管理者(筆者)紹介

 このHPは、明治維新をなし遂げた長州藩政権側から歴史を捉えていない。民衆の視点 から事象を取り上げたつもりである。長州の栄光の歴史でなく、恥部に触れた悲しき民衆の歴史である。 私自身歴史を体系的に学んだこともないし、ましてや歴史の検証者でもない。だが長州の恥を晒すな的抗議 は甘んじて受けるつもりである。この悲劇は、覆い隠された悲劇であり、この事件に登場し非業に倒れた隊士はもちろん、諸隊に加わった 多くの隊士たちの志(こころざし)の高さが、明治維新をなし遂げた事実を知って欲しいためにあえて公開に踏み切った。
 いうまでもなく、彼らの志は維新回天(身分制の打破)であった。そして、この事件の2カ月後の6月、幕長戦争の戦端は切って落とされ、歴史は大きな転換点を迎えたが、彼ら青年たちは生きて御一新を迎えることはなかった。

 第二奇兵隊取材班としているけど本当は取材のとき 絶対連れて行く愛犬とで班を構成しています。
 頼りにはならないけど話相手にはなります。山歩きにもいつも連れて行 っています。ふろが大嫌いで不潔そのものです。風呂と聞いただけでコソコソと逃げ出します。  またスーパーのポリ袋のカサカサとした音が大好きな変んなやつです。

 この子です。'89年7月に誕生。1カ月後にわが家に来ました。愛犬の名前は「Ponta♂」です。 九州の山歩きはいっも一緒でした。久住や祖母、霧島など思い出は尽きません。'02年8月6日束の間の一生 を終えました。 奇しくもこの日は米国によって広島に人類最初の原子爆弾が落とされ日です。 '01年9月米国で発生した同時多発テロ以降声高に無差別に人を殺すテロに断固戦うとブッシュ政権は言っています。 広島で長崎で何万人もの老若男女を無差別に殺したことなど忘れたような言動です。この国がテロを叫ぶ資格 は全くないでしょう。有色人種など虫けらと同じなのでしょう。あの日母に抱かれたまま幼児は短い一生を終わりました。 小学生は生きながらがれきの中で炎に命を落としました。それが何万人もの規模においてです。 それは無差別のテロです。断じて許せません!!。 いま、私は涙をこらえてこの文をタイプしています。アメリカは正義でしたか?。許せません!!。

 これだけはぜひ知っておいて下さい!! 幼児が見た太平洋戦争の実態です。
 日本人の一番嫌らしいところです。私は昭和16年(1941)3月20日生まれです。その年の12月8日日本は太平洋戦争を引き起こし ました。日本が戦争を起こすことの是非や経緯について述べるつもりはありません。幼児である私の戦争の記憶をありのままに記します。

昭和19年(1941)月日不明。
 目を覚ましたら外は闇でした。私は母の背中にあり、母の右肩越しに鉄路が2本光って見えました。月の光でそう見えたのか薄明かり だったのかハッキリしません。さらにその先に海とおぼしきものが光って見えました。記憶はそれ以上有りません。
翌日だと思います。
 それは朝の風景でした。大きな広場の中央に学校の校庭で見られるような高台があり高台の指揮者に合わせて 白い服装の多くの人たちが体操をしていました。少し大きくなってその記憶を頼りに母に尋ねたところ、海軍軍属で長崎県佐世保にいた兄(1926年生まれ) に面会に行ったときの記憶です。
 その彼はいま靖国にいることになっています。

昭和20年(1945)月日不明。
 その日は澄み切った青空の日でした。隣村との村境の往還松並木まで行ったとき、白い布に包まれた箱様なものを首からぶら下げた人を先頭にかなりの 人がその後ろに並んでいました。兄が無言の帰国をした日でした。貧しさのままで太平洋の一孤島で19才の命を落としました。
 以降母は、「♪ 昨日生まれた豚の子が蜂に刺されて名誉の戦死・・・・」と哀調ある節で歌っていました。母にとって豚児(吾が子)を殺した戦争を蜂に例えていたのです。 国家に抵抗出来ない庶民の悲しみを歌に託したのでした。いまでもこの時のことを思い出すと涙があふれます。

昭和20年(1945)月日不明。
 母と隣村の漁村に魚を買いに行っての戻りです。いきなり山のかげから艦載機が1機低空で銃撃を加えながら飛行してきました。射線は私たち母子 に向かっていたいわでは有りませんがあまりにも至近距離でした。一目さんに山に向かって走りました。それからの記憶は有りません。

昭和20年(1945)月日不明。
 蚊帳を吊って寝る頃でしたから夏だと思います。空襲警報のサイレンが低く高くうなっていました。外は闇、空には数条の照空灯が敵(米国)の 戦略爆撃機(B29)を捉えていました。それは絵を見るようにきれいな風景でした。

昭和20年(1945)月日不明。
 暑い日だった記憶があります。父は芋畑にいました。敵機が今思えば北東の空から高々度で紙のビラを多数撒いていました。高い空からヒラヒラ と落ちて来ました。子供心に焼きつくほどきれいな風景でした。その1枚を拾って父に渡しました。ひどく叱られた記憶があります。

昭和20年(1945)月日不明。
 暑い日でした。お昼頃母が私に父を迎えに行くように命じました。父は上半身裸で防空壕を掘っていました。 その日は玉音放送の日(敗戦の日。1945.08.15)でした。ラジオ放送を聞くために母は父を迎えに行かせたのでした。 ラジオはしょっちゅう豊後水道敵機何機○○方面に侵攻中という放送を流していました。

米軍の機銃掃射や戦略爆撃機(B29)の跳躍について
 長ずるにおよんでこのことに疑問を感じていました。艦載機の航続距離は知れたもので片道4〜500Km程でしょう。 敵の空域に入れば、戦闘もあり得ますので航続距離一杯のところで地上を機銃掃射する訳もありません。 まあせいぜい片道350Km圏だと思います。そうすると米軍の航空母艦は高知県沖(土佐沖)ということになります。山口県防府市を起点 としてコンパスで円を描いて見て下さい。
 当時私は山口県防府市に住んでいましたので米軍機は、四国と九州の間の豊後水道を北上してきます。 当時この空域には、松山と大分に海軍航空基地がありました。国民が生死の狭間に置かれ、国が滅びんとしているにも係わらず なぜ迎撃しなかったのでしょうか?。終戦間際(1945/04)の松山基地にはあの真珠湾攻撃を企画をしたGが司令(1945/04まで343空)でした。彼の 戦後記を読んで愕然としました。彼らは米軍機が接近したら侵攻機を攻撃することなく国民をほったらかして 一目さんに逃げていたのです。彼の言い分は「本土決戦に備えて残存機を温存する」というものでした。 これは詭弁にしか過ぎません。軍人としていや人間として、なんと卑怯で卑劣な行為や言動でしょう。 国民と国家が滅びるかどうかという瀬戸際に「残存機の温存」 などしてどうするつもりだったのでしょうか。彼はやがて参議院議員になってしまいました。この日本人 の無責任な体質は戦前も戦後もまったく変わらないという現実を最近も見せつけられています。

 戦後日本は、経済大国と言われるほど発展しました。だが日本の現状を見ると 当時と変らないような状況も見受けられます。 構造改革があたかも国民生活を豊かにするような見せかけの貧困政治。  賦課(現在の給付を現在の勤労者が負担)方式の厚生年金(給付の5年分を貯め込んでいる)を 経営を無視した保養施設につぎ込み3600億円もの損失を与えた官僚や、 外務省や農水省、国土交通省にみられる保身官僚。国会議員の政策秘書の給与をごまかす金権政治家。 食品産業におけるメチャクチャナ営利主義。 リストラを金科玉条とする無定見な経営者。いじめや、家庭崩壊などなど。

 これらは、第二次大戦下の軍の驕り・人命軽視、目的のためには手段(部下に必死の特攻死を命じた) を選ばずといったところは本質的に似ているように思います。
 戦後のシステムは全て崩壊し、国民や国家を豊かにという視点がまるで欠落しています。 あなたはそれでも税金(政策秘書の給与は私の税金)を払いますか!!。
 諸隊に参加した長州の百姓の若者の犠牲があって近代日本は誕生しました。 やがてその流れは軍国主義に行き着きましたが、純粋に建国に立ち上がった若者と現在の官僚と政府与党の にどちらに理想を見つけられますか?。

 作家大岡昇平は名著「俘虜記」の中で8月12日にはすでに「天皇存続」の報に接していた。 彼は怒りを込めて「俘虜記」のなかで書いている。「天皇制の基礎的経済とか、 人間天皇の笑顔とかいう高遠な問題は私にはわからないが、 俘虜の生物学的感情から推せば、8月10日から14日まで5日間に、 無意味に死んだ人達の霊にかけても天皇の存続は有害である。」
 妻の父もこの5日間の一人でした。8月9日日本はポッダム宣言を受諾していました。発表はズルズル延ばして 15日になったのです。

 ’02年9月18日。日本の元首が初めて朝鮮人民民主主義共和国を訪れました。かねてよりこの国は人攫い(拉致)を 平気で行うシステムを持っているような雰囲気でした。 悲しいことに我国(日本)は、国民の期待(拉致の真相究明)に副う政治や交渉を行って来ませんでした。 その中で、拉致疑惑12名のうち8名死亡という現実が突きつけられました。 政治の不毛と政治家の怠慢という現実を見せつけられたなかで税金を納める気にもなりません。 天皇があって国家があるのではなく、主権在民のいま「国民があって国家をなす」とう原点を忘れてはなりません。 国家(在民の利益を代行するシステム)とは国民の方便なのです。国民の生命を軽視する、 また目をそらして来た人たちに政治家面して欲しくありません。

 ’04年2月イラク復興支援という名目で自衛隊が武器を携え戦場に出向きました。 この国のK首相はA級戦犯と定義された面々が合祀されている靖国神社に抵抗感なしとし毎年参拝 されています。
 A級戦犯とされた者たちの当時の行動や判断が恣意でも私欲でもなく、国家の発展を意図した ものだと理解できるとしても、彼(A級戦犯)らの政治判断は誤りであったと断言出来るはずです。
 戦後日本は手のひらを 返したように民主主義の国家になりました。米国の戦後統治の結果だとしてもそれまでの国策が誤りで ありそれを感じたからこそ変貌をとげ民主主義を受け入れた。と思います。
 彼らの判断の誤りが肉親を失い戦禍に遭い、他のアジアの諸国が軍国主義の軍靴に踏み荒らされ 辛酸をなめました。その責任を誰もとらないとしたらこれほど無責任な話はないでしょう。
 私はこの無責任体質が続くかぎり、日本の元首が靖国神社への参拝もA級戦犯の合祀もイラクへの 自衛隊員派遣にも反対するのです。

 私の兄は靖国神社に合祀されています。だからこそ A級戦犯合祀や元首参拝に反対するのです。貧しいままで死んだ私の兄と軍国主義者を一緒に してくれるなと叫びたいのです。


戦時中のことはこの方のHPでぜひ



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