浅尾藩撤退 ・ 無惨 ・ 歴史点描

慶応2年4月13日(天候:くもり・晴,夜に入り雨) 早暁 (新暦 5月27日)
 第二奇兵隊は、総社市街を通りすぎたのち、 伯備線沿線にある臨済宗宝福寺に午後10時頃到着する。宝福寺は、 修行中の雪舟が涙で鼠を書きその鼠が動きだしたという伝説の残る名刹である。 ここに12日夕まで留まる。さらに進んで高梁川堤(宍粟・しそう)で小休止していたとき、 反転し浅尾藩陣屋攻撃の命令が下る。彼らは勇み走った。
名刹だけに大きな方丈を要す。隊士らはこの方丈に起居したことであろう。史書に撤退時総員立ち去ったと思い寺僧が方丈に入ると居残っていた隊士が不意に現れ寺僧を驚かせたという。
所在地 岡山県総社市井尻野1968  GPS 34-41-28-59N 133-44-03-68E
現況、陣屋表門から宝福寺まで1.9km

--- その時、慶応2年4月13日、暁七ツ(午前2時) ---
陣屋での戦い
 宝福寺を撤退した第二奇兵隊は緩やかに行進し宍粟(しそう、槇谷川合流点)村河堤で休息に入った。隊員に酒がまわされた。 資機材運搬の人足に散解が指示され、彼らは歓び帰路に就いた。一方陣屋内では隊士の去りたるを喜び 一盞(いっさん、酒食が供された宴)を傾け、一方隊士の尾行を行わせていた。踵(きびす)を返した隊は陣屋に乱入。 まず郡会所、と観蔵寺に放火。鬨(とき、勝ちどき)の声を挙げ二階堂小一郎宅ほかに火をかけた。陣屋 内はたちまち大混乱に陥った。池上金之丞は督戦し自らも大砲三発(注2)をぶっ放した。 多勢に無勢浅尾方生存者全員陣屋から逃げ去った。
総社市史より 近隣諸藩藩士数
単位:石,人
藩名 石 高 藩士数
岡山藩 315,200 6,545
松山藩 50,000 608
岡田藩 10,300 251
足守藩 25,000 403
浅尾藩 10,016 191
生坂藩 15,000 247
表は総社市史による。蒔田氏は在府大名で江戸屋敷があり、また当時京都見廻役だったので家臣も組員として藩主に随番していた。 資料から徒士の数が不明だが、第二奇兵隊にとって陣屋は不意打ちであり鎧袖一触だったに違いない。  浪士の供述に基づく襲撃の様子はこちら
「総社市史第四章 幕藩体制と総社市域 4 家臣団の組織と統制」によると石高10,0016石。藩士数150(191)人。 ( )は岡山県政史。

4.慶応2年4月14日 朝 (天候:雨,昼すぎより晴) (新暦 5月28日)
 隊士達はここに14日の朝まで留まる。13日諸藩の兵は総社市に結集しつつ あった。陣屋内の隊士は必死の覚悟で地雷火を12個所に設置、砲2門を配 置して、迎撃体制をか固めつつ退却の準備にかかった。隊が四散したときを 考え、そして脱出用の経費として隊員各員に 三両ずつ分配し、そしてまず助 かる見込みのない礼介(助)以下、水嶋東九郎(清水宗義)、平松精一、結城小六の首を落とし、 この小高い丘にしかすぎない焼けただれた陣屋の内でまんじりともしない夜を明かした。 状況から岡山藩を含む近隣諸藩との戦闘は避け難く隊士 の心を暗く沈鬱なものとしていたであろう。
明けて14日朝、宝福寺で朝食をすますと、午前8時頃井尻野、真壁を通り高梁川口に向かって撤退を開始した。やがて清音村古地(こち)で川舟1艘を手にいれ隊員の一部は舟で川を下った。 残余の隊員はそのまま河口に向け歩を進め、黒田村で1艘。酒津で高瀬舟3艘を借り入れ分乗し亀島渡しまで下った。
 余談だが当時の古地はこの地域の物資の集散地であり、ほぼ戦前までは、高梁河畔に船着き場の雁木(がんぎ)も残っていたが河川改修で姿を消した。(清音村教育委員会談)  岡山藩の使者が戦書(宣戦通告文)を携えて陣屋を訪れたときには、も抜けのからで一兵もおらず切り落とした者たちの首桶が整然と並べてあったという。岡山藩の使者は清音村古地で隊に追いつき戦書を交付した。
閑話休題
幕末日本医学界の巨頭が二人いた。東の佐藤泰然と西の緒方洪庵である。洪庵と従弟にあたる石原官平という男がいた。その男の次男に洪庵に師事し医者となった守屋庸庵がいた。この庸安先生事件のあった4月14日の昼、現在の倉敷市西阿智町西原のかっての東高梁川西岸の河堤を歩いていた。 そこに川舟で下って来た脱隊浪士の一行の中に庸安先生の知り人が居り、舟から「庸安先生」と呼びかけた。そして庸安先生は川舟に乗り込み、陣屋襲撃の際怪我をした隊士の手当をした。と伝えられている。 立石脱走隊の中に倉敷近辺から参加した人物が居たことを伺わせる挿話である。


その情景を目撃した村人は「庸安先生が浪士たちにむりやり連れ込まれた」と言って村中大騒ぎになったとか。
出典:倉子城 第七号(倉敷史談会・昭和46年5月10日発行,蘭学医守屋庸安詳伝・石田純郎著)

禁門の変(蛤御門) 各藩配置図

 隊士達は禁門の変の屈辱を晴
 らす機会に参加できたことを
 名誉に感じたことであろう。
 禁門の変時には攻撃側の長州
 も守備側も同等の武器で戦っ
 たために、闘志に勝る長州も
 衆寡敵せずの状態であったが、
 四カ国連合艦隊による攻撃以
 降最新式銃器と訓練により当
 時の日本で最強の軍隊に育っ
 ていた。
 
 13日未明、隊は二手にわか
 れ藩陣屋を攻撃する。この攻
 撃で記録によると3人の隊士
 と随伴者に2人、合わせて5
 人の死傷者がでる。
 1人は雑卒体ということだ
 けで姓名不詳。
 ■水嶋東九郎(清水宗義)、
 ■平松精一、
 ■結城小六、 
 ■姓名不詳(雑卒体の者)、
 それと倉敷の牢から釈放され
 た■礼介(助)である。
 礼介の存在が立石による私怨
 説となった可能性がある。
玖珂郡本郷村史の礼介(助)と 思われる記述部分。ここでは 弟となっている。 玖珂郡本郷村史草稿参照 記載は間違いなく弟。
  蛤御門は会津藩とともに浅尾藩が守衛していた。

本表出典:標準日本史地図 吉川弘文館 1989/04/01発行
禁門の変 各藩配置図
蛤御門守衛は、会津、浅尾、水戸、尾張藩である。久坂、寺島らは鷹司邸で自決。 このとき土佐人、石田英吉も居た。彼は邸を脱出するとき肩先を槍で突かれ、 歩行困難となり雇った人足の「もっこ」(土砂運搬具)に担がれ京を脱出した。
町を焼いた長州藩に京の人たちの反感は少なく、変その後厳しい会津藩の長州人狩りにもかかわらず、 かなりの負傷兵が長州に無事帰還している。

浅尾藩戦死者の階級・出自
 戦闘による戦死者は次の 
 とおりである。
 中小姓
 宮原新次郎   26才
 (元清水屋の次男、考証の要有り)

 徒士
 茅原八百蔵  60才
 
 足軽
 荒木計之助(進) 24才
  別名 (荒木勝之丞)
 桂枝晴三郎  40才 
 新谷亀吉   50才
 角田房吉   35才
 矢吹文次郎  27才
 岡  定蔵   42才

 
 百姓(町人)
 喜右衛門  42才
 禎蔵     50才
 定次郎   36才
 甚吉     26才
 岩蔵     63才
 竹蔵     37才
    以上14名
 

 負傷者7名
 家来      2人
 百姓(町人) 5人
 藩主蒔田相模守は京都に在勤中で不在。この藩は最後まで佐幕派であった。

補注1
御所には次の門があり各藩の守衛は次のようなものだった。
@乾門 主担 桑名,薩摩,宇和島,彦根
A今出川門 主担 久留米
B石薬師門 主担 阿波
C蛤門 主担 会津,浅尾,水戸,尾張
D清和院門 主担 加賀
E下立売門 主担 仙台
F寺町門 主担 熊本
G堺町門 主担 福井
その他禁裏御所への門は御台所門二カ所,朔平門,公卿門,内侍門,建礼門
これらの守衛に淀藩,津藩,岡藩,岡崎藩,小田原藩,紀伊藩,加賀藩,鳥取藩,篠山藩などが当たった。
九条家の左花山院家の当主家理(Iesato)は慶応四年正月発生した日田事件(御許山騒動)の盟主に仰がれ西下中、山口県光市室積で槇村半九郎により捕縛された。途中大島郡久賀村覚法寺(大洲鉄然)に逗留している。

以下浅尾騒動史及び資料小野家文書9 永代御用記(現:浅口郡金光町大谷 金光教/蔵)で死亡者名が分かる者。
元清水屋の次男 安原新次(治)郎。   浅口郡三和村(注1)佐方(金光町佐方) 荒木要平の子 数之進(前出 荒木計之進)。 彼は三須(総社市)高杉周右衛門に属し、援兵として陣屋に籠もる。   吉備郡総社小寺の庄屋 吉富勇三郎。  代官役 松浦十次郎。以上騒動史
 なお、騒動史で負傷後死とある代官 松浦十次郎は 永代御用記9月28日条、大庄屋難波忠五郎宛で、江戸藩邸より転勤となった平田慎作に同道し廻村している。よつて松浦十次郎は死亡していない。
  なお、浅尾藩の領地は賀陽郡に9ヵ村。都窪郡5ヵ村。浅口郡2ヵ村。兵庫須磨1ヵ村。河内に1ヵ村。あった。 
--- 永代御用記 金光教学15 1975 --- 慶応二年条に掲載。島根県立図書館は貸出可。

大谷村 新治。墓は「定次郎」前出 定二郎と同一人物。藩より院号許可 以上永代御用記
大谷村 新治(定二郎) 家族へ
新治義、去十二日夜、浅尾御陣屋へ賊徒乱入之砌、賊手ニ相掛リ相果候段、不便之至候。 依之、父子永之苗字帯刀御免、米壱石被下之、当座為御手当金、貳拾両被遺候事     丙寅四月(4月28日)
苗字帯刀を許し米一石と当座金20両が下賜された。この伝達は定二郎の弟二郎吉に 陣屋で沙汰があった。 あわせて戒名の院居士号も許された。
 新治(定二郎)戒名 [ 心壮院刃節良悟居士 ]
 [ 墓左面 ]
 遠藤定二郎智成公藩賊徒来
 勤守民役不走而戦終蒙炮剱
 疵慶応二丙寅四月十三日討死
 歳三十六依巧永免努給禄至
 忠誉也子孫不可忽之


(注)  新治の檀那寺は寂光院。(天台宗) 騒動で戦死した彼に「院居士」をつけるよう大谷、須恵両村の庄屋が 申し出たが寺では規則上出せなとの理由で、本寺及び奉行所に問い合わせている。その結果藩より 4月28日に院居士号許可が弟二郎吉(次郎吉)に伝えられた。この問題はその後も尾を引き 8月に入っても解決していない。
大谷山善勝寺寂光院
 同寺は839年に慈覚大師円仁開基と伝えられている。旅行記「入唐求法巡礼行記」が有名。 大谷山善勝寺寂光院。彼が開基及び再建したと伝えられる寺は関東、東北に多い。
 
(注1)
「三和村」 出典は大正8年に出版された「倉敷浅尾騒動史」による。明治22年6月1日 町村制施行で吉備、占見、竹村となり、さらに明治38年4月1日三村合併で三和村となった。

 山口県においてこの事件は立石の義兄在獄救出私怨説にすべての記録が終始している。私はこの説を否定する。 ただ傍証は私怨説(桜井代官への公憤と 礼介(助)の存在。このあたり (公憤)はリンクのページで「浅尾騒動」 を参照) に傾かざるを得ない。理由は、すでに経済は極度に混乱し新体制的枠組みを創らなければ状況の好転 は望むべくも無い末期的症状を呈していた。やがて第二次長州戦争が 勃発するが、武器の優劣以前に各藩とも統治(一揆の多発)の破綻に直面していた。 やがてこの戦争も停戦となるが、小瀬川口(山口・広島県境)の戦闘で先鋒をつとめた 彦根藩(井伊大老を出した)でさえ倒幕(討に非ず)に変ることになる。
 私たちは知っている。「歴史は常に強者によって創られた事実を」
 私怨であれば、指揮官の命令で付き従った青少年を斬首する必要は益々なくなる。
 また私怨説(防長回天史)の多くは彼立石の義兄が牢に投獄されておりそれの救出説をとっているが、 孫一郎の妻慶は長女で義兄そのものが存在しない。代官所宿直者の仁吉は慶の弟で義弟になる。
 当時、農山村は公租公課で疲弊し都市下層民は物価高騰により貧苦にあえぐなかで、 役人と結託した商人のみが巨利をむさぼりのさばっていた。誰かがこの閉塞した状況 を打開しない限り事態の好転は望むべくもなかった。
 ただ彼、立石は天誅組に続きたかった。倉敷のすぐ隣には長州の敵浅尾がまた松山藩が あり、これも同時に討てる。この行動が反幕機運の高まりつつある岡山藩が 決起する引金となるかもしれない期待があり、また近隣には討幕に燃える幾多の同志もいた。 この長州の百姓のアクションが封建制度を根底から打ち砕く契機となりうる読みが、 立石にあったとしても不思議ではない。
総社市清水宗義の墓
総社市清水宗義の墓
  浅尾藩陣屋址  世の中の仕組みが長州でみられるように音を立ててガラガラと崩れるさまを 体験した彼たちは行動こそが歴史を変えると、確かな意識のもとに認識し ていたであろう。さらにガチガチの佐幕派である松山藩(高梁市)と一戦を交 え、そこで隊が玉砕したとしても青史を飾ることが出来る。 繰り返して言う、常に歴史は強者によって創られると。
 立石の私怨であれば、既にその目的は倉敷の入牢者の釈放によって達したはず だ。たとえ代官桜井を討つことができなかったとしても、それは軍事行動の 目的の全とはいえない。  立石は長州への帰還を決めた。  陣屋と宗義の墓はこちら
陣屋に遺棄した品物は次の通りである。この物品の中に誰がつけたか先述 した日記が同時に遺棄された。このことによって、石城山から倉敷市までの 部隊の動きと動静を現代の我々が辿る事ができるのである。
  浅尾藩陣屋遺棄物品
 ゲベール古筒 
    53挺 内3挺大損 
 同新筒    13挺 
 具足      2領 
 ピストル    1挺 
 紅白小旗   10本 
 紅青奇兵隊小旗 7本 
 月番附小旗   6本 
 陣笠      3蓋 
 刀       4腰 
 韮山笠     8蓋 
 胴乱      20 
 玉薬箱(弾薬) 2荷 
 西洋太鼓    5ツ 
 紅印桃燈(ちょうちん)1組 
 但し破損
 石城山の火薬庫跡も今はなぜかもの悲しい。
山口県大和町 石城山山頂の碑
  角田直一著、倉敷浅尾騒動記より。

 「たった3日間ではあったが、
  平安と怯惰にねむっていた備中の天地を、
  一瞬の台風のようにゆさぶり、
  猛虎のように咆哮した」

  猛虎のように咆哮した一隊は、
  不必要な武器や弾薬、隊旗等を放棄し、
  陣屋を粛々として離脱していった。
  いま悲劇の実相を伝えるものは石城山にはない。
 
--- 歴史点描 ---
 この事件は同隊軍監世良修蔵とその家臣団不在のとき発生した。孫一郎にとって好機到来だったかも知れない。
 その話はさておき、  文久3年(1863)8月18日京都の幕府代表となり長州攘夷派 勢力と対立を深めていた京都守護職松平容保(会津藩、美濃高須藩養子)は、 大和行幸の動きに対抗して、在京薩摩藩と反長州で連携し(会薩連合)、 公武合体派の中川宮を擁して、長州派の専横を憎んでいた天皇の了解のもと、 朝廷政変を実行した。この結果、長州、及び長州派公卿が京都から追放され、 朝政は孝明天皇 公武合体派が実権を握った。 翌年6月、新選組による池田屋斬戮 がトリガーとなり世にいう禁門の変へと突き進む。 明治維新まであと6年。 徒士層は貧窮にあえぎ 農民は凶作と公租公課に疲弊していた。

文久三年(1863)
■10月 重商派政権。幕府への恭順・謝罪のため、藩内の諸隊に解散を諭示。
■11月 長州藩、3家老に自刃を命令。
■12月 長州藩、幕府に謝罪書を提出。   恭順を受け第一次長州戦争回避。
■12月 重農派、高杉晋作・伊藤俊輔の率いる力士隊が、下関新地会所を襲撃。
      重農派政権となった長州藩。武備恭順を藩是とする。
■12月 備中倉敷の豪商下津井屋吉左衛門父子殺害される。最有力主犯被疑者 立石孫一郎。

 元治元年(1864)、12月中旬高杉晋作による功山寺決起とそれに 続く内訌戦に勝利したことに幕閣は危機感を持っていた。禁門の変への長州処分が軽きに失するとの 考えを一橋、会津はもっておりこの両者が事実上中心となって第二次長州戦争へと大きく 舵を切ってゆく。そしてこれに桑名も加わることになる。  すなわち、一会桑コンビの完成である。  このような強攻策は薩摩藩大久保利道などが痛烈に批判した。
 会津が政治の渦中に巻き込まれるようになったのは、京都守護職となって攘夷派志士の弾圧が孝明天皇(明治天皇父君) の信任を得たことに起因する。 孝明天皇(終始開港に反対。すなわち攘夷だった)抜きに明治維新史は語れない。

 慶応二年(1866)一月、一会桑三者と二人の老中(板倉勝静と小笠原長行) とで最終的な長州処分案の決定をみた。 その内容は十万石の削減、長州藩父子の蟄居隠居・永蟄居処分、三家老の家名永世断絶の 三カ条からなる長州処分案で、すぐに勅許(攘夷急先鋒の長州に攘夷天皇は討伐にOKを出した)を得た。二月四日には全権を委ねられた小笠原長行が 長州側に伝達し、処分案執行のため大坂(阪)を出発した。  征長軍には長州処分案拒否の 場合、速やかに討伐すべしの軍令が動員諸藩に伝えられた。
補注2
元治〜慶応元年にかけて長州藩内での政治抗争の結果高杉晋作派の政権が誕生。 総理は桂小五郎。この新政権は「武備恭順」を藩是とした。  ところが、この新政権に危機感をつのらせた会津藩主松平容保(京都守護職) と一橋慶喜(水戸・将軍後見職・後の将軍慶喜)が主導し、長州再征が決定され諸藩に動員 令が出された。彼らは、端的に表現すると、 「攻撃してくる可能性のある危険な国にたいして予防的先制攻撃をかけ得る」と、びっくりするような戦争論が持ち出された。
 断然幕府と絶つ(倒幕まで意識していない)を藩是としていた長州は広島でだらだらと 意味のない交渉を続ける一方薩摩側から武器弾薬の斡旋(仲介坂本龍馬)を受け、 軍制改革と軍備の増強(責任者大村益次郎)に邁進していた。すなわち、幕府側が戦いを仕掛けたら受けて立つ。その意思を強固にしていた。 これにより殴り返すことの大義名分がたち、長州藩に同情的な藩の賛同を得られるのであった。

 維新回天はこの事件の2カ月後にやってきた。防州の若者の志が近代日本誕生へと歴史を大回転せしめた。
 ■慶応2年(1866) 6月 7日 第二次長州戦争勃発。   大島口への艦砲射撃で戦端は開かれ、小倉口、石州口、芸州口の各戦線で戦闘が開始された。 幕軍十万対三千五百。
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