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| ○黒船の来航と老中阿部正弘 (備後福山藩主 1843〔天保14〕/閏9/11〜1857〔安政4〕/06/17) |
![]() | 安政の大獄(安政五〜六年)後も、備中連島(倉敷市連島)三宅定太郎高幸出資の交易事業は阿月、秋良敦之助(浦家臣、政一郎(敦之助弟)を介し、備中綿を長州に送り、交易数度に及ぶも、種々の障碍により、 累損が嵩んだと記録されている。 また薩摩との交易も意のままにならず挫折している。 この交易活動で、備中、防長間の尊攘運動家の繋がりができたと思えるが、その痕跡は、当時第二奇兵隊惣務補佐であった芥川義天日記に垣間見られるだけである。 平野国臣の話に乗った白石正一郎にも理由があった。安政五年(1858)薩長交易の藩内における主導権争い敗れた正一郎は、平野国臣の斡旋によって三宅高幸と組み下関を中継地として、 薩摩の藍玉と備中綿を扱った交易を画策した。翌、安政六年(1859)から交易を始めたが産物価格の下落や、粗悪品などで交易そのものが挫折する。 白石正一郎、平野国臣、高崎善兵衛、三宅高幸らの四人で備中、長州、薩摩の交易を図ることとし、中継地を備中と定めたが、この交易は失敗し連島三宅家は大きな損失を被った。連島三宅の家政は一挙に傾く。 中継地を備中とした理由の一つに薩藩兵東上の折りの補給休憩場所も兼ねていた。梅田雲浜を核として備中尊攘派(三宅定太郎高幸)、防州尊攘派(秋良敦之助ら)、薩摩藩士らとの接触により自身も強固な攘夷思想に染まった。と考えられる。高杉晋作も三宅定太郎高幸の書籍の読者である。 |
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天保の大飢饉以降、百姓の階層分解が加速し、農地の寡占化が進展する。結果約七割近い百姓が寄生地主の下で農奴的生活を強いられ、また、それに近い生活を余儀なくされ生産意欲が減退する。全国的に天候不順・冷害、全国平均で三〜四分作。 藩財政を米貢納に依存していた三百諸侯は財政破綻に見舞われ、徒士層は貧窮に晒され農村は階層分解の度を深めた。 このことは武家の家政を直撃し立ち直らないまま幕末へと突き進む。 嘉永6年(1853)6月3日米艦4隻浦賀に来航する。唯一外交の窓口であった蘭国から鎖国の無益を聞かされていた幕閣阿部正弘は鎖国か開国か幕府に前例のない諮問を諸大名・諸有司に行った。 これが外様大名に国政に口出しできる端緒となってしまった。 真の開国はこの時から、ときの老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(当時33才)。天保7年(1836)藩主の座につく。同9年奏者番、寺社奉行を経て、同14年老中となる。老中期間中は有力大名と協調を図り、御三家は幕政の要職に就かないという慣例を破りペリー来航という難局を乗り切るために前水戸藩主徳川斉昭に海防参与を要請。 開国という未曾有の政策転換は徳川の威信の上で実現させた。 こうした政治姿勢は譜代門閥派からの抵抗を招いたがその回避策として安政2年(1855) 堀田正睦に老中再任を求め首座を譲った。ハリスの江戸訪問や将軍継嗣問題が政治の争点になりつつあったさなかの安政4年(1857、38才)6月17日病没した。 文字通り彼は命を削った。 ちなみに老中就任は25才。 |
| ○安政元年(1854)3月3日、日米和親条約締結。 澎湃として攘夷の声高まる。 |
| 安政5年(1858)4月、彦根井伊直弼大老となる。彼の政治判断で、日米修好通商条約締結。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市。ならびに自由貿易許可す。 井伊直弼による安政の大獄。以降、攘夷と天誅と狂乱の幕末えと突き進む。 政治の中心は京都に移ってしまった。 やがて新選組も誕生し、政治情勢は混沌と混乱を繰り返す。 |
| ○梅田雲浜 |
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安政三年(1856)四月、備中浅口郡連島の志士三宅定太郎高幸来り訪ねる。互いに肝胆を披瀝し、終に兄弟の義を結ぶ。雲浜、朝権の恢復を図り、幕府をして朝旨を遵奉(攘夷)せしめんとせば、勤王に由緒ある長州藩をして、朝廷の為に大いに尽くさしむる必要ありとして11月長州に向かう。この路銀参拾両は高幸の資なり。
12月阿月に秋良敦之助を尋ねる。敦之助主君靱負に従い萩にあり。毛利の重臣坪井九右衛門に面会し、同藩の奮起を切論懇談し、其の入れる処となる。よって勤王の手段として長藩と上国との産物交易の途を啓くこととし、これが実行方法を協議す。 翌、安政四年(1857)正月十四日萩を去って博多に向かう。平野国臣(注1)其の他の同志と時事を談じ、帰途阿月にあった赤根武人(注2)を伴い、三宅高幸を備中連島に訪れ、長州と上国との産物交易開始について相談す。 安政五年(1858)九月初旬(注3)、幕吏に捕縛され、のち六角獄に収監される。同年12月末京都から江戸に送られ正月九日江戸町奉行所に到着す。 すなわち、梅田雲浜をキーマンとして備中・防州尊攘激派のネットワークが醸成された。また、長州赤間関、白石正一郎を核とした高杉晋作・久坂玄瑞らの攘夷激派の誕生をみた。彼らは、文久3年(1863)5月10日、馬関において、海峡通過の外国艦船に無警告の砲撃を開始す。一敗地にまみれ攘夷貫徹奇兵隊結成。 |
| 美作・防州・備中・備後、尊攘派相関図 |
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※ 倉敷本町薬種商林孚一源助が立石孫一郎へ長州への紹介状を渡したという倉敷側の書籍や出版物への考証。 筆者は紹介状でなく、道中手形類だったと考える。理由は二つ |
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しかし、阿月秋良敦之助(注5)と、梅田雲浜,三宅高幸との交流があったことが分かっており、林孚一との交わりがあったとしても不思議ではない。敦之助から林孚一の紹介状を受け取ったむね、
清水家家宰難波伝兵衛覃庵(たんあん)にもたらされた可能性は残ると考える。
しかし、立野(光市)の毛利藩家老(寄組)の家格である清水美作が第二奇兵隊総督を仰付けられたのは慶応元年(1865)11月26日であり。慶応年初に清水家が力を発揮できるポストに就いていなので給領地潜伏は可能としても、紹介状により長州藩に厚遇される口利きが清水美作に出来たとは考えられない。 |
| 孚一に関して次ぎの挿話が伝わっている。 以下 『旧版倉敷市史(五冊)頁260 』 元治元年(1864)7月、長州激派は京都に進撃。禁門の変が勃発。その軍中に真木和泉がいた。破れて山崎天王山に自害。大和の人大沢逸平は和泉の遺書を懐に長州に逃れんとした。長州への道は閉ざされ逸平は孚一に匿わる。歳余隠蔽しついに逸平を送り届けたという。のち逸平は遊撃軍本陣に詰める。明治12年(1879)9月病没。 |
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−その2− 文久2年(1862)7月長井雅楽失脚にともない、藩是攘夷決定を機に、藩内あげて非常事態態勢となった。それにより、他国人逗留の厳重探索、関門の通行検閲強化など非常時措置が取られた。途中6ヶ月間重商(俗論)政権となったが、文久措置が緩和されたことはない。 また、幕府は文久三年(1863)七月末、外艦砲撃(攘夷実行)を詰問するため中根一之丞以下七名を幕府軍艦朝陽丸で派遣したが、この一行全員を長州藩内で暗殺する事件が発生した。この暗殺犯に関する記述は防長回天史にも書かれていない。この事件以降他藩人が藩庁山口に入ることも厳しく規制された。 以降、対幕戦の緊張感は増しこそすれ減じた兆しはない。これらから紹介状でなく道中手形と考える。 さらに、禁門の変(元治元年7月)後、椋梨藤太,坪井政権になり更に他国人関門通過を規制した。元治元年11月4日付で⼀他国人関門通行の節是迄通り政治堂印鑑にて勘過の事』の通達が出されている。白石正一郎日記をみても引きもきらなかった他藩人の来訪者が激減している。 後日談になるがこの通達は椋梨・坪井らに逆に利いた。高杉晋作攻山寺決起による政変により萩を追われた彼らが、この通達により逮捕されてしまう。 |
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三宅家・米屋 浅口郡連島村西之浦 |
| この家は連島矢柄の古庄屋三宅家の分家です。富島屋三宅昌純の母も矢柄の三宅氏で、富島屋も同族。 玉島米屋は西之浦三宅(米屋)の分家です。 |
| 周防(山口県)尊攘派の台頭は三宅定太郎高幸によるところが大きい |
伊左衛門英世―┬―伊左衛門英章―┬―伊左衛門高雅――辰蔵高哲―┬――定太郎高幸 宝暦8 | 天明2 | 天保10 安政4 | 明治15 | 室金光氏 | 室和気氏 室丸山氏 | 室三宅氏 | | 室沢木氏 室高橋氏 | (玉島米屋) ├―伊右衛門 | 室坂本氏 ├――幸三郎高穣 | 酒屋祖 └―利津 | 明治24 | 三宅高世妻 | └―安兵衛(理哲) └――貞 玉島米屋祖 佐藤保忠妻 ごさんべえのぺーじ や倉敷雑記3(森田平三郎/著)を参考とした。 |
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高幸(たかゆき)は分家六代目。祖父伊左衛門高雅は京都で勤王家と交わり、それを藩から叱られて謹慎、以後「黙翁」と号した。
窮民に米を安く与え、米屋新開といわれる干拓事業も行っています。
父高哲は「西浦」「看雲」という号で画家として有名。この影響を受けたのか三宅定太郎(高幸)は筋金入りの尊攘家に成長する。高杉晋作も高幸の読者で「南朝十二名将伝」ほか多数の著述がある。
大和五条の尊攘家森田節斉の下で高幸と吉田松陰は、嘉永6年(1853)短期間ではあるが同門となる。 |
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三宅高幸は祖父(高雅)もビックリするような筋金入りの尊攘家に成長し、梅田雲浜(源二郎)、平野国臣(次郎)などと交わり、
家産を傾けて攘夷・討幕運動に挺身した。しかし、維新後は二卿事件に連座して終身刑となる。明治13年(1880年)に特赦で帰郷して、
以前から交遊のあった高崎善兵衛(薩摩・交易活動での知己)の子五六(いつむ、岡山県知事)のはからいで岡山県修史編纂事業に関わっている。
出典:立石正介とその周辺(原正三/著 S59/06/05発行 倉敷史談会) 立石孫一郎は三宅高幸の手引きで西之浦に来た。と岡長平:著「巷説岡山開化史」にもっともらしく書いるが当時連島三宅は破産していたのでこの可能性は非常に低いだろう。 |
| ○三宅高幸は何を行ったのか |
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長州を中継地として薩摩・備中との交易により、尊攘活動の資金を得ようとし、かつ人的交流を図り朝旨に則り攘夷実現を図ろうとした。 高幸の背後には梅田雲浜がいた。雲浜は彼の政治目的(攘夷実行)を達せんがため、西国雄藩の兵力を攘夷実行に結びつけようとした。 安政三年(1856)梅田源二郎(雲浜)四十二才のとき西下し連島三宅を訪れ高幸と義兄弟の契りを結び、翌四年(1857)帰京後長州藩京都留守居役宍戸九郎兵衛や各地の同志、 肥後の松田重助らと高幸を交えて長藩と上国との産物交易開始の事について談合し、 この手足となって動いたのが平野国臣である。 翌安政五年(1858)三月二十二日、長藩重臣浦靱負(柳井市阿月)家臣赤根忠右衛門に書を送り種々の注意を与えているいる。 また国臣は赤間関白石正一郎にも度々接触した。これらの忠告が功を奏したのか正一郎の日記に、 国臣は安政六年(1859)正月下旬、三宅高幸の善意で、玉島米屋の番頭として同年12月まで、長薩・備中の交易推進活動に従事する。この時国臣三十二才。 この段階で事業は順調に進むかに見えたが、
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