|
第二奇兵隊隊士 祝島の様子
|
![]() 奸 計 非命に臥す![]() |
|
□4月26日戌の刻(20:00) 立石孫一郎、引頭兵吉、千歳橋で暗殺。 清水家臣団慕義会の待伏せ銃撃にて死亡。
すでに海岸線の警備は厳重をきわめたが、ここ祝島で小舟を借り立石、
引頭,櫛部坂太郎らはすでに述べたように室積浦百姓源吉(4月22日午後10時)の家を訪ね白米の調達を依頼する。
源吉は立石の脱隊を知っていたが帰ったことを喋ると殺すとおどされる。
立石・引頭両人はその後馴染みの芸妓小督、吉松を呼びよせ酒宴を催した。 |
|
(注1) 修訂防長回天史第五編中八 山県狂介より木戸への書簡。その部分 二五日を以て浅江村誓教寺(清鏡寺)に至り寺僧に依り清水美作に訴ふるに哀情を以てし士卒の命を請う ―以下略― |
|
□祝島庄屋 石丸角平 日向の大船は22日以降笠戸島沖(下松市)から祝島近辺に漂泊している。立石らは祝島に上陸し、端船を夜中室積まで出すように催促した。 角平はできるだけこの要請を引き延ばし、密かに各所に立石帰るの通報をさせた。一報は上関勘場(山口県田布施町米出)に届いた。 勘場では早速第二奇兵隊に連絡。合同で祝島帰還隊士らの捕縛準備に取りかかった。 通報を受けたのは25日である。 捕縛隊は大規模になった。 ●上関宰判麻郷(おごう)兵一小隊 34人 指揮 司令士木屋又八・塩谷登四郎 ● 同 砲卒 16人 指揮 桂小市・近藤半蔵 大砲二門 ●第二奇兵隊 23人 指揮 白井小助(注2)・緒方謙九郎(注3)・山県直一
|
|
|||
| 注)諸隊沙汰控で捕縛隊派遣は廿五日となっているが諸記録は26日である。 |
| ■4月27日捕縛隊 麻郷 (田布施町) から出動 | ||
![]() |
麻郷司令司木屋又八・塩谷登四郎一小隊を桂小市・近藤半蔵大砲二門を備え、
第二奇兵隊は白井小助,小方謙九郎,山県直一らの一小隊で構成された。 予想される隊士側と同兵力だった。 総合的火力は脱走した隊士側が上回っている。 大船を見つけると威嚇の砲撃を行った。 大船は碇綱を切断して逃走する。 すぐさま追手舟2隻で追跡するも船足が違った。取り逃がす。 早速島に上陸すると隊士18人が上陸していた。彼らは逃げ出せなかった。 捕縛側第二奇兵隊塙傳蔵同士打ちで負傷。隊士相本熊太郎・水木敬太負傷。神山(上山)力助が死んだ。 | |
|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() 上関勘場跡現況 GPS 33-55-39.1N 132-02-58.9E | ![]() | 田布施町本町円立寺現況 元治元年(1864)4月芥川義天(柳井市阿月円覚寺)、三国管嶺(大島郡大島町妙円寺) 熊毛郡田布施村に僧錬隊を設立。円立寺を屯所とした。同隊は同年11月資金難により解隊する。 |
| 隊士ら帰ると通報した庄屋石丸角平は藩政府より褒美として銀四拾三匁をもらった。一方立石孫一郎暗殺に貢献した長徳寺住職石井玄卿の褒美は七両。 清鏡寺住職の褒美は三両だった。立石暗殺に出動した清水美作兵卒30人への褒美は全員で札銀三百匁。一人あたり15匁である。 |
|
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 櫛部坂太郎らの逮捕に当たった者は第二奇兵隊書記伊藤三亮,同小隊長相木又兵衛,隊員岡村嘉蔵,諏訪貢,富永庫太,倉成吉郎,藤山又右衛門,山本市郎,大津吉郎である。 同年6月26日付けで褒美を貰った。札銀八拾六匁 伊藤,相木。同七拾五匁 参加隊員全員。 |
![]() |
※ 伊藤三亮 児玉主税(台道,小郡宰判・毛利寄組)家臣。 後第二奇兵隊は建武隊となるが北越戦争帰還兵による脱隊事件において明治3年11月17日陶において斬首。 脱退兵事件で多くの隊士が処刑された山口市柊処刑場。 花山隊事件(日田事件)に参加した長三州の撰文がある。 <= 山口柊処刑場跡 |
|
(注2) 白井小助 脱藩した第三代奇兵隊総管赤根武人が密かに柳井市阿月に帰り(慶応元年12月中旬)世良修蔵らと密会した。 この事が藩庁に露見し阿月浦家はピンチに立たされる。 藩庁による浦家処分をさけるため翌慶応二年正月白井小助を山口に派遣した。 白井の周旋により浦家処分は回避されたが、対幕戦避けがたき情況下周防部の軍事力再編を迫られた藩庁は南第三大隊の編成を命じた。 これに白井小助は忙殺されている。慶応2年2月〜4月7日まで小助がどこで何をしていたか詳らかでない。 ただ一つ分かっていることは、慶応2年(1866)3月6日付第二奇兵隊軍監参謀を仰付られたことぐらいである。 (注3) 緒(小)方謙九郎 現周南市栗屋出身。航空の父・スキー普及の功労者とされる長岡外史の父。事情があって外史の母とは結婚せず、 上関宰判室津村小方市右衛門の長女ツヤと結婚する。市右衛門の次女ヤスが第二奇兵隊脱走事件勃発時殺害された楢崎剛十郎の妻である。 剛十郎なき残された妻子(ヤス・遺児三人)を寄寓させた。 |
立石孫一郎の最期
|
| 立石孫一郎は4月25日引頭兵吉と密かに光市浅江清鏡寺を訪ねた。隊士の助命の途を模索するためだった。祝島からの上陸地点は二説ある。一つは浅江村の光市と下松市の行政区域線上の「魚返」と野原村説である。 野原村は光市国道188号線光警察署のある地域である。浅江清鏡寺の東側になる。 |
![]() | |
【奸 計】相談を受けた清鏡寺住職は早速、立野村にある長徳寺の石井玄卿住職に隊士の助命嘆願について共に尽力して欲しいと相談したが、 石井住職は清水美作(第二奇兵隊総督)に立石、引頭両名が清鏡寺に潜伏していることを密告した。 密告を受けた美作は石井住職と立石、引頭の殺害方法について相談し立石を千歳橋まで誘いだし殺害する計画をたてた。翌26日の夕刻石井住職は立石を誘いだすべく清鏡寺を訪ねた。 | |
| (清鏡寺〜長徳寺間 直線5.7Km) (長徳寺〜清水家間 道なりに1.7Km) | |
非命に臥す
清鏡寺(片山瑞明住職)で立石、引頭に会った長徳寺石井玄卿住職はやがて許されるだろうと、 ことば巧みに説得を続けたが石井住職と顔馴染みの引頭は住職のことばを信用しなかったという。 人を疑うことを知らない性格の立石は一席設けるとの誘いに乗り隣りの島田宿に向かうべく、 午後8時頃住職に伴われて清鏡寺を出発した。 清鏡寺から約500mも歩けば千歳橋である。 橋の西岸についたとき住職は持っていた提灯を狙撃隊との打ち合せ通り立石に渡し、 忘れ物をしたので先に行ってくれと言い残し清鏡寺に引き返した。 それが奸計であるとは知らない立石、引頭は橋を渡りだしたが、 すでに慕義会(清水家兵)の狙撃隊は橋の東岸で立石が来るのをいまや遅しと待ち受けていたのである。 狙撃隊士には、提灯を持っている人物は幕府のスパイであると教えられていた。 提灯が橋の中程に差し掛かったとき、その提灯をめがけて狙撃隊の銃口が一斉に火を吹いた。 一発が立石の脇腹に中りその場に倒れた。 駆け寄った引頭に苦しい息のなかから川に飛び込み隊士達のところへ逃れるように指示した。 指示された引頭は川に飛び込み浅瀬を伝わり夜隠に紛れて東岸に逃げた。 倒れた立石をめがけて、相木鷹之介が切りかかったが死力を振り絞って立ち上がった立石に、 逆に切りかかられ辛うじて銃で受け止めはしたものの眉間を左から切り下げられた。 銃をささえていた左手の中指、親指をとばされ右手首まて切られ、 立石に馬乗りされ止どめ刺されそうになったとき片岡波門が駆けつけ後ろから持っていた銃の台尻で立石の頭を打ち砕いた。 相木鷹之介は、重傷を負ったものの命はとりとめた、時代は下って彼の子供は、立野村の村長を務める。 襲撃の場を逃れた引頭は、立石の死を悟と、ピストルで自決をする。 引頭家に色あせた絹の胸札(認識票)が一つ残る。 |
![]() |
この第二奇兵隊の悲劇は、華々しい長州の維新史のなかで一つの挿話にしか扱われない。 そして大方の者がこの事件を知らない。知らないというより教えられなかったというほうが正しいであろう。 吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎そして奇兵隊の栄光のみ喧伝され、 自らの血で封建社会の矛盾を突き崩そうとした諸隊の下層民衆に叛乱脱隊という汚名を着せ血の弾圧でもって臨んだこの事件を正しく伝えていない。 |
|
峻烈を極めた脱隊隊士の処分がなぜ起こったのか、まず二つが考えられる。
一つ目は、長州割拠の名分を失わないためには、幕府方が先に手を出すことが必須であったが、
立石が倉敷代官所を攻撃したことで長州側が先にジョブを出した結果になってしまったこと。 二つ目は、第二奇兵隊そのものが、陪臣以下で構成されていたことと無 関係ではない。 政権奪取の後の桂小五郎(当時木戸貫次)は、農民一揆の多発に恐れおののいた。 封建性は、早晩崩さなければならないと、頭では理解していたものの民衆の側が力を持つことを極度に恐れたのである。 不満が内在した百姓や陪臣の小輩れの武力が、いつ自分に向かわないという保証がない以上断固たる処置に出ざるえなかった。 民衆が力をつけることを彼は尾大の弊といっている。 この点で明治維新はフランス革命とは似ても似つかわない「士魂」による改革(革命)にとどまった。 為政者が替わっただけで相変わらず民衆は塗炭の苦しみを生き続けなければならなかったのある。 槙村半九郎の隊員処分に対する伺書は、単に桂小五郎に迎合したに過ぎない。 槙村そのものも下級藩士でなんでもこなしながら、栄達を手中にいれようと躍起になっていたのである。 桂小五郎のこの大量処刑の経験は、やがて明治2年(1869)に発生する戊辰戦争帰還兵士達の脱隊事件における処刑(処刑者133人)へとつながる。 力をもってきた下層民衆を封じ込める手段は処刑が一番であることをこの事件を通して学んだのであった。 明治政府の中枢に位置した桂ではあったが、かっての同志、もしくは部下と呼べる広沢真臣等もやがて桂と疎遠となり大久保利道に傾く。 彼(桂)は薩摩における西郷のような人気を郷土で持ち得ない。 読者はもう一度思いだして頂きたい。室津白浦で斬殺される間際、 渺とした波間の果て遠く八島の島影を望みながら ・・・・・ 間違いなく彼は波間の向こう新しい世界を捉えていた。 「今更に なにかといわむ武士の 我真心を 知りてたたえよ」 秦野常若 20才 戊辰戦争における会津白虎隊の悲劇(自殺19人)は、彼地でいまも語りつがれている。 彼らは封建領主の下(主君と運命を共にしょうとした)で窮鼠の自殺をしたにすぎない。 確たる将来の変革をめざしての自殺では決してない。 よって「わが真心(維新回天)」を持ち得たということでは断じてない。 会津戦争の始まる2年前の慶応2年5月10日、玖珂郡引地峠で処刑された隊士は 「こころにかかる 国の行末」と詠んだ。ここでいう国は日本までは指してはいないと思うが、 少なくとも郷土山口県(防長二州)は視野に入っていたことであろう。 封建体制思想の窮鼠の自殺と少なくとも次元の違う開かれた世界観を持って彼らは刑場の露と消えた。 第二奇兵隊に所属し、非業に倒れた彼らを刻む碑のひとつすらない。彼らこそ矛盾に満ちた幕藩体制を 命の限り打ち砕こうとし、幕府代官所攻撃に上官の命により参加した防州の百姓の若人たちであった。 同時代を生きた会津白虎隊士と第二奇兵隊士の理想とどちらが高邁であろうか ...... |
| 完 |
![]() 戻る 櫛部坂太郎に進む 山口羽坂村 総目次に戻る ![]() |
| 当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。 |
![]() ![]() |
第二奇兵隊取材班 E-mail お問合せ、ご質問はこちらへ ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000 |