|
|
1.[世良修蔵]の家系図![]() |
世良修蔵殺害についてはこちら
左掲の系図は、中司豊氏から頂戴した。徳寿氏が世良家を継いだ。修蔵の本姓は中司である。作家の司馬遼太郎氏は、仙台戊辰史をなぞったのかその著書で世良修蔵を悪役にしてしまった。 奥羽側の資料や、色々な書籍で世良修蔵は極悪人にされ現在に至っている。下掲の鎮撫総督府の兵員数を参照願いたい。征討軍でなく 彼ら一行は鎮撫使であった。またこれだけの兵員で奥羽が帰順すると考えた新政府(西軍) 軍事指導部は無能と断言できる。 司馬遼太郎氏が来県(山口県)した折、ある席上司会者が世良の系の方ですと紹介がされ、 司馬氏は哄笑(アッハッハー)しその場を濁したと伝えられている。 平成15年(2003)10月 中司 豊氏談。 歴史にもしは禁句だが、世良が慶応2年(1866)4月5日在隊していたなら、立石の脱走は、まず発生しなかった。と思える。 奥羽側は自らを正当化するために彼を悪人にし、彼一人のために無益な戦争となった。と自己を免罪し、 西軍は戦略眼なしの無能ぶりを世良に責を負わすことでこれまた、世良一人の罪とした。 修蔵生家はこちら |
| 幕軍方唐津藩世子小笠原長行は2月22日長州藩主と支藩藩主の出頭を求めた。 長州藩は聞いて聞かないふりをして握りつぶした。 懲りもせず3月26日再度同様な要請を行った。 その間にも長州は着々と軍備増強と兵の訓練を重ねていた。 要請に応じない長州に 5月1日長藩使節宍戸備後助に最後通牒を行う。 そして運命の6月7日を迎える。 幕府崩壊への第一歩を踏み出した。 |
| 2.世良修蔵の評価 慶応2年(1866)6月、10万人規模の幕府方長州進攻軍がたった3,500人の長州庶民隊に敗けてしまった。武士の時代の崩壊が目前にあった。 各方面で戦った山口諸隊には負けない理由があった。それは目的意識である。兵全員が意識したかどうかは別にして 郷土防衛の名分があった。指揮官を長として連帯があった。指揮に従う訓練があった。 そして前装ではあるが命中精度に勝る 装条銃があった。 心ある他藩の若者も長州兵として戦った。 四境戦争(1866/06)時、長州藩政府は大島口を捨石(戦略的無価値)にする作戦であったが、世良は第二奇兵隊を率い郷土防衛 のために立ち上がり、瞬く間に奪回してしまう。この戦争で後の史家は小倉口の高杉を高く評価しすぎるきらいがあるが、 庶民の視点に立てば大村益次郎は別格として世良が第一人者である。 鳥羽伏見の戦い(1868年1/03〜06)にあっても、長州庶民軍である世良指揮の第二中隊(第二奇兵隊、125名)や第6中隊(遊撃隊)は よく戦い近代日本の夜明けをもたらした。 東北戦争における世良修蔵の思いはこちら |
| 大島口の戦い |
![]()
|
|
以下第二奇兵隊大島郡出陣中日記 槇村正直(半九郎):蔵より 6月7日 日章旗を掲げた軍艦により室津半島の沖、横島に乗付け白浜を砲撃。 続いて屋代島安下庄に4発打ち込んで戦端は開かれた。 6月11日 幕府軍 久賀宗旨(宗光の誤りか?)に400名程度上陸並びに安下庄に上陸。 賊軍船 蒸気船2 3本マスト帆船1 渡海船クラス4 小松船7 500石クラス3 注)松江藩海軍歴史年譜および松江藩海軍歴史補遺より、久賀に派遣されている幕軍蒸気船は 富士山、翔鶴、朝日(旭日)、八雲丸一番である。 出典:吉川弘文館 日本歴史 1984年10月号(第437号) 6月12日 丙寅丸(へいいん、長州軍艦)が室津に着岸。時期をみて小松(屋代島)に乗り込む予定。 その際船印は外国旗を掲げているので見誤らないようにという連絡が岩国藩の使者により もたらされる。 これには若き山田市之丞(後の顕義)も乗船。 6月14日 反攻開始 小松開作に上陸。安下庄に進軍。 6月16日 本格的攻勢に入る。安下庄の松山藩兵と交戦。国行雛次郎戦死。負傷者9人 6月17日 安下庄奪還。利敵行為の百姓 利左衛門、新次郎斬首。 久賀の幕兵 沖合の船に撤退。 松山兵捕虜 角田林次郎(06/19) 岩岡(見)巳之助(06/21)斬首。 6月20日 久賀に再上陸した幕兵駆逐。幕兵幕艦で脱出。 以上の経過をたどった。主として指揮したのは世良、林半七であった。遺棄された武器は 火縄銃、旧式砲、よくてゲベール銃、ヤゲール銃であった。 携帯火器の差が勝敗を決した。 フランス式大砲1門も遺棄され戦利品となった。 幕府艦隊は島内に散発的な砲撃を加えただけで 上陸軍と連携的作戦を行っていない。 制海権は幕軍にあったので活用によっては別の局面が開けた かもしれない。 特筆事項 1 [この戦線の兵士に布告した] 軍中宿泊滞在時は 1.勝手な行動をしない。 2.不寝番 1伍隊ごと。 3.外出禁止。事情により隊長要許可。 4.斥候 1伍隊単位。 5.手紙・報告書の個人的やりとり禁止。 6.うわさを聞いたら隊長に報告。それまでは隊員に話さない。 特筆事項 2 [夜間行動に際し各隊の調整] 14日の夜間行軍(夜襲)に際し 1.合い言葉 辰巳 「たつ」と言えば「み」と答える。 2.合図 笛ながく一声。 3.隊 自己所属の隊を離脱しない。 4.合印 白い頭巾。 白木綿で頭をつつむ。 5.提灯 点けない。 6.諸号令 長官以外は禁止。 7.進軍中 無言。 特筆事項 3 [情報の伝達と捕虜 兵と軍夫の違い] 政事堂より各戦線(小瀬川口、石州口、小倉口)の戦況と対峙する幕府方諸軍の動静と攻撃の結果について、また、味方の死傷者負傷者数まで伝達され、 さらに、各戦線における敵遺棄物品まで伝えられている。 それぞれ担当戦線にありながら遠く離れた戦場(味方)の様子が非常に早く伝達されているし、 なによりも補充弾薬、その他必要機器類が鴻城(山口)御武具(係)から前線に速やかに送達されている。 味方の弱点(制海権と沿岸砲台が無い)を示し。よって敵軍を上陸させて叩け。 などきめ細かな指示が前線司令官に伝えられた。 なお、 戦時捕虜の概念がなく、敵兵の捕虜はまず斬首、ところが軍夫であることがハッキリすれば小遣いを渡してまで送り返している。 先述したように豊富な情報提供と的確な必要物資の補給がなされ、 いやが上にも士気(モラール)はたかまったと考えられる。 情報の相互共有。ロジスティクの確立。近代戦に必要な 仕組みで第二次幕長戦争に臨んでいたことがうかがえる。 すくなくとも孤立無援の絶望的戦いを強いられた太平洋戦争と大きな違いがある。 --- 出典 第二奇兵隊出陣中日記 石永 雅:編 2003/03/31発行 ---
|
|
■ 先鋒総督 紀州藩主・徳川茂承 ■ 副総督 老中本荘伯耆守宗秀(京都府宮津市 宮津藩七万石) ■ 幕府陸軍奉行 竹中丹後守重固 ■ 廣島(芸州・小瀬川)口配備 彦根藩(滋賀)・高田藩(新潟)・与板藩(新潟)・紀州藩(和歌山) 大垣藩(愛知)・宮津藩(京都)・旗本軍団 |
![]() 錦川−小瀬−小方のルートが旧山陽道 大竹〜小方 約4km |
|
長州主担当は伝統ある遊撃軍(河瀬安四郎・旧名 石川小五郎)である。戦端はまず瀬田で開始された。六月十四日未明
、木股土佐隊(彦根家老)の使番竹原七郎平が従者二人と渡河を開始。対する岩国兵が銃撃。上図下、小瀬川河口付近では砲撃戦もはじまった。
遊撃軍は渡河を開始、三隊に別けて進撃。小瀬から対岸を下り大竹へ、一隊は旧山陽道ぞいに直進し立戸へ。もう一隊は更に直進し小方へ。
この隊は高田(榊原)の後方を衝く。大竹支隊は大竹村に放火。中央隊は高地から眼下の彦根へ銃弾を浴びせた。
岩国隊は瀬田から彦根に猛攻を加える。 たまらず彦根・榊原は小方から玖波に敗走。 その日のうちに海路広島へ。
高田(榊原)は広島より更に後方の海田市に撤退した。 この日正午にはまことにあっけなく大勢は決した。 幕府艦隊は岩国新湊を砲撃し歩兵隊を
上陸させる手はずであったが攻撃を加えることはなかった。 大きな会戦は4度発生した。初日6月14日、18日、25日。それに8月2日の戦闘である。長州軍は国境線より12Km進出した。これらの戦いで一番迷惑したのは広島領の住人だった。消失家屋1,734戸。罹災民8,996人と記録されている。 小瀬川方面軍監 河瀬安四郎戦闘報告書はこちら |
|
●東 大島口 伊予松山藩 親藩だが海軍力がなく大敵にならない。
長州指導部は、この島の戦いで兵を失うことは収支に合わないものとみなした。
戦略的に無価値という結論であった。
ここで勝利しても慶喜や奸賊らの面子を潰すことに繋がらない。 ●西 小倉口 親藩。同族小笠原長行が長州詰問使でかつこの方面の幕府軍司令官。 長州からみると奸賊である。よって、こちらも確実に叩きつぶす必要があった。 小倉城占領を視野。闘志に勝る高杉晋作が方面軍司令官。 ●北 萩口 主担 薩摩藩 萩城下直撃担当である。幕府に次ぐ海軍力を保持していた。だがこの藩は出兵を拒否した。 慶応2年(1866) 4月15日、大久保一蔵、同藩大坂留守居木場傳内とともに大阪城の老中板倉勝静に面会を求めた。薩摩は書を呈し 征長の非を論じ出兵を拒否。 勝静は一蹴し却下せんとしたが、一蔵、「反駁シテ肯ゼズ」と記録されている。 幕閣の目論見はここで崩れた。 ●北 石州口 隣藩津和野は中立。 この方面の主担は福山藩。 浜田藩主は一橋慶喜と兄弟の松平武聰。 戦争を仕掛けた慶喜の面子を潰す必要があった。 方面軍司令官に大村益次郎以外は考えられない。 浜田を占領し浜田藩の息の根を止める必要があった。 石州口方面軍の指揮を大村益次郎とした。この方面だけは絶対敗けられない理由があった。 浜田藩主は松平武聰(25才)。夫人は老中・堀田正睦の娘。水戸斉昭の子で徳川慶喜と兄弟であった。慶喜だけでなく岡山池田茂政、鳥取池田慶徳のいずれもが兄弟である。 この方面の幕軍総司令官は、上総(千葉県)飯野藩保科正益(まさあり、幕閣若年寄、2万石)である。 自己兵力なき者を総司令官とする体質で長州と交戦した。そして主担は福山藩。 幕末参勤交代の制が廃止され彼武聰は浜田にあった。 世間に対し徳川慶喜に恥をかかせ時代が変革しつつあることを知らしめる必要があった。 慶応2年(1866)四代・武聰は当然、 石州口を担当することになるが大村指揮の下、鎧袖一触なすすべもなく瓦解した。 6月16日津和野藩領から益田に迫った。 6月17日石州益田万福寺の戦闘で幕軍(福山、浜田兵)は和筒(火縄銃)やゲベール銃で対峙した。 本来なら、浜田藩兵は後方支援2番手で阿部主計頭(福山)が先陣切って対峙しなければならなかったが、 長州軍の攻勢で心の準備の整わないうちに銃火を浴びた。 益次郎の直筆の斥候情報に基づく作戦図が残されている。 長州は兵の運動性と武器の差(施条銃)と士気で圧倒した。大村は更に 指示する。 倒した敵の首を取るなと!。 そんな時間があれば射撃し進軍せよ。 浜田の街に長州軍が入ったときには、松平武聰(たけさと)は戦わずして浜田城を放棄し松江に逃れた。 その後、武聰は美作国の飛地(鶴田領)まで逃れ、ここで鶴田藩を興して明治維新を迎えた。 その際浜田の街は焼き払われ浜田城も同時に灰燼に帰した。 その後、浜田は長州藩の占領下となり廃藩。 9月入って幕府代表勝海舟と長州代表広沢真臣と芸州厳島で止戦協定が結ばれたがそれは撤退する征長軍(芸州口方面軍)を追撃しないという一点であった。 幕府が一方的に戦いをやめただけで長州は戦闘継続のまま明治維新を迎えた。 よって占領した浜田藩領は返す必要もなかったし、やがて誕生した鶴田藩も返せと言えもしなかった。 長州軍の猛攻に耐えられず浜田藩主一同(武聰)は乳飲み子を抱えて漁船で脱出を図ったが漂流。松江藩(八雲丸二番)に救助(1866/07/18)される。 恐怖のあまり、乳母の母乳もでなくなったと伝えられている。 逃亡先で誕生したのが岡山県久米郡建部町鶴田(岡山県津山市桑下)の鶴田藩である。城下町形成もならず廃藩置県を迎えた。 この浜田の敗戦や九州方面総司令官小笠原長行の敵前逃亡を聞くや慶喜は急速に戦意を失い休戦に持ち込んだ。 この休戦に会津容保は強く抗議し幕府と亀裂を深めて行く。これ以降は容保自身の名誉と藩存亡のために戦っただけであり、 徳川への忠義など吹き飛んでしまっている。会津は藩祖以来の家訓を遵守したなど、 勝手な解釈を歴史作家が小説で発表しそれを読んだバカ共が訳も分からず信じ込んで今日に至っている。 藩祖以来の家訓を守れば西欧列強と互して新国家建設が出来たか考えてみればすぐ分かる。 それでも長州は嫌いで結構だが、真の大人はそんな感情は恥ずかしくて堂々と表に出せない。自分の住んでいる県史や市町村史を読んでみろ。 まるでジグソーパズルをひっくり返し端と端が同じ領主であったり村の半分半分で別々の領主だったり収拾がつかない。 これで西欧と互した新国家など出来るはずがない。それでも会津藩の好きな方は日本を捨て、AK47が支配する失敗国家に行かれたらどうだろう。 |
![]() 山口県山口市鋳銭司郷土館展示 Minie rifle (2バンド) 口径からオランダ製ミニエー銃の可能性大 |
|
|
|
一方、大村指揮の石州口では最大見積もっても戦死傷者は20人ほどにしからならい。
渡辺与一について、浜田占領翌年の自殺である。彼は育英隊隊長で隊内の不平を憤まんし自殺とある。 |
|
石州口における長州軍の主力は、南園隊(六小隊、合計225人)、精鋭隊(四小隊、合計150人)、
清未藩育英隊(合計65人)、清末藩二・八番小隊、北第一大隊(須佐益田兵、半大隊が参戦)、第一大隊一・三番中隊、
第二大隊一・三番中隊、第四大隊一・三番中隊(一中隊は全て72人編制、第一・二大隊合計で352人)などであった。
方面軍司令官は、清末藩主毛利元純であったが、元純は長州藩内に留まり、実際の指揮は、大村益次郎が司令官・参謀を兼務した。 地の利は当然浜田藩側にある。負ける理由は装備や闘志の差だけではなかった。開国による諸物価騰貴は全国津々浦々に及び幕政批判の声は里人全員のものであった。 これに対抗する長州への期待感で民衆ことごとく長州を支持した。浜田は領民に国家非常の局。国恩に応ぜよ。 と檄を飛ばしたが応ずる者無く、軍夫として戦塵に斃れるなら、怨みある藩主の大砲で死んだ方がまし。と叫ぶほどであった。徳川慶喜の弟武聰は戦う前から負けが決まっていた。 里人は幕府軍に味方する家は打ち壊すと示威行動を起こす。紀州藩が連れてきた軍夫は集団で脱走する。この傾向はなにもこの戦線だけではない。広島口も同様である。民衆が戦局の推移に大きな影響を与える。 幕軍側は益田川を挟んで万福寺や医光寺に陣取る。長州兵は対岸から攻撃。 当時の銃器ではとんでもない遠戦であった。ゲヘール銃や和銃の完全な射程外である。対する長州兵は口径16mmのミニエー銃。大村益次郎の作戦巧拙問題ではない。 相手(幕府軍)はこともあろうに派手な陣羽織や甲冑で飾っていた。散兵戦術狙撃射撃の格好の標的となった。なにしろ三百年近く武士たる家系に生まれながら戦争を体験していない。 話を聞いても超遠いご先祖の話で緊迫感も緊張感もない。手にした武器は世代が一つ違う。戦い方も全く違う。 かたや長州兵、二度の馬関攘夷戦で外夷と戦った。話も聞いた。着発信管大砲弾も受けた。外夷との地上戦も経験した。戦争のなんたるかの体験談を緊張感の中で聞いた。 当時の日本の最高軍事学者に指導と教育を受けた。先の太平洋戦争時、空の要塞B29に25mm機銃で対抗するような戦いとなった。その上戦略目標と作戦目標を明示されている。 その作戦目標に向かって各兵連携しながら戦った。 |
| −戦中及び戦後余話− ■ 慶応2年(1866)6月16日午前7時、横田から扇原関門ルートで幕軍陣取る万福寺や医光寺に迫った。 ところがこの関門を一人で守らんとして浜田藩岸 静江が槍を片手に仁王立で立ち塞がった。 1人対数百である。 道を空けるよう迫ったが、頑なに拒否。 やむおえず数十間さがり銃撃を命じた。 地を叩くが如く静江は絶命した。 長州軍は岸の武勇を讃え近くの寺に供養を頼むとともに彼の死を惜しんだと伝えられている。その日、 このルートから侵攻した南園隊,第1大隊半大隊,第2大隊半大隊,精鋭隊,清末2小隊は多田村まで進みとどまった。攻撃開始位置ので後半里。 ● 慶応2年(1866)11月25日、芝・増上寺で幕軍戦死者51名の合同葬儀が行われた。八大隊1万人の隊列は江戸城西丸下の歩兵屯所から粛々と増上寺の大門に向かった。 参列者は陸軍奉行竹中丹後守、歩兵奉行小出播磨守・河野伊予守、以下撒兵頭、砲兵頭、 歩兵頭、陸軍小筒指図役などであった。 小瀬川口の先陣(6月14日)は 彦根・高田(榊原)藩について瞬念の間に両家大敗軍。両家敗兵夥しく広島へ引き取り 市中大混雑。前代未聞のことなり。防州わずか四、五百人の人数。両家にて1万人くらいはこれあるべきか 。しかるにこの一戦大敗走。残念至極の事に候。 と広島藩士の記録にある。 この両家敗走の後に前線に進出したのが紀州藩である。 遊撃軍後藤深蔵(土佐、天誅組の変生残り)も紀州藩兵と 不時遭遇。相手と斬り結び深蔵従兵の銃弾が相手もろとも突き抜け右肩を負傷している。この方面の 戦線を持ちこたえたのは紀州と幕軍兵であった。 広島戦線で対峙した諸兵が目にしたもの。農民や彼らが人間として扱わなかった非人(穢多)と呼ばれていた者達も ミニエー銃(施条銃)を携え侵攻軍に牙を剥いて襲いかかった。 長州藩や長州人は尋常ではない。狂ったと映った。 そして長防2国の全てを敵にまわしている。このことで恐れをなした。 幕軍最後の攻勢は8月2日、だが長州狙撃隊の前に 数人もの前線指揮官を失っている。 彦根藩、一橋慶喜が次期将軍就任(慶応2年12月5日〜慶応3年12月9日)が確実視され、 前藩主直弼殺害犯出身藩に与することを藩士は拒否。帰藩後全藩士会議を開催。その後方針を転換し 幕府と袂を別った。彦根は将軍が家茂だから情宜を感じ出陣したにすぎない。井伊直弼の敷いた路線は開国であり、抵抗勢力とみなした者に大弾圧をもって臨んだ。 一方最後の将軍となった慶喜は攘夷派が担ぎだした人物である。 彦根藩には相容れない人物だった。 安政の大獄が結局幕府の命脈を絶ったことになった。 彦根・高田兵が着用していた甲冑具足にミニエー銃弾は具足ごと体内にめり込んだ。 銃弾のみでなく装具断片が体内にめり込み傷口をひろげた。 麻酔の無い時代摘出はとんでもない肉体的 苦痛を与えたと伝えられている。 負傷者は苦痛に耐えかね次々に切腹して果てたともいう。 −伝えられる彦根の持参した銃器− 和銃(火縄銃)408挺。 洋銃65挺 不明37挺 合計510挺 だと伝えられている。 また高田(榊原)軍は218挺 すべてゲベール銃だった。 岩国市史資料編二にはヤゲールともある。 長州ミニエー銃1,000挺の濃密な火力になすすべもなかった。 勝海舟に言わせれば長州兵は 「紙くず拾い」の恰好だった。 彦根、榊原退却現場に大量の武具、武器類が遺棄されていたが 長州として使い物になるものは無かったと防長回天史は伝えている。 榊原も反省し戊辰戦争では長岡攻略の兵站と先鋒を担当した。 戦う相手の長州は、アウトレンジ。彦根の和筒は小便弾。更に相手に届かない。 撃ちかける相手は遮蔽物利用や伏射である。彦根は発砲の白煙でその所在を知るのみ。 その場所に砲撃の集中打を浴びないために次弾の発射は居場所を変えさせた。それが小隊運動を行ってである。 軍記物の戦場とは訳が違った。そして恐怖の極限状態が戦場に発生した。 六月十四日午前6時ころから戦闘は 開始されたが午前中には大勢が決している。 彦根・榊原は大挙して小舟で広島に脱出した。 彦根藩最初の戦死者はこちら。 --- 出典:幕府歩兵隊 野口武彦/著 --- 維新団(被差別民)の戦場出現 広島戦線には被差別民の兵も出陣した。 傘下に収めたたのは遊撃隊である。 藩庁は真意を問うた。 藩は許せなかったのである。 遊撃隊は答えている。 戦線での死傷者の救出、情報収集にのみ使うと。 実際は少し違った。 服装は笠を含め黒、絹もの一切禁止。 所持の機器類金色の飾りを禁止。 この戦線に参軍した幕軍は一目で他隊との違いが分かった はずだ。 侍は彼らを打捨て(殺害「打捨権」)にしても罪に問われることはなかった。 その者たちに鉄炮で撃ち殺されることに言い知れぬ恐怖を感じたことであろう。 主客転倒である。 なお、 屠勇(被差別民身分解放)取立ては池田屋で闘死した吉田稔呂の建議であるが 慶応のこの時期彼らが身分解放を目指したのか歴史的評価は定まっていない。 史家の視座により 大きく評価が違う。 |
| 4.奥羽鎮撫総督府の戦力 |
| 奥羽鎮撫総督府の戦力 | ||||||
| 出身 | 役 職 | 姓 名 | 存命期間 | 年齢 | 兵員数 | 雑卒以下 |
| 公卿 | 総督 | 九条道孝 | 1938-1906 | 29 | ||
| 総督付諸太夫 | 塩部少輔 | 96 | ||||
| (副総督) | 澤 為量 | 1912-1889 | 56 | |||
| 副総督兵 | 34 | |||||
| 参謀 | 醍醐忠敬 | 1849-1899 | 19 | |||
| (参謀兵) | 13 | |||||
| 薩摩 | 下参謀 | 大山格之助 | 1825-1877 | 43 | ||
| 隊長 | 和田五左衛門 | 86 | 128 | |||
| 斥候 | 樺山彦右衛門 | |||||
| 半隊長 | 山本次郎兵衛 | |||||
| 長州 | 下参謀 | 世良修蔵 | 1835-1868 | 33 | ||
| 隊長 | 桂太郎 | 1847-1913 | 21 | 106 | 30 | |
| 小隊長 | 粟谷市太郎 | |||||
| 〃 | 飯田千蔵 | |||||
| 筑前 | 応接 | 永田慎太郎 | ||||
| 隊長 | 大野忠右衛門 | |||||
| 監察 | 杉山新五右衛門 | |||||
| 銃隊長 | 貝原市之進 | 100 | 36 | |||
| 安永 験 | ||||||
| 本部兵員数 | 143 | 0 | ||||
| 動員藩兵員数 | 292 | 194 | ||||
| 総動員数 | 435 | 194 | ||||
| 仙台藩 大越文五郎中隊約100人を指揮し鎮撫使護衛として京を発す。 長州 桂太郎は後の総理大臣。 〔発令:1868/02/26〕 | ||||||
| 長州飯田千蔵(18)は、慶応4年(1868)9月3日、秋田県横手市と大曲市のほぼ中間点角間川にて負傷し死亡している。履歴では第四大隊補助長官として 靖国神社に合祀さた。 |
|
鎮撫総督府の兵力は上表のとおりである。本部兵員を除くとたかだか292名の実働部隊である。
これをみても鎮撫が任務で戦闘集団の派遣ではない。 世良修蔵について 第二奇兵隊の軍監であった。慶応元年(1865)末の赤根事件に連座し立石脱隊当時は謹慎処分を受け、第二奇兵隊浦家臣団と柳井市阿月に引きこもっていた。 よって立石倉敷代官所襲撃事件に浦家臣団は一兵も加わっていない。 慶応2年(1866)6月第二次長州戦争が起きるや、林半七とともに大島郡奪回作戦を指揮し 松山藩兵を駆逐。奪回に成功する。 |
|
続いて鳥羽・伏見の戦い(幕末画期をなす戦い)では薩摩藩兵と協同し
伏見にあって寡兵よく幕兵(浜田、会津、新選組、幕軍 計1万5千人)を撃退し歴史を大きく展開せしめた。
2月上旬奥羽方面にも鎮撫使派遣を決定。下参謀薩摩黒田、長州品川に代えて、薩摩大 山(2月30日付)、長州世良(3月朔日付)に変更し長薩、筑前、仙台兵に護衛を命じ。3月2日錦旗を翻し同月18日紀州汽船、芸州汽船、筑前、 仙台藩船にて奥羽寒風沢に着した。 |
|
慶応4年(1868)4月、奥羽鎮撫総督府傘下長州藩 桂 太郎(参謀添役。後の総理大臣)麾下兵の調練を見た仙台藩士たちは、その動き
に瞠目したとある。 黒服、肩に錦布、後装銃さらに弾薬入れと短剣を吊した革帯、背の太刀、しかも靴を初めて目撃した。
---[教育社発行 山田野理夫著:「東北戦争」]--- |
|
5.日本植民地化の危機感 その後の歴史展開でも東軍や仙台、会津藩に人心を収れんする新国家像はみえてこない。当時の日本は西欧列強に植民地として蚕食される瀬戸際にあった。 英国、仏蘭西、米国の奇妙なバランスによってなんとか植民地化だけはまぬがれていた。 1860年代の世界地図で中南米は英国、フランス、スペインなどの植民地。アフリカにも独立国は存在しない。またインド、東南アジアもすべて彼らの(含むポルトガル)植民地であった。 隣国中国は「香港」あの一角を返還してもらうだけでも99年かかった。 草莽志士たちには既存の体制での改革は不可能と考えていた。よって攘夷を藩是とした長州に逃れ、 新国家建設に一点の私心なく粉骨砕身。多くは維新を迎えることなく散華した。 会津や仙台に新国家建設という義はない。彼らのいう義は、幕府や松平容保を救うという一点にあった。国家(日本)など、どうでもよかった。仙台戊辰史や 会津戊辰戦史を読んでもらったら非常によくわかる。作家の歴史小説で歴史を知った!。 と思うなかれ。 また、両史では当地の大多数の庶民であった百姓が何を考えどのように 生きたのかまるでわからない。
6.○○士魂や武士道に異議あり!
○○士魂などよく聞く言葉だが、河井継之助を擁した長岡藩(7万4千石)、西軍の攻撃であえなく最初の落城。
|
|
一般的に徳川氏が長期政権を維持できた要因として 1)参勤交代制を中核とする政治の江戸集中。 2)大坂を中心とする全国的商品流通の掌握。 3)長崎を拠点とする対外通商の独占、 の三つだといわれている。 [吉川弘文館発行 石井 孝著:「明治維新と外圧」] |
|
下級武士だけが下手な男義をだした。四境戦争に話を戻す。慶応2年(1866)6月14日未明、
彦根藩木俣隊(筆頭家老)使番竹原七郎平(陪臣)は、従者2名と共に先陣をきって小瀬川(広島・山口県境)を渡ろうとしたが、
長州軍の銃火を浴びて河中にあえなく戦死。彦根藩隊は河畔から蹴散らされ遺体収容も出来なかった。この戦線に土佐藩天誅組生残りの一人後藤深蔵も指揮官として対峙した。
封建武士社会は上級武士に甘く竹原七郎平のような下級武士に厳しかった。
この戦いの後、彦根藩は来るべき新時代の「義」について懊悩煩悶し、幕府と袂を分かつ決断を行った。 次の将軍に水戸藩出身 一橋慶喜の就任が確実視された彦根に迷いはなかった。 このあたりが会津藩と全く違う。 会津藩主は慶喜に捨てられたのに恋々としていた。 --- 竹原七郎平(陪臣)余話 --- 彼は陪臣である。従者1名は曽根佐十郎正儀。射撃を命じたのは「しゅう翼団」の 品川清兵衛。七郎平の懐には妻からの手紙か入っていたという。出陣後に子供が亡くなり 四九日を済ませたこと。無事な帰宅を願ってることなど書かれていたという。 |
| 世良修蔵の生家 山口県大島郡大島町椋野 | |
![]() | ![]() 国道437号線を久賀町方向へ。 椋野郵便局先を山手へ約1.1Km。 |
| 当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。 | |
![]() ![]() |
第二奇兵隊取材班![]() ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000 |