第二奇兵隊倉敷・浅尾暴動事件 他隊呼応刑死者並びに戦死者

立石脱隊の情報は瞬く間に藩内諸隊に伝わった。最初に動いたのは第二奇兵隊駐屯地に 地理的に近かった徳山藩領駐屯諸隊である。義昌隊、集義隊など申し合わせたかのように脱走を企てた。 政治的な目論見とは関係なく藩内諸隊は幕軍との戦いを決定的なものととらえ隊員のテンション もあがっていた。対外的に押さえる必要を感じた藩指導部は極刑でもって彼らに臨んだ。 脱隊隊員処刑地及び刑死者名簿はこちら
 
部 隊 名 刑死(死亡)場所 月   日 No 姓   名 態様 判明
年齢
義昌隊
(新南陽)

徳山断頭場 (周南市) 4月21日1 西太郎左衛門割腹  
 
集義隊
(徳山藩)
新南陽

徳山断頭場(周南市) 4月21日2 赤瀬英二銃殺  
 
  〃   〃3 御籏五郎割腹  
 
  〃   〃4 英  三郎 〃  
 
  〃   〃5 山田十郎 〃  
 
 不明  不明6 桃井誠次郎斬首  
 
八幡隊

(秋穂二島)

秋穂二島 (山口市) 4月24日7 水戸新兵衛斬首  
 
 〃   〃8 貫田源之進 〃  
 
 〃   〃9 野村兼千代 〃  
 
 〃   〃10 伊藤元(求)馬 〃  
 
 〃   〃11 中村吉五(次)郎 〃  
 
奇兵隊

(吉田)

吉田 (下関市) 4月28日12 有田常蔵斬首 27 
 〃   〃13 波多野十吉 〃  
 
 〃   〃14 山本龍之進 〃  
 
第二奇兵隊

(戦死者)

浅尾 (総社市) 4月13日1 平松精一郎戦死  
 
 〃   〃2 結城小六 〃  
 
 〃   〃3 浅尾正之助 〃
 
37
 〃   〃4 水島東九郎 〃  
 
倉敷市福田新田 4月14日5 高橋謙次郎 〃  
 
玉島で被捕     佐波野三郎   
 
奇兵隊有田常蔵,波多野十吉は上関宰判(現平生町秋守)で逮捕され、山本龍之進は船木宰判で逮捕された。 山本によると沓野と三田尻宰判宮市(防府市)で別れたという。 沓野猪三郎のその後の消息記録は発見に至らなかった。
佐場野三郎について玉島で捕縛された。すなわち亀島銃撃戦(14日夕刻)の後、こともあろうに敵方に逃げた。 そして15日の夕乙島村に至った。三人連れで帰還するため船の手配を依頼したが、亭主は気転を利かせ玉島に注進(五ツ・20:00)した。 幕府軍側の動きは鈍く翌八ツ(02:00)ころから仕度をはじめて逮捕に向かった。浪士側は船の手配に手間取るを不信に思い三人の内二人は逃げだし、三郎だけが逮捕された。  旧版倉敷市史(五冊)昭和48年8月発行),頁244
三郎はその後幕府軍艦で広島に護送されている。
芸藩志(第九巻;S52/10/27発行)に「出張の兵隊搦捕召連帰」とあり、浪士追討派遣幕府艦船に乗せ広島に連れ帰っている。 幕府軍船は17日に玉島を発し18日に広島港へ着いた。 松江藩海軍歴史年譜,山陰史談一九号抜刷(島根県立図書館蔵)
幕閣(この場合老中小笠原長行)は岡山藩に逮捕した二人(西岡龍太・長尾清熊)を 広島に檻送せよとの指示を出している。この指示により岡山藩による護送は
4月25日岡山発。同夜小田郡矢掛町泊
4月26日矢掛発。同夜深安郡神辺町泊
4月27日神辺発。同夜三原市泊
4月28日三原市発。同夜東広島市西条(四日市)泊
4月29日西条発。広島着。
岡山藩が用意したもの。 宿駕籠五挺。人足十人。 護送役、上下おおよそ百六十人。 これが本当なら物々しい警備と護送体制である。 旧版倉敷市史(五冊)昭和48年8月発行),頁816
現在流布している石城山脱走人数96人は佐場野三郎の供述に基づく。 ところが当事者(被処刑者)本城藩人の兄兵助は脱走者94人という備忘録を残している。
広島に移送された三人について 芸藩志(第九巻)昭和52年10月27日発行によると
佐場野三郎について
4月18日に広島に着いた三郎は19日に袋町妙蓮寺で広島藩に引き渡された。 食事は一菜付き、蚊帳布団を与えられた。三郎所持の物品金銭。
一、短刀 壱 長さ六寸五分(21.45cm) 銘勝家
一、金銭 七両壱朱三百文
4月26日、佐場野三郎逮捕を長州藩在広使節小田村素太郎(楫取素彦・かとりもとひこ,吉田松陰の妹婿)に通知。
4月29日、岡山藩によって移送された、西岡、長尾両名は午後8時広島猿猴橋にて広島藩に交付。
6月1日、発:小笠原壱岐守 宛:広島藩。 西岡,長尾,佐場野三人を壱岐守旅館へ差し出すよう命令を受けている。

義昌隊報告(4月21日付)
徳山藩の部隊である。隊中の少年を誘って脱隊を図っていることが発覚。 徳山断頭場で割腹して果てた。
義昌隊
■義昌隊の前身は荻野隊である。同隊は文久3年(1863)6月に結成され慶応2年(1866)集義隊・山崎隊と合併し義昌隊と改称した。 ところが山崎隊はその後も残って戊辰戦争では秋田・翌春の函館戦争に参軍している。
■慶応2年(1866)年3月2日荻野隊を義昌隊と名称変更。山口県旧新南陽市富田(Tonda)善宗(祟)寺(政所1-6-22・Zensoji)を屯所とする。
慶応3年(1867)2月21日南園隊と合併し振武隊と改称した。 正式な解隊は4月11日である。 後に記述する集義隊ともども複雑な合従連衡をする。

集義隊報告(4月21日付)  徳山断頭場現況
現在の徳山断頭場 通称白見ケ森
  第二奇兵隊の脱隊事件が伝わるや、立石に遅れをとってはならじと船の手配をしていることが 発覚。赤瀬を除き切腹させた。赤瀬は脱隊をそそのかした首謀者として銃殺刑に処された。  赤瀬は本邦最初の銃殺刑だった可能性がある。 慶応3年(1867)に集義隊と八幡隊は改編され鋭武隊となった。   義昌隊、集義隊の死刑執行は徳山藩領と毛利藩の東境界旧山陽道北側、久米ガ瀬戸、 別名 白見ケ森 で行われた。と考えられる。
記録で銃殺刑を行っており町内の牢獄で執行された可能性は低い。 山口県文書館資料では 「徳山断頭場」とあり当時の徳山藩城下の処刑場は白見ケ森であった。赤瀬の 処刑には少年の輩でもって「撃殺」せしむとある。 処刑は斬首が一般的であった。  日本最初の銃殺刑の名誉は「赤瀬英二」になるのであろうか? 合掌。
集義隊
■前身は小郡(Ogori)郷勇団(Goyudan)である。慶応元年(1865)3月諸隊人数定めで定員は50人。三田尻(Mitajiri・防府市)へ屯集することを命じられた。
慶応2年(1866)2月2日山崎隊(注)・荻野隊と合併。2月21日富田善祟(宗)寺に三隊合併し転陣を命じられている。第二奇兵隊脱走事件(倉敷・浅尾暴動事件)後の6月28日条に「集義隊・義昌隊。山崎隊を合併し斉武軍と唱えた。 同年勃発した第二次長州戦争では芸州口に出戦。
慶応3年(1867)2月21日八幡隊(Yahata)と合併し鋭武隊と改称する。同5月7日付けで集義隊の印鑑の通用を差し止めている。
(注)
■山崎隊は徳山藩領富田の山崎神社を鎮守とする士民有志により編成された。 慶応2年(1866)2月2日付で集義隊・義昌隊と合併した。
山口県史幕末維新6別冊長州諸隊一覧掲載の各隊説明と同巻末長州諸隊編成期間一覧にある編成期間タイムテーブルとは必ずしも合致していない。 別冊山崎隊記述で慶応2年(1866)6月28日集義隊・義昌隊・山崎隊と合併し斉武軍と唱えた。としているが函館戦争(北海道戦役)で山崎隊の戦死者8人を数える。なお同戦役における山口県隊の戦死者は39人である。
八幡隊報告(4月24日付)
八幡隊(総管:堀真五郎,後 鋭武隊・Yahata-tai)は山口藩庁防備の目的のため秋穂二島(山口市)の泉蔵坊(現栄泰寺)を本陣に萬徳院(合併で栄泰寺・秋穂町大里)、遍照寺、 真善坊(祢宜・共に廃寺)の四寺に分宿していた。  立石決起の報が伝わるや、これに続かんとして4月22日夜陰に紛れて武器弾薬を携えて脱営。報告書では若年の輩数十人を誘い黒潟(現秋穂港)で潮待ちをしているところを発見。連れ戻され首魁とみなされた6人の内5人が処刑された。 斬首陣門内に梟首とある。
死刑執行場所は前述のいずれかであるが不明。梟首は泉蔵坊の南参道椎の樹の北側であった。
脱走隊士は遍照寺、真善坊に分宿していた四七人と伝えられている。
1.水戸新兵衛 萩、松本村 鈴尾五郎家来(干城隊総督後の福原五郎)
2.貫田源之進 田布施、庄屋吉次三郎右衛門存内百姓
3.野村兼千代 美祢綾木村 庄屋中村孫七存内百姓
4.伊藤元(求)馬 阿武生雲村 鈴尾五郎家来
5.中村吉五郎 萩、小畑村畳屋 元石州町人
6.脇沼道助 不明。腹痛病臥中で処刑を免れたと伝えられている。
(秋穂二島史 発行二島公民館 S44/11)
八幡隊(Yahata-tai)
諸隊の中では規模の大きな隊である。藩庁山口の守衛を担当した。慶応元年(1865)2月6日付け隊員293人。3月諸隊人数定めにより定員150人。 秋穂二島史ではこの大部分が脱走を企てたそうだから、立石孫一郎の企てが成功すれば 当時とすればかなりの戦力になったことと思える。
奇兵隊日記 4月22日条 八幡隊30余名脱走と記述している。
立石孫一郎らによる下津井会議で鈴尾五郎以下数百の同志を得たりと発言されたとしているが、この同志は八幡隊のことと思える。
奇兵隊報告
有田常蔵、波多野十吉は脱走して上関宰判(萩藩の行政単位、寄港地上関がある)秋森(熊毛郡平生町)で逮捕された。 脱走は4月17日と伝えられている。
また、山本龍之進は船木で逮捕された。一緒に脱隊した沓野猪三郎は逃亡し行方不明となっている。 奇兵隊日記によると処刑は宗蓮寺(廃寺・現堂の尾墓地)で執行された。
堂の尾墓地は吉田東行庵手前、東行庵に向かって道路右の小高い丘にある。
有田常蔵 介錯 鳥尾小弥太 (奇兵隊・第二奇兵隊・建武隊、陸軍中将、枢密顧問官)
波多野十吉 介錯 内田文吉 (奇兵隊、慶応2年9月8日豊前赤坂にて負傷し死亡)
山本龍之進 介錯 野村正次 (奇兵隊、野村正次は明治3年脱隊事件に参加。同年11月17日陶にて斬首さる)   彼ら三人の墓標は現在下関市吉田東行庵墓地に移設されている。  左2基、右1基。処刑隊士
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