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暴動の発生は慶応2年(1866)4月5日。長州第二奇兵隊の一部が脱営し、倉敷代官所を襲撃。余勢を駆って
総社浅尾藩を覆滅。備中を恐怖のどん底に陥れた。 慶応2年、百姓一揆は日本史で最大の発生となり、うち続く凶作で庶民の生活は破断界に達した。 それにより、下級武士の困窮は世情を不安定化した。また、開国による商流は、内需完結型物品供給基盤を破壊した。 そして、庶民には攘夷が現実味をもって語られていた。 この離駒は倒幕のさきがけたらんとした。 |
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慶応2年(1866)4月10日早暁、立石孫一郎に率いられた長州第二奇兵隊脱隊部隊が幕府倉敷代官所を襲撃。備中の天地を震撼させた。 第二次長州戦争が始まる二ヶ月前の出来事であった。 この頁の記述は主として「丙寅初夏倉子城(くらしき)日記」(岡山県史26所載)及び補完史料として 「苫田郡誌」並びに御進発御用精勤者・入用金書上 (田中家文書、東大史料編纂所所蔵・新修倉敷市史第10巻史料近世下所載) 「丙寅漫録(備中騒動記)」 (池田家文庫、岡山大学付属図書館蔵・新修倉敷市史第10巻史料近世下所載) 「御進発御用につき精勤者書上」(田中家文書、東大史料編纂所所蔵・新修倉敷市史第10巻史料近世下所載) よる。 「丙寅初夏倉子城日記」 の記述者は岡山県史26で不明とされている。 第二奇兵隊が倉敷代官所を襲撃したとき、この記述者は 代官所指定の郷宿淀屋(亭主:七介)に宿泊していた。簡潔直截的な文章でよく倉敷浅尾事件を記録している。 記述の内容から作北の者と推定できる。 注) 郷宿とはこちら 淀屋の場所:備前焼ながやま 倉敷市本町5-9 諸記録の中で「丙寅初夏倉子城日記」は唯一隊士らの服装について書いている。 「丙寅初夏倉子城日記(岡山県史26)」を読み下し、史実に基づき浪士側などの記録を時系列的に記述した。 日記は、代官所襲撃初日からその終焉までの一部始終を克明簡潔に記している。 浪士たちの動向を尾行追尾し、 亀島銃撃戦まで目撃している。 当Webサイトの記述はT部とU部で構成されている。 T部は4月10日〜13日まで。 U部は13日〜20日までである。 この日記の記述者は、後述する淀屋に宿泊していた人物で作北(美作国北部)の人物と思われる。 「苫田郡誌」などから その人物は塔中村庄屋牧卯左衛門と推定できる。 苫田郡誌では牧卯右衛門としているがその他の 文書では塔中村卯左衛門(田中家文書)とあり、卯右衛門=卯左衛門で同一人物である。 日記最終日20日には津山城下の混乱まで記してあり、よって閲覧者の利便に資するためV部として この混乱の背景にあるであろう津山藩士井汲唯一について別に1項設けた。 作北とは、 岡山県北部津山市近郊から中国地方の背稜山地にかけての郷村である。美作は真庭郡・苫田郡・勝田郡など一市五郡が該当 する。 その中の北部を指す。 なお、幕末この地域の集落は倉敷代官所の管轄地区であった。往時は東南条郡、西北条郡、西西条郡などと呼ばれていた。 慶応元年(1865)、幕府により第二次長州戦争の準備が始まると、この管轄地域でいざというときに、 収量千石で五人の陣夫。二十五人に一人の宰領を差し出すことが通達された。 また、慶応二年(1866)に入ると参軍各藩は陸続と広島に結集したので、作北は軍馬の「秣(まぐさ)」の集積と輸送が命令された。 津山〜福渡〜建部〜宮沢〜桜〜久保〜天満〜勝尾〜上高田〜足守〜赤浜〜山手〜西坂〜代官所で80Km強ある。 健脚とされた人は概ね1日60Km歩いたので津山市内から代官所まで一日半の行程だった。 注)慶応元年(1865)4月12日付。征長令発す。 --- 閑話休題 --- 旧日本軍記事もので「糧秣(りょうまつ)」とあれば「糧」は人間の食べ物。「秣」は馬の飼料である。 近代に入ると、西欧列強は軍隊を漸次機械化軍としたが、 工業化の遅れた日本は輸送手段として、また高級将校の乗馬用として軍馬を前線に送った。 明治以降の日本は港湾、鉄道の建設には熱心であったが 道路は江戸時代と大差(河川橋梁を除いて)なく、大型車輌での都市間移動は不向きであった。 幕末当時の軍役で上位者は騎乗し参軍した。明治に入って兵制が整えられたが騎兵用の馬は自己調達で 金持ちのボンボンでしか務まらなかった。よって、貧乏小倅からたたきあげて将官になった連中が軍の中枢に登り つめたので、軍馬が→軍事車輌へと変遷したにも関わらず、これに対応した軍事体系とすることはなかった。 戦艦大和は造れても、第二次世界大戦に通用する戦車は造らなかった。 |
![]() 画像左「富仲間」と画像右「物見」の間でも直距離30Km (カシミールで作成) |
| まず、代官所襲撃時刻には、まだこの日記の記述者は覚めやらず床中にあった。 雨は激しく雨戸を叩く。 その中でいきなりけたたましい銃声を聞く。 その銃声から火縄銃相当で二拾目(二拾匁、75g)位の銃とも推定している。 鉄砲に関しそれなりの知識を持っていた。 この淀屋には代官所ナンバー2の田中東蔵(元締)も宿泊していた。 苫田郡誌で塔中村の庄屋牧卯右衛門は倉敷在勤とあり、 この日記の記述者のヒントとなる。 前述したように作北郷村は第二次征長戦用に「まぐさ」の収集と運搬を命令されていた。 「精勤者書上」で朱書され「まぐさ取集方」として、美作国東北条郡塔中村(現津山市塔中)庄屋卯左衛門の 名があり、倉子城日記の記述者は、塔中村卯左衛門と考えられる。 代官所元締田中東蔵と彼は 第二次征長戦に備え、前夜(4月9日)から「まぐさ」の収集や運搬について打合せのため 同宿していたものであろう。 田中東蔵は、第二奇兵隊の代官所襲撃を知って 淀屋に宿泊していたのではなく、代官(桜井久之介)の帰倉を控え卯左衛門と深更まで集計と 打合せなど行っていたと推量できる。 |
| ・卯左衛門は | ||
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以下、倉子城日記から 亭主の七介を起こすとともに、早速情報収集に駈けだした。また、同時に作北へ援兵派遣の急使を発した。 まず、広島から笠岡まで帰っている代官に襲撃被害の概略を報告するために代官所内(教諭所)に入り惨状を見る。 そして倉敷(代官所)を発し笠岡に駈けだした。 笠岡には未(ひつじ、14:00)の刻着。代官に見聞したことを報告。帰路は駕籠を賜り、22時に淀屋に帰り着いている。 代官所から笠岡まで30Km近くあるので急いで歩いても7時間は要する。 | |
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だとすると朝7時頃には倉敷を発ったはずだ。
また、15時に笠岡を発てば22時には倉敷に戻れる。
彼は被害状況を把握するため自由に入ることが可能だった代官所に隣接する教諭所、明倫館に入る。
役所の側には襲撃した浪士が屯し入ることが叶なわなかった。 笠岡への途次片島村庄屋俊介方で人を雇い笠岡への道を急いだ。 * 人を雇いは駕籠担(かごかき)を雇ったものと思われる。 そうすると玉島先一里ばかりの所で西洋鉄砲を所持した六人に出会う。聞くと浪士の一隊だという。 玉島の一里ばかり先は大谷村付近であろうか。 なお、卯左衛門の記述が正しければこの六人の別働隊に与えられた任務は何だったのだろうか?。 注)代官が笠岡まで戻っている情報を卯左衛門がなぜ知っていたのかは書かれていない。 | ||
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10日、襲撃側の動き 襲撃時刻 七ツ頃(04:00)、七ツ半(05:00)、六ツ頃(06:00)の三説あり。丙寅漫録で八半(03:00)頃より 大炮の音烈しもある。衝撃と混乱で記憶が混乱したのであろう。 なお、襲撃した隊士で士官の本城藩人の 供述では攻撃を七ツ半(05:00)としている。 その時刻だと完全に夜は明けきっている。 朝五ツ過ぎ(08:00)に代官所表門より立ちのき観龍寺を本陣として軍用金の徴発などに当たった。 午後八ツ半(15:00)過ぎ倉敷を発ち北水分峠の方向に去った。 倉敷退去も七時(16:00)の記述もある。 彼らが通過した場所の時刻としからだと思われる。 見聞録で浪士の携行砲は二挺。 襲撃の様子はこちら |
| 4月11日の昼頃までには作北に到着したものと思える。80余Kmの道のりである。倉敷を午前中に出発したとしても 小休憩をとっただけで不眠で歩いたことであろう。 時速4Km歩行で作北まで20時間を要する。 |
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![]() | 卯左衛門は八藤慎一(阿賀郡宮地村・八藤孫右衛門嫡子か?)と昼頃から、
総社方面への情報収集探索活動を行う。
![]() 風評に各地より参集する軍兵が増え、弐百・ 三百或いは五百人に及ぶという。 探索の途中で浪士が再び倉敷に引き返し討ちもらした陣屋や町家へ放火すると専らの うわさが耳に入った。 そこで浅原峠越えで総社に入ることとした。 |
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三因(みより、総社市)への峠越えのとき拾人ほどの人足に出会ったので聞いてみると、
長州奇兵隊の荷物を運んだ人足だそうだ。 聞くに、今夜は浅尾陣屋を攻撃すると云っていた。
様子を更に探るため浅尾陣屋への道を急いだが、このような状況下で総社町
に宿泊することは不可能だと思い少し引き返し軽部中島 (総社の手前3Kmほど) に泊まった。
この日記の記述者、誰に頼まれての情報収集なのか、はたまた好奇心が人一倍強いのか誠にまめで熱心である。 |
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11日、襲撃側の動き 終日総社井尻野村宝福寺で過ごした。 諸所の同志に使いを出し、池上惣十郎父子が駆けつけた。 この間、浅尾藩・備前藩使者が宝福寺を訪れ、浅尾藩の折衝で糧米と人足の提供で12日に退去するとの 約定がなった。 |
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行く先々の村では浪士のうわさが飛び交い真相がつかみがたかった。
前日のうわさでは浪士らの軍勢は増し、宝福寺を本陣とし、先手は井尻野天神山や天中庵にも
陣幕を張り巡らしているとのことであったが実際行ってみるとその痕跡すらなかった。
天中庵は松山(藩)の本陣にしたいとの話もあったが、実際には日羽(総社北西7Km)と山田(総社西8Km)
の両所に出陣の計画だとのこと。 いずれの藩の陣所としても貸していないと僧は話していた。
そして、浪士らは宝福寺に立て籠もり倉敷出発のときより人員は全く増えてはいない。 浪士は、斥候を諸所に発し警戒は厳重だった。 賊徒は浅尾は襲わないと云っているようだが 浅尾を窺っている様子にみえるということだった。 危機感にかられた浅尾は隣藩に助勢依頼を頻繁に行い、やっと松山藩は山田と日羽に出陣してきた。 一方備前藩は使者二人を宝福寺に派遣したが浪士と酒宴を催して帰ったとか。 この話は大仰に四方に飛び交って小諸藩(新見・高松・撫川・帯江)の陣屋は恐慌状態になってしまっている。 全体の風評で賊徒らは「代官が広島を出立するとの情報で帰倉日をねらって代官所を襲撃したが、 襲撃日に代官が笠岡に泊まったことを知らず討ち洩らした」 と残念がっている。とのことであった。 この日、堪(湛、たえ)の渡しを渡り川辺を経由し倉敷の宿へ戻った。 注)川辺は湛井の対岸少し下流。 卯左衛門が倉敷に帰ってみると 元締田中東蔵様・直江喜平二様・堀屋賢蔵様・長谷川良介様(ポスト上位者順)の方々の 奥さんや子供さんたちも無事にお逃げになったとか。あわせてご本人様ともどもご在所がわからない。 所内に乱入した浪士らは女・子供は撃つなと云いつつ門まで案内したとか。 そして、卯左衛門は腹が立ったのか次の記述に力がこもる。 不戦隠遁(ふせんいんとん)として次の記述をしている。 「御用人清水某剣を抱いて走去り、御警護人々 大橋仁吉・山川佐太郎・板屋常三郎・和栗保三郎・同元助・木村松三郎・ 永原勝五郎・吉岡庄二郎・八藤慎一・逸見保太郎・小林虎一・児島輝之進・太田隆造、 皆不戦走去、或隠遁、禰屋武七郎鉄砲弾が右耳を貫いただけなのに戦わず塀を乗越え 逃走した。」 注)この騒動で備中松山藩の山田方谷は一隊を率い妙本寺(賀陽町)で守備についたが、 浪士来るとの誤報で動員された農兵は、蜘蛛の子を散らすように逃げたとある。 |
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12日、浪士らは 午後、伯耆に向かうと称し宝福寺を二手に分かれて北上した。 進行は遅々とて進まず湛井で合流。 宍粟で大休止。 人足を開放。 |
![]() 【安東の村 山形村と津山市の位置関係 (直距離10Km)】 |
![]() 【福渡。川は旭川 対岸備前領 津山から30Km】 |
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源二は11日夕、村を発した。村は山形村(現:津山市勝北町新野山形)。援兵要請の知らせが届くと直ぐさま出立した。
変報を知った各村落はかねてよりの打合せどおり猟師鉄砲組を集め、先発として寺和田村小瀬直一郎、井村庄屋
久安島太郎、安東源二が倉敷に向かった。 源二の現着により、卯左衛門は小瀬、久安らが福渡(建部町福渡、旭川渡河地点)で 備前藩により足止めをされていることを知る。 彼らの肩には火縄銃があった。異様ないでたちである。 備前藩の出先にはまだ倉敷の変報は届いていないはずだ。 備前藩治安責任者とすれば当然の措置である。 苫田郡誌で先発三人としているが、安東のみ先着している。 小瀬・久安と行動を共にしなかったのであろう。 各村落の援兵は火縄銃を背にして津山城下をかすめながら福渡をめざした。 津山藩も状況把握が出来ていなかった。 やがて 状況がわかると城下は大混乱に陥った。 天誅組の変に絡み御徒士井汲唯一を獄に収監していたのだ。 代官所を襲撃した首班立石孫一郎は城下二宮の立石正介に養われ、かつ、 剣士井汲唯一の門下生であった。唯一奪還のため津山城下に乱入。との噂が真に迫って伝播した。 |
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13日、浪士の挙措 暁浅尾藩陣屋を襲撃。 鎧袖一触。 攻守双方に死傷者発生。 前日宿泊していた宝福寺で朝食。 その後 陣屋に戻り、松山・備前の攻撃に備えた。 地雷火など敷設し必死の覚悟で守備に付く。 備前藩使者来陣。 退去通告と 状況により干戈を交えると話す。 立石、隊士と永訣の別れをしたい。今宵一夜の余裕を乞う。 襲撃の詳細はこちら |
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郷宿とは 代官所へ用事のある人の宿屋。またその手続き、交渉などを世話した。倉敷には猶田屋寺見家、郡屋山川家、淀屋吉田家、戸田屋若林家の四軒あった。 その内郡屋山川家の山川C太郎は事件当夜代官所で宿直していた。 逃げ出して無事である。 |
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明倫館 天保5年(1834)4月、代官所内に造られた学問所。 |
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