坂田礼助(介)と投獄の理由

角田直一著 「倉敷浅尾騒動記」、他より引用
新録派内の抗争ではなかったのか?
 幕末倉敷村で村政や財力に大きな力を持っていのは児島屋大原家、同じく児島屋植田家、中島屋大橋家であった。児島屋植田家の当主武右衛門方清は家産的には絶頂期であったが何故か人気がなく子の代に斜陽なってゆく。
 残るは、児島屋大原家と中島屋大橋家である。この頃には古録注1と呼ばれた家々は衰微していた。仮説だが新録内での勢力争いが水面下で起きていたのではなかろうか。 古録に属する銭屋岡熊之助が残した幽栖日記文久三年(1863)元旦から四月末までの間で中島屋平右衛門(敬之助義父)や大橋敬之助が再々ならず訪れ、一酌したり歓談している様子が見て取れが壮平清久が訪れた記述はない。  礼助の家は中島屋の借地であり、店子と大家の関係なのだ。
一方、礼助が耳を切り落とした人物は新録内で覇を競う児島屋壮平清久で吉井屋原家から養子に入った。
幽栖日記にみる、敬之助と義父平右衛門の訪問
正月七日、曇天 大橋(平右衛門)二更前大酔ニ来ル。大橋浦亭ニ一酌
二月十一日、晴天少々暖和 夜大橋竹泉(平右衛門)来リ共ニ船尾大人と対酌ス
二月十六日、年寄敬之介(大橋・立石孫一郎)、良助、大人御出。御上人御出。瀬尾晩迄談笑ス。
二月十九日、晴天 大橋敬之介子来ル一酌

その後発生する下津井屋事件に連座した坂口屋桐三郎もしばしば熊之助を訪問している。桐三郎は明治初年倉敷を去るが、なにか気まずい雰囲気があったのであろう。
児島屋大原家
窪屋郡倉敷村
   (三代)    (四代)    (五代・養継)  (六代・備中屋藤田氏)(七代)
   與兵衛金基 ―┬―與兵衛好道 ==壮平清久 ―┬==孝四郎宣之――┬―――孫三郎(敬堂)
    寛政9   | 文政3     原氏    |  藤田氏    |   昭和18
    室阿部氏  | 室福武氏    明治15  |  明治43   |   室石井氏寿恵子
   (下津井屋) |         室好道娘やす|  室原氏    |
          ├―安右衛門    室和田氏  |         ├―――卯野
          | 小山家嗣(養子)      └――久野     |   吉井屋へ 
          |                     原家嗣     |
          └―女                             |   分家
            藤田直之妻                   └―――南賀
            岡山磨屋町備中屋藤田氏(醤油製造)
    
     当系図の出典ごさんべえのぺーじである。なを一部筆者が加筆した。

礼助投獄の経緯と児島屋大原家について
 翌、元治元年(1864)12月18日に発生した下津井屋阿部成章父子殺害放火事件や、その遠因となった成章による米穀津留違反事件での入牢に対して、代官交替の機に乗じて賄賂を行ったとされる濱田屋小山家と、児島屋大原家は縁戚関係にある。
 大原家は倉敷を文化の薫り高き町にした功労者である。文久3年(1863)梅雨時と伝えられている今橋事件注2が起きた。 主は五代目壮平清久である。壮平は享和元年(1801)の生まれ。三代目與兵衛金基は安永8年(1779)の庄屋文書に、 新川住井筒屋借店、古着商与兵ヱ、持高9斗7升。父が死んだとき19才であった。四代目與兵衛好道は一人娘のやすしか生まれなかったので、 一族である吉井屋二代小右ヱ門の三男壮平清久を娘やすに娶したが、彼女は文政11年(1828)19才で早没した。 そこで、福山和田耕雲の娘美和を迎えて絶家を防ぐ。
板屋和栗家は廻船海産物問屋であった。同家吉次郎は下津井屋事件に参加したと伝えられている。ただし本人は否定。吉次郎は下津井屋事件後新選組に入るなどしたが新録派の有力者であった。
 三代目與兵衛金基の妻は、前神橋のたもとにあったと伝えられている下津井屋阿部の娘であ。
余談になるが、三代目は井筒屋水沢家の借家からスタートし五代目は苗字帯刀を許される壮平清久。続く六代孝四郎宣之は倉敷紡績に巨額の出資をして初代頭取に就任。 七代孫三郎敬堂は数々の社会事業をやって家名家産を大きくし、且つ倉敷をして文化都市に大変貌させることになる。代を重ねるごとに衰退する家と、隆盛する家と、後継者養成がいかに大切なことが知れる。
 余談だが、壮平の後を継いだ孝四郎宣之は岡山備中屋の裕福な家の生まれだが、壮平は孝四郎に天秤棒を担がせ小商いをさせたと伝えられている。孝四郎は養父の意とするところを汲み家産を大きくした。
 さて、本旨に戻る。 庄屋児島屋与兵ヱは村会所からの帰途を顔見知りの坂田屋礼助により突然襲われた。場所は今橋南詰めの所で家は現在の大原美術館である。礼助は後ろから切り付け左耳だけを切り落としたとされているが。どのようにすれば耳だけ切り落とされるのか知りたいところではある。
 与兵ヱは万延元年(1860)3月に年寄役となり翌文久元年(1861)庄屋に任命された。その頃倉敷村の庄屋は二人制で先任者は中島屋大橋平右衛門正直(孫一郎の妻慶の父)である。
 加害者の坂田屋(礼助)は天保年間の庄屋文書で新川住、中島屋(大橋家)借地、無高、乾物小売船稼人。とのみ分かっている。嘉永3年(1850)年、 西日本に大洪水が起こり倉敷も大きな被害を受けたが、この頃から坂田屋も生活困窮となったらしい。それは、礼助15才の頃だったという。

■坂田屋礼助(介)

倉敷新川町の乾物問屋坂田屋栄助の養子(栄助妻の連れ子)。 庄屋植田武右衛門方清(最初に新禄側代表として庄屋に選ばれる〔文政11年(1828)〕・民芸館は植田家の米倉)の計らいで会所雇となった。
美観地区観光客の休憩所、案内所となっている倉敷館が植田家屋敷である。

■山口県の歴史では

倉敷代官所の襲撃は彼の孫一郎の私情に基づくものとしている。 彼の義兄が投獄されておりこれを救出するために隊兵を動かした暴挙としている。
孫一郎の室慶の父は大橋平右衛門正直で2男5女の子福者であった。
平右衛門は掛屋注3も行っていた。倉敷において掛屋の主たる業務は年貢銀の出納だった。代官所管下村落の年貢銀を大坂の幕府金蔵に納めることであった。その額は1年で1万両にも達したという。  掛屋は嘉永5年(1852)からだと伝えられている。
 このような家の関係者を獄につないだとなれば、倉敷代官の首がいくつあっても足りなかったであろうし、事実義兄なるものは存在しない。
 長男は平右衛門直諒(仁吉)で家督を相続。直諒の姉(正直長女)慶が孫一郎と結婚し西大橋家となった。 義弟は当然平右衛門直諒(仁吉)であるが彼は犯罪を犯したこともなく投獄の事実もない。 代官所襲撃時には警備のため代官所宿泊者として名を連ねている。
 この当時倉敷村の庄屋は二人制で植田武右衛門方清と、もう一人は同じ新録である大原与兵ヱ(壮平清久)で慶応4年(1867)3月まで村政に従事している。大原与兵ヱの前任者が中島屋大橋平右衛門正直である。 当時の児島屋大原家の財力は巨大で第二次長州戦争で、大村益二郎に蹴散らされた、伯州浜田藩(後、作州鶴田藩・たずた)に三万五千両の貸金返却訴訟を起こしている。


■帰還した隊士は

脱隊の途中から立石と行動を共にした、塩田村(大和町塩田)の吉田又太郎(田熊又太郎 24才)や幼少のため処断されなかった神本備後(14才)などがしきりに立石の私怨説を吹聴している。 神本備後のその後の事績から藩政府と裏の取引きが伺えなくもない。 彼らは藩政府の広告塔の役目を担ったと思える。

■礼助(介)の投獄理由

泉屋藤右衛門の娘婿の世話をしたことから、それを恩に着せ泉屋をゆすった。
娘を世話して、ゆするというのも変な話であり、真実のところは不明である。 いずれにしても、藤右衛門と礼助の間に悶着が起き、礼助は村会所で取り調べを受けることになる。当時五石以下の百姓は水呑百姓といわれ、 取り調べの際には「むしろ」の上に土下座されられた。礼助(介)も同じ取り扱いをうけたが、 その取り調べに立会った大原与兵ヱ(清久)が頭巾を被ったままであったことを彼は憎々しく思っていた。
当然会所は解雇された。ある日帰宅途中の与兵衛を待ち伏せし礼助(介)は後ろから切り付け左耳を切り落とした。この事件で投獄された。文久3年梅雨頃投獄されたのなら釈放の慶応2年4月まで3年ほど入牢していたことになる。
泉屋と礼助の係争について詳しいことは何一つ分かっていない。

■礼助(介)と孫一郎

立石孫一郎がまだ大橋敬之助であったころ 敬之助は礼助(介)の淡白な気質と人柄が好きであったという。さらに、ともに養子(連れ子だが)という境遇が二人を近づけた。
礼助(介)は六尺近い大男で、豪放淡白、直情径行であったといわれ、彼は文武に秀でた年上の孫一郎を尊敬していたという。
また、隊士から見れば兄弟のような親しさが伺えたとも史書は伝えている。

 
坂田屋礼助の墓は誓願寺境内にある。井筒屋水澤家大墓地手前左手である。
渡邊新三郎氏が百回忌(昭和41年/1966年)に建立した。立派な自然石である。
新三郎氏は勤王志士と刻まれたが、礼助が勤王の志士だったという史料はない。 観念的尊攘家森田節斎が倉敷村で閑塾〔文久元年(1861)〜元治2年(慶応元年・1865)3月〕を開いていたから、攘夷について少しは彼の耳に入ったかもしれない。

仏光山成親院 誓願寺(浄土宗)  倉敷市阿知2丁目25−36
古録 13軒
和泉屋岡家岡一門の宗家、蔦屋、銭屋、向銭屋、貝屋など分家沢山
蔦屋岡家岡熊之助の本家。現在の今橋畔の大原家がかっての蔦屋。
俵屋岡家蔦屋の分家。倉敷義倉の創設者の一人。
銭屋岡家蔦屋分家。幽栖日記岡熊之助翠竹の家。明治初年に俵屋とも絶家。
坂口屋岡家銭屋の分家、坂口屋桐三郎克昌、下津井屋事件に連座し明治初年倉敷去る。
岡一族は近世中期ころまで、倉敷村の政治、経済、文化などの指導的立場にあった。幕末には衰微。
播磨屋原田家紀国屋小野家分家
瀬尾屋藤井家慶長以前から倉敷村に住んだ。明治になって出郷。
宮崎屋井上家 倉敷で最も古い建物がこの家。油屋吉田家と親戚。
油屋吉田家 
紀国屋小野家 慶長14年(1609)年以降連綿として庄屋及び庄屋助勤を勤める。
倉敷に現在も続いているのは、宮崎屋と紀国屋小野家。戦国武将の末裔。
華屋井上家(作州津山藩剣士井汲唯一が道場を開いたと伝えられている。)
大島屋大島家慶長以前から住んでいたと伝えられている。嘉永,弘化頃没落。
井筒屋水澤家備中を代表する金持ち。文政11年(1828)庄屋公選制から古録を代表。幕末頃に衰微。
水沢家巨大墓地が誓願寺に残る。
 政治的主導権争いの新録・古録騒動は寛政3年(1791)〜文政5年(1822)。
新録 27軒
児島屋大原家 元姓は原、三代金基、妻下津井屋阿部家から迎える。五代清久(養子)が礼助に耳だけ切り落とされた。
作州鶴田藩(前浜田藩)三万五千両貸す。
児島屋植田家 文政11年(1828)庄屋公選で最初の庄屋となる。これ以降庄屋は二人制となる。
中島屋大橋家 平右衛門の娘慶と敬之助は夫婦、嫡男仁吉代官所内に宿直
平右衛門竹泉と号した。敬之助の義父。明治20年2月11日没。享年78。掛屋となるなど財をなした。
東中島屋大橋家 大橋家分家。この家の分家が北中島屋大橋。
角屋内藤家  
板屋和栗家 (和栗吉次郎、下津井屋事件に加わる。本人否定)
吉井屋原家 大原家の身代を大きくした児島屋與兵衛清久の実家
万延元年多額献金により、苗字帯刀を代官所許可。
下津井屋阿部家 下津井屋事件の主人(成章)・伜(寿太郎)惨殺される。娘児島屋大原家に嫁ぐ。
濱田屋小山家 (大原家の娘が嫁入り。下津井屋阿部成章が入牢した折り、親任桜井代官に贈賄)
児島屋大原家,濱田屋小山家,下津井屋阿部家は親戚である。
日野屋木山家  
広島屋林家 (本姓越智氏)
堺屋林家  
土佐屋林家  
坂本屋石井家 和算の大家を出した。墓地は中島屋大橋家(老松町)に隣接。子孫現存。
成羽屋黒瀬家  
茜屋由良家 米肥商。新録・古録の文政訴訟では自費で江戸に赴き情報収集を行う。
澤屋平田家  
杉屋塩飽家 家は銭屋の西隣。本業は薪炭業。
尾原屋内田家 杉屋塩飽家分家。和算の天才少年を出した。幕末頃他所に移住。
八濱屋藤波家  
竹本屋辻家  
布屋児島家  
福嶋家 寛文年中に越前から移住して医者
広江屋三宅家 三宅丈平 飛脚業から庄屋となる。森田節斎を倉敷に招く一人。
大坂屋林家 (林孚一、立石孫一郎に長州への紹介状を書いた?。現在の(株)林薬品)
三宅丈平らと森田節斎を倉敷に呼ぶ。
郡屋山川家 備前国児島郡郡村(岡山市郡)から移住。大阪屋林家と親戚。清太郎は代官所より脱出。
讃岐屋山川家 (山川眞喜太代官所で死亡)
   大阪屋を軸として、郡屋、讃岐屋は重縁を繰り返す。

−余話−  作州鶴田藩六萬一千石 慶応二年(1866)第二次長州征伐に際して、浜田藩は幕軍先鋒として石州口の守備についた。浜田藩は村田蔵六率いる長州軍に連戦連敗し、遂に浜田城に自ら火を放って退いた。浜田藩は飛領地である作州久米北条郡に移動する以外の選択肢はなかった。  慶応三年(1867)三月、藩主松平武聰は、大庄屋福山元太郎邸に入り藩名を鶴田(たずた)藩と改めた。意外と知られていない事実であるが、幕末も押し迫ったこの時期に新たに藩が立てられたのである。その後、藩主松平武聰の居館をこの地に建設することになった。 居館が完成したのは明治四年(1871)六月のことである。 しかし同じ年の同じ月、版籍奉還。続いて七月には廃藩置県が発布され、 松平武聰は藩知事の職を解かれ東京に召し出された。従って武聰がこの地に居住したのはわずか三ヶ月ほどであった。殉難碑 御殿跡に殉難碑がひっそりと建てられている。石碑の裏には幕長戦争や鳥羽伏見の戦いで命を落とした浜田藩兵の名前が刻まれている。戦死者の名前の先頭に岸静江とある。 旧知の友人に遠い僻地で出会ったような懐かしさを覚えた。
 なお、浜田は長州軍による占領統治のまま明治維新を迎える。
注1 古録、新録と呼ばれるようになったのは明治になってからだという。古録とは早くから倉敷村に入って来た家で、新録とは倉敷村ができあがった後移入してきた家を指す。 幕藩体制は村落の有力者を行政に使ったので、村政を自己の都合のよいように牛耳ることができた。それにより、また財力を増すことに繋がった。江戸時代は高金利社会でもあったから、借金返済は庶民にとって不可能に近かった。
注2 倉敷美観地区に堀割のように見える倉橋川が流れいてる。上流から今橋、中橋、高砂橋、前神橋である。 今橋は広江屋三宅定平によつて命名された。現在の大原美術館の前である。
注3 「掛屋」大橋平右衛門は掛屋として年貢金銀の出納に携わった。倉敷代官所の掛屋の仕事は年貢銀を大坂幕府金蔵に納入する役目。幕末期には正銀流通量が不足し、 倉敷での正銀調達がほとんど出来なくなり大坂で換銀されたという。 出典:倉敷の歴史第19号(2009/03)岩城卓二論文
(註) 引用「幽栖日記」は森田平三郎/著 倉敷雑記


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