頁内 参照 判決方針 |
第二奇兵隊は画像の地で結成された![]() |
発祥地室積 |
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| 伝 | |
| 石城山 本陣跡 | |
| 発祥地 専光寺 | |
| 転陣地 普賢寺 |
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慶応2年(1866)4月5日夜その惨劇の序章の幕は切って落とされた。 熊毛郡大和町の石城山(いわき)を本拠地とする第二奇兵隊(南奇兵隊) が立石孫一郎・櫛部坂太郎たちをリーダーとし、同隊書記役楢崎剛十郎 を殺害し一気に山を駆け下った。 同年1月21日(22日という説あり)京都薩摩藩邸において中岡慎太郎、坂本竜馬の斡旋により禁門の変(蛤御門の変)以来険悪を極めた長州、薩摩 は同盟を結び両藩による政権奪取の計画は、水面下で着々と進展しているさなかであった。 すでに幕藩体制は矛盾に満ちたものとなり安政(1854)〜慶応2年(1866)にかけて、百姓一揆は国内各地で続発、 経済は極度に混乱し世論は御一新を待ち望んでいたが、この倉敷事件は、 山口県の民衆史の上で明治2年(1869)12月1日の奇兵隊脱隊事件(処刑者133人)にさきがける惨事となりこの倉敷事件参加者は その後の歴史でもなんら報われることなく今日に至っている。 明治2年、戊辰戦争帰還兵士たちの脱隊事件は、その終焉後も反乱諸隊士に対して民衆は深く彼らに同情し、また恋い慕ったが、 倉敷事件は立石孫一郎の私怨説が流布され、 参加隊士にとっては、こと志と違う悲劇となった。 長州藩内での権力闘争の結果豪農商の支援を受けた重農派(正義)の政権となった長州に対し時流を読むことなく幕府はまことにお粗末ともいえる 長州追討の命を出してしまった。 薩長盟約も知らず振り上げた拳を収める方法も持たない徳川政権は、慶応2年6月7日幕艦による山口県大島郡安下庄(橘町)の砲撃に始まる大島口の戦いで もって第二次長州戦争の火蓋は切って落とされが、政権奪取の計画をもつ桂小五郎以下の長州政権にとって飛んで火にいる夏の虫ように愚かな砲声であった。 仕掛けられた戦い。徳川政権はこれにより倒幕の名分を長州に与え歴史は大きな転換点を迎えることとなった。 一方山を下った第二奇兵隊は、途中で合流者を増しながらやがて倉敷代官所、浅尾藩陣屋(総社市)を襲撃した。長州戦争準備のため本営を広島城まで 進めていた徳川方は、この倉敷攻撃でもって長州の本音、すなわち政権奪取であることを読み取った。 本音を見透かされた桂小五郎は激怒し、倉敷事件に参加した隊士の処断について 槙村半九郎の伺書を裁可した。その内容は、 |
| 一、南奇兵隊の陣営に乱暴したるも国外に出でざるものは死一等を免じ流罪。 |
| 二、南奇兵隊の陣営に乱暴せし者に非るも国外に附随して乱暴せし者も亦同前。 |
| 三、南奇兵隊の陣営に乱暴しさらに国外に出で乱暴したるものは斬る。 |
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「概ねすでに断然幕府と絶つを大局の利益と認むるも部分発動の如きは無謀の軽挙たるを以ってなり」
と史書は記す。この瞬間彼らの運命は決まった。 まことに政治的なこの裁断は、殺さなくてもよい有為の青年をその後何ら顕彰することもなく、 賊名を着せ歴史の忘却の中に埋もれさせようとしている。 後世の私たちは、これが政治的判断であった証左を文久2年(1863) 8月大和五條陣屋を襲撃した天誅組参加者が維新後全員贈位された事実でもって知る ことができる。 幕府代官所襲撃という、まったく同じ行為を行った二つの組織の一方が顕彰され、 第二奇兵隊は賊名のもとに抹殺された。 判決に 「役付きの者を殺害し、あまたの器械を取り出だし逃げ去り、あまつさえ他 国において乱暴せしめ ・・・・」 なんと空ぞらしい判決文であろうか。 百歩譲ろう確かに一人殺害した。だが視点を変えれば幕府倉敷代官所の襲撃は、 小さな倒幕そのものであった。長州政権はその後、大兵を要して国内各地で 戦火を交えた。小さな倒幕が死に値する大罪で大きな倒幕が免罪される論拠を誰が 有するのであろうか。彼ら武士にとって百姓の小忰など虫けらの命にも値しなかった のではなかろうか。 会津藩士を祖父に持つ作家の早乙女貢氏はその著書「奇兵隊の叛乱」で 「草莽より起こった奇兵隊は、その初志からして、革命の理念の欠落の尾を曳いて、 激流に揉まれつつ多くの命を喪ってきたが、明治維新体制の基礎を作る過ちを犯し 、愚矇をさらけた。山県有朋、伊藤博文らの一握りの佞奸の徒に権勢を附与するための土台 となったことは、愚かにも哀れというしかない。野望におどらされた非業の死には、 心の安らぎも人間としての誇りもない。血ぬられた栄光の奇兵隊は、天に唾した報い のように、その惨雨血臭を浴びて壊滅した。」 と書いている。 読者は冒頭の辞世をもう一度見て欲しい。彼らの志は「人間としての誇りもなく」 と氏に酷評されるものでは断じてない。ましてや会津白虎隊の 旧守の思想でも断じてない。 ともあれ幕末における尊皇攘夷の騒然とした時代。長州の若き獅子たちの狼火 はやがて時代を突き動かし維新を推し進めた。 動乱期における抵抗運動は維新を目前にして夢潰えたものの、彼らの運動はその後の歴史においてその正しさが立証されている。 そして「倉敷騒動」に参加した隊士たちは父祖伝来の墳墓の地で罪人の汚名のもとに県内各地で斬殺された。 斬罪もしくは闘死しいる者は判明しているだけで53名である。慶応2年陰暦5月4日、 最年少「栄吉」17才は、下松市宮原山刑場の露と消えた。 第二奇兵隊に所属した彼らはこのこよなく愛した故郷に、美和町を除いてその終焉の地を標記する碑すらなく、また誰手向ける野辺の花さえもなく 草木の中に埋もれようとしている。慟哭するは私一人だけであるまい。 市史により彼らの存在を知った私は、誰一人として香華を供えるでもない 彼らの終焉の地を発掘し「君たちは明治維新の魁となったすばらしい防州男児」 であったと賛えてやりたかった。 |
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