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![]() | 山口県文書館に「第二奇兵隊暴徒御処置一件《という乾坤二帖の文書が残されている。この事件を担当した槇村半九郎の筆(文字)である。 次に掲げるものが最後の頁に当たる部分で、慶応三年(1867)六月八日に愛媛県新居浜市垣生で逮捕され、七月十八日山口市羽坂獄に収容された。 その一ヶ月のち概要(顛末)を藩主父子に報告した。 |
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(丁)卯(注1)八月十七日及 御両殿様御聞 第二奇兵隊脱走者 櫛部坂太郎 右之者事、於伊豫比召捕山口連出之上、御究被仰付候処、 元大島郡伊保田村浄専寺新発知(新発意・しんぽち)ニて、 先年室津義勇団に相加り、一昨年春より岩城山に引上ケニ相成第二奇兵隊五番小隊司令士相勤居候処、 去年四月六日夜山口表に嘆願ニ可罷出ニて、立石孫一郎巨魁其外多人数沸騰陣屋え砲発、 書記楢崎剛十郎殺害其後遠崎え出、孫一郎申候ハ最早山口え出候ても無詮事ニ付、 是より脱走(注2)他国ニて一挙ニおよひ可申と相勧候処、上同意之者も有之候得共、 多分其意ニ随ひ惣勢凡九拾五六人程船五艘え取乗、 由宇湊(注3)にて夜を明し伊保田ニて孫一郎其外四五人心遣を以、 上ノ関船と乗換出帆備中沖辺ニて、立石勧ニ依て同国津良嶋着船、十日朝倉敷暴動ニおよひ、 夫より浅尾を乗取対陣之内備前其外より討手出張、進退相迫り殊之外苦戦、 漸ニして川下え出船をかり乗組候得共、風相上宜ニ付孫一郎一同下津井より小船ニて、 丸亀え着十口之内跡(後)船も来り、此処にて浪士四五人に出会、孫一郎何歟(なにか)及議論候得共為指儀も無之、(注4) 夫より丸亀船ニ乗大洲中嶋着、浄玄寺縁者ニ付罷越候処、桜井軍記等頓ニ参着ニ付、 一同大船ニ乗換上関岩見嶋沖ニて二三日漂ひ、都濃郡魚ケ縁りニて孫一郎と引頭兵吉揚陸ニ付、 翌夜迎ニ揚り見候得ハ両人とも昨夜御討果ニ相成候承之仰天、即時船え帰り其趣申聞せ、 孰も当惑種々論議之上、此余ハ銘々勝手次第分散と相決、廿八(注5)夜岩見嶋ニて器械等陸え取上ケ様子伺居候処、 忽海陸より砲声響渡ニ付、打驚陸より帰り候兵士をも上得待居合之人数乗組、 漸く豊後路迠(まで)迯盪(にげり)嶋橘太郎・海野貞斉倶々揚陸、同国別府え罷越暫く潜伏、 其後大洲青嶋え渡り少々知縁有之潜伏相頼置、丸亀え見参候処冣前(さいぜん)之浪士并御国生之由高洲甲次郎其外居合、 何とそ一実効挙度と互ニ申合候内戦争と相成候ニ付、大洲え参他ハ揚陸(海野)貞斉同道佐賀ノ関迠(まで)着、 此処ニて貞斉ニ別れ日出領其外諸所忍ひ、十月此又青嶋え帰り軍記其外面会様子相尋候処、 高洲等西條ニて但馬正義党を語らひ候趣ニ付、西條三木左造方え参り居候内高洲病死、 無詮方丸亀人汀正三郎同道但馬え趣き、湯ノ嶋と申所ニて探索仕見候得ハ、正義党咄程ニハ無之、 追々之出費ニ添三拾弐両ニ刀を売払越年二月中旬西條え帰り三月節句比青嶋ニて軍記ニ出合、 滞留中宮嶋えも参詣、又々三木方え便り軍記ともども、近辺永田熟え入込候処被召捕候段申出候、 然処危急之御時節重き御軍令を犯し、多勢申合を企終ニ楢崎剛十郎を殺害、剰他国脱走及暴動、 司令士として其科上軽加之討手被差向候節迯(にげ)去、 他国諸所令潜伏居候次第廉々甚以上謂千万之儀と申聞せ、 於此段ハいか躰御厳法ニ被仰付候ても一言之申披無之相誤候、 依之丁卯十一月十八日於河田原(注6)首打捨、上関大島郡え罪科札被立置候事、 一坂太郎事、令病死候付於牢屋死骸誅伐被仰付候事、
同 この記述は山口県文書館蔵「第二奇兵隊暴徒御処置一件《最後の頁である。 なお、活字化されたものは「長州藩第二奇兵隊暴動資料集《 国広哲也/編 頁72~ に掲載がある。 |
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注1 丁卯は慶応三年の干支である。 注2 脱営の目的は武器・給与との処遇改善と伝えられているが、途中から倉敷代官所襲撃に変更された。 遠崎で倉敷に向かうということが全隊員に伝えられたとは信じがたい。 注3 「由宇湊に夜を明かし《は油宇の間違い。JR山陽線に由宇駅がある。同音のため間違えた。 脱隊最初の夜は油宇の手前沖家室島である。 注4 何歟(なにか)及議論候得共為指儀も無之、 この段階で孫一郎は今後の方策を失ったのであろう。そのことで、 論争が起きたと思える。 倉敷市呼松での伝承に多度津に着いて隊員間に口論が発生し、その一人を縛し沖合 で斬り捨てた。と伝えられている。そのことを指しているのであろう。 注5 廿八日でなく、他の史料や記述からここは廿七日の間違い。 注6 河田原首打捨。この河田原は山口市椹野川(ふしのがわ)と仁保川(にほがわ)の合流点である。 |
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櫛部坂太郎らの脱出と移動 慶応2年4月15日備中脱出。 16日讃岐丸亀を発つ。 17日暮れ伊予中島着。ここに20日まで停泊。 中島には櫛部坂太郎の親戚玄浄寺が。訪れると桜井軍記らが先着していた。 20日伊予安居島で日向木船拿捕(七半時・風窓紀聞)。 21日四つ半(午前11時)頃伊予津和地島着船。丸亀船共。 22日周防上関宰判祝島(暴徒関係で岩見島)に繋船。 23日立石,引頭、周防都濃宰判室積源吉宅にあらわれ兵粮米依頼。 24日櫛部,引頭、源吉依頼の兵粮米受領。 25日立石,引頭徳山領魚ケ縁に上陸。熊毛宰判浅江村、隊士赦免の方策相談で清鏡寺訪問。宿泊。 26日夜。立石,引頭被暗殺。同夜赦免などの首尾を聞くために櫛部が清鏡寺を訪ねる。 暗殺事件の顛末を聞いて祝島に引き返す。 27日今後は銘々勝手とし、日向木船搭載武器類を祝島へ揚陸を始める。 27日夜、白井小助指揮第二奇兵隊・麻郷兵らによる残存隊士捕縛。 |
| 櫛部坂太郎意訳 |
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櫛部坂太郎を伊豫で捕まえ山口に連行しました。本人に色々聞いたところ大嶋郡伊保田浄専寺の新発意(しんぽち・寺嫡子)で先年室津の義勇団に加わり、
一昨年(慶応元・1865)春岩城山に陣替えし第二奇兵隊五番小隊の司令士を務めていました。去年(慶応2・1866)四月六日夜山口嘆願に行くと云って立石孫一郎をリーダーとして多人数で騒ぎ立て陣屋に発砲。
書記楢崎剛十郎を殺害後遠崎に出、そこで孫一郎が申すには剛十郎を殺したことでもあり山口に出ても最早話を聞いてもらえるとも思えない。この際他国において一挙に及ぼうと申しました。
このことに上同意の者もいましたが、大方はその意に従い総勢およそ九拾五六人ほど船五艘に乗組み油宇湊に夜を明かし、伊保田にて上関の船に乗換え出帆。備中沖あたりで立石の勧めで備中連島に船を着けました。
十日朝倉敷代官所を襲撃し、それより浅尾を乗っ取って帯陣しましたが、備前勢その他より討手が押し寄せ進退窮まりました。その後川船で下りましたが風向きが悪かったことで一同は下津井から小船で丸亀に向かいました。
そのうちに残りの四五人の隊士が到着。その隊士の一人と議論になりましたが孫一郎から次なる策は出ませんでした。それから丸亀船に乗り換え大洲(藩)中嶋に着きました。
この島の玄浄寺は親戚でしたから行きましたところ桜井軍記がすでに着いていました。ここで合流した者と一緒に大船に乗換え上関岩見嶋(祝島)沖にて二三日漂い、都濃郡魚ケ縁りから孫一郎と引頭兵吉が上陸。翌夜迎えに行ったところ昨夜討ち取られたと聞いて仰天。
直ぐさま船に引き返し結果を話したところ全員当惑しましたが色々議論を重ね結論は今後は銘々勝手に行動することに決しました。
そこで積み込んでいる武器類を島に揚げようしていたところで海陸より砲声がとどろき、既に上陸していた隊士らの収容もままならず、ようやくにして豊後路まで逃げることが出来ました。ここで嶋橘太郎,海野貞斉らと揚陸。別府に暫く潜伏していました。
その後大洲中嶋の親戚に頼み込んで潜伏。そこから丸亀に様子見に出かけましたなら一緒だった隊士と同郷の高洲甲次郎らが居りました。
一同ともう一旗揚げようと相談していたとき戦争(第二次長州戦争)となってしまい大洲に引き返し貞斉と佐賀関に着きました。ここで貞斉と別れ日出領その他に潜伏。十月頃又青嶋に帰り軍記そのほかと再会。
様子を尋ねたところ高洲(甲次郎)ら西條(新居浜)で但馬正義党を吊乗っているとのことで西條三木左造方に出向きましたがそこで高洲が病死。
しかたがありませんので丸亀の人汀正三郎と但馬に行き湯ノ嶋(兵庫県豊岡市城之崎町湯島か?)で色々探りましたら正義党の話は全くありませんでした。
追々出費が重なり刀を三拾弐両で売却し年を越しました。二月中旬頃西條に帰り三月節句頃軍記(桜井)と再会。滞留中宮嶋にも参詣。三木方に手紙を出し、軍記ともども近くの永田塾に入っていたとき逮捕されました。 危急の折、軍令を犯し多人数で内乱を企て楢崎剛十郎を殺害。そのうえ他国に脱走し暴動。司令士としてその罪重いことを教え討手が来とき逃げ去り、諸国に潜伏。など承知千万と申し聞かせ。今後はいかなる処分といえども申し開きせぬよう悟らせました。 よって丁卯十一月十八日河田原に首を打捨て、上関大嶋郡に罪科札を建てました。 一 坂太郎こと、病死したことで牢屋において死骸を誅伐仰付けました。 |
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櫛部坂太郎逮捕までの時系列 櫛部坂太郎らを逮捕した者はこちら。 慶応2年(1866)4月27日 上関宰判祝島から逃亡。 慶応3年(1867)6月8日 新居浜市垣生で相木又兵衛ら探索方に逮捕される。総指揮は林半七である。 慶応3年(1867)6月10日 大畠に着舟。陸路山口に向かった。 〃 6月11日 田布施駅より伊保田浄専寺母宛に手紙を出す。
久絶音間候へ共皆々様無御別条罷在候哉拙子儀上相変罷在候扱脱走以来書翰モ上差上実二上敬ノ罪奉恐入侯然テ此度於西条禁囚二相成承侯へハ山口ヨリノ御沙汰之趣奉恐入侯昨日当村へ髄帰り今朝ヨり山口へ罷出侯乍併一大事ハ金剛二御座候間御気遣上被下候様願上侯余ハ可申上訳モ無之累之 〃 10月中旬頃牢屋で発病。 〃 11月12日病没。 〃 18日牢門の中において斬首される。同日桜井軍記も処刑された。 |
| 第二奇兵隊倉敷・浅尾暴動事件に関して、山口県関係者によって、事件全体を一冊にまとめた書籍は存在しない。各市町村史も当該市町村隊員と事件の概略を書くのみである。 山口県地方史学会も「山口県地方史研究 巻号:1968年10月 明治維新特集(通巻20号)岡本/正よる」『櫛部坂太郎と桜井軍記』のみである。 |
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