| 【浅尾藩陣屋に遺棄されていた日記】 |
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やがて撤退した浅尾藩の陣屋に誰の物か一冊の日記が遺された。石城山か
ら総社市までの部隊の動きと動静をこれによって現代の我々がたどることができる。 以下総社市史近世史料編付録「風窓紀聞附録備中騒動記(下)東備 本城新集録 頁1057〜」による。 |
| 四月四日(5.18 金) | 早朝より議論差起候事、 |
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同 五日夜 五時(20:00) (5.19 土 20:00) |
議論相迫り有田隆蔵(楢崎剛十郎) 曖昧に付縛之候事、夫より兵士一統石城陣を脱走、塩田井上 酒場(庄屋)へ集会致し直様遠崎妙円寺へ六日正暁六時(06:00) に致屯集候事、 |
| 四月六日昼 四ツ時(10:00) (5.20 日 10:00) | 遠崎(大畠町)を出帆致、 |
| 同 昼九ツ半時(13:00) | 大島郡安下庄(橘町)江着船致候事、 |
| 同 昼 | 松本(折本)吉之進(所属、遊撃軍?)来候事、 |
| 同 昼 七ツ時(16:00) | 安下庄を出帆致候事、 |
| 同 夜 八ツ時(02:00) | 油宇村(東和町)江着船之事、 |
| 同 七日朝 五ツ時(08:00) (5.21 月 AM08:00) | 油宇村出帆之事、 |
| 同六日夜五ツ時(20:00) | 沖家室(東和町)より、 吾妻左源治・秋田五郎・河村利右衛門・竹田宗之進脱走候事、 |
| 七日朝 五ツ半時(09:00) | 伊保田(東和町)串ケ瀬にて致潮待候事、 |
| 同日 四ツ時(10:00) | 出船之事、 |
| 同 四ツ時半(11:00) | 伊保田村に着船候事、 |
| 同 四ツ時半時(11:00) | 伊保田ニ而津川信介・岡本清之助来候事、 |
| 同 同時 | 村上亀之助座敷(注-1)よりケーヘル二十一挺請取候事、 |
| 同日九ツ時(12:00) | 伊保田を出帆、同夜芸州砂見ニ (広島県三原市須波)に宿す、 |
| 同八日 朝 五ツ時(08:00) (5.22 火 08:00) | 砂見出帆致、同日備后(後)鞆 (広島県福山市)の沖ニて宿す、 |
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同九日 (備中高島 08:00) (5.23 水 08:00) |
晴天鞆の沖出帆、朝5ツ時(08:00)備中高島(広島県笠岡市)ニ付、 用事(食事等)相済候事、高島ハ水島之沖ニて連島より五、六里なり 津良島(岡山県倉敷市連島)より陸地人夫三十人差出し候事、 津良島領主山崎主税之助、縣令秋田金作、才判(宰判) 庄屋三宅正平と云い、広島屋石平心配ニ付、金壱両茶代として 差遺候事、 広島屋石平は卯平の間違いとされている。 |
| 備中倉敷桜井久之助陣屋攻落候事、 十日観龍寺へ陣取候事 | |
| 十日八ツ半時、(15:00) |
倉敷観龍寺陣去り 同町高札場へ桜井久之助非常之趣、尚又、農業精々のため 高札弐枚立候事 |
| 七ツ時、 (16:00) | 水分村休候事 |
| 同夕六ツ時、 (18:00) |
三軒屋ニて夜食之事 三軒屋ハ松平備前守殿領分、夫より弐、三丁奥動場有之、 夫より半里斗総社之北ニ蒔田相模守居館有之、扨(さて) 三軒屋夕飯時、 大砲声一発致し、洋流鼓声夥敷ニ付、 斥候相立候へ共、格別之事無之、 直様立去、総社致往来候 処、蒔田藩人桃灯(ちょうちん)にて廻番致居候事、 夫より井山宝福寺へ転陣之事 注)動場は道場の誤り。 |
| 夜九時、(24:00) | 蒔田藩人弐人応接之事 |
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句読点など、及び( )内は筆者による。 この日記はここで途切れている。 そのほか白紙30枚ばかり綴じてあった。 表書は諸事控えとしてあり、 元治三年丙寅(慶応二年、1866)四月五日 奇兵隊と記す。 金銭出納を正確に記しており本陣詰の士官であろう。 脱隊以降の行動記録を 残すために記述されたものと考えられる。 日記末尾 蒔田藩人弐人応接とは新館精一郎と池上誼三である。 また、道場とは井山宝福寺である。 |
| (注-1) 村上亀之助は萩藩寄組で二家ある。能島水軍の末流で、主たる給領地として大島宰判屋代と同和田とに別れる。 第二次長州戦争大島口の戦いにあって、村上亀之助(二小隊)と村上河内(一小隊)隊が参戦した。 遺棄された日記で村上亀之助座敷よりゲベール銃を奪取?しているが、この屋敷は旧大島町屋代にあったと考えられる。 また、旧東和町和田の村上は村上河内の系である。現在の村上邸は同家の船蔵のあった場所で往時の村上屋敷は現在より山よりにあった。 和田村上有力家臣嶋屋敷は浄専寺斜向かい位置である。 東和町社会教育課談 |
| 新版(新修)倉敷市史で四月六日夜八ツ時(現在の暦日時刻では七日 02:00)の経過地点 大島宰判油宇村を岩国領油宇としている。
当時油宇村は大島宰判油宇村で、一度も岩国領になった事実はない。これを(岩国領油宇)
発見し倉敷市史編纂室に記述違の連絡を入れました。編纂室よりその後筆者がお間違いを
お認めになり、在庫分には正誤表を入れると連絡頂きました。 現在は次のデータベースサイトで各藩領を調べることが出来ます。 旧高旧領取調帳データベース この新版倉敷市史記述筆者は脱走隊の行程を地図上にプロットしなかったものと思われる。 なを、この方が間違われた要因?として著名な明治維新史家である高木俊輔氏による 「明治維新草莽運動史 1974/10/1発行」頁223 に「舟五艘で一度岩国領由宇」に著(誤字で着)き −−以下略 高木俊輔氏は山口県に土地勘がなく、現在の岩国市由宇と、大島郡大島町(東和町)油宇を混同された結果、浅尾陣屋に捨て置かれた第二奇兵隊日記に書かれてもいない岩国領由宇とされたのだと思います。 よって新版倉敷市史倉敷騒動記述者も高名な先生の記述を鵜呑みにされたのであろう。また、岩国藩が藩になったのは明治維新になってからで、慶応2年には単なる 岩国領でした。もちろん大島宰判油宇村は岩国領ではありません。 時系列的に 総社市史近世史料編付録「風窓紀聞附録備中騒動記(下)東備 本城新集録 頁1057〜」 同じく岡山県史第二十七巻近世編纂物(昭和56年3月31日発行) 頁893 下段に捨て置かれた日記の全文が掲載されており、なぜ書かれてもいない油宇を岩国領とされたのか不思議でならない。 |
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