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第二奇兵隊倉敷・浅尾暴動事件 他隊呼応刑死者並びに戦死者
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義昌隊報告(4月21日付) 徳山藩の部隊である。隊中の少年を誘って脱隊を図っていることが発覚。 徳山断頭場で割腹して果てた。 義昌隊 ■義昌隊の前身は荻野隊である。同隊は文久3年(1863)6月に結成され慶応2年(1866)集義隊・山崎隊と合併し義昌隊と改称した。 ところが山崎隊はその後も残って戊辰戦争では秋田・翌春の函館戦争に参軍している。 ■慶応2年(1866)年3月2日荻野隊を義昌隊と名称変更。山口県旧新南陽市富田(Tonda)善宗(祟)寺(政所1-6-22・Zensoji)を屯所とする。 慶応3年(1867)2月21日南園隊と合併し振武隊と改称した。 正式な解隊は4月11日である。 後に記述する集義隊ともども複雑な合従連衡をする。 |
集義隊報告(4月21日付) 徳山断頭場現況![]() |
第二奇兵隊の脱隊事件が伝わるや、立石に遅れをとってはならじと船の手配をしていることが 発覚。赤瀬を除き切腹させた。赤瀬は脱隊をそそのかした首謀者として銃殺刑に処された。 赤瀬は本邦最初の銃殺刑だった可能性がある。 慶応3年(1867)に集義隊と八幡隊は改編され鋭武隊となった。 義昌隊、集義隊の死刑執行は徳山藩領と毛利藩の東境界旧山陽道北側、久米ガ瀬戸、 別名 白見ケ森 で行われた。と考えられる。 | |
| 記録で銃殺刑を行っており町内の牢獄で執行された可能性は低い。 山口県文書館資料では 「徳山断頭場」とあり当時の徳山藩城下の処刑場は白見ケ森であった。赤瀬の 処刑には少年の輩でもって「撃殺」せしむとある。 処刑は斬首が一般的であった。 日本最初の銃殺刑の名誉は「赤瀬英二」になるのであろうか? 合掌。 | ||
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集義隊 ■前身は小郡(Ogori)郷勇団(Goyudan)である。慶応元年(1865)3月諸隊人数定めで定員は50人。三田尻(Mitajiri・防府市)へ屯集することを命じられた。 慶応2年(1866)2月2日山崎隊(注)・荻野隊と合併。2月21日富田善祟(宗)寺に三隊合併し転陣を命じられている。第二奇兵隊脱走事件(倉敷・浅尾暴動事件)後の6月28日条に「集義隊・義昌隊。山崎隊を合併し斉武軍と唱えた。 同年勃発した第二次長州戦争では芸州口に出戦。 慶応3年(1867)2月21日八幡隊(Yahata)と合併し鋭武隊と改称する。同5月7日付けで集義隊の印鑑の通用を差し止めている。 (注) ■山崎隊は徳山藩領富田の山崎神社を鎮守とする士民有志により編成された。 慶応2年(1866)2月2日付で集義隊・義昌隊と合併した。 山口県史幕末維新6別冊長州諸隊一覧掲載の各隊説明と同巻末長州諸隊編成期間一覧にある編成期間タイムテーブルとは必ずしも合致していない。 別冊山崎隊記述で慶応2年(1866)6月28日集義隊・義昌隊・山崎隊と合併し斉武軍と唱えた。としているが函館戦争(北海道戦役)で山崎隊の戦死者8人を数える。なお同戦役における山口県隊の戦死者は39人である。 |
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八幡隊報告(4月24日付) 八幡隊(総管:堀真五郎,後 鋭武隊・Yahata-tai)は山口藩庁防備の目的のため秋穂二島(山口市)の泉蔵坊(現栄泰寺)を本陣に萬徳院(合併で栄泰寺・秋穂町大里)、遍照寺、 真善坊(祢宜・共に廃寺)の四寺に分宿していた。 立石決起の報が伝わるや、これに続かんとして4月22日夜陰に紛れて武器弾薬を携えて脱営。報告書では若年の輩数十人を誘い黒潟(現秋穂港)で潮待ちをしているところを発見。連れ戻され首魁とみなされた6人の内5人が処刑された。 斬首陣門内に梟首とある。 死刑執行場所は前述のいずれかであるが不明。梟首は泉蔵坊の南参道椎の樹の北側であった。 脱走隊士は遍照寺、真善坊に分宿していた四七人と伝えられている。 1.水戸新兵衛 萩、松本村 鈴尾五郎家来(干城隊総督後の福原五郎) 2.貫田源之進 田布施、庄屋吉次三郎右衛門存内百姓 3.野村兼千代 美祢綾木村 庄屋中村孫七存内百姓 4.伊藤元(求)馬 阿武生雲村 鈴尾五郎家来 5.中村吉五郎 萩、小畑村畳屋 元石州町人 6.脇沼道助 不明。腹痛病臥中で処刑を免れたと伝えられている。 (秋穂二島史 発行二島公民館 S44/11) |
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八幡隊(Yahata-tai) 諸隊の中では規模の大きな隊である。藩庁山口の守衛を担当した。慶応元年(1865)2月6日付け隊員293人。3月諸隊人数定めにより定員150人。 秋穂二島史ではこの大部分が脱走を企てたそうだから、立石孫一郎の企てが成功すれば 当時とすればかなりの戦力になったことと思える。 奇兵隊日記 4月22日条 八幡隊30余名脱走と記述している。 立石孫一郎らによる下津井会議で鈴尾五郎以下数百の同志を得たりと発言されたとしているが、この同志は八幡隊のことと思える。 |
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奇兵隊報告 有田常蔵、波多野十吉は脱走して上関宰判(萩藩の行政単位、寄港地上関がある)秋森(熊毛郡平生町)で逮捕された。 脱走は4月17日と伝えられている。 また、山本龍之進は船木で逮捕された。一緒に脱隊した沓野猪三郎は逃亡し行方不明となっている。 奇兵隊日記によると処刑は宗蓮寺(廃寺・現堂の尾墓地)で執行された。 |
| 堂の尾墓地は吉田東行庵手前、東行庵に向かって道路右の小高い丘にある。 有田常蔵 介錯 鳥尾小弥太 (奇兵隊・第二奇兵隊・建武隊、陸軍中将、枢密顧問官) 波多野十吉 介錯 内田文吉 (奇兵隊、慶応2年9月8日豊前赤坂にて負傷し死亡) 山本龍之進 介錯 野村正次 (奇兵隊、野村正次は明治3年脱隊事件に参加。同年11月17日陶にて斬首さる) 彼ら三人の墓標は現在下関市吉田東行庵墓地に移設されている。 左2基、右1基。処刑隊士 ![]() |
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