軍事力及び領国経営から戊辰戦争を読み解く
1.はじめに
奥羽越列藩同盟は、京都守護職で会津藩主の松平容保(かたもり)の処分問題と、 江戸薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩の追討令に端を発し、東北・北陸の 31藩が同盟を結んだものである。
幕府・東北・北越諸藩の鉄砲戦力
藩 名 石高 施条砲大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数
徳川幕府 500.0 394 1,500 11,252 60,600 75,000
会津 28.0 23 86 332 3,394 4,200
庄内 17.0 14 51 201 2,061 2,550
長岡 7.8 6 23 92 945 1,170
白河 10.0 5 20 79 808 1,000
横計差異は計上しなかった銃器があることによる。
東北戦争主導的 西軍抵抗勢力の軍備
藩 名 石高 施条砲大砲総数 後装銃数 前装銃数 小銃総数
仙台 62.6 0 84 533 5,727 6,260
米沢 15.0 0 18 60 900 960
 出典:軍事史学 通巻49号第13巻第1号(1977年6月) 南坊平造論文
 東京都立図書館蔵 注)銃横計差異は未計上の銃があることによる。
 慶応4年(1688)閏4月20日、福島において奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵を殺害、仙台・米沢藩主導で東北・北越諸藩を 巻き込み、戦火は東北・北越全土狂騒争乱状態となった。 仙台・米沢以外での積極的参戦は長岡藩である。局外中立(勝手な言い訳)が容れられないと知ると猛然とかみついた。
 東北戦争、現在会津は戦死者の野ざらしなどを非人道的扱いと誹謗する。 平時新選組や会津藩兵による有無を云わせぬ京都市内における 反幕派斬戮(長州藩関係者だけでも8名)は人道的なのか?
 慶応4年(1688)閏4月20日、福島において奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵を殺害、仙台・米沢藩主導で東北・北越諸藩を 巻き込み、戦火は東北・北越全土狂騒争乱状態となった。 仙台・米沢以外での積極的参戦は長岡藩である。局外中立(勝手な言い訳)が容れられないと知ると猛然とかみついた。
 東北戦争、現在会津は戦死者の野ざらしなどを非人道的扱いと誹謗する。 平時新選組や会津藩兵による有無を云わせぬ京都市内における 反幕派斬戮(長州藩関係者だけでも8名)は人道的なのか?
戦死体の放置は道義的に許されないが、 糾問もなく有無を云わせぬ殺害こそ非人道的である。  長州人だけという理由で殺害された。 池田屋事件と会津藩士による有無を云わせぬ殺害に京都市民の反感はたかまり、それはまた長州への同情となった。容保が幕府の意向を無視して孝明天皇と接近 し過ぎる懸念と、在京のための莫大な財政負担から国元や江戸藩邸は京都退去を進言したが、 容保は無視。歴史に逆行する姿勢を一段と強めた。
 保科(ほしな)以来の家訓(徳川恩顧)を遵守標榜し池田屋事件(1864/06)以来函館戦争終焉(1869/05)までの53カ月無益な血が流され続けた。 この間の主役は会津容保であった。 会津藩は不当(戦死者放置)な扱いなど受けたくなかったのなら、負けるような戦争などしなければよかったのである。 国家的視点から会津によってたつ義はない。 救会(会津を救う)を掲げた仙台米沢はとんだ心得違いをしてしまった。 そして仙台兵の敢闘意識は低く「ドンゴリ(ドンと大砲の音がすると5里逃げた)」とさげすまれた。
 ちなみに、東北戦争は避けられない戦争でも自衛戦争でもなかった。  会津には慶応3年(1868)1月、鳥羽伏見戦以降身の処し方は何回もあった。そして会津敗戦後の斗南藩移転は彼らが 望んだからで、新政府は猪苗代か斗南のどちらかの選択肢を与えていた。
 (青森県立図書館蔵:斗南藩史参照 そこには驚く事実が記されている。最寄りの図書館で取り寄せ可能)
 
石高とは
 1石(150Kg)は成人兵士が一年間に食べる米の引き当て量であった。1坪とは、同じく一日一人が食べる米の作付け面積である。  一反(360坪)とは一人が一年間に食べる米の作付け面積である。作量は平安時代以降反収 150Kg おおよそ2俵半であった。 太閤検地で、単位系が変更されそれまでの1石を360坪から300坪(現在の1反、991.7u)に変えた。 (増税の為)
 よって各藩の藩力を表す石高制をとった。仙台伊達62万6千石とは、62万6千人兵士を賄えること示す。
 すなわち、壱人(1人)扶持とは米1石(2俵半、1俵=60Kg)のことである。

 宮沢賢治のご存じ雨ニモマケズで「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」 とあり、米四合を600g(一升1.5Kgとして)と考えたなら年間219Kgとなる。賢治はよく食べたのか?
一反について江戸時代は地方自治制度(幕藩体制)であったので現在のような統一基準はない。 藩によって違うこともありうる。

2.文献等
この頁は、おもに次の文献による。(順不同)
標準日本史地図帳  児玉幸多/編 吉川弘文館 1989/04
明治維新全国諸藩の鉄砲戦力 南坊平造/論文 軍事史学会 通巻49号第13巻第1号 1977/06
百姓一揆の年次的研究 青木紅二/著 新生社 1966
福島市史 第三巻 1973/03 福島市史編纂委員会/編
修訂 防長回天史  末松謙澄/著  (文中回天史とする)

3.東北戦争 東北諸藩の武装と領国経営
戊辰戦争初期に攻撃を受けた諸藩(上段)の装備
藩 名石高 施条砲 大砲総数後装銃数 前装銃数小銃総数一揆件数
泉(いわき市) 2.0 0 2 86 40 126  
湯長谷(いわき市) 1.5 0 0 0 60 60 2
磐城平(いわき市) 3.0 0 2 0 50 50  
棚倉(棚倉町) 8.0 3 10 0 65 65  
守山(郡山市) 2.0 3 6 80 70 150  
三春(三春町) 5.0 0 3 86 400 486  
中村(相馬市) 6.0 1 4 0 360 360  
二本松(二本松町) 10.1 2 12 0 60 60 6
福島(福島市) 3.0 ----報告無し---- 5
合 計939 252 1,105 1,357
藩 名 石高 施条砲大砲総数後装銃数 前装銃数小銃総数一揆件数
仙台 62.6 0 84 533 5,727 6,260 0
米沢 15.0 0 18 60 900 960 0
山口 36.9 109220 6,429 17,607 24,033 3
 一揆件数は 嘉永4年(1851)〜慶応元年(1867)
 軍事史学会誌 全国諸藩の鉄砲戦力(南坊平造論文より)  米沢後装銃は全てピストル
幕末16年間の記録に残る東北諸藩の百姓一揆発生件数である。石数から二本松や福島藩 藩は領国経営に失敗している。
 二本松攻撃の直前の7月25日、福島藩主板倉勝尚は妻子、奥女中を引き連れ米沢へ逃亡。 29日二本松の敗報が伝わるや家臣一同(家族も全部)午後5時ごろ福島城下から逃げ去った。
注)米沢藩の後装銃60挺は拳銃である。拳銃は全国で290挺記録されているが、その40%弱が 東山道北部である。 東北の人はピストル好きなのか?
維新期、全国諸般の軍事力を精査した唯一の資料。東京都立図書館が蔵し、コピーが頂けるので幕末軍事力を分析 される方、目からウロコの資料になること請け合い。ぜびコピーをもらってみて下さい。 (有料)
 南坊平造氏論文を補完する原資料は未公開であるがこの論文は所持銃器の目安とはなるであろう。同論文は表によって 保有銃数(記載)が違うので要注意。 長州藩所持小銃数 はこちら
〒 106-8575 東京都港区南麻布5−7−13 東京都中央図書館複写室 板橋福祉工場 TEL 03-3442-8451

−閑話休題 福島市内での出来事 (一部福島市史より)
 白河口の戦闘で敗れた仙台藩細谷十太夫手勢の残党が、烏組と称して各地に乱暴をはたらき、 福島城下にも入り込んで、馬喰町(いま豊田町)入口に放火したが、地元消防隊によって消し止められた。 また、北南町では激しい討ちあいとなり烏組数人を殺傷した。とある。
   細谷十太夫は、仙台藩の下級藩士で、「衝撃隊」を率いた。隊士は黒装束に身を包んだことで烏組 と呼ばれた。すなわちアウトローの博徒などを集めて、細谷が独自に組織し西軍を夜な夜な攻撃した。
『会津士魂』を書いた作家の早乙女貢氏は小説『からす組』で勇猛果敢の烈士だった書く。 福島市史と随分違う。

 11代長府藩主毛利元義(1785〜1842)の娘は勝尚二男に嫁いだ。彼や彼女たちはみな江戸産まれ の在府者で婚姻関係を結び大名同士は親戚ばかりであった。
 幕末参勤交代制が崩れ、藩主は国元(長州藩なら山口県)となるが、奥方や娘から大ブーイングが起きてしまった。親戚、いとこ、はとこ と会えなくなってしまうからである。毛利元義の娘は福島市へ一方親たちは山口県へ。なんでこうなるのと彼女たちは云ったとか。 廃藩置県となって彼女らは一斉にリターン江戸(東京)へ。 わたしゃ華の江戸育ち、ド田舎にゃ暮らせないのさといわんばっかり。
4.戊辰戦争 東北の戦い
 
東北戦争進攻 1868年4月〜
閏4月20日 世良修蔵斬殺
閏4月25日 東北25藩列藩同盟
7月15日 輪王寺宮 列藩同盟盟主就任
■ Aルート 白河城 伊地知隊 (R4) 進攻
5月1日 700の伊地知隊攻撃で落城
守兵
二本松藩 10.6 万石 (60) 括弧内 銃数
三春藩 5.0  (486)
会津藩 28.0  (4200)
仙台藩 62.6  (6260)   全兵力  2500
同盟軍7次にわたり反攻 攻勢失敗

■ Bルート 6月16日〜19日 平潟港
木梨精一郎指揮隊上陸  兵員 1500
(薩摩、佐土原、柳川、大村、熊本各藩兵)
6月24日 板垣隊棚倉攻撃 (R289) 棚倉藩陥落 8.0 (65)
■ C 水戸ルートからも増援 (R118北上軍) 以下..
6月25日 守山藩戦意なく降伏 2.0  (150)

  ■ Bルート  木梨隊行動開始 以下..
6月28日 泉城陥落。泉藩 2.0  (123) 同日相馬藩同盟脱退。
6月29日 湯長谷城陥落。 1.5  (60)
7月13日 平城陥落。 3.0 (50)
 
 平陥落後 一隊は3のルートで  相馬中村藩(R6) 6.0  (360) へ   相馬中村藩降伏 8月6日   残る一隊は 2のルート(磐越街道) で  三春藩 5.0 (480) へ 7月27日 降伏   守山攻略軍(1のルート)、常州方面軍(2のルート)と三春で合流。 二本松藩に攻撃に集中  二本松兵は棚倉(6/24)、守山(6/25)と敗戦に敗戦を重ね二本松に帰還。 冒頭の武装(先込め銃60挺)で西軍に立ち向かった。
そして7月28日戦端は開かれた。
二本松藩主丹羽長国は家臣の要望を受けたというかたちで 米沢に逃亡。 二本松城には砲を牽いた二本松少年隊(指揮官は大砲の勉強をしていたとか)のレリーフが あるといわれている(筆者未見)が彼らが貴重な砲(12門)を操作未経験者の少年で照準射撃操作ができたとも思えない。
 参軍した東北諸藩の記録に二本松兵の多くは、槍や弓を携えていたとある。 翌、29日二本松落城。 この日北越でも列藩共同管理地であった新潟港、薩長・芸・高鍋藩兵により陥落。  両戦線は終息点会津に着々と駒を進める展開となった。 この戊辰戦役で二本松は337人(出典:二本松史談会記録)を失った。

 前述したように6月16日木梨精一郎指揮の常州方面軍の 上陸に際し、勿来(なこそ)関付近の隘口を守備していた、仙台藩大江久左衛門指揮の兵五十。1発の弾丸を発射することなく 逃れさったとある。大江さん戦闘報告書にこのことをどう報告したのだろう。 大藩意識藩主とその補弼者は威張っていたけど、現場はどうにもならないほど堕落していた。
 あまりの大軍に驚いたと思えるが、1発くらい撃ってもおかしくない。なにしろ戦争しているのだから。上陸軍には兵站確保もあり、当時の西軍は戦場将校斥候も 出さず闇雲に攻撃するとは考えられない。地の利は確実に仙兵側にあった。一撃離脱。ヒットエンドランも選択肢である。仙台藩兵は歴史に汚点を残した。
第二次幕長戦争時、石州口津和野・浜田藩境守衛を命じられた 浜田藩物頭勤方取次岸静江(31)は僅かな手兵で攻め来る長州軍に立ち向かい一斉射撃で 憤死(1866/06/16)した。 それに比し大江久左衛門さんはふがいない。 大村も岸の死に感銘を受けたと伝えられている。
大村の指示のもと「いわき平」には関寛斎以下15名の医師団による野戦病院を設置。 傷病兵の治療にあたらせた。 また横浜には軍人病院を開設させている。
常州 平潟付近防衛線  先述したように福島藩同様現在のわれわれが考えても 当時の武士の常識を疑いたくなる。会社倒産の瀬戸際に社長が社員をほったらかして逃げてしまうのである。まあ今でも社長の夜逃げは多いので一緒かぁー。  二本松兵がいかに勇猛果敢であろうと、こんなお粗末な武装(60挺)で戦わされたのではたまらない。翌29日多大な犠牲を だし二本松藩軍(337人戦死)壊滅。
 東北戦争を企図(演出)した仙台藩は6月16日、西軍磐城平潟(いわきひらかた)上陸の報に接し、 仙台軍は白河方面から 退路を遮断される前にこれまた脱出を試みた。その後仙台兵は「ドンゴリ」(どんと大砲の音がすると五里[20Km]も逃げる)と他藩士に馬鹿にされた。
 大村益次郎の作戦は奥羽街道進攻軍(国道4号)、水戸現国道188号ルート北上軍と共同し棚倉で 合流させ一気に潰す一方、常州方面軍(平潟上陸軍)を現いわき市にある弱小藩を蹴散らし三春に向かわせる戦術であった。  一方、別動隊(平潟海道軍)を陸中海岸沿いに相馬藩攻略に向かわせた。 
相馬藩降伏(1868/08/07)と戦死傷者
家中 17人。 給人郷士 69人。 足軽 16人。 農兵 12人。 夫卒 11人。
負傷 129人。   相馬兵の多くは棚倉城攻防戦で戦死。    (出典:相馬藩政史)
 また、棚倉を落とした部隊は続いて守山攻撃を指向。守山藩士は戦意なく降伏。  攻略隊はここで部隊を二つに分け一隊を会津へ一隊を三春攻撃を指向させた。  上図から会津の悲劇的な様相がお分かり頂けると思う。
 会津は女子が娘子軍を結成して戦うなど勇戦したような記述もあるが、まぁそんなノンビリした戦いになるはずもなかった。 相手は元込銃だぞ、女子供はでるな!。と 誰も一喝しなかったのだろうか。 ウソか本当か娘子軍? 薙刀(なぎなた)で斬り結んだとある。銃砲の戦いの現場でこんなの無駄死の最たるもの。
   有史以来国家間の外交は武力(軍事力)という戦略的資源を背景に展開される。 列藩同盟の盟主となった仙台藩(伊達慶邦 42)は外交の基本が欠落していた。すなわち、 有効な軍事力を有していなかった。同盟側の零細小藩でもいくばくかの施条砲を所持していたが、仙台藩に至っては その施条砲も保有していない。たった2万石の守山藩でさえ施条砲3門持っていたぞなもし。
 仙藩執政但木(ただき)土佐、坂(阪)英力は自藩軍事力の実態さえ把握していなかったのか??  実際陶製の大砲弾(仙台庄司家) が保存されている。 かっての砲弾はソリッド(鉄、または鋳鉄) であったがやがて爆裂弾(着発信管ではない)が開発される。陶製砲弾発射時の弾殻破壊をまぬがれえたとて、いくばくの射程と殺傷破壊力を有するや?? 
曳火信管の問題点   着発信管ではないので何らかの不具合で砲口近くで破裂するケースが考えられる。 また、着弾と同時に 破裂するように爆発時間調節孔を削孔する必要があった。 薩英戦争(文久3年[1863]7月2日)では薩摩爆裂弾の射程圏内に入った旗艦「ユーリアラス」号 は、甲板に直撃弾を受け、艦長ジョスリング大佐と副長ウィルモット中佐、を含め11名戦死。ほか多数負傷した。 一方薩摩の戦死者は5名である。  着発信管と比し時限信管は欠点があるももの射程圏内に入ればやはり脅威であった。
 
 実戦の用にたたない陶器製の大砲弾をなぜ仙台藩は作ったのか。また作らせたのか?。  これが実際使える??と考えなければ作るはずもない。 米英仏の先進諸国と戦ったこともない 仙台藩は大砲弾の威力と効果を知らなかった。 殿、大砲はありますが肝心の弾がありません。 なに、弾がないと?。 はい、ここ260年戦(いくさ)もありませんし弾を作る技術が当藩で失われてしまいました。 ななんと・・・ 別の手段はとれないのか?。  はっ、粘土で同じようなものが出来るかもしれません。 よし、それで作れ。
 結果から推論するとこのような経緯であったはずだ。それでないと陶器の弾など考えられない。 当時の武士社会権限のないことを勝手に実行すると腹切りものである。 藩主がこんな下々のことを決定実行させるはずもなく、まあ但木土佐あたりの頭での裁可であろう。   元亀天正の頃より、隊列堂々出陣すると負けたことのなかった仙台。今回も同じと軽いノリで薩長 と戦うことを決めたのであろうか。
戦史上負けたことのない軍隊ほど弱い軍隊はない。 なにしろ負けの戦訓を糧とすることがないのだから ・・・・・ 
 旧帝国陸海軍しかり、新国家建設以来負けたことのない軍隊だから 戦訓から学ぶことをしなかった。 南太平洋ガダルカナル島。負けても負けても白兵突撃を繰り返し自滅した。戦史を読んでいて同胞ながら腹が立つ。 士官、将校などの硬直した石頭なぜ出来たのだろうと???。 萌芽はノモンハンにあった。戦車には 肉薄火炎瓶攻撃が有効と戦車砲の改善は行わずせっせと火炎瓶攻撃。始めはそれでも功を奏した場面 もあったが、エンジンや排気筒の上に金網を張られただけで火炎瓶が破裂しなくなった。
 かの、太平洋戦争。庶民の金物は全部供出されたが、陶器の大砲弾は供出もされず残ってしまった。(山田野里夫著:「東北戦争」に陶器大砲弾の写真あり)  勇躍仙台兵は陶器の大砲弾をもって戦場に臨んだ。そしてドンゴリ。 わたしでもドンゴリする。   下表は仙台の大砲の内訳である。 藩軍事担当者一体どの大砲弾を陶製にしたのか??
藩名石高カノン砲施条砲臼砲榴弾砲その他・雷銃 合計
10斤超10斤未満
仙台62.6080 40 142284
長州36.940108 5746117
1斤=600g
仙台藩 士族戸数4,262戸、男13,776人、卒族戸数3,050戸、男6,607人、鉄砲 6,260挺 10名のうち3名しか鉄砲がゆきわたらない。銃撃戦になったら7名は戦闘にあぶれて傍観する以外に方法はない。  米沢藩 士族戸数3,425戸、男7,565人 卒族戸数3,308戸、男11,980人、銃器(拳銃60挺も含め) 960挺  たったこれだけの銃器で米沢藩どのようにして戦闘集団を形成したのであろうか? 明治初期動員軍事力はこのHPで   伊達62万6千石、薩長なにするものぞ、大藩意識の冗官にしか過ぎない。
その結果仙台藩の戊辰殉難者1,266人に達した。一将功ならず千骨が枯れた。 戦争指導理念なき為政者のためにあまりにも大きな犠牲を払った。 仙台は 徳川や会津に殉ずる義理はない。更に戦える武器もない。そして継戦する資金もなく戦いを取り仕切ってしまった。 日々3,000両の軍資金が必要だったという。そのために戊辰(1868)春より敗戦までに 百姓より金石(殻)取ること四度、人馬使役されて農を廃す。状態に立ち至った。 降伏の余震は佐幕派と勤皇派の抗争に発展。 相互に処罪しあった。 明治以降栄光の青葉城は再び立たず県勢としての宮城に人材は枯渇した。
 人をその気にする。この場合命のやり取りの戦闘。私の事務屋としてのつたない経験。
 まず、最新の武器を持たす。事務屋であれば最新の事務機器。徹底的に部下の面倒をみる。 失敗を責めない。母性的雰囲気の集団。わが子(部下)はみんなよい子。目的をキチント示す。そして納得さす。無理強いはダメ。 すなわち、ハードの充実、ソフトのでの補完。それを括ったマネージメント。
 おい、何している大砲を持ってけー!。弾はこれだァー。 陶器の弾。 これでは話にならない。 仙台は戦いに負けるべくして負けた。

1)東北諸藩は領国経営に失敗していた。
 幕末16年間(1851〜1867)に限っても全国諸藩より圧倒的に百姓一揆が発生している。守山2件、二本松6件、福島5件である。 広く民衆を巻き込む挙藩体制の確立はならなかった。 どの藩も大同小異だけど。
  一揆多発藩の財政状況を示す資料の手持ちはないが、不満のないところに一揆は発生せず、財政難解消策としての 増税を行ったことが、まず一揆多発の要因であるはずだ。

2)武装の近代化も西南諸藩に比し劣悪。
 列藩同盟の盟主を買ってでた仙台藩の情報収集能力を疑わざるを得ない。 西軍上陸地点平潟港近郊の泉、湯長谷、磐城平各藩の武装(三藩合計236挺)は悲劇的ですらある。仙台藩による白石会議(閏4月4日)にはかねてより の誼で出席したと考えられるが奥羽列藩同盟(閏4月22日)に参加できる戦力さえ保持していないのに 加盟してしまった。 以下、当初参集した十三藩の大多数は微々たる小藩であり、回天史で 「小藩ノ老臣ハ全ク仙米二藩ニ威圧セラレテ唯命是レ従ウ状況ナリ中村藩ノ如キ頗ル仙米ノ誠意ニ 疑ウ所アリシモ遂ニ奈荷トモシ得サリシ」情況だったと録す。史書が伝えるその会議の場は有無を云わせぬ仙米両藩の恫喝会議だったようだ。  薩長なんぞ討会ならんや、我、義により、一死をもって救会をなさん。 執政但木土佐こんな心境で東北諸藩を道連れにしたのか。 世良殺害の罪科により坂英力と共に斬罪。
 可哀想なことに常州の小藩は仙米によって会津と無理心中されられたことになる。 薩長と戦いません。なぞ言い出せる雰囲気でもなかろうし、 第二次征長戦直前交渉の長州のように担当者を派遣してのらりくらりしていたら嵐が通り過ぎたかもしれない。
戦争に勝利するために当時も今でも
@兵員の数
A兵員の質 指揮系統、指揮能力。兵士の練度と目的意識、士気の継続。
B動員体制 実情に合った戦術と重要攻勢点への大量動員。
C兵器の数
D兵器の質
E予算
F経済力
G工業力
H資源と食料の自給率
I友好国の数と防衛同盟

仙台藩首脳はこれらの要因を冷静に分析し政治的判断を行わなければならない。人命を損ない 国をいたずらに疲弊する無益な戦いは回避すべきであり、当時の仙台、米沢藩に 新政府軍(薩長)と干戈を交える喫緊の問題は存在しなかった。
 泉藩(126挺)、湯長谷藩(60挺)、磐城平藩(50挺)、 棚倉藩(65挺)、守山藩(150挺)、 三春藩(486挺)の小銃総数は997挺である。戦役でいくらか消耗したとしても 1,500挺をこえることはないであろう。
 武器(ハード)をいくら揃えてもそれを運用するソフトが問題である。すなわち、武器効率(運用)、技量(兵員の質)である。 
 仙台藩は東北では最強の軍事力を誇ったような書き方が目立つが、 東北では最強であっても石高比較での総合的軍事力は最低ランクである。 第二次長州戦争(1866/06/07〜)で大敗を喫した 徳川幕府はフランスより当時の最新銃器を購入保持したが総合軍事力で強くもなんともなかった、大鳥圭介率いる幕府軍 は各地の組織的戦闘で連戦連敗している。いくら最新武器を保持しようが運用(武器弾薬、糧食、医薬品)その他も含めた 総合力がないとまったく意味をなさない。戦争は瞬発的に勝利しても持続力が伴わないと勝利とはいえない。
 一般的に軍事力に関して先進的といわれた 西南諸藩さえ、侍の鉄砲所持は不可能に近いものであった。長州藩でも基本的にできなかった。大村益次郎は士官は侍・徒士層の優秀者を教育し 各身分別銃隊を編成した。 戦闘能力で身分の違いがない。 これだけでも東北・北越戦争は意義ある戦いだったかも知れない。
 三春はやがて西軍についたのでそれを除くと511挺にしかならない。 二本松藩(丹羽長國 33 : 60挺)など西軍の砲・歩連携散兵攻撃のまえに絶望的な戦闘となったと思える。 なお前時代の遺物である火縄銃は所持していたであろうが、平城攻撃の7月13日は 篠つく雨で火縄銃は使用できなかったとある。 前装銃全般、立位での弾丸装填となり雨だと不発がつきまとった。
 平城攻撃に際しても北側を退路として空けてあったので 藩主一行(安藤信正)は陸中海岸ぞいに逃れた。守兵の仙台藩、米沢、棚倉藩兵も同様にして平藩兵を置き去りにして脱出。孤立無援の絶望的戦いを経験することになった。
 1863年7月第一次関門海峡戦(長州:仏)で当時一般的に保有していた諸藩の武装と 仏艦が使用した施条銃砲の性能は隔絶していたことが漸次知られるところとなっていた。この戦いを契機に諸藩は新式銃砲の購入に乗り出した。
 1777年 (仏) 軍用燧石銃の決定版完成
 1848年 佐賀藩 火縄銃を廃し燧石ゲベール銃標準装備化
        戊辰戦争発生の20年前に火縄銃は廃棄していた
 1850年  〃  反射炉の製造着手
 1866年 (英) 前装銃を改良し後装銃としたものを正式銃とした

 以上の経過をだどっていたが、平藩主(隠居中:安藤信正 48)さんは幕府老中(坂下門外の変 1862.01.15)を務めた人物である。 西欧との技術格差を知り得ることが可能であったし、当時の立場と諸外国との折衝の中で知っていたと考えられる。 平たくいえば技術音痴だったということになる。(弱小藩で藩財政窮乏し購入する資金がなかったのか?)
 磐城平藩の安藤さん先述した「坂下門外の変」の主人公である。この時後ろ傷を受けたとして罷免された。 彼の時代公武合体をおしすすめ、幕府軍の近代化をすすめたとあるが、自藩の武装は惨憺たるありさまである。 小銃総数50挺。大砲たったの2門。 列藩同盟にも かっての栄光(老中)を背負ってか積極的に参加。装備からみた彼の同盟積極参加の勝算はなにに依拠した判断なのだろうか?。 藩士一同河原の石を投げて戦え!! と叫んだのか。
 逃げの安藤このときも逃げに逃げた。  安藤さん以外の下表老中も全員藩を捨て逃げに逃げまくった。
 私の意地悪で逃げた老中在任表を作ったのではありません。彼らは空威張りで、戦は逃げの一手が得意でした。唐津藩主世子小笠原さんも第二次幕長戦争で九州方面軍総司令官でしたが この時も、小倉藩兵(1866/06/07〜)を見殺し置き去りにして幕艦で逃げたのでした。
幕末主要老中在任表石高:万石
姓 名藩 名石高在任期間摘 要
安藤信正磐城 平3.01860.01.15〜62.04.11列藩同盟積極参加
板倉勝静備中松山5.01862.03.15〜64.06.18桑名藩より養子
東北戦争逃げまくり
1865.10.22〜68.01.29
小笠原長行肥前唐津6.01865.10.09〜66.10.06第二次長州戦争
九州方面軍司令官
1866.11.09〜68.02.10
やがて列藩同盟の公儀府ができると逃げの小笠原(佐賀県唐津市)さんや板倉勝静(岡山県)さん公儀府参謀となってしまった。上手な逃げ方教えたのかしら。
−−閑話休題 勇敢について−−
 1941年末から戦われた太平洋戦争。太平洋上の航空機での戦いとなったが、米軍は搭乗員の損失を恐れ (養成に多額の経費と時間が必要)万全の救助体制で臨んだ。戦闘海域に救助用潜水艦を配置。基地航空隊に救難 飛行艇を配備した。よって搭乗員は自分に銃弾が命中(対艦射撃では3000〜12000発に1発程度命中)し致命傷でない限り 救助された。戦闘海域での飛行艇による救助は日本側にも多々視認されている。よって対艦攻撃に際し至近攻撃を 平然と繰り返した。死なない限り助けてもらえる。兵士はその安心感で勇敢になれた。 一方日本の航空兵は搭乗機被弾帰還不能な 場合は自爆せよと教えられた。また、陸兵は死ぬ気で戦えと呼号。  武器弾薬を送れとの催促に本部では弱音を吐くと罵った。(牟田口廉也 インパール作戦)
 そして東北戦争。西軍は横浜に軍人病院を設立。前線には野戦病院を随番させ当時最先端をゆく医師関寛斎を病院長とした。   死ぬ気で戦うか。 致命傷でなければ助けてもらえる。 果たしてどちらの兵士が勇敢になれただろうか。

3)無能な世禄の武士を方面軍司令官とした。 例;会津:西郷頼母  仙台:坂 英力など
 西軍側はその参軍条件として、1.銃隊と砲隊のみとする。  2.冗官を指揮官としない。冗官とは世録の侍を指していた。因襲やしきたりにふんぞり返っていたキャリア(文官)の 参戦を拒否したのである。この指示に各藩はあわてた。

4)仙台藩が目指した東北政府もドタバタ劇である。また同盟各藩の信頼と尊敬もない。
 上野戦争(5/15)の敗戦で逃れた輪王寺宮(孝明天皇の弟 7月15日)を盟主に据えるなど噴飯ものである。
 すでに、5月1日白河城は伊地知隊の攻撃のまえに落城しているのである。参戦した仙台藩兵が朝廷軍の戦闘能力と 武装を報告しているはずであり、彼の情況判断能力を疑わざるを得ない。
また戦闘寸前に全藩米沢に避難した福島藩士などは常に抜刀した米沢指揮官と 対談(福島市史)したと伝えられ、城下は仙台藩兵に蹂躙され惨憺たる様であったと福島市史は伝えている。
 また、列藩同盟を仙台藩と共に支えた?米沢藩は、一部の藩が西軍と戦っているにもかかわらず9月4日早々と降伏してしまった。 この藩は同盟零細諸藩からの矢のような援軍要請にも動こうとせず握りつぶし信頼に応えることはなかった。俗謡にある 「会津イノシシ 仙台ムジナ 三春キツネ に欺された」は竜頭蛇尾に終わった米沢外交が真の「キツネ」ではなかろうか。  総括するに、各藩の戦力の冷静な分析があれば、また違った外交戦術がとれたと考えられる。 そして東北諸藩は領国経営と抜本的軍制改革に失敗し、情報収集と分析力に大きな陥穽があったといわざるを得ない。  また、統合的作戦能力が欠落していた。徳川政権の施策であった小藩割拠(264藩)が統一的用兵を不可能とし、同盟内部の疑心暗鬼が 渦巻いていた。
 そしてここが一番問題だが、西欧列強とどのように互して行くのか。 体制改革はどうするのか、等々新国家としてのピジョンが存在しなかった。 当時の日本はこちら
戊辰戦争(鳥羽伏見、北越、東北、函館を含む)で確認できる長州の犠牲者428名。   四境戦争(1866/06/07〜)犠牲者261名。 戦闘が巧妙だったのか、戦傷治療が功を奏したのか 戦場の規模と拡がりから戊辰戦争の犠牲者は意外と少ない。

5.東北戦争総括
 慶応4年(1868、明治元年9月8日〜)3月22日、奥羽鎮撫総督総督は仙台藩主伊達慶邦執政但木(ただき)土佐等に会津追討を命じた。 だが、仙藩の出兵準備は遅々として進展せず、大山、世良はこれを詰問した。仙藩執政 阪(坂、回天史では阪)英力 但木土佐は討会の志なく、かつ薩長と対抗の意 をいだいていた。彼らがまた、参謀の浮言流説(以上回天史)を流し続けた。すなわち、 彼ら参謀の横暴暴言が戊辰東北戦乱の要因を醸し、その元凶を世良とした。 よって総督府参謀世良修蔵を閏4月20日福島阿武隈河畔で誅した。
 戦争は最大の愚である。その愚行を行うにあたって、薩長に対抗できると読んだ彼らの政治的判断にはどんな裏付けが存在したのであろうか。  仙藩には対抗できる頭脳と力(軍事力、財政力)がある。彼らはそのように妄信したのであろうか?。 回天史には彼らの(藩主を含め)政治的判断について何も記していない。
 戦いに勝利するためには、軍事力と資金が必要である。武器、続いて兵員、糧食、補給などなど、そして優秀な指揮官。さらに戦争を継続するための潤沢な資金。かつ、 各藩連合軍を機能的に配置・配備する統合作戦本部。戦略がまた必要になってくる。 これらの全てを欠いて決行された第二次幕長戦(慶応2年6月、幕府各藩連合軍と長州)に仙台藩執政は学ぶべきであった。 また、学ぶに必要な時間は充分(東北戦争まで約2年間)にあった。 当時の日本には、西軍側に錦旗うんぬん以前に早急に新体制での国家建設が急 がれていた。

明治維新における仙台藩の功績
仙台藩に象徴される武士階級の没落に一役買ったことはまぎれもない事実であろう。戊辰東北諸藩の敗戦 がなければ、あれほど急激な階層崩壊は起きなかったと考えられる。悲しい現実だがその意味で日本の近代化に 貢献したと云える。
仙台藩にみられるように、あの時代求められた改革(藩内階層改革、軍政改革)をなし得なかった。 いや、やろうとしても、もどうにもならない強固な中世的体制を温存していた。 この現実に目をつぶり戦いに踏み切った 誤算が仙台藩の悲劇であろう。
 会津藩の戦い   仙台藩・米沢藩による新潟の戦い    新潟港陥落につながる敵前上陸
 

《関 寛斎(せき・かんさい)》
 1830年〜1912年。上総国山辺郡中村(現千葉県東金市) の農業吉井佐兵衛の長男として生まれる。 幼名豊太郎。 十三歳で儒学者関俊輔の養子に。十八歳で蘭学塾・佐倉順天堂に入門、 寛斎と名乗る。一時開業、長崎でオランダ医師ポンペについて学ぶなどした後、 1862年、三十二歳で徳島藩医に。徳島医学校の創設に尽力。 戊辰戦争(1868年)では、官軍軍医として奥羽地方を転戦、 野戦病院長を務めた。 徳島の赤ひげ先生。 1873年、徳島市内で開業。1902年、 北海道開拓にも尽力。 著書に「養生心得草」「虎列刺私考」「命の洗濯」など。
 寛斎は、貧しい人からは治療費を受け取らず、慈愛の心で接し、 市民からは「関大明神」とあがめられた。患者の約六割が無料だったと伝えられており、 まさに医は仁術、「赤ひげ」先生だった。 1901年、金婚式を祝った寛斎・あい夫妻は翌年、 札幌農学校を出て北海道で農場を経営していた四男又一の元へ旅立つ。 そして未開のトマム原野(十勝郡斗満、現陸別町)を開拓、労苦を乗り越えて 関牧場をつくる。厳しい生活の中、医師として地域の開拓民やアイヌの人たちの 治療にも当たったという。  寛斎は、農場で働く人のために土地を開放、 各自が十ヘクタールを所有する自作農創設を目指したが、 家族間のかっとうや妻の死、体力の衰えに耐えられず、 開拓小屋で自らの命を絶つ。入植して十年、八十二歳だった。  寛斎の生きざまは、その土地の人々に感銘を与え、陸別町には像、 碑に加えて資料館があり、生まれ故郷にも像が立つ。 徳島には中徳島河畔の像のほか、城東高校に「慈愛進取の碑」がある。
 トマム原野の寛斎を突き動かした魂の軌跡は読むものをして涙を禁じ得ない。  このような日本人が居たことを誇りに思う。


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