丙寅初夏倉子城日記 倉敷浅尾暴動事件(騒動) 作北援兵隊員の遭難−U
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  • 4月14日、作北援兵第二陣 有宗馬之進 倉敷到着
    新暦に直すと5月28日(月曜)
     福渡で作北猟師鉄砲隊(援兵隊)が備前藩に通行を阻止されていたので、代官所の書状を添え(これは愚輩の推測)備前藩出先との 折衝の任を与え馬之進を引き返させた。 代官所〜福渡まで距離40Km。 現着(福渡)まで10時間を要する。
     その内、物見村庄屋 西矢輪右衛門、寺和田村庄屋 小瀬直一郎が到着。 小瀬は三日間福渡で阻止されていたことになる。  旭川の対岸建部上は備前領である。

  • 4月14日、牧卯左衛門らの情報収集と探索

  •  奇兵隊の動静を探るため、物見村庄屋 西矢輪右衛門に漸次到着する援兵の指揮を任せ、 卯左衛門と前日到着の安東源二・今日到着の小瀬直一郎を伴い三人で 淀屋を出発。 すでに今暁浅尾陣屋は陥落。 彼らは隊士と同じく山手より三軒屋を通り総社に至った。  地元の風聞が入る。 「松山勢討取らんとするに備州勢生捕にと双方譲らず。みだりに討入るべからずと松山勢を制する。  第二奇兵隊は軍を乱さず川辺川(高梁川)ぞいに撤退を始めた。 松山・備前は追討もすることなく、陣屋を検分。 それぞれの陣所に引き下がった。 探索を続ける三人は古地、黒田村と執拗な追跡を続ける。

    【赤実線が探索ルート】
     すでに早朝から追尾を続け正午に至った。酒津で脱隊隊士らが所用(兵粮米調達)のため休息しているのを 見届け、卯左衛門は安東と小瀬を玉島御陣所へ走らせた。(指示は愚輩の推測) すでにこのとき代官所から20Kmも歩いていた。
    14日、早朝の陣屋で
     陣屋攻撃時、負傷した同志の介錯を行うと共に、攻撃で戦死した者たちの首級を門前にならべ撤退を開始。 古地、黒田、酒津を経由。

  • 4月14日、15:00 時頃。安東・小瀬は玉島御陣所へ到着

  •  4月12日。広島に出陣中の老中小笠原長行は同地駐屯の陸軍奉行竹中重固に令し追討軍を軍艦で派遣。 翔鶴丸先発で発船。幕府傭船松江藩八雲丸一番(出典:松江藩海軍歴史年譜)にも陸兵を乗せ倉敷に派遣した。  幕末艦船輸入一覧はこちら。
      13〜14日にかけて両船は相次いで玉島港手前黒崎沖に到着。総指揮歩兵頭戸田肥後守。 この船には、嘉永3年(1850)8月より安政5年(1858)1月まで倉敷代官所代官だった佐々井半十郎も手兵を引きつれ乗船していた。  また、笠岡まで帰っていた現代官桜井久之介も合流した。 幕軍は宿割りを行うとともに追討に向けて 地元案内人を雇った。 庄作、矢七、茂平、喜平の四人である。 支度金各人四十八匁。  玉島御陣所へ到着した安東・小瀬は隊士らが東高梁川を舟で下ったことを報告。
     さらに、安東・小瀬と備中国浅口郡乙島村百姓与兵衛伜又兵衛寅二十才。 (乙島の庄屋猪木久兵衛の子亦兵衛説あり) と三人で連島東高梁川に先行偵察に出掛けた。  玉島注進を指示した卯左衛門はそこまでの指示は出していなかったであろう。 彼らの悲劇の幕はこのとき切っておとされた。   玉島から高梁川を渡河し隊士らが確実に下ってくる亀島渡し西岸に達した。 推定到着時刻 17:00 時頃。 安東らについてはこちら を参照。
    江戸、ゴシップ屋「藤岡屋日記」幕軍上陸について小笠原長行(後、征長小倉口方面軍司令官)宛て報告書に
    「夜九ツ時(24:00)頃、広島表三丁目川岸より小船で乗り出し正(翔)鶴艦へ乗り移り出帆、同14日昼九ツ(12:00)備中沖に着船。直ちに 小船に乗り移り同刻黒崎村小原に上陸」とあり、まず小原に上陸したのであろう。当時すでに玉島港は河川土砂流入で港の機能は失われていた。

  • 4月14日、追尾を続ける牧卯左衛門の行動

  •  一人で隊士の尾行を続行した卯左衛門は、付かず離れず亀島渡しまで追尾した。  隊士らは河口に達し、川中に船をとめていたが西岸では 幕軍の一隊が亀島新田の堰堤に迫った。  そしてその時、幕軍からの射撃で銃撃戦が始まった。 安東・小瀬・又兵衛が撃たれた。  卯左衛門はしばらくして陣太鼓を耳にする。すると玉島方向から 大勢の幕軍が進んでくるではないか。 また、沖では黒煙を吐き軍艦が進んで来るように見えた。
    と記録している。 やがて西岸の幕軍が退き銃撃戦は終息してしまった。  その一部始終を見物した卯左衛門は興奮冷めやらぬ中、夕暮れて連島を発ち倉敷へ引き返した。  その時点で卯左衛門はまだ小瀬・安東の死を知らない。
      14日夕刻、東高梁川では
     浪士らは、古地・黒田・酒津などで調達できた川舟5艘で下り、亀島対岸に繋船。 渡海船を探しているとき幕軍から銃撃を受けた。 旧暦14日、潮汐は大潮。瀬戸内岡山付近のこの時刻なら最干潮である。 
     隊士の一部は渡海船手配までのひととき川舟にうたた寝しながら過ごしていた。
    この幕軍の動静について史書は、
  • その1
     「佐々井半十郎殿海上通船之折柄浪士の噂を聞き連島・亀島へ上陸。浪人どもへ鉄砲を撃ちかけ、浪人との 銃撃戦となった。 佐々井殿から撃方を止め、浪士もやめた。」

  • その2
     「浪士の乗った船へ」半十郎殿御手勢およそ四拾人ばかりが船に向かって射撃。半十郎殿の手 弾薬の不足で撃ち方を止めたとき、浪士より小筒数拾挺による応射がありまた銃撃戦が展開されたが、 半十郎手の者追撃する風もなくそのまま引き別れた。 浪士側には死人がなかったようだが半十郎殿人数のうち三人ほど 負傷者がでた模様。

  • その3
     浪士五艘児島郡福田村新田堤に繋船中、佐々井半十郎隊が亀島村に進出。堤外より暫く銃撃戦となった。 佐々井兵弾薬の欠乏をきたしたか浪士より先に射撃をやめた。やがて日暮れて双方引き取った。  そして、作州津山候脱藩坂部金三郎という剣術者の門弟弐人、師弟共で三士、佐々井の人数に加わらんとしたが 合印を決めていなかったことで佐々井兵に銃撃され即死した。
    いずれの記録も西岸幕府軍側から先に引き下がったと書いている。誤射が銃撃戦を先に止めた要因かも知れない。
    佐々井隊派遣はこちら
    14日、京都見廻役蒔田広孝は陣屋襲撃の報に接し幕閣に帰藩申請を行う。 直ちに許可さる。

  • ごさんべえのぺーじの Webサイトで、又兵衛は、 父、與五兵衛義直。 墓には、
    「節士猪木義基之墓 又兵衛 慕後藤又兵衛之勇烈自称又兵衛 父義直母中野 氏 玉真静仁清信士慶応二年四月十五日歿年廿」
    銃撃戦は4月14日、夕刻であり、重傷を負い翌15日に死亡したものと考えられる。
    よって、書々に、父猪木久兵衛や与兵衛と見えるが全て誤りで、與五兵衛義直が正しい。

  • 4月15日、備前に阻止されていた福渡の状況は・・・

  •  現御津郡建部町田地子の大庄屋源治郎が三木文八郎宛に提出した書付が残る。 以下、書付を記す。
  • 津高郡大庄屋田地子村源治郎書付
     両度御注進申上候、作州福渡村屯候倉鋪(敷)御加勢罷出 候同国村々之者共、追々人数相増、猟師百七拾五人・庄屋拾九人、都合弐百四人(弐百は間違い。194人)、人足 外拾九人人足才料共、今十五日九ツ半(13:00)時、津高郡 建部上村へ渡川前渡為締村役人指出し、跡締り私出勤仕、富沢村・桜村・久保・天満・勝尾より同日晩七ツ(16:00)時、 備中上高田村相移り、何之差支 無御座、無滞罷通候付、此段書上申候、已上
            寅四月十五日     大庄屋田地子村 源治郎
        三木文八郎様
     田地子村源治郎は役人の指示により、富沢〜桜〜久保〜天満〜勝尾〜上高田まで実際に歩いて見ましたが何ら支障なく 通行出来ました。と報告している。 馬之進所持の書状が功を奏したのか備前による警戒線は解かれていた。 作州援兵隊総勢はこの書付によると213人に及ぶ。 時期は農繁期に入っていた。 作北人は律儀である。 おそらく、この動員された人々の労賃は村負担であろう。 この事件で浅尾藩に臨時動員された 大谷村では労賃支払いのため蓄わえていた村費が底を尽き村有林を売却して補填した。  作北は現在でも山村過疎地である。 いわんや当時は現在と比較すべもなく 貧しかったはずだ。 幕藩体制下これだけ多人数の鉄砲隊が組織できたことは誠に不思議である。 島原の乱以降、幕府は鉄砲規制を強化し実弾を発射しない威し鉄砲さえ規制した。  作北地域。狩猟のための鉄砲ではなく、農具としての鉄砲は鳥獣被害防止の必要アイテムだったのであろう。
  • 4月15日、牧卯左衛門の行動
     翌15日陣中見舞いとして玉島陣屋に到着した卯左衛門は居合わせた中島村の三島舒太郎より安東・小瀬の 死を聞く。 卯左衛門驚愕。早速死体の所へ駆けつけた。 「両子ならひて倒て居たり、愁傷限りなく、涙なから 倉敷淀屋へ向、」と日記に記す。 淀屋で待っている西矢輪右衛門へも両人死亡の報は届いていた。  淀屋へ引き返す卯左衛門と玉島に駆けつける輪右衛門とは高梁川東岸に位置する片島村で出合った。  卯左衛門は両人の遺体の所へ、一方輪右衛門は御陣所へ向かい死体搬送の手続きを行った。 やっとのことで諸手続きを終わった 輪右衛門は夕方卯左衛門の待つ遺体の側にやって来た。 「倶に側にありて夜も更ぬ」 卯左衛門の慟哭と悲嘆が伝わる。
     その内玉島より死体収納の長持ち二棹が届き、これに納めてとりあえず卯左衛門は倉敷に戻った。
    倉敷に帰ってみると
     作北から第三陣となる鉄砲隊総勢二百人ばかりが到着していた。 竹内嘉太郎が云うには、倉敷の変報を聞くや 村々の鉄砲隊は12日朝国元を出立。福渡で備前に阻止されて動けなかったと聞く。
     ちなみに津山〜福渡間は約30Km。
  • 苫田郡誌より 動員された村と人員
    西北条郡 村名動員数
    井村
    14
    寺ケ谷村9
    香々美村5
    寺和田村3
    年信村 4
    真経村 10
    大町村 17
    岩屋村 14
    越畑村 8
    84
    東北条郡 村名動員数
    塔中村 2
    宇野村 12
    西黒木村1
    川井村 6
    阿波村 11
    物見村 4
    知和村 3
    倉見村 12
    51
    動員数 17カ村 135人
    庄屋 村名氏名
    寺ケ谷村影森福左衛門
    香々美村産賀密右衛門
    小坂岩五郎
    物見村 西矢輪右衛門
    阿波村 寺坂喜平治
    宇野村 久永九一郎
    塔中村 牧卯左衛門
    1938年5月21日、岡山県苫田郡西加茂村大字行重(現・津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両部落で発生した 津山30人殺しの犯人都井睦雄(1917/03/05)は加茂村大字倉見に生まれた。 なお、牧卯左衛門の塔中と貝尾部落までは 4Km程度である。

    15日 浪士らは
    主隊は14日深更呼松から四国多度津に渡海。

    15日 幕軍は
    午前10時頃に恐るおそる東高梁川を渡河。浪士の探索を開始。中畝で浪士死骸一体を発見。 意気揚々と引き上げた。  幕府主隊の唯一の戦果である。
  • 4月16日、両子の遺体。倉敷到着
     暁、遺体は倉敷に到着した。 早速西矢輪右衛門を責任者として遺体の搬送開始。 「運ひて夜に日を継て帰る」 と 卯左衛門は書く。 郷里までまた80余Kmを歩く。 郷友の遺体を担ぐ援兵らの心中いかばかりか。
  • 16日 浪士主隊は
    多度津を脱出。 紆余曲折のすえ22日主隊祝島帰還。

  • 4月17日、桜井代官帰倉
    小野丹右衛門宅古会所を仮役所とする。 作州援兵隊仮役所の警備開始される。
  • 17日 浪士らは
    1.大島郡東和町船越。暴動事件参加者 本城藩人倉敷より郷里。 一部は、16日四国丸亀船で大島郡に着いている。
    2.この日、幕閣、畿内・山陽・山陰の諸侯に立石孫一郎らの徒党追討令を発す。
    3.派遣幕府軍 正午、軍船に乗り組み広島に撤退する。

    18日、京都守護職松平容保
    1.この日、立石らの騒擾について藩士二人(二木理助・諏訪傳次郎)を岡山・浅尾両藩へ派遣。音問せしむ。
    2.派遣幕府軍 軍船広島着。(出典:松江海軍史年表 旧版倉敷市史5冊 P230)

    19日、幕閣
    この日、立石らの騒擾で岡山藩に逮捕された浪士三人の広島への檻送令を発す。 残余は大阪町奉行所送致を令す。

  • 4月20日、倉敷動揺相止まず
    卯左衛門はこのように記す。 作州より飛脚来る。両士亡体滞りなく帰着。葬儀は19日。 両家親たち覚悟のこと今更悔いずと参列者みな感動し愁い落涙。 我なお悲嘆。潜(ひそか)に落涙を催したり。
    また、津山へ浪士乱入の恐れあり。その数一万。幕府軍目付曽我権右衛門(玉島上陸)が津山の対応について 懸合う。 よって、城下は大混乱に陥った。 藩士はときに騎乗し、抜身の鎗・刀を携え城下を巡回。  町人皆々家具・雑物を近在へ運ばんとして 一里(4Km)の駄賃壱歩が一両にもなったという。 と卯左衛門は書く。 やがてその混乱の中で 城下大混乱の立役者井汲唯一は自裁する。 井汲が自裁に追い込まれる原因があった。

  • 以上でこの日記は終わっている。 一方追討幕府軍の戦果は、中畝での遺棄遺体回収のみ。 浅尾より浪士を追尾し玉島陣屋に経過を報告した。 また最大の功労者三人を射殺。 そして、幕府追討軍は早々と撤退。 18日には広島に帰還した。
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