浅尾藩村落へ驚愕走る 大谷村小野家文書
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この事件直前の 歴史点描
備中松山藩主
山田方谷と松山藩
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慶応二年四月五日。駐屯地を脱走した長州第二奇兵隊は、同月十日暁、倉敷代官所を襲撃。
その後西洋陣太鼓の調練宜しく北に進撃。総社市宝福寺に在陣。
十二日一旦同寺を転陣したかに見えたが、翌十三日暁、浅尾藩陣屋を急襲。同藩を屠った。 脱隊兵は紺の軍服襠(まち)高袴、陣羽織であった。(注1) (岡山県史第二六巻) |
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いきなりこの頁を訪問された方へ事件のあらまし この事件は維新回天の直前、慶応二年(1866)4月5日夜、山口県東部石城(いわき)山に駐屯していた 第二奇兵隊約百人が同隊幹部一人を殺害脱営し、 備中倉敷代官所及び総社市門田浅尾藩陣屋を襲撃した。 この頁はその際、臨時徴募された村落の記録を 渉猟したものである。 |
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慶応二年(1866) ■ 4月5日夜、脱営、全員船にて備中連島西浦港(4月9日)に上陸。 5日昼間雨だったという。 ■ 4月10日、早暁、幕府倉敷代官所を襲撃。九人死亡。二人負傷。 攻撃側死者無し。 ■ 4月11日〜12日、宝福寺在陣。 12日、午後3時ころ同寺出発。 【風窓紀聞付録備中騒動 上】 ☆ 4月12日、下関(小月・吉田)奇兵隊屯所に第二奇兵隊脱走の報届く。 ■ 4月12日夕、幕府軍船に兵を乗せ、海路玉島に派遣。 ※ 修訂防長回天史によると、我報告を得て幕府軍の派遣に至った書き方をしている。 ■ 4月13日、早暁、京都見廻役であった浅尾藩(蒔田廣孝)陣屋を襲撃。 攻守双方に死傷者。 ■ 4月14日、午後〜夕、高梁川河口付近の亀島(倉敷市)で幕府軍と銃撃戦展開。 ☆ 4月19日、下関(小月・吉田)奇兵隊屯所に第二奇兵隊備中での敗報届く。 ■ 4月21日、脱隊主隊祝島(山口県玖珂郡上関町)に帰還。 ■ 4月26日、帰還した隊士の処刑始まる。 |
10日暁倉敷代官所を破壊した第二奇兵隊は、同日午後3時頃倉敷を発し北の方、総社市の浅尾藩(藩主蒔田廣孝)
の方向に進撃していった。このとき大将(立石孫一郎)・副将(櫛部坂太郎)は島田方軒、大橋平右衛門所持の馬を借り騎馬にて陣太鼓四ツ調子調練見事に引取候と倉敷浅尾騒動史は書く。
藩主廣孝は京都見廻役勤番中(彼の居住地は江戸屋敷)で、当時在藩者は 足軽も含めて150人ほどであったという。浅尾藩こそ元治元年 (1864)禁門の変(蛤御門の変)の時会津と共に御門直近の守備をしてい た藩である。 浅尾藩に遺棄されていた日記には七ツ時、 (16:00) 水分村休候事。とあり、この時か 多くの書物(史書類)に倉敷の牢屋から連行した罪人(人夫、別書に百蔵としたものあり) が酔狂したこで処刑したとしている。 一説に百蔵(介)の処刑は隊士の足を踏みつけたことによる。とも書いてある。 それにしても乱暴な話だ。酔狂という表現から「ふざけて」て隊士の足を踏んだのかもしれない。百蔵は盗みで在獄していた。斬首になるような罪ではない。 倉敷から西坂を越えて総社平野に入ると、左手に吉備族の王と推定される作山古墳が ある。右前方には小丘に端麗なかたちで備中国分寺五重の塔が見える。 夜六ツ時、 (18:00)三軒屋(作山古墳東付近)ニて夜食之事の記録しているが 倉敷代官所手附田中東蔵文書 (含む、丙寅初夏倉子城日記) は備中国分寺で休息したとある。 その後隊を二分し一隊は直線的に総社宮をへて宝福寺に進軍。もう一隊は真壁を 通り湛井(たたい)に抜け宝福寺に向かった。 倉子城日記に軍兵の服装として「紺の軍服襠(まち)高袴ニ陣羽織を着、 また着さぬも有」の記述がある。隊士の服装について具体的に書いてあるものはこの記述意外に筆者は見ていない。 ![]() 【山口県周東町正蓮寺蔵 遊撃軍行進図部分】 上の画像は、第二次幕長戦争(慶応2年6月7日〜)当時玖珂郡周東町(現岩国市周東町)に駐屯していた 遊撃軍行進図である。日記の記述に服装は酷似している。倉敷に向かった脱隊隊士たちも14才の 鼓手数人と西洋太鼓も携帯している。 この図は周東町正蓮寺に残されているが行進部隊の最前に小さな鼓手が 描かれている。 なお、長州にあって筒袖の軍服は慶応3年(1867)9月からであった。 |
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陣屋まで歩いて5時間。時間はなかった。
前日早暁、当時の第一級兵器を使い倉敷代官所を襲撃。完慮なき破壊を行い、
町内有志より軍用金を徴発し浅尾藩陣屋北にある宝福寺に
仮駐していた。この離駒はいずこに向かうのかこのとき全く不明であった。
--- 同時刻 第二奇兵隊総勢約150人 陣屋北 井山(いやま)宝福寺在陣 --- |
![]() 【金光教管理大谷村小野光右衛門邸】 |
使者の持参した書面には両村で兵60人差し出せとあった。
小野家文書永代御用記慶応二年条に両村の名はない。
大谷村の隣は須恵村。おそらくこの両村で兵60人。 この時刻隊士たちは陣屋の北約1.5Kmの井山宝福寺に在した。 藩では10日夜半2月24日付で譜代にした新館精一郎と池上誼三を派遣した。退去折衝は難航。彼ら2名は成果無く陣屋に 引き返した。 藩では新館に期待をかけた。彼と立石は津山藩井汲唯一 (天誅組の変にからみ収監中自裁)と同門であった。 |
| 小野家文書にみる浅尾藩任免表 大谷村小野家文書 永代御用記 慶応二年条 金光教学15 1975 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 任免日 | 姓 名 | 格式 | 新 役 職 | 免役職 | 臨時役職 | 備 考 |
| 1866/02/08 | ■中島伝七郎 | 徒士頭 | 用人役・寺社奉行・銀手形加役 | 成益掛 | 普請奉行 | 役料増壱石 |
| 〃 | ■二階堂小一郎 | 〃 | 用人役勝手掛・銀手形加役 | 役料弐石 | ||
| 1866/02/24 | ■亀山伊蔵 | (不明) | 大目付(軍事司令長官) | 普請掛 | 役料増壱石 | |
| 〃 | 池上安右衛門 | 物頭 | 勘定奉行・銀手形取締加役 | 〃 | 役料増壱石 運用益より金三百疋 | |
| 1866/02/13 | ■亀山幸右衛門 | 給人 | 郡奉行・家老役支配 | 成益掛 | 役料増壱石 | |
| 〃 | ■垪和忠平太 | 〃 | 郡奉行・家老役支配 | 目付役・普請掛 | 〃 | |
| 〃 | ■二階堂勇右衛門 | 〃 | 郡奉行・家老役支配 | 開発掛・普請掛 | ||
| 1866/02/24 | 新館精一郎 | 譜代採用 高七石・役料三石 | ||||
| 〃 | 池上金之丞 | 中小姓 | 代官 | 普請・蔵方 | 槍許可 | |
| 〃 | 二階堂民之丞 | 〃 | 槍許可 | |||
| 〃 | 中島源次郎 | 徒士組頭 | 剣術教授・勤方 | |||
| 〃 | 佐々井九郎兵衛 | 〃 | 目付役介・蔵方・村目付・開発掛 | 徒士目付 | 御目見得以上 | |
| 〃 | 國府謙造 | 扶持壱人分増 | ||||
| 〃 | 清水謙蔵 | 小役人 | 村目付・徒士目付 | 普請方 | 役料壱石 | |
| 1866/03/24 | 松浦十次郎 | 中小姓 | 代官・開発掛・蔵方加役 | 役料壱石・槍許可 |
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注) ■印者は事件後浅尾藩より処分を受けた。 松浦十次郎の任免日は二月二十四日の誤りか? 十三日早暁陣屋が襲撃された際松浦は負傷し川手幸太(次)郎が傷の手当てを行った。川手家は浅尾藩御用達だった。 浅尾藩では、造営中の陣屋もほぼ完成し、それに伴う異動をおこなった。 また、武士であれば誰でも槍の所持ができたわけではない。槍はステータスシンボルであった。 採用されたばっかりの新館精一郎は浪士退去折衝を行った。 |
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浅尾藩首脳は困惑した ・・・・・・ 兵を向けても勝てる見込みはない ・・・・・ 表向きは長州と幕府の戦いである ・・・・・ 戦う装備も体制も整っていない ・・・・・ さりとて寺が御朱印地であろうと傍観してもおれない。 また、強気の折衝で戦いとなっては元も子もない。 用人中島伝七郎岡山藩に急使を発した。 |
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翌4月11日(晴れ、夜雨)、 備前の応接方小原重哉含め三人で退去交渉をするもまとまらず、備前応接方は去った。新館、 池上はねばり強く折衝。第二奇兵隊は糧米を無心。藩はこれに応え井尻野庄屋村木勘右衛門に命じ玄米15俵を贈った。 浅尾藩は再び岡山藩に急使を発した。曰く、「明12日右宝福寺を退陣致す旨申し述べてはいるが、 近辺諸侯方と対戦致す心得之無きしもあらず」と。 明けて12日朝、浅尾の応接方2人はその後の動向を見定めんと再度宝福寺を訪れた。 --- 陣屋襲撃まであと、18時間 --- |
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| ※ 食料の問題は脱走隊を悩ませた。銃器・弾薬,大砲などは駐屯地から持ち出したが食料は持ち出していない。 脱走翌日の4月6日旧大島郡大島町戸田の沖合で上関二三屋の五十石積み程度の船に搭載していた米を奪い取った。当時は一升飯(約1.5Kg)を食ったであろうから隊員100人の1日の消費は約150Kg。何日備中に逗留するのか計画なき脱走だったから 食料問題は隊幹部を悩ませた。後述するが、撤退時の4月14日午後遅く亀島付近で幕府軍の銃撃を受け、隊としての統制を失うと共にそれまで確保した米も遺棄したと考えられる。主隊は4月21日頃には山口県上関町祝島に帰還したが、翌日夜に秘かに光市室積に上陸。なじみの源吉に米の依頼を行っている。 |
大谷村農兵派遣者
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小野家の記録は上段右上表のように記している。中島眞久太は用人中島伝七郎(地元責任者)の分家である。
この三人は4月9日晩到着した折衝団?の応援?の可能性がある。別枠で記載してある。
蒔田家は徳川の旗本、在府大名で屋敷は江戸にあった。
よって留守居は在地有力者を統治の方便とした。中島の出自二階堂家とある。
一方川手家は大谷村でかって庄屋を務め当時は藩御用達であった。 話は前後する。前述した浅尾藩折衝役として新館と池上が派遣されたが、従者として川手紋三郎と次郎吉が従った。 この慰労金として金百疋(1,000文)を賜っている。 須恵村藤澤啓二郎家令は11日夜来着した。出発門限は明12日払暁。選兵は夜通し行われたことであろう。 選兵された者たちに事の前後を考える時間的余裕は無かった。 大義もへちまもない一方的動員であ。 もちろんその後待ち受ける空前絶後の惨劇など知るよしもなかった。幕末動乱運命の嚆矢が自らの上に降り注ぐなど夢想も出来ない平和な農村に暮らしていた。 |
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−休題− 富五郎が負傷し定二郎が死亡した。 支配村落への軍夫調達などの人件費は村負担であった。 大谷村も今回の動員で最終的に村有林の木材を売却している。 |
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--- 大谷村選兵 12日早暁出発 襲撃まであと18時間 --- 当日の天候:晴れ、新暦 5月26日 日の出 04:55 12日昼前に彼らは総社の陣屋に到着したであろう。近隣賀陽郡八カ村、窪屋郡四カ村、それと隣村須恵村勢も参集していたことであろう。 1万石の藩である。この時点でどの程度の火砲を有していたであろうか。明治3年廃藩置県の際、明治新政府は全国諸藩に所持する火砲・ 弾薬を調査報告させた。浅尾藩 施条砲1、臼砲1、榴弾砲3。ゲベール銃190挺、ミニエー銃100挺。 歩兵連発銃10挺。合計300挺。 とある。世情緊張の度を増した浅尾では「有志組」という農兵隊を組織していた。同年10月11日大谷村庄屋 小野慎一郎、須恵村庄屋福澤啓二郎を世話役とし苗字・帯刀を許可した。兵制改革を行うなかで武器弾薬を調達したであろう事は 容易に察しが付く。少なくとも陣屋襲撃のときにはゲベール銃程度を所持していたことであろう。 4月9日何らかの折衝ごとで陣屋を訪問した川手幸大郎以下6人。大谷村選兵に合流。 陣屋には総勢150人の臨時徴募兵が集合した。 大谷村総数42人。 --- 襲撃まであと 14〜5時間 --- 文久3(1863)年8月17日発生した天誅組の変が青史を飾り、一方三年後に発生した倉敷事件が 歴史上一顧だにされない現実の中で命を落とした。 攻守双方にとって誠に不幸としか云いようがない。 そして選兵された彼らが陣屋でどのようなときを過ごしたのか記録にない。 後に提出された主要藩士の書上(陳述書)で佐伯長屋炎上という部分がある。 総社市史通史編に記載されている陣屋内配置図 に佐伯長屋に該当する地所はない。そこに掲載(陣屋配置図)されている藩士宅者で戦闘による死者は記録されていない。不意打ち的強襲の 中で、上級藩士の死者はなぜ出なかったのであろうか。陳述書ではほとんどの者が「ぐっすり寝込んでいた」、 そして「身支度を調えた」とある。また、松浦十次郎のように、槍を所持し陣笠も被っている。 攻撃は二方向からなされた。記録にある藩士たちも陣屋内を右往左往している。それでも戦死者は少なかった。 |
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長州藩の軍服制定 慶応3年9月13日付通達 諸隊兵卒軍服改正の事 一 諸隊中兵卒軍服之儀、呉絽服ニして洋服同様仕調被仰付候事 但、平卒たり共着用不苦候事 但、士分の儀ハ羅紗呉絽服之間勝手次第、尤自分調ニ被仰付候事 右当年之儀ハ軍服御改正初発之事ニ付、格別之御詮議を以新規仕調、兵卒之者え下渡被仰付候へ共、已後ハ自分調ニ仰付候事 |
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藩庁は兵卒には最初だけ軍服を支給するが後には自分で仕立てろと通達した。 士分の者はこの通達以前も羅紗軍服を着用していたように読める。 呉絽服(ごろふく・Grofgreinの略)は舶来の粗剛な獣毛の織物。 出典:修訂防長回天史 頁9,583 |
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(注1) 岡山県史 第26巻 諸藩文書 S58/11/24 発行 表紙題箋 倉敷代官所関係記録 表題 丙寅初夏倉子城日記 書出し 「倉敷淀屋江宿して御陣屋大変を見聞 其荒増を記」 に記載あり。 丙寅初夏倉子城日記 の記載内容はこちら (注2) 倉敷浅尾騒動史などに池上金之丞大砲三発ぶっ放し。の記述があるが前装砲による 発砲は少人数では不可能である。実際のところ小丘でしかない陣屋でかつ近接戦で 砲発しても全く意味がない。 (注3) 主要地点の位置 備中国分寺 34.39.57N 133.46.53E 壮麗な五重塔あり。 金光町小野邸跡 34.32.13N 133.37.39E 国道2号線より家宅は見える。 |
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島田方軒 文政11年〜明治23年1月。名は泰夫。医師。倉敷県大参事。 倉敷浅尾騒動史で島田方軒らと立石孫一郎は同志で下津井会議に会したという。 |
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大橋平右衛門正直 孫一郎の妻慶の父。孫一郎の養父にあたる。当時平右衛門は掛屋を営んでいた。 |
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