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| はじめに この頁は、おもに次の文献による。(順不同) 「倉敷市史 (5冊)、(10冊) 永山卯三郎/著 名著出版 S48.08発行、S49.01発行 「東北戦争」 山田野理夫/著 教育社 1978/12 「防長維新関係者要覧」 田村哲夫/編 山口地方史学会 S44.10.01 「長府藩報国隊史」 徳見三郎/編 長門地方史料研究所 S41.03.05 「奥羽戊辰戦争と仙台藩 世良修蔵事件顛末」 藤原 相之助/著 柏書房 1981 蔵書所蔵図書館について、山口県にお住まいの方は 蔵書検索 こちらでどうぞ。 | ||||||||||
| 1.松野儀助について | ||||||||||
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倉敷事件当時は山本茂一郎を名乗っていた。14才。浅尾(岡山県総社市)を撤退し東高梁河口で西岸に進出した幕軍との銃撃戦で部隊の一部
は本隊とはぐれてしまった。 彼は、第一銃隊鼓手で岡山県児島下津井で逮捕され後日大阪に送られた。 出自は、山口県大島郡久賀村農楢助二男。大阪獄に収監されていたが戊辰戦争となり釈放。以降奥羽鎮撫総督府参謀となった世良修蔵と行動を共にする。 福島殉難時は16才。 |
以下、倉敷市史(本城温 備中騒動記)による。石田恵、浅尾正之介、橋本栄吉と三人連れで15日(4月) の朝下津井まで逃れた。 帰国する船を借ろうとして折衝中に山本茂一郎が現れ、 4人で船に乗りまさに出帆しようとしたところを備前勢に襲われた。 浅尾は海に飛び込み逃れようとしたが銃撃され射殺さてしまった。ひとり橋本栄吉は虎口を脱したが、 石田・山本は船の中に潜んでいるところを池田隼人の手に捕縛。 後日談 橋本栄吉(17才)は逃げ切り5月4日下松宮原山刑場の露と消えた。 なお、森脇正之著「維新動乱の倉敷 倉敷文庫刊行会」では負傷した橋本栄吉は追いつめられ海に飛び込みそこを銃撃され海面をあけに染め死んだとなっている。 これは人名間違いで「浅尾正之介」と思える。 池田隼人の手に捕られた者は 西岡龍太(35)、長尾喜(清)代熊(16)、山本茂一郎(14)、石田恵(17)、討取り浅尾正之介。 水野玄蕃に捕らえた者 池上惣十郎(47)、その子池上虎介(13)西岡、長尾は岡山藩の物々しい警備(150名)で広島に護送される。 岡山藩が彼らにビビリまくっててたことがわかる。 長尾はやがて釈放され 大正年間に生誕地大島郡安下庄で死去。 その他山本、石田、池上父子 4名は大阪奉行所に護送された。 山本茂一郎の出自として 長藩柳沢備後家来医師山本秀敬養子 (防州大島郡九ケ浦百姓松野直介二男)とある。防長維新関係者要覧では楢助二男である。 石田恵について大島郡石丸出生とある。 |
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彼の生まれたところは今でこそ橋が架かり便利になったが当時も今も寒村である。古文書には久賀(KUKA)浦とあるので小さな漁村であつたと思える。
この島は屋代島と呼ばれ
藩政時代は、勘場(Kanba 代官所)が置かれた。第二次長州戦争(1866)では松山藩がここに上陸。町は焼き払われた。
幕艦はこの島の南側橘町安下庄(Agenosho)を6月7日に砲撃し
回航、久賀沖に停泊した。第二奇兵隊ほか500名を世良修蔵が率い短期間の内に松山藩兵を駆逐してしまう。世良はとなり大島町の出身であ。 彼の生家不明。本姓は「越智」とあるから村上水軍の末裔か?。 |
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一方松野は20日の朝、世良を訪ねて金沢屋に来た。そのとき金沢屋に居合わせた仙台の町兵小竹長兵衛
は「世良は密事露見で殺されたよ、可哀そうだがお前も免れない、観念しろ」といい聞かせ、町裏へ引出そう
と金沢屋の裏門を出て、北裏通り立花屋の前で儀助は逃げだそうとした。長兵衛はそこで
儀助の首を切った。(藤原相之助著 奥羽戊辰戦争と仙台藩:世良修蔵事件顛末) 彼らに儀助を殺害する義は何もない。また資料によっては殺害は22日となっている。 (撮影:2003/06/12) 世良の馬丁繁蔵(萩魚棚町人)は玉沢喜之助が斬った。 また野村十郎(04/21 第四大隊付監察局直横目、24才)は須賀川で福島藩士杉沢市三郎に背後から斬られた。 |
| 長楽寺には閏4月24日同盟側の軍事局が置かれた。世良暗殺に一役かった暴力団「浅草屋宇一郎」とその妻の墓所も同所にある。また世良の取り調べは裏通りの 割ぽう旅館・各自軒 (宇一郎は「客自軒」の経営者であった井上康五郎と養子縁組みし、その後見をしていた。)で行われたが、現在その建物は福島郊外福島県福島市上名倉字大石前地内 福島民家園(024-593-5249)内に紅葉館(元各自軒)と名前を変え移設復元された。 |
| 2.福島市北町一角 |
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![]() 【天皇の世紀九(大佛次郎著)】 |
この夜(19日)福島藩は福島第一の青楼金沢屋に盛大な宴会を行いそこに招待する旨修蔵に伝えると彼は喜んでその歓待を受けた。
そこには美酒、酒肴と美妓を侍らしもてなした。夜半に至って修蔵は美妓とともに楼上の一室に消えた。 注) 史書が伝える世良殺害はおおよそ次ぎのようであった。 殺害指示者および指揮者は仙台藩「瀬上主膳」。 世良密書なるものが客自軒の瀬上に渡された。 直ちに殺害実行役が選定された。仙台藩瀬上隊軍監「姉歯武之進」。 瀬上隊軍監「大槻定之進」。瀬上隊書記「岩崎秀三郎」。 参政書記「松川豊之進」。参政書記「末永縫殿之允」。 投機隊「田邊覧吉」。投機隊「赤坂孝太夫」。 福島藩用人「鈴木六太郎」。目付「遠藤條之助」。「杉澤覚右衛門」。以上の10人である。 --- 出典:東北戦争(山田野理夫/著 教育社 ) ---
なお、「奥羽戊辰戦争と仙台藩」では「小島勇記」の名もある。 同書では実行役は11名。
殺害謀議は客自軒でなされた。 |
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また、世良襲撃の一人であった大槻定之進はその履歴書の中で襲撃参加者は使番姉歯武之進・
投機隊田邊覧吉・参謀書記末永縫殿之丞・同松川豊之進・投機隊赤坂孝太夫・瀬上隊帳付岩崎秀三郎・
福島藩鈴木六郎・同遠藤條之助外に福藩徒組(かちくみ)の者弐人、
これは世良が手配させた密書送達者であった。とし合計11人となる。 更に、極楽院宗郷(瀬上隊農兵長)・瀬上氏家来岩淵左覚・極楽院組佐藤惣太郎の名もある。 大槻定之進履歴は後年に書かれたものであるが捨てがたい記録ではある。 以上出典:伊達政宗と戊辰戦争(平 重道/著 宝文堂) 襲撃はね(子)の刻(夜12時)、、、、、 そして目明かし 浅草屋宇一郎と彼の手下に命じて修蔵が逃走した場合に備えさせ、修蔵の寝所を襲撃した。 寝所突入者は赤坂孝太夫と大槻定之進であった。大槻定之進履歴で世良に向かったのは赤坂氏であるとしている。 そして善太郎は田邊覧吉が切った。重傷の修蔵を瀬上主膳が泊まっている各自軒に連行した。 また、儀助殺害は立花屋の前となっている。 上図は北が上で儀助殺害の場所の画像右は国道4号線となる。また、北町の真ん前は福島城であり、国道4号をはさんだはす向かい長楽寺。 ここには仙台藩の軍事局が置かれた。 史書から見えてみえてくるものは、酒と肴と女を餌に誘(おび)き出し殺害するというシナリオであった。 世良を殺せば問題(救会津藩)が解決する訳ではない。救会の嘆願書拒否による面子の殺害であろう。 九条総督ともども逮捕し外交のカードに使う戦術も選択肢に考えられる。会津藩士が世良を殺害するので あれば話がわからぬでもない。だが、仙台藩内では短絡的な世良殺害が稟議されていた。薩長新政府を甘く見ていたのである。 また、戦略的思考無きままの殺害であった。 奥羽越全般の戦略戦術担当は大村益次郎であり、彼は衝撃と破壊力でランチェスターの第二法則通りの 攻勢を行った。その前になすすべもなく瓦解した。 総督府には参謀添役として後の総理大臣桂 太郎も配属されている。 |
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多くの史書を自認する書籍で金沢屋をひどいもでは遊郭。すこしましなもので妓楼としている。遊郭に遊ぶような
低俗卑賤の人物が世良で、誅殺されてもおかしくない器量だったと云いたい態度が丸見えである。若しくは
遊郭の定義についてまったく不勉強な著述者か、読者の無知につけこんだかどちらかである。世良襲撃の夜、別室に会津藩士二名宿泊
中であった。 彼らもまた買春が目的だったのか。
前掲の街略図で金沢屋は遊郭をなしていない。
また、北町は遊郭ではない。いくら福島藩とその役人が無能でも主街道(奥州街道)に面した場所に女郎屋開業を放置したとは思えない。
もし放置していたなら、福島藩は性風俗に対して当時の道徳律に無頓着で許されない藩風と断言できる。彦根藩井伊直弼(井伊大老)は藩主となってすぐに娼街を一掃したとある。
幕末、遊女はおおむね誘拐か人身売買の温床であった。
当時も今も福島の一等地といってよい。だがそこには遊女も置いていた可能性があると 敬天愛人さん が随筆に書かれているので紹介する。 まあ、二本松落城(1868/07/29)のあと家臣を置き去りにして米沢藩領に逃亡した板倉勝尚を藩主に仰ぐ藩である。なにがあっても不思議ではない。藩主に逃亡された家臣一同。恋々とし藩主を追いかけ全員 福島市内を後にした。南坊平造論文「明治維新全国諸藩の鉄砲戦力」でも唯一掲載のない藩である。米沢に逃げた藩士一同。なかば米沢藩に恫喝され、濡れ鼠で福島に引き返した。 武士道が聞いてあきれる。(1868/08/01 福島市史 通史編3;近世2 福島市立図書館蔵) |
| 最近でも「G研究社発行:幕末大全 下巻 維新回天と戊辰戦争」の中で作家S氏は遊郭金沢屋としている。どんな資料を拾って 金沢屋と福島市北町一角が遊郭としたのであろうか。当誌が興味本位の読み物であったとしても情けない。 |
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殺害されたときの世良修蔵所持の品 (復古外記) 刀一振。 短刀一振。 元込銃1挺。 ピストル1挺。 セコンド1ツ。 蟇口(がまぐち)1ツ。 金五六拾両。 紺島木綿単物1枚。 蒲色風呂敷1枚。 |
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「奥羽戊辰戦争と仙台藩」によると14日には世良殺害につい稟議
(仙台藩:但木土佐、坂英力ら)された。後世19日付け世良発大山宛て密書が露見し
仙台藩士らは激発され世良殺害に至ったように伝えられているがそれは口実に過ぎない。 会津松平にしろ仙台伊達にしろ血筋という既得権益のなかに埋没し、回天の志もなく奥羽列藩同盟を作った。 八ヵ条からなる盟約を掲げたが、政権構想はない。薩長の理非を世に問うというかたちを劣悪な武装の軍事力を背景 に烏合の衆的にまとめただけに過ぎない。 |
![]() | 多くの史書が世情に疎き奥羽列藩は政局(京都や江戸)からの距離により情報が届きにくかったとしてしている。
だが京都〜仙台、京都〜鹿児島の間に距離的差は認められない。 幕末政局の中心は京都であった。政局との距離は関係ない。京都直近の加賀前田家も眠りこけていた。 |
| 3.殺害された者たちの墳墓 | ||||||||||
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| 陣馬山には二基の石塔がある。向かって右が世良。左が勝見、松野、繁蔵三名。白石市史跡として保存され墓域は山中 にありながら手入れが行きとどいていた。(撮影:2003/06/12) |
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列藩側の史書は世良殺害を契機として戦火は東北全般に拡がった。とある。拡がる状況を創り出したのは仙台藩である。当時の日本を考えたとき諸外国による日本侵略の危機感
の中で統一国家を早急に創らねばならなかった。現在の福島以北に軍閥が割拠する状態を許せる訳がない。その意味で長岡藩の河井継之助も同罪である。
小藩でありながら最新式銃器を購入し武備局外中立を唱えた。当時も今もこれは馬鹿げた絵空事にしか過ぎない。 時局洞察力がまるでなく人物的には最下等に属するといっても過言ではない。
そしてこの長岡藩の殿さま(牧野忠恭、忠訓)は西軍との戦闘のさなか家臣を置き去りにして他領に逃げ出してしまった。 幕府老中を務めたほどの人物がである。これまた武士道が聞いて呆れる。当時の武士の世界、いまのわれわれが考えても首をかしげる行動が目立つ。そこには名誉も矜持もない。 仙台藩について 先述したように仙台・福島連合暗殺集団が世良を殺害し密書を発見し関係者が激発し大乱に繋がったと記すが、密書なるものは 単に出先機関員の具申書にしか過ぎない。バカ殿(伊達慶邦)ならいら知らず戦書か具申書かの判別がつかなかったのだろうか?。 |
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おまけに列藩側は、まことにお粗末な組織と装備で西軍に立ち向かった。
冷静な現状分析があればもう少し違う選択肢もあったはずである。
そして結果としてこの戦争に負けたわけであり自らの戦力を過信した自分が悪い。 負けるとわかっても自らの「義」によって立ち奥羽戦争を始め (人でも組織でも「義」を貫かねばならないときもある)負けたのなら、その恨み節を薩長土肥に 向けるのは筋違いというものであろう。(陣馬山墓の場所JR白石駅北北西直距離1.2Km) 左の赤丸で示したところが1文字削り取られている。世良の墓も同様な細工がされており削られた 文字は「為賊所殺」だといわれている。 |
| 4.北の大地斗南選択は会津 | ||||||||||
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天誅組わずかな生き残りの一人である
池田謙次郎(膳所藩、中村小次郎)奥羽鎮撫総督府世良修蔵麾下。奥州二本松領信夫郡金谷川村(福島市清水町)
路傍にて斬殺体で発見。被疑者は仙台藩士栗岡五郎七郎・岡崎堅守と伝えられている。
彼は閏4月20日、白河口で負傷竹籠で搬送中だったという。
(慶応4年(1868)4月22日、25才)
この時点仙台藩は錦旗も拝領していた。東北全体を戦火にさらした
張本人は仙台藩主伊達慶邦と筆者は思う。 やがて会津藩は薩長によって不毛の地、斗南に転封させられ艱難辛苦に曝され、いかにも
長州が極悪人であったような書籍が出回っているが、斗南を選択したのは会津藩で猪苗代と斗南のどちらかを提示されていた。 あたかも不毛の地を押しつけたと推量できる記述をしてきた多くの小説家の作品を、史実として誤解したことが 今日なお長州と会津とを疎遠にしていると筆者は思う。 小説家S氏などその筆頭。 養子の殿様であった松平容保が、屋台骨の揺らいだ徳川に 荷担し、国内外情勢にまるで無頓着? 京都守護職として治安維持と称し変な集団まで使ったおとしまえの付け方 はあったはずであり、また鳥羽伏見の戦いも先頭を切って走り、そのあげく容保は拉致同然に慶喜に連れ去られ、 最後には見捨てられた。それでも藩祖の家訓を盾に徹底抗戦するなど、 どこか藩内で歯車が違った方向にかみ合っていた。また藩政改革を断行せず身分制の大きな壁があった。 長州が旧怨に凝り固っていたなら、第二次長州戦争で小瀬川口(広島、山口両県の県境を流れる川) の先鋒を務めた大垣藩が戊辰戦争の賞典で三万石もらえるはずがない。 戊辰戦争で確認できる長州の犠牲者428名。 四境戦争犠牲者261名。 |
| 5.勝見善太郎の賞典 | ||||||||||
| 勝見善太郎は長府(山口県下関市)で結成された報国隊士である。
当時報国隊は北越戦線にあり、なぜ
勝見が抜擢されて世良と行動を共にしたのか判然としない。
「明治元年戊辰北越戦争功労者に対し賞典禄弐万石の内より各分与(明治二己己八月)によると
士族に取立現米七石(六石九斗)永世分代を勝見国次郎が受けている。
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福島金沢屋について 祖は豊臣家侍大将斉藤武右エ門。九代斉藤浅之助のとき戊辰戦争となり福島藩板倉家指名の 西軍(新政府軍)宿舎として指名された。 目明かし浅草屋宇一郎 祖は丹波篠山城主青山下総守の臣と伝えられている。浅草屋宇一郎こと井上三郎左エ門。 二足の草鞋で目明かしと隠れ遊女を置いていたと伝えられている。宇一郎からの系を以下に示す。 |
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