注3)  新修尾道市史第二巻 竹内隼太履歴書 P513
竹内隼太は尾道(広島県)にあって維新前後に豪商として軍費の調達。上洛しての実戦参加など。また 海運業を営み長州藩関係の志士を匿うなど幅広い人脈と情報収集能力を持ち合わせた行動的人物であった。 その一節に、「二年丙寅(慶応2年、1866)三月、防州岩城山屯集の激徒事無きを憂い、数名を撰び商売或は 水夫を装い、商船を艤して尾道に来り、問屋業加口屋某を欺き、品物を鬻ぐ(ひさぐ、売買の意)の風を なし、密かに幕史の宿所慈願寺を窺い、且つ市内の状況を探り、而して、余が寓居を訪ひ、余に図て曰く、 幕軍国境に逼(せまる)りしより、対陣年を越え、我輩甚だ(はなはだ)無事に苦しむ。 故に先ず慈願寺を襲い、使番を屠り(ほふり)火を市中に放ち、尾道を赤道となし、以て敵軍通運の便を 別たんと欲す、君の意見果たして如何と、余対て曰く、不可也。抑(そもそも)君等の計画たる其効(その効果の意) 甚だ少ふして、不利多く、損益相償はざるものあり。事素より一小策のみ。
 −−− 中略 −−−
今の君等が議する所は即ち、根蒂を措き(おき)て枝葉を掃うもの也。 
これにより、立石等は下津井会議に先立ってか、帰路かのどちらかに尾道の豪商で志士であった 竹内隼太を訪ねている。
第二奇兵隊倉敷暴動事件はいかにも偶発的に発生したようだが、こうなると偶発でなく計画的様相を呈する。  また、隼太は立石等の尾道襲撃は「損益相償はざる」と断じ、商人らしく費用対効果(損益分岐点)からみて 「一小策」にすぎない。と論駁している。

騒動史で下津井会議を慶応二年(1866)二月のこととなっており、 そうなると下津井会議の帰路、尾道の竹内を訪れたものであろう。 だが、ことは重大な計画であり、 竹内隼太の内諾(幕史殺害・尾道灰燼)を得て下津井に行きたかったであろうから、下津井会議は3月開催の線が濃厚となる。
確かなことは、慶応2年のこの頃に立石孫一郎が部下数人を引きつれ尾道を訪れ討幕の先兵たる心情を吐露して いることである。 誠に小策ではあるが  ・・・・・

なお、苫田郡史は第二回下津井会議を3月のこととしている。旧版倉敷市史5冊は2月。これは騒動史を引用したものであろう。 ではこの時期、第二奇兵隊やそれを支えていた浦家には何が起きていたのであろうか。 詳しくは こちら


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