備中争乱最後の銃声(備前児島郡下津井・吹上)
慶応二年丙寅四月十五日

下津井波止場の銃聲
                                 赤星 昭 「岡山春秋七月号・昭和27年7月10日発行」
 さんざめく港町の昼下がり、腹に響く銃声二発。備中を疾風怒濤のように駆け抜けた浪士に放たれた最後の銃弾だった。その筒先に果たせなかった志持った若者の死があった。
 たった七日間ではあったが備中の人びとに幕府瓦解近しを知らしめた。  わずか百人の第二奇兵隊隊士らの備中に落とした一滴の波紋は歴史を大きく変える狼火でもあった。 筒先に倒れた若者の名以外史書は何も伝えていない。
備前下津井
 児島半島の先端。現在は下津井港と下津井漁港がある。瀬戸中央道がここに架かる。景勝地として鷲羽山は有名。この一体は備前岡山藩領で下津井村,吹上村,田之浦村などがあり、 北前船華やかなな頃の港は現在漁港となっている吹上村にあり潮待ち、風待ち、または廻船による物資の集散地として、また諸国への渡海業者などで殷賑を極めていた。
 この一帯は備前領で現在の下津井漁港の左側は下津井村、右が吹上村である。
    [いずれの地図もカシミールで作成]

祖母の話した倉敷浅尾騒動余聞より
 三輪光都の娘がまだかな橋近くに居宅を構えたいた赤星清助の養女に入った。彼女が昭氏の祖母にあたる。 清助の家屋構造は複雑で隠れ部屋や隠れ通路がしつらえ、この屋敷内で隠密の会議が度々行われたことは聞いているがそれが騒動史にいう下津井会議であつたかどうかは疑問であるとしても、 諸国の人々が沢山出入りした渡海業そのものが外部の注意をそらすに都合よく、黒幕たる人物が居たことに依つて、他の場所を擇(えら)んだとも考えられぬ。(岡山春秋七月号より)

黒幕たる人物
黒幕とは本荘八幡宮祀官三輪光都である。
立石孫一郎らの同志と伝えられている。

 私の家では、祖母の言葉に依つて、長州の武士の墓と云うのを守していた。私も幼い頃から墓参の時は必ずその墓へ、 花などあげさせられた。墓地の庵の前にあって九寸角位の花崗岩で、表面に「杉原直人平正雄」と武家名が刻られてあつた。 十数年前、圓福寺の過去帳を調べた時「素室院殿、備中足守藩士、吹上鍋屋にて死す」とあつて、祖母が墓を間違えていた事が判つた。
 騒動史に、浪士橋本永吉(一六七才)が、浅尾で負傷した右手を懐中にして、無刀で下津井の船着場を徘徊し、出船を覗うているのを、 池田伊勢(天城池田)の軍勢が発見して、鉄砲で撃つたが撃ち損じ、浪士は走って海へ飛び込んだので再度鉄砲で撃つたとあるが、それを目撃した亡三宅萬五郎翁も大同小異の話をしていられた。 その場所は中波戸附近で、軍勢と書いてあるが浪士を追った役人は二人だつた。「まだかな橋」の上から火縄銃を撃つたが、 浪士は干潮で脛の高さの水中に飛び込み、岸を離れたばかりの渡海船を追つた。一間も走らぬうちに鉄砲の音がして、浪士は海中に倒れ、 渡海船が寄つてそれを引き揚げたということである。(岡山春秋七月号より)
下津井港で一人射殺され二人逮捕された。
4月15日天候:晴れ
 4月14日朝、浅尾藩陣屋から撤退を開始した第二奇兵隊隊士らは高梁川(川邊川)東河畔古地村、黒田村、酒津村で調達した川船で東高梁川を下り亀島渡しに到着した。 時すでに午後遅くであったという。丁度干潮時であり川船での移動は不可能で、 隊士らの一部は東岸に上陸し渡海船を探していた。西遠く玉島沖には幕府蒸気船二艘が認められた。
 前の晩は焼けただれた浅尾藩陣屋で臨戦態勢で過ごした。 その緊張からときほどかれた隊士らの多くは川船の中でまどろんでいたという。 そのような情況下西岸よりいきなり銃弾をあびせられた。
 この不意の銃撃で隊士らは措を失い四散した。 隊士の中には銃弾が飛んできた西堤に逃げた者(佐波野三郎・玉島で被捕)も認められる。 また、亀島渡しより遙かに東にある由加山蓮台寺(岡山県倉敷市児島由加2855)まで逃げた者などその狼狽ぶりがわかる。 帰還船はこちら
通生(かよお)村本荘(ほんじょう)八幡宮
 祀官三輪光都(みわ・みつくに,文政9〜明治39)は立石孫一郎の同志だったと伝えられている。光都の女子「まさ」は祇園神社赤星清助の養女となった。 当時光都は本荘八幡、祇園両社の祀官を兼ね南児島地方における尊攘運動の中核的存在だったと郷土史家角田直一はその著書「皇帝丸始末記」に書く。
左図すべて備前領である。隊士らの一部は塩生,通生,下津井,下村の各村から帰還の途についた。
[左図は新修倉敷市史近世付録領分分布図から引用]
事件はこの中波戸で起きた。記録に月日はない。 事件は干潮時に発生したと伝えられているので4月15日午後4時前後であろうか。時に大潮。 石田恵(17)、浅尾正之介(34)、橋本栄吉(17)(注1)と三人連れで15日の朝下津井まで逃れた。長州への渡海を折衝しているころに山本茂一郎(14)が現れた。 その折り警戒中の天城池田家(注2)池田隼人(注3)の配下二人に発見された。

【現在のまだかな橋遺構】
石田恵と山本茂一郎は渡海船の船倉に逃げ込んだ。浅尾正之介はまだ中波戸付近をうろついていた。 池田隼人の配下二人のうちの一人がまだかな橋の上から持っていた火縄銃を撃った。弾ははずれ、あわてた浅尾正之介は西波戸前でまさに解纜せんとしていた廻船に逃げんとして干潮で脛の高さの海に飛び込んだ。 正之介が一間(約1.8m)も走らぬうちに第二弾が正之介に命中し海中に倒れた。
現在のまだかな橋遺構は下津井一丁目9番24号前に説明板付きで遺されている。
 
その後方の白シート掛け家屋が三輪光都の娘まさが養女に入った赤星清助の屋敷があったと伝えられる場所である。(下津井1丁目9番24〜25号)
石田恵と山本茂一郎は渡海船の船倉に隠れていたが発見され捕縛された。
■維新動乱の倉敷:森脇正之著・(1979年1月発行注4)
石田,山本の捕縛は「隼人殿手」にてとし浅尾正之助討取りを「伊勢殿」手としている。
同じく「維新動乱の倉敷」頁108に下津井で射殺された浪士を橋本永(栄)吉としているが、 橋本栄吉は帰還し下松宮原山で斬に処された。次頁(109)伊勢殿手にて討取りを浅尾正之助とし橋本栄吉の名はない。
■倉敷浅尾騒動記:角田直一著・1964月9月発行
頁266〜277 に下津井で射殺された者として橋本永吉としている。また石田,山本を捕縛したのは天城藩(池田家)徳山九右衛門手勢としている。
■倉敷浅尾騒動史:渡邊頼母編・1919年9月発行
頁98〜99 で下津井での浪士逮捕は池田隼人の手とし、海に飛び込んで逃れようとした浪士を橋本永吉としている。
■風窓紀聞附録備中騒動記下:本城温著・慶応2年8月発行
池田隼人の手により捕縛された者として山本茂一郎,石田恵,浅尾正之助。同所池田伊勢の手により鉄砲で撃取り橋本永吉としている。
隼人殿,伊勢殿
■風窓紀文附録騒動記で中軍援兵総督国老一万石池田隼人が見える。
■旧版倉敷市史、河本本・備中騒動記文中浪士追討体制中軍国老池田隼人が見える。倉敷浅尾騒動史では浪士備中乱入を知り城下警備体制中萬町口警備責任者として池田伊勢の名があり、 浅尾藩より援兵依頼を受け中軍援兵総督池田凖人の名が見える。「凖」「隼」の音は「ジュン」だが隼人は「はやと」と読めるが「凖人」は「はやと」とは一般的に読めない。
下津井の伝承で浪士を射撃した役人は二人だった。と赤星昭氏が記しており備前藩の警備線に引っかかったのは少し無理があり昭氏がいうように「天城池田家」の警備線に引っかかった。 とみるべきであろう。
角田直一著:倉敷浅尾騒動記にみる「天城藩(池田家)徳山九右衛門手勢」について少なくとも示されている参考文献の中にその名は見えない。
少なくとも、隼人殿手と伊勢殿手の二組でなかったことは間違いないであろう。

隠密の会議  立石孫一郎ら攘夷派浪士らが開催したという下津井会議
慶応元年(1865)秋と慶応2年(1866)2月と3月説がある。場所は下津井で異同はない。もしこの会議が本当に開催されたとしたら通生本荘八幡宮祀官三輪光都の娘まさの養家であった赤星家をおいて他は考えられない。 開催月2月より3月説に分がある。新修尾道市史(第二巻)昭和47年8月1日発行。頁513 第十二章 維新前後に活躍した尾道の豪商竹内隼太履歴書に次なる記述がある。
二年丙寅三月、防州岩城山屯集の激徒事無きを憂ひ、数名を撰び商売或は水夫に装い、商船を艤して尾道に来り、 問屋業川口某を欺き、品物を鬻(ひさぐ・売買の意)ぐの風をなし、潜に幕史の宿所慈観寺を窺ひ、且つ市内の状況を探り、而して、 余が寓を訪ひ、余に図て曰く、幕軍国境に逼りしより、対陣年を越え、我輩甚だ無事に苦しむ。 故に先ず慈観寺を襲ひ、使番を屠り火を市中に放ち、尾道を赤道となし、以て敵軍の通運の便をたたんと欲す。
竹内隼太は立石孫一郎らは3月に現れたと書いている。隼太は浦家*1秋良敦之助とも深い親交のあった人物である。 第二奇兵隊の重鎮木谷(世良)修蔵の除隊処分の関係から立石孫一郎の蠢動は3月が濃厚である。
立石はこの下津井会議で鈴尾五郎ほか三百人の同志を得たり。と報告したという。誇張はあるもののあながち嘘とも思えない。秋穂八幡隊から立石に続かんとして脱走し斬首された中に鈴尾五郎の家臣が含まれている。なお奇兵隊日記で同隊の脱走者は三十人に及んだとも書いている。
*1 浦靱負元襄(ゆきえ・もとまさ)は上関宰判伊保庄の給領主。幕末期靱負は当役(江戸家老)・当職(国家老)・加判役など長州藩の要職を歴任した。 慶応元年(1865)五月家督を滋之助に譲り官職を辞す。よって各種情報が靱負にもたらされ膨大な日記を残す。 浦靱負の存在抜きに長州藩の幕末維新は語れない。山口県史幕末維新3で日記主要部分が刊行された。禁門の変後、靱負は家臣が諸隊(浦家臣は初期奇兵隊大挙入隊)に参加することを禁じた。このことが第二奇兵隊結成の伏線となっている。

下津井会議 本当に多人数で開催されたのか?
倉敷の郷土史家大森一治*2はその取材ノートに、下津井会議なる大規模な会議は行われなかったのではと提起している。数名の攘夷を唱える人物が会食をした程度ではなかろうか。と書き残している。
*2 大森一治  明治10年(1877)5月29日〜昭和11年(1936)6月30日 倉敷市本町
旧版倉敷市史近代記述部分の資料は一治が収集した。また文芸面は一治の筆なる。大森家には一治が蒐集した膨大な資料がある。親・子・孫(現在)三代にわたって市史編纂に深く係わる。
また大森家には岡熊之助が書いた幽栖日記(文久2年10月10日〜慶応1年10月15日)全10巻のうち欠巻1(第7巻)で保存されている。下津井事件や立石孫一郎の大坂での動き、美作井汲唯一との関係をこの日記で窺い知ることが出来る。
宇津蘇平の墓は倉敷本町本栄寺(倉敷市本町1-41)墓地こちら
浅尾正之助と石田恵
 隊士の中で消息不明の最右翼。山口県で最も信頼のおける維新関係者人名調書に「防長維新関係者要覧:田村哲夫編」があり、「浅尾正之助」の出自は空白で第一銃隊に所属。死亡日は慶応2年4月13日備中浅尾に戦死。となっている。 一方石田恵も空白。別書に出身地「大島郡石丸」とあるが彼は小松村浄蓮寺の見習僧であり、浄蓮寺の場所の字が石丸である。なお浄蓮寺過去帳に石田恵の法名はない。大洲鉄然撰文、久賀維新公園の精忠不朽之碑に殉難者として石田恵の名があり処刑されたことに間違いはないであろう。彼の担当部署は大砲隊。 なお、京都大学維新資料釈文で帰国の上斬罪とされている長尾喜代熊は大正年間まで大島郡橘町安下庄で生存している。
山本茂一郎
後に大坂獄に収監された。鳥羽・伏見の戦いの後救出され、奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵に付属し松野儀助と名を変える。慶応四年閏4月20日、東北福島県福島市北町国道4号線近くで仙台兵によって殺害された。享年16。
(注1)
橋本栄吉は虎口を脱した。帰還し下松市宮原山で斬に処された。橋本家には栄吉がどのようなルートで帰還したのか全く伝わっていない。 処刑者最年少。17才。 法名 一舩入乗居士

(注2)
天城池田家(あまきいけだけ)は、江戸時代の岡山藩主池田氏の一族で備前天城の領主。 初代由之は、池田輝政の兄池田元助の嫡男で輝政に仕え、伯耆米子3万2000石を領した。 2代由成が、藩主光政の岡山移封に伴い米子から備前に移り、寛永16年(1639年) 天城に陣屋を構えこの事件当時の藩主は池田 政和(いけだ まさやす・嘉永6年9月4日(1853年10月6日)〜明治45年(1912年)3月31日) は、岡山藩の家老で天城池田家第11代当主。
(注3)
天城池田家臣:池田隼人 弐拾五俵弐人扶持徒ニ召抱.追々知行打続代々物頭等勤居(池田家文書)の名がある。
(注4)
角田直一著:倉敷浅尾騒動記、同書発行年につい倉敷中央図書館では1981年としているが光市図書館では1979年と訂正している。 森脇正之氏は取材で山口県光市立図書館勤務国広哲也氏(最終図書館長・当時係長)を訪ねている。よって発行年について同書巻末の発行年昭和56年1月は誤植で昭和54年が正しいものと考えられる。

山藩に捕縛された浪士らに広島に駐在していた幕府老中より四月十九日次なる命令がもたらされた。 また、その前日(十八日)京都守護職松平容保は藩士二木理助・諏訪傳次郎を岡山藩・浅尾両藩に派遣し、第二奇兵隊に
蓮台寺  よるその領内騒擾について問い合わせ使節を派遣した。 老中より岡山藩にもたらされた命令は捕縛した者の内三名を広島に檻送し残余は大阪町奉行所に送れというものだった。 この命令により岡山藩による護送は宿駕籠五挺。人足十人。護送役、上下おおよそ百六十人をそろえる仰々しいものであった。
実際に檻送されたものは、蓮台寺で逮捕された西岡龍太(35才)、長尾喜代熊(16才)の二人であった。
また玉島で逮捕された佐波野三郎は浪士追討のため派遣された幕府軍艦で広島に護送されたのち広島藩に引渡され収監されている。 下津井で逮捕された次の二人石田恵(17才)、山本茂一郎(14才・松野義助)、は大阪獄に送られた。
蓮台寺で逮捕された西岡、長尾移送日程とルート
4月25日岡山発。同夜小田郡矢掛泊。
4月26日矢掛発。同夜深安郡神辺泊。
4月27日神辺発。同夜三原泊。
4月28日三原発。同夜四日市(東広島市西条)泊。
4月29日四日市発。広島着。
旧版倉敷市史(五冊・昭和48年8月発行),頁816
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