--- 浅尾藩陣屋での闘争の結果 ---
小高い丘は修羅場であった。建物は消失し、死体はそこここに散乱し目も当てられない状態だった。
No態 様身 分姓  名年齢出身地等備 考
1 討死 中小姓 宮原新次郎26 家臣 
2 徒士 茅原八百蔵60 
3 足軽 新谷亀吉50 
4 角田房吉35 
5 矢吹文治郎 27  
6 荒木勝之丞 24 分知蒔田数馬介 
7 桂枝晴三郎 40  
8 岡 定蔵 42  
9 百姓 喜右衛門42須恵村臨時動員
10禎蔵 50
11定次郎36大谷村
12甚吉 26 小寺村
13岩蔵 63 下林村
14竹蔵 37 上林村
1 手負 目付役 松浦十次郎35家臣 
2 代官 池上金之丞28 
3 足軽 角田久吉39 
4 遠藤幾次22  
5 中間 留五郎 32 大谷村 冨五郎か?
6 百姓 平蔵48 清水村
7 慶蔵 56
8 冨吉 27
9 浅之丞30下林村
山口県文書館蔵:倉敷暴動其外より
上表は山口県文書館の「倉敷暴動其外」による。蒔田相模守が寅四月幕閣に提出した報告書の覚に記されている。 この原文は慶応二丙寅四月十六日付、中島伝七郎、二階堂小一郎連名による「奉差上候手続書」と ほぼ同一文言である。これは4月16日に公儀役人が浅尾へ出張、 彼らより提出された陳述書であった。幕閣への報告はこれが下敷き。
この時点では死者、傷者の全容を把握しきれなかったのか名前は記されていない。
討死手負之分として、家来討死弐人、同手負弐人、足軽討死六人、百姓同五人、同手負五人 とのみある。 書上は総社市史近世資料編を参照されたい。
現在知られている闘争における死者は14人。傷者は9人である。
須恵村の死者の一人喜右衛門戒名 「精心院暁知居士」 (明治25年9月調 墓籍墓 下巻 金光図書館/蔵) 喜右衛門の遺体が村に帰ったのは15日の事である。
浅尾藩首脳は何を考えての農兵徴募なのか?
 領内での百姓徴募は150名に達した。一体これだけの人員を何に使おうとしたのか。 一人前の戦闘員は一朝一夕でなるものではない。士官教育から始まって射撃、砲歩連携作戦などなど。 小銃や大砲をいくら備えたとてすぐに運用出来るものではない。
 一方、第二奇兵隊が宝福寺を 撤退し北に向かったとの連絡で陣屋結集者に酒食が供されている。少なくとも当面の危機は 去ったと読んだ訳である。それまでの緊張の糸が切れたのか後の藩士の書上(陳述書)でも ぐっすり眠っていたとある。眠りこけていたと記述したほうが都合がよかったか、本当に 眠りこけていたかどちらかであろう。

 運用を決めずに徴募したことで百姓に多くの犠牲者を出してしまった。 本格的に農兵を組織化したのは第二次幕長戦争の開戦後の9月からである。その責任者に 在村庄屋層に苗字帯刀を許して事に当たった。記録でみる限り徴募者運用について一切記載されていない。 無定見な徴募が無用な犠牲を輩出してしまった。そしてかたちばかりの関係者処分を行ってチョン。

 「長持ちの蓋を開ければ居そうろう、アッと驚く赤木朴斎」 「居そうろう」とは 亀山伊蔵(藩軍事責任者)、赤木朴斎は藩医である。 医者の朴斎が身の危険を避けようとして逃げ場を探し長持ちの蓋を開けたところ軍事責任者の亀山伊蔵が既に逃げ込んでいたというとんだお笑い種であった。 よって、あのような噂が村々を駆けめぐった。

--- 永代御用記には ---
 大谷村から動員された定二郎が闘死。冨五郎は鉄砲傷で重傷を負った。3月24日槍持ちを 許されたばかりの松浦十次郎は混乱の中、槍を紛失してしまった。その槍は、百姓此次郎が持っていた。   陣屋では真夜中でもあり、組織的抵抗を行っていない。農兵らも混乱の中、 銘々勝手に逃げたものと思われる。 騒動史で池上金之丞は督戦し大砲をぶっ放した。とあるが総社市史 近世通史編 角田家文書 浅尾騒動始末書上に彼の顛末書(書上)には掲載されていない。 少なくとも前装式大砲の発射は少人数では不可能である。

 倉敷浅尾騒動史で浅尾陣屋襲撃は12日夜のように読める。宍粟(しそう・高梁川と槇谷川合流点)で休息。 酒を飲んでいたとある。 隊士撤退の様子を尾行していた浅尾藩方は急に隊士が引き返したので前後に挟まれ 如何ともしがたかったとある。 宍粟〜陣屋間 直線距離約2.8Km
総社市史近世資料編 角田家文書(旧井尻野村)浅尾騒動始末書上でほとんどの者が 13日暁としている。二階堂民之丞、吉富淳右衛門は暁七つ前としている。 当時は不定時法だが概ね現在の午前2〜3時の間で 当ページでの襲撃時刻は午前2時と断定した上で記述している。
岡山県宍粟付近

6月5日負傷した冨五郎へ御郡医師加藤杏斎が派遣された。16日当座の手当 金10両が渡された。さらに9月1日付、全快し農事に就けるまでという条件で 壱人扶持が供された。
冨五郎全快の記録。 明治3年(1870)1月29日、扶持米が停止された。 この年、版籍奉還がなされた年でもあった。
--- 浅尾騒動始末書上(陳述書) 等から --- 要旨抜粋 ( ) は日付

池上誼三 (05/28)
 賊徒及発炮候節、及ばずながら防御しましたが遂に敗走。三和村庄屋次平方に罷り出。 身容れることなきほど憤慨し、玉島の飛船に乗って上坂、恥を忍んで京都御陣所へ注進に及びました。

梶谷信次郎 (05/25)
 玄関詰勤務で大小炮頻りに打ちかけられ、それでも頑張っていましたが御殿には誰もいない様子でしたので逃げ出しましたが、 逃げる方向で撃ちかけられ右往左往してしまいました。 その間敵一人にも出会いませんでした。不本意ながら小屋村まで落ちのびました。

焼失建物名称焼失数
作事小屋(建築) 1
足軽長屋 2
稽古場 1
家来住居 4
長屋(佐伯長屋?)2
構内東添寺院 1
馬屋 1
村役人集会所 1
13
亀山幸右衛門 (06/07)
 当日夜私は御殿に詰めていました。暁ころ、東の方より銃声がおこり直ぐさま身支度を調え裏口に出かけました。 そこには大勢敵がいるらしくすぐ引き返しましたがその間味方に出会うことはありませんでした。 しばらく様子をみましたが敵が迫ってくる様子でしたので仕方なく陣屋から逃げました。 門田村善根寺角まで馳せたところ高杉周左衛門に出会い、また町端に垪和忠平太が居ました。 三人で宿村御出陣先へ急いでいたら三軒家東端で大砲方に出会い御援兵のこと申述べ、 備前様のお答え聞くため休憩しておりましたら中島伝七郎殿・池上安右衛門がやってきました。 備前様の総社への御出陣に備え高杉周左衛門・赤木朴斎・私とで池上五郎兵衛方に出張。 兵糧その他の手配を整えました。
善根寺
岡山県総社市門田(monde)111 TEL 0866-92-0604
陣屋よりの方位 122.3度 直線距離役 550m。 陣屋から東南東方向である。
佐々井九郎衛 (05/26)
 その時本当にぐっすり睡っていました。銃声にビックリし防戦もせず逃げ本在三手村に 潜伏致しました。

中島文蔵 (05/26)
 いきなり大小炮打ちかけられ是非に及ばず退散。

二階堂勇右衛門 (05/26)
 各所への折衝等で飛び歩いていましたが、夜半頃御殿へ帰り休息して居りました。暁頃、 炮声夥しく御勤番所へ出ましたがその時には正門が打ち破られた様子で人の声が沢山聞こえました。 如何ともしがたく龍遷崎坤の方へ逃げて行きました。途中二階堂民之丞・中島源次郎・ 吉富淳右衛門と上林村庄屋角田茂市に出会い同人宅へ落ちのびました。間もなく 新館精一郎も罷越し相談したところ備前様へ御援兵で一決。 早速行動を起こし備前様郡奉行守(森)下辰太郎に面会致しました。同人が云うには 池上安右衛門がすでに援兵依頼済みであり、出動の準備を整えているとのことでした。 上の者として御恩沢に報いず、下の者の動揺を静めることが出来ませんでした。重々恐入奉候。

二階堂民之丞 (05/26)
 暁七ツ前、東北より大小炮打ちかけられ、身支度をしたものの炮発甚だしく、 防戦の手段もなくだだ一人で御門の外へ逃げました。 そこに竹槍を持った4〜5人の野兵が突っかかりました。そこで東の方を見たところ 垪和宅御米蔵前へ浪士が沢山居り仕方なく樫畔へ飛び込み、それより 溝口道へ逃げました。そこで二階堂勇右衛門・吉富淳右衛門・上林村庄屋角田茂市に 出会い同人宅へ落ちのびました。 その途中中島源次郎にも出会い茂市宅で種々評議中新館精一郎も現れ、 このような情況の中備前様へ御援兵のほか無しと衆議一決。 それぞれ備前組、庭瀬組に分かれて行動を起こしました。この度 陣屋から早々に退散したことを深く反省致しています。

藤本一馬 (05/26)
 12日は有志組を引連れ集義館へ泊まっていました。俄に銃声がしましたので全員退き、 その後西門に行きましたがもう誰も居りませんでした。上京しようと考え庭瀬で 上方に登る船がいるか聞きましたら船留めとのこと、直ぐさま備前牛窓へ行きましたが 雨天で船は出さないということで右往左往し舞い戻ってきました。
松浦十次郎 (05/25)
 面部から血を流がしながら南に向けて脱出。そこで八頭山万蔵・大谷村川手幸治郎 (注2)に出会い傷の手当てを受けている。 防戦中、刀の鍔で強かに打ったようである。 彼は所持の槍、陣笠、脇差を紛失している。陣笠、脇差はやがて 陣屋で発見されたが、槍は此次郎が持っていた。 陣笠には槍の突き傷が残されていたが 彼はその経緯を全く覚えていなかった。
十次郎闘争場面報告書
 槍を突かけられましたので、後ろにさがりましたら木の根か小石につまずいたの か仰向けに倒れてしまいました。そこに三人が打ち掛ましたが抜身のまま鍔を 顔に当て切込みを何とか防ぐことができやっとの事で虎口を脱しました。 造成中の西側山麓より弐拾間(36m)隔てて後ろを振り返ったところ、 二階堂小一郎、佐伯新吉長屋が燃えていました。所持の槍、陣笠、脇差を落としましたが 陣笠、脇差は賊徒退散後に陣屋内で見つかりましたが、槍はありませんでした。

吉富淳右衛門 (05/26)
 稲荷山の警護に当たっていましたが、賊徒退散ということで御殿に休んでいました。暁七ツ前、 東北より大小炮打掛けられ、支度して御殿御門へ行きました。そこに13〜4人集まり一旦外に 出ようと声掛け合って外に逃れ蜘蛛の子をちらすようにみんなは散って行きました。

陣屋屋敷割配置こちら
私だけで引き返し御勤番所外の石垣に潜居し様子をうがっていましたが、 炮発激しく防戦の手段なく御勤番所南樫畔を下り、溝口道へと進みました。 そのとき、二階堂勇右衛門・二階堂民之丞と上林村庄屋角田 茂市に出会い同人宅へ一旦向かいました。その途中、中島源次郎に出会い茂市宅で種々評議。 その時新館精一郎が現れ一同協議の結果、備前様へ御援兵を依頼する結論となりました。 早速二手に分かれ行動を起こしました。

--- 立石孫一郎はなぜ浅尾を襲撃したのか? ---
 倉敷浅尾騒動史はそのあたりを「甲子の歳に京都蛤御門の固めに浅尾藩が長州の邪魔をした復讐である」 としている。これでは兵を動かす根拠が薄い。大義にもならない。
 幕長関係は破断界に達していた。もとより彼らは入隊当初より死すべき命を自覚していた。 戦う相手は幕藩体制であった。そして貧苦に泣く庶民の窮状を救わんとしていた。戦えと云えば 戦ったが隊士には不本意な攻撃であったに違いない。相手は浅尾であり幕府ではなかったのだから ・・・・・・・・・。
 途中の沖家室で立石脱走隊から離脱した清水家臣秋田五郎と岩国藩浪人吾妻左源治は、この脱走隊の攻撃目標は備中の五万石の藩、すなわち備中高松藩だったと陳述した。
 この事件に参加し翌5月10日、防州奥山代宰判耳切峠で処刑された百姓兵は 「今日迄ハ 不義と名を 受け死するとも こころにかかる 国の行末」 と詠じた。彼らは死の直前まで 国の行末を案じていた。百姓が国の行末を真剣に考えていたのである。当時の常識に比し 希有の存在といってよい。
 それとくらべ立石の行動は何と 矮小なことか。この事件はホンに些細なことから発生しそして暴走した。 のっぴきならない地点(安楽寺、リタンーポイントを過ぎている)で、 立石は隊士に「倉敷に義兵を挙げ、その功で罪を逃れようと ・・・・・ 」  勝算があったとも思えない。 征長軍は広島に結集していたというのに。 

--- 戦後処理 ---
右表の処分が発令された。 そして下二人14日、続いて中の二人17日、上段の二人21日 と謹慎は解かれた。
発令日姓  名内容処分理由
6月6日 中島伝七郎謹慎戦いを逡巡し攻撃態勢を組まなかった。
二階堂小一郎
6月7日 亀山伊蔵用人に適切な助言を行わなかった。
亀山幸右衛門
垪和忠平太
二階堂勇右衛門
 注)
 大谷村小野家文書 永代御用記の表記 指扣(さしひかえ) 指控(さしひかえ)あり
 両方「差控(さしひかえ)」の意。 現在の懲戒処分で「謹慎」に該当する。
一方村人たちは、賊徒に対して岡山勢や松山勢に戦意がなく全く戦わなかった。と、 うわさをしあった。 (今も昔も外野は小うるさい。また真実を突いてくる。実際両藩は全く手出しをしなかった。)
浅尾藩はうわさ打ち消しの触れを各村に出した。
此度、浅尾御陣屋ヘ賊徒共致乱入候処、備前様(岡山藩)・松山様(備中松山藩)御援兵御 指向ニ相成、賊徒速ニ致退散候段、全御両所様御助勢故之義ニ候処、下々ニおいて、追討之 有無等、彼是論評致候者、有之哉ニ相聞候。如何事候。以来心得違無之様、村々江可被相触候
 屹度御咎義之有(きっとおとがめのぎこれあり)などの文言もなく迫力がない。 下々の者たちよ備前様や松山様が 助っ人してくれたから賊徒は退散してのであって、追討もなかったなどと 勝手なことを云ってはならんぞ! と少し虚勢を張って見せた。
14日朝、浪士等は陣屋を脱出。東高梁川を降った。
夕刻最干潮を迎え川船は動きが取れなくなり、河口まで降った隊士らは船中で思い思いにまどろんでいた。また一部の者は渡海船を探しまわしていた。そこをいきなり西岸の幕府軍から銃撃を浴びた。


注1)
 板倉勝静(いたくらかつきよ)、 備中松山藩(岡山県高梁市)第七代藩主。桑名藩主松平定永の第八子。 文久2年(1862)老中となり幕政を担当したが、内外問題を抱え、 幕閣との意見の対立をみて辞職を請うた。元治元年(1864)罷免されたが、 同年第一次長州戦争で凱旋し、 翌年再び老中に復した。徳川慶喜の信任厚く、慶応の幕政改革にあたってはよく補佐。 鳥羽・伏見の戦後、隠居。その後奥州に流転し奥羽越列藩同盟の参謀となるが、破れて 函館榎本軍に逃げた。のち新政府に自首。
 一方桑名藩主は松平定敬(まつだいらさだあき)、 美濃高須藩(岐阜県海津町、東名高速大垣IC南約11Km)松平義建の子で、 会津藩主松平容保の弟。安政六年(1859)に桑名藩主松平家の養子となった。 兄容保(守護職)と共に、落日の幕府を支えんとして京都所司代となった。 鳥羽・伏見の敗戦で藩主なき家臣軍は伊勢路を這々の体で撤退。 定敬帰藩拒否の態度を示した。身容れる場所のなくなった彼は奥羽を転変、 勝静と同様最後は函館の榎本軍に加わる。のち自首。
 極論。 幕末戦乱の原因は美濃高須家(板倉勝静、松平容保、松平定敬)と一橋家が醸しだした と断言できる。
 そして東北戦争。武力という戦略的資源もないくせに、仙台藩、米沢藩、なにを血迷ったか 救会(会津藩)を掲げ西軍と対峙。まったく無用の血が流された。
注2)
  小野家文書では川手幸太郎で松浦十次郎書上では川手幸次郎となっている。間違いなく同一人物。
注3)
  壱人扶持(一石とは)
 1石(150Kg)は成人兵士が一年間に食べる米の引き当て量であった。1坪とは、同じく一日一人が食べる米の作付け面積である。
 一反(360坪、現在は300坪)とは一人が一年間に食べる米の作付け面積である。作量は平安時代以降反収 150Kg おおよそ2俵半であった。 太閤検地で、単位系が変更されそれまでの1石を360坪から300坪(現在の1反)に変えた。(増税の為)
 よって各藩の藩力を表す石高制をとった。仙台伊達62万6千石とは、62万6千人兵士を賄えること示す。
 宮沢賢治のご存じ雨ニモマケズで「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」 とあり、米四合を600g(一升1.5Kgとして)と考えたなら年間219Kgとなる。賢治はよく食べたのか?
 一反について江戸時代は地方自治制度(幕藩体制)であったので現在のような統一基準はない。 各藩の検地時期によって棹(さお、長さを測る物差し。太閤検地では6尺3寸平方を一歩)が違うこともありうる。 検地は常に増税の目的でなされた。検地協力者は場合によって苗字帯刀を一代限りで許した。   1反=300歩、1畝=30歩
注4)
 陣屋焼失家屋に村役人集会所がある。総社市史にもこの集会所がどこにあったのか何も伝えていない。
 


この頁をUPするにあたり、郷土史家様に多大なご教示を頂戴しました。この場をお借りし深甚の謝意を表します。
有難うございました。     この頁に掲載した内容は主に次に依ります。お取り寄せになりご精読下さい。
● 金光教学第15号 永代御用記 慶応二年(小野家文書)1975
● 総社市史 近世通史編・資料編(角田家文書他、総社市)
● 船穂町史(船穂町)
● 倉敷浅尾騒動史(渡辺知水/編)
 永代御用記 慶応二年条。 小野家資料の当主は小野慎一郎で前年大谷村の庄屋となった。すなわち 彼慎一郎は百姓である。ところがこの資料には浅尾藩上層部の任免などが記録されている。 また総社市史近世資料編:角田家文書では 見廻組員の京都市内のパトロール順路までありとあらゆる項目について情報公開されている。 幕藩体制は「知らしむべからず、依らしむべし」と教えられていたとしたら大きな間違いを犯す。
 公共機関の情報開示はこの先例を習うべしと痛感した。


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