尊攘激派 三宅定太郎高幸 第二奇兵隊脱走隊は連島西之浦に上陸した。

黒船の来航と老中阿部正弘 (備後福山藩主 1843〔天保14〕/閏9/11〜1857〔安政4〕/06/17)
  安政の大獄(安政五〜六年)後も、備中連島(倉敷市連島)三宅定太郎高幸出資の交易事業は阿月、秋良敦之助(浦家臣、政一郎(敦之助弟)を介し、備中綿を長州に送り、交易数度に及ぶも、種々の障碍により、 累損が嵩んだと記録されている。 また薩摩との交易も意のままにならず挫折している。 この交易活動で、備中、防長間の尊攘運動家の繋がりができたと思えるが、その痕跡は、当時第二奇兵隊惣務補佐であった芥川義天日記に垣間見られるだけである。 平野国臣の話に乗った白石正一郎にも理由があった。安政五年(1858)薩長交易の藩内における主導権争い敗れた正一郎は、平野国臣の斡旋によって三宅高幸と組み下関を中継地として、 薩摩の藍玉と備中綿を扱った交易を画策した。翌、安政六年(1859)から交易を始めたが産物価格の下落や、粗悪品などで交易そのものが挫折する。 白石正一郎、平野国臣、高崎善兵衛、三宅高幸らの四人で備中、長州、薩摩の交易を図ることとし、中継地を備中と定めたが、この交易は失敗し連島三宅家は大きな損失を被った。連島三宅の家政は一挙に傾く。 中継地を備中とした理由の一つに薩藩兵東上の折りの補給休憩場所も兼ねていた。梅田雲浜を核として備中尊攘派(三宅定太郎高幸)、防州尊攘派(秋良敦之助ら)、薩摩藩士らとの接触により自身も強固な攘夷思想に染まった。と考えられる。高杉晋作も三宅定太郎高幸の書籍の読者である。
 天保の大飢饉以降、百姓の階層分解が加速し、農地の寡占化が進展する。結果約七割近い百姓が寄生地主の下で農奴的生活を強いられ、また、それに近い生活を余儀なくされ生産意欲が減退する。全国的に天候不順・冷害、全国平均で三〜四分作。 藩財政を米貢納に依存していた三百諸侯は財政破綻に見舞われ、徒士層は貧窮に晒され農村は階層分解の度を深めた。 このことは武家の家政を直撃し立ち直らないまま幕末へと突き進む。
 嘉永6年(1853)6月3日米艦4隻浦賀に来航する。唯一外交の窓口であった蘭国から鎖国の無益を聞かされていた幕閣阿部正弘は鎖国か開国か幕府に前例のない諮問を諸大名・諸有司に行った。  これが外様大名に国政に口出しできる端緒となってしまった。
 真の開国はこの時から、ときの老中は備後福山藩主(広島県)阿部正弘(当時33才)。天保7年(1836)藩主の座につく。同9年奏者番、寺社奉行を経て、同14年老中となる。老中期間中は有力大名と協調を図り、御三家は幕政の要職に就かないという慣例を破りペリー来航という難局を乗り切るために前水戸藩主徳川斉昭に海防参与を要請。 開国という未曾有の政策転換は徳川の威信の上で実現させた。 こうした政治姿勢は譜代門閥派からの抵抗を招いたがその回避策として安政2年(1855) 堀田正睦に老中再任を求め首座を譲った。ハリスの江戸訪問や将軍継嗣問題が政治の争点になりつつあったさなかの安政4年(1857、38才)6月17日病没した。 文字通り彼は命を削った。 ちなみに老中就任は25才。
安政元年(1854)3月3日、日米和親条約締結。 澎湃として攘夷の声高まる。
 安政5年(1858)4月、彦根井伊直弼大老となる。彼の政治判断で、日米修好通商条約締結。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市。ならびに自由貿易許可す。  井伊直弼による安政の大獄。以降、攘夷と天誅と狂乱の幕末えと突き進む。 政治の中心は京都に移ってしまった。 やがて新選組も誕生し、政治情勢は混沌と混乱を繰り返す。
梅田雲浜
 安政三年(1856)四月、備中浅口郡連島の志士三宅定太郎高幸来り訪ねる。互いに肝胆を披瀝し、終に兄弟の義を結ぶ。雲浜、朝権の恢復を図り、幕府をして朝旨を遵奉(攘夷)せしめんとせば、勤王に由緒ある長州藩をして、朝廷の為に大いに尽くさしむる必要ありとして11月長州に向かう。この路銀参拾両は高幸の資なり。 12月阿月に秋良敦之助を尋ねる。敦之助主君靱負に従い萩にあり。毛利の重臣坪井九右衛門に面会し、同藩の奮起を切論懇談し、其の入れる処となる。よって勤王の手段として長藩と上国との産物交易の途を啓くこととし、これが実行方法を協議す。
 翌、安政四年(1857)正月十四日萩を去って博多に向かう。平野国臣(注1)其の他の同志と時事を談じ、帰途阿月にあった赤根武人(注2)を伴い、三宅高幸を備中連島に訪れ、長州と上国との産物交易開始について相談す。
 安政五年(1858)九月初旬(注3)、幕吏に捕縛され、のち六角獄に収監される。同年12月末京都から江戸に送られ正月九日江戸町奉行所に到着す。
 すなわち、梅田雲浜をキーマンとして備中・防州尊攘激派のネットワークが醸成された。また、長州赤間関、白石正一郎を核とした高杉晋作・久坂玄瑞らの攘夷激派の誕生をみた。彼らは、文久3年(1863)5月10日、馬関において、海峡通過の外国艦船に無警告の砲撃を開始す。一敗地にまみれ攘夷貫徹奇兵隊結成。
美作・防州・備中・備後、尊攘派相関図
在倉尊攘派簡塾森田節斎主宰
備中尊攘派
岡熊之助克積(幽栖日記記述者)
林孚一源助(倉敷大阪屋)    
立石孫一郎に道中手形発行   
三宅高幸 交易活動で接触・理論武装
長州尊攘派
白石正一郎支援    
三宅高幸と誼を結ぶ
高杉晋作(奇兵隊結成)
攘夷実行部隊
津山近郊作州尊攘派
立石正介〔孫一郎の母、光の弟〕
桜井新三郎〔小松村妙善寺潜伏〕
立石正介と桜井新三郎は同志
〔防州浦家臣尊攘派〕
秋良敦之助

芥川義天
〔第二奇兵隊惣務〕
〔備後尾道尊攘派〕
竹内隼太

立石孫一郎(接触)
〔第二奇兵隊銃隊長〕
秋良敦之助は徹底した西洋嫌いであった。『梅田雲浜遺稿並伝』に次のエピソードが語られている。 安政5年(1858)頃に敦之助は「人車船」というものを造った。 西欧人は蒸気仕掛けの船を使っているが、我々はその船に乗ったり、彼らの考案した機械仕掛けのものを使うのも宜しくない。 我々の工夫した方法で船を動かす。として人力で外輪を回して船を進めようとした。多数建造したいので、その資金調達を梅田雲浜に頼んだ。 その資金調達が出来なかった旨の手紙が安政5年4月15日付で残る。そこで試作人車船一隻を建造した。 実際に人力で敦之助考案人車船を動かしたが、三挺櫓(三人がかり櫓)の速度しか出なかったという。これで船に関して敦之助は我(が)を通すことをやめたという。
ときの、孝明天皇とおなじ位い彼は異人,西洋嫌いであった。
  • 文久3年(1863)6月、馬関商人白石正一郎の援助にて攘夷貫徹の意思を以て奇兵隊創設。
      文久3年10月、赤根武人総管に就任するや浦家臣団12人入隊。
  • 文久3年(1863)8月、秋良敦之助、天誅組の変の報に接するや、直ちに上坂。情報収集を行う。
       −天誅組も幕府に変わる新政府を樹立し攘夷実現が根本にあった。 この思いは幕末の志士に共通する。−
  • 備後尾道廻船問屋、竹内隼太。天誅組の変に呼応せんとし、阿月秋良敦之助を訪れる。敦之助上坂し会えず。
  • 同年、倉敷大橋敬之助(立石孫一郎)、天誅組の変戦跡を訪ねる。
  • 元治元年(1864)8月、奇兵隊、外艦砲撃の報復を受けて立ち攘夷実行の下関戦争を戦う。
  • 慶応元年(1865)秋、備中、美作(桜井新三郎)、防州(立石孫一郎ら)尊攘派、長州の冤を雪がんとして備前下津井に
     会し、討幕の議を論ず。
  • 慶応2年(1866)正月、作州尊攘激派桜井新三郎。小松村妙善寺(三国管嶺・みくにかんれい)に潜伏す。
      −秋良敦之助との知己を得るのは文久3年(1863)3月山口での出会いから。帰邑後真武隊入隊。−
  • 慶応2年(1866)3月、立石孫一郎ら尾道竹内隼太を訪ね、討幕の実を挙げんとして、幕吏らを慈願寺に襲わんことを問う。
      隼太答えて曰く、良策にあらず。孫一郎、航して下津井に会同す。孫一郎同志に、長州に於いて討幕決起数百人を得たと
      述べり。4月決起を確認す。議すは吹上祇園社宮司赤星邸。
  • 慶応2年(1866)4月10日、立石孫一郎、第二奇兵隊を率い倉敷代官所を襲撃。続いて13日、総社浅尾藩陣屋
      (藩主京都見廻役)を壊滅さす。
    −作州・備中尊攘派その後−
  • 明治4年(1871年)4月、外夷に媚びる新政府に抗い、二卿擁立(注4)。政府転覆を画策す。 孫一郎叔父立石正介,三宅高
     幸ら獄に降る。

  • 倉敷本町薬種商林孚一源助が立石孫一郎へ長州への紹介状を渡したという倉敷側の書籍や出版物への考証。  筆者は紹介状でなく、道中手形類だったと考える。理由は二つ


    〔林孚一 明治10年7月23日67才〕
    【蔵:倉敷市歴史準備資料館】  
     −その1−
     紹介状であれば、孚一源助名と宛先があるはず。本業が薬種商であるから、西日本の広範囲と交流があったとしても、立石孫一郎(大橋敬之助)は下津井屋事件が起きた翌慶応元年(1865)に防州(山口県東部)の光市小周防真行寺に潜伏していたことがわかっている。 作州(津山)立石家の先祖が、毛利輝元から拝領したとされる刀と感状は、虎ノ門事件後清水家家老の後裔、難波作之進が難波絶家を断行する際、持ち主が分かるものについては返還された。孫一郎が持参した刀と感状は立石家に返還され、その返戻一件が光市文化センターに残っている。 返還者不明書状は同センター保存目録に存在しない。すなわち紹介状は残っていない。
     しかし、阿月秋良敦之助(注5)と、梅田雲浜,三宅高幸との交流があったことが分かっており、林孚一との交わりがあったとしても不思議ではない。敦之助から林孚一の紹介状を受け取ったむね、 清水家家宰難波伝兵衛覃庵(たんあん)にもたらされた可能性は残ると考える。  しかし、立野(光市)の毛利藩家老(寄組)の家格である清水美作が第二奇兵隊総督を仰付けられたのは慶応元年(1865)11月26日であり。慶応年初に清水家が力を発揮できるポストに就いていなので給領地潜伏は可能としても、紹介状により長州藩に厚遇される口利きが清水美作に出来たとは考えられない。
    孚一に関して次ぎの挿話が伝わっている。 以下 『旧版倉敷市史(五冊)頁260 』 元治元年(1864)7月、長州激派は京都に進撃。禁門の変が勃発。その軍中に真木和泉がいた。破れて山崎天王山に自害。大和の人大沢逸平は和泉の遺書を懐に長州に逃れんとした。長州への道は閉ざされ逸平は孚一に匿わる。歳余隠蔽しついに逸平を送り届けたという。のち逸平は遊撃軍本陣に詰める。明治12年(1879)9月病没。

     −その2−
     文久2年(1862)7月長井雅楽失脚にともない、藩是攘夷決定を機に、藩内あげて非常事態態勢となった。それにより、他国人逗留の厳重探索、関門の通行検閲強化など非常時措置が取られた。途中6ヶ月間重商(俗論)政権となったが、文久措置が緩和されたことはない。 また、幕府は文久三年(1863)七月末、外艦砲撃(攘夷実行)を詰問するため中根一之丞以下七名を幕府軍艦朝陽丸で派遣したが、この一行全員を長州藩内で暗殺する事件が発生した。この暗殺犯に関する記述は防長回天史にも書かれていない。この事件以降他藩人が藩庁山口に入ることも厳しく規制された。 以降、対幕戦の緊張感は増しこそすれ減じた兆しはない。これらから紹介状でなく道中手形と考える。
     さらに、禁門の変(元治元年7月)後、椋梨藤太,坪井政権になり更に他国人関門通過を規制した。元治元年11月4日付で⼀他国人関門通行の節是迄通り政治堂印鑑にて勘過の事』の通達が出されている。白石正一郎日記をみても引きもきらなかった他藩人の来訪者が激減している。 後日談になるがこの通達は椋梨・坪井らに逆に利いた。高杉晋作攻山寺決起による政変により萩を追われた彼らが、この通達により逮捕されてしまう。
    三宅家・米屋
    浅口郡連島村西之浦
     この家は連島矢柄の古庄屋三宅家の分家です。富島屋三宅昌純の母も矢柄の三宅氏で、富島屋も同族。 玉島米屋は西之浦三宅(米屋)の分家です。

    周防(山口県)尊攘派の台頭は三宅定太郎高幸によるところが大きい
    伊左衛門英世―┬―伊左衛門英章―┬―伊左衛門高雅――辰蔵高哲―┬――定太郎高幸
    宝暦8    | 天明2    | 天保10    安政4  |  明治15
           | 室金光氏   | 室和気氏    室丸山氏 |  室三宅氏
           |        | 室沢木氏    室高橋氏 | (玉島米屋)
           ├―伊右衛門   |         室坂本氏 ├――幸三郎高穣
           |  酒屋祖   └―利津           |  明治24
           |          三宅高世妻        |
           └―安兵衛(理哲)               └――貞
             玉島米屋祖                   佐藤保忠妻
     
     ごさんべえのぺーじ や倉敷雑記3(森田平三郎/著)を参考とした。
     高幸(たかゆき)は分家六代目。祖父伊左衛門高雅は京都で勤王家と交わり、それを藩から叱られて謹慎、以後「黙翁」と号した。 窮民に米を安く与え、米屋新開といわれる干拓事業も行っています。 父高哲は「西浦」「看雲」という号で画家として有名。この影響を受けたのか三宅定太郎(高幸)は筋金入りの尊攘家に成長する。高杉晋作も高幸の読者で「南朝十二名将伝」ほか多数の著述がある。  大和五条の尊攘家森田節斉の下で高幸と吉田松陰は、嘉永6年(1853)短期間ではあるが同門となる。
     三宅高幸は祖父(高雅)もビックリするような筋金入りの尊攘家に成長し、梅田雲浜(源二郎)、平野国臣(次郎)などと交わり、 家産を傾けて攘夷・討幕運動に挺身した。しかし、維新後は二卿事件に連座して終身刑となる。明治13年(1880年)に特赦で帰郷して、 以前から交遊のあった高崎善兵衛(薩摩・交易活動での知己)の子五六(いつむ、岡山県知事)のはからいで岡山県修史編纂事業に関わっている。
    出典:立石正介とその周辺(原正三/著 S59/06/05発行 倉敷史談会)
     立石孫一郎は三宅高幸の手引きで西之浦に来た。と岡長平:著「巷説岡山開化史」にもっともらしく書いるが当時連島三宅は破産していたのでこの可能性は非常に低いだろう。
    三宅高幸は何を行ったのか
     長州を中継地として薩摩・備中との交易により、尊攘活動の資金を得ようとし、かつ人的交流を図り朝旨に則り攘夷実現を図ろうとした。
     高幸の背後には梅田雲浜がいた。雲浜は彼の政治目的(攘夷実行)を達せんがため、西国雄藩の兵力を攘夷実行に結びつけようとした。
     安政三年(1856)梅田源二郎(雲浜)四十二才のとき西下し連島三宅を訪れ高幸と義兄弟の契りを結び、翌四年(1857)帰京後長州藩京都留守居役宍戸九郎兵衛や各地の同志、 肥後の松田重助らと高幸を交えて長藩と上国との産物交易開始の事について談合し、 この手足となって動いたのが平野国臣である。
     翌安政五年(1858)三月二十二日、長藩重臣浦靱負(柳井市阿月)家臣赤根忠右衛門に書を送り種々の注意を与えているいる。 また国臣は赤間関白石正一郎にも度々接触した。これらの忠告が功を奏したのか正一郎の日記に、
  • 六月十二日苫船ノ高崎翁(善兵衛)入来有談薩州御産物ノ藍玉ノ事承ル。
  • 廿三日薩州ノ藍玉ノ事ニ付正一郎出萩。 
  • 八月十日帰宅。薩長藍玉御取組並びに其外ノ品々御交易事相調フ。
     国臣は安政六年(1859)正月下旬、三宅高幸の善意で、玉島米屋の番頭として同年12月まで、長薩・備中の交易推進活動に従事する。この時国臣三十二才。  この段階で事業は順調に進むかに見えたが、

    平野国臣・白石正一郎及び備中三宅高幸   〔白石正一郎日記〕より抜粋
    安政六年(1859) 三月〜
    三月五日連島(倉敷市)から三宅定太郎名代庄太郎来訪。
    三月十日宮崎司と名を変えた平野国臣が帰る。定太郎の宛て進物を預かっていた。
    三月十五日平野は廉作(正一郎弟)と福岡に向かう。
    四月二十六日薩摩、有村俊斎(海江田信義)から、手紙が届いた。中には平野からの手紙が入っていた。
    七月十七日平野が連島から帰って来た。
    七月二十一日平野と廉作とが福岡へ行った。
    八月十五日新地の遊郭春風楼で薩摩の高崎善兵衛と会った。この夜平野が福岡から帰って来た。
    八月二十四日平野が備中に向かった。
    九月十一日備中から井上孫三郎が帰って来た。
    九月二十二日連島の三宅定太郎がやって来た。 −この日が正一郎との初対面−
    十月十日三宅定太郎が帰国する船便で、高橋善兵衛と廉作が連島へ向かった。
    十二月十五日連島から高橋善兵衛、廉作、井上孫三郎が帰国した。
    前年(安政五)順調に交易は進んでいたが、
    八月十九日高崎翁来談。当夏ノ頃ヨリアル「マガモノ*ノタメニ薩長交易大破談ニ相成。夫ニ付テ高崎翁も不首尾。とんでもない粗悪品があったのであろう。一挙に信用を失う。 *白石正一郎日記安政6年8月15日条
    正一郎は競争相手の妨害で敗れ、薩摩の高崎善兵衛も藩内の調整に失敗している。 善兵衛は藩内の讒訴により交易から手を引かざるを得なかった。それでも正一郎は諦めきれず弟廉作を薩摩に派遣するなど交易を軌道に乗せようとしている。
    高幸も白石正一郎と面会した。この時、高幸愛用の横笛を誼として贈り、現在この笛は長府博物館が蔵している。  白石正一郎、平野国臣、高崎善兵衛(薩摩、*)、三宅高幸の四人で備中、長州、薩摩の交易を図ることとし、中継地を備中と定めたが、この交易は失敗し連島三宅家は大きな損失を被った。連島三宅の家政は一挙に傾く。 中継地を備中とした理由の一つに薩藩兵東上の折りの補給休憩場所も兼ねていた。善兵衛との厚誼は二卿事件釈放後の高幸を善兵衛息五六(いつむ)が岡山県令となり経済的に救う。   *高崎善兵衛卆 文久元年(1861)11月9日
    三宅高幸の馬関白石正一郎宅訪問は安政六年(1859)九月二十二日である。手紙などのやり取りは頻繁だったが対面はこの日が初めてであった。正一郎は飲めるが一酌と書いていないところをみると酒は出さなかったのであろう。 高幸は十月十日まで留まった。帰りは薩摩高崎善兵衛・白石廉作・高幸と一緒だった。

    三宅高幸愛用の笛:長さ40cm  吹き口径:2.1cm  末:1.9cm 筒(ケース):長さ39.8cm
    〔長府博物館蔵、拝観可能〕
    白石正一郎
     安政の大獄(安政5〜6年)後も、三宅高幸出資の交易事業は阿月、秋良敦之助(浦家臣)、政一郎(敦之助弟)を介し、備中綿を長州に送り、交易数度に及ぶも、種々の障碍により、累損が嵩んだと記録されている。また薩摩との交易も意のままにならず挫折している。 この交易活動で、備中、防長間の尊攘運動家の繋がりができたと思えるが、 その痕跡は、当時第二奇兵隊惣務補佐であった芥川義天日記(柳井市阿月浄土真宗本願寺派円覚寺僧、毛利家家老浦知行地)に垣間見られるだけである。  おそらく今後も、他国間憂国の士の紐帯を証明しうる証拠は発見できないのではなかろうか。
     平野国臣の話に乗った白石正一郎にも理由があった。安政5年(1858)薩長交易の藩内における主導権争い敗れた正一郎は、平野国臣の斡旋によって三宅高幸と組み下関を中継地として、薩摩の藍玉と備中綿を扱った交易を画策した。翌、安政6年(1859)から交易を始めたが産物価格の下落や、粗悪品などで交易そのものが挫折する。 莫大な富を誇った連島三宅もこれを境に一気に凋落する。

    作州(岡山県北部・東部)尊攘派
     立石孫一郎の母光(みつ)の実家、津山二宮立石家の当主正介(孫一郎叔父・母の弟)は作州尊攘派の中心人物であった。
    同じく、作州尊攘派に属する桜井新三郎がいた。 義天誌(非売品・第二奇兵隊書記 芥川義天 頁42)慶応二年(1866年)正月中旬 「国事に関し義夫(天)は大島郡妙善寺に至り桜井新三郎(頼直・西々条郡貞永寺村)に会見す。夙(つと)に新三郎は尊攘の事に尽粋し 慶応元年(1865年)秋より備前国児島郡に同志を会し長州藩の困危を救護する策を講じ有志間に在って種々周旋する処分ありて同地に潜伏中なり」
     この芥川義天の日記により、備前下津井で立石孫一郎らを含めた会合が行われたと推定できる。下津井の会合場所の確たる史料はないが、第二奇兵隊が東高梁川銃撃戦で四散し、 呼松から通生に至り、本荘八幡祇官三輪光都が帰還船の手配をしたが、三輪光都の娘が下津井港まだかな橋近くに居宅を構えたいた赤星清助の養女に入っている。赤星家は現在の祇園社を管理している。 赤星昭氏が「岡山春秋七月号・昭和27年7月10日発行」にその会合が開かれたであろう挿話を発表している。なお、倉敷町史編纂に大きな足跡を残した、倉敷市本町帯江屋大森一治は、俗に、下津井会議というのが開催されたとしても、同志数人が飲食した程度ではなかろうか。としている。 慶応二年の第二回下津井会議の際、立石孫一郎は尾道を訪れた。尾道の廻船問屋竹内隼太はその履歴書で、孫一郎ほか数名としているから、東和町伊保田浄専寺(浄土真宗本願寺派)で事件サブリーダー格の櫛部坂太郎、清水美作臣引頭兵吉も加わっていたと考えられる。
    倉敷の尊攘派
     幕末新録派も革新派と旧守派に分派する。革新派は森田節斎を軸として、銭屋(蔦屋分家・岡家)熊之助翠竹(幽栖日記作者) や林源助(孚一・大坂屋・薬種商,文化(1811)8年1月28日〜明治25年(1892)9月13日)などである。
     桜井政慶(中庄屋、大庄屋格)の子新三郎は立石正介、安藤鐵馬(誠之助貞啓・英田郡土居村、禁門の変に長州軍に投じ戦死)、田淵敬二(磐梨郡下村)らと交わり、 上京して全国各地から集まった勤王志士と共に岩倉具視邸に出入りする。北越戦役では、岩倉具定のもとで御旗奉行となって北陸、 東北地方を平定して東京に凱旋しますが、4月、芝において暗殺されている。(享年45)。
     敬二は勤王の志士として有名です。嘉永六年(1853)、岡山城下柿屋町(磨屋町)の藩医平井立斎の門人となりますが、学問・医術よりも武芸を好みました。  東京遷都に反対して二卿事件(愛宕事件)に連座して捕えられ、 国事犯として青森県弘前監獄に服役しています。立石正介、 はここで獄死しましたが、田淵敬二は明治十三年(1880)に減刑されて出獄、帰郷して開業医となった。 元プロ野球選手(監督)の田淵幸一は敬二の曾孫である。

    儒学者 森田節斎(1811〜1868/7/26)
     大和五条生まれ。観念的儒学者とみなされている。安政3年(1856)来倉し開塾したが数年後に去る。文久元年(1861)再来し塾を開いた。場所は花屋井上家(本家・宮崎屋井上)で簡塾と称した。節斉の在倉期間に女児阿孟(おもう)を亡くした。二歳であったという。年齢的に可愛い盛りである。墓は倉敷市船倉町浄土真宗教善寺境内墓地にある。阿孟は節斉が倉敷に来た年に産まれた。同寺には代官所門番中貝摂三の妻お志代さんの墓もある。 騒動に巻き込まれ死亡している。
     森田節斎を倉敷に呼んだ一人に大橋敬之助の本家(中島屋)から分家し、更に分家(東中島)し北中島大橋家の初代となった大橋徳蔵(洞隠)がいる。代官所内にあった学問所明倫館が明治に崇広館と改名されその助教を務めるほどの学者である。
    --- 閑話休題 ---
     岡(銭屋)熊之助(翠竹)、井汲唯一の倉敷道場の家主井上家はいずれも古禄派、唯一と縁が深かった大橋(中島屋)敬之助、吉次郎(恭平)の生家の和栗(板屋)仁左衛門、吉次郎(恭平)が襲撃に参加した下津井屋(阿部)、大原美術館で有名な大原家(児島屋)、 「倉敷今昔物語集」の著者西藤秀男の祖先灘屋(藤原)はいずれも新禄派の流れを汲む。
     岡一族、宗家は泉屋(和泉)。蔦屋の一門。本町林薬局のあたりにあった。向銭屋、貝屋、大黒屋など多くの分家がある。古録の巨頭水沢家と通婚関係にある。この両家は近世中期頃までは倉敷村の政治経済文化などの指導的立場にあったと思われる。水沢家は幕末頃衰微。生活が苦しくなった文久3年4月3日土佐藩山内容堂が水沢家で休憩した。対応に辟易している。誓願時境内墓地に水沢家墓地がある。
     熊之助と大橋敬之助(年寄/立石孫一郎)とは深い付き合いしている。銭屋は、後ほど述べる古録に属するが、幕末には、古録内のタガも緩み革新派と旧主派に別れている。大橋敬之助は新録に属するが、この頃になると思想信条の付き合いに変わる。また、森田節斎も再々訪れ酒を酌み交わしている。熊之助は酒好きらくし、誰彼と無く痛飲している。敬之助養父平右衛門や、敬之助の儒学の師本城新兵衛も出入りしている。 本城新兵衛は慶応二年(1866)八月「風窓紀聞附録備中騒動記(倉敷・浅尾騒動)」を書き上げた。
     岡熊之助は幽栖日記(ゆうせい)を残した。下津井屋事件について唯一知ることが出来る第一級史料である。日記は全十巻。一巻(七巻)欠落し倉敷本町大森久雄氏が所蔵する。屋号は帯江屋。祖父(一治)、父(有平)、ご本人三代にわたって市史編纂に携わる。
     幽栖日記は熊之助が四十二才で弟に家督を譲り隠居した文久2年(1862)10月19日から慶応元年(1865)10月15日までの生活記録である。これがまとまって解読活字化されたものは、森田平三郎(立石孫一郎、西大橋家移築居住)著:「倉敷雑記」のみといってよい。これには、文久3年(1863)正月元旦から4月29日までがおこされている。なお、筆記されたものは倉敷市立図書館にある。閲覧可能。
    玉島・米屋 三宅家
    @        A     B
    安兵衛(理哲)――高甫―┬――安八郎(高炳・次男)
                |
                ├――伊十郎(長男)
                |
                ├――甚蔵
                |
                └――操子(本家、高幸ニ嫁ス)
     玉島米屋は連島米屋の分家である。連島米屋の当主三宅定太郎(高幸)は尊攘運動に財貨を湯水の如く浪費し、また交易にも失敗し破産する。破産管財人が分家玉島当主(安八郎高炳)である。 高炳の妹は高幸に嫁した。 往事の中央町、仲買町の住人の多くは玉島を離れたが玉島米屋は当地にとどまった。
     現在玉島三宅の当主は三宅正堂氏である。正堂氏は婿養子で奥さんが安八郎高炳の系に連なる。住まいは中央町の港側であるが当時港側は倉庫群で道路反対山側が店舗兼住宅である。
     慶応2年(1866)4月12日歩兵奉行(連隊長)戸田肥後守は浪士追討の命令を受け在広幕府軍を率い二隻の軍船で浪士追討のために派遣されることになった。 結果玉島三宅(米屋)にも宿割りに組み込まれる。玉島米屋には前々代官佐々井半十郎、現代官桜井久之助ら一行が宿泊した。久之助は広島からの帰途笠岡に居たが、4月10日午後2時頃、 当時倉敷郷宿淀屋に宿泊していた苫田郡塔中村の牧卯左右衛門の注進により代官所の変事を知った。彼は情況把握のため笠岡に留まっていたが、幕府軍勢が玉島に着したとの連絡で14日中に玉島で合流した。
      玉島地方史(中)「四月公儀御軍勢御止宿 慶応二年寅」大田茂弥/著
    玉島村について
    幕府領、備中松山藩領、丹波亀山藩領などが入り組んでいる。
    大国屋は、川田剛(甕江・おうこう)の生家。当時備中松山藩に仕官。同僚に代官所で闘死した三島時政の叔父三島毅(中洲)がいた。
    西綿屋は玉島商家。当主は中原利右衛門。熊之助の妹が息純一郎に嫁いだ。利右衛門は画家として花鳥人物をよくした。
    玉島米屋、安政6年(1859)正月下旬から同年末までほぼ1年間平野国臣(筑前卒・福岡藩,32才)が米屋番頭とし薩摩物産交易の販売促進で備中,下関,筑前等に往来。
    西国屋は、ほぼ倉敷市玉島中央町1−21−13の場所にあった。かつての同家倉庫だった場所に西国屋ホールが営業している。上図中国銀行玉島支店の右斜め上に下図の大国屋(川田姓)があった。当時この家の川田剛は備中松山藩に仕え、老中板倉伊賀守の信任が厚かった。中島村三島毅と双璧をなし明治になって今日に続く二本松学舎を開学した。
    余談だが、川田剛の父川田資嘉(伊能忠敬の孫弟子)が文化12年3月、測量作図した阿賀崎新田村地図がある。地図は三宅正堂氏が蔵している。新修倉敷市史付録に同図が収められている。

    当時の玉島村。現在の中央町は島のような状態であった。
     第二奇兵隊を率いて集団脱走した立石孫一郎らは連島西之浦角浜に船を着けました。右図は明治初年頃の西之浦の地形図です。 ここは概ね米屋三宅が干拓した土地です。 西高梁川と亀島の間に鶴新田という干拓地があります。これも米屋三宅が開発します。米屋三宅は三代目本家英章と分家酒屋と玉島米屋が別れました。

    結語
     作州尊攘派代表する立石正介(孫一郎の叔父)、この影響下にあった桜井新三郎。備中尊攘派の巨頭三宅高幸、彼と誼を結んだ、長州馬関商人白石正一郎。彼の資金援助支援で結成された奇兵隊。 この攘夷実行部隊に大挙入隊した浦家臣団。浦の重臣秋良敦之助と交友のあった備後尊攘派商人竹内隼太。備中尊攘派を代表する林孚一源助、島田方軒など彼らが希求した世界は何だったのか? 作州から送り込まれた桜井新三郎の目的は何だったのか?。新三郎が潜伏した小松村妙善寺三国管嶺は第二奇兵隊の幹部である。新三郎が潜伏したであろう隠し部屋とおぼしきものが現在も同寺に残る。
     管嶺は一片の記録も残していない。この事実は何を意味するのか?。あの膨大な日記を残した阿月浦靱負。靱負にも新三郎潜伏の情報は伝わらなかったのか。
     安政の大獄以前に構築されたであろう、三宅高幸、梅田雲浜、平野国臣、白石正一郎、秋良敦之助の紐帯は何を目指したのか?。 白石正一郎に代表される奇兵隊は馬関攘夷戦を行う。時代は少し降るが、立石孫一郎に率いられた第二奇兵隊は征長兵站拠点の倉敷代官所を焼討ちした。更に時代は下り、明治に入って、明治政府の開国路線に反発した立石正介、三宅高幸には二卿事件を引き起こす。 これらの動きはの根底に横たわるものは攘夷であった。これら連携の実相は解明されていない。

    注1 平野国臣 福岡藩卒。薩摩、長州の周旋に活動した。 安政6年(1859)正月18日〜12月15日まで、連島三宅の分家玉島三宅の番頭に身をやつし、上方と西国の交易活動を支えた。 文久3年(1863)10月、第二代奇兵隊総管河上弥一らと生野の変に参加。捕らえられ、京都六角獄に収監され、元治元年(1864)7月19日禁門の変が勃発するや獄内で殺害された。
    注2 岩国柱島。赤根武人、天保9年 (1838)1月13日、松崎(まつさき・後の赤祢)武人生誕(生誕十五日説あり)
     嘉永4年(1851)遠崎村妙円寺住職月性にリクルートされ清狂草堂入塾 武人14才。のち、阿月浦家に送り込まれた。 梅田雲浜、安政3年(1856)12月西下し、翌年帰京する際武人を伴い、連島三宅宅など訪れている。
     文久2年(1862)11月、幕府は攘夷の勅を受けながら実行せず、慷慨した長州藩攘夷激派らは血盟し外国公使館焼討ちを画策。12月12日、高杉晋作、久阪玄瑞らを含む13人で品川御殿山に建設中の外国公使館を焼討ちした。
     文久3年(1862)10月4日 赤根幹之丞奇兵隊総管御用取計仰付らる。
    注3 梅田雲浜(四十四才)の逮捕は9月5日・7日・8日・9日の諸説あり。
    注4 二卿事件
    二卿事件(にきょうじけん)とは、明治4年(1871年)4月、攘夷派の公卿、愛宕通旭と外山光輔が明治政府の転覆を謀ったクーデター未遂事件。中川宮を取り込もうとしたところ 発覚し、捕らえられた。東京に火を放ち、天皇を京都へ連れ帰って攘夷を断行する計画で、 久留米藩や赤報隊残党、河上彦斎も策謀に加わっていたという。首謀者の二人は明治4年(1871)12月3日、 切腹させられた。翌4日、彦斎以下4人は斬首。正介以下14人は終身禁固。逮捕者は120余人にのぼったという。
     また、作州尊攘派の立石正介(立石孫一郎母の弟)は、この事件に連座し明治9年(1876)10月17日青森刑務所で病死。遺骸は正介の後継立石岐(ちまた)、が孫一郎の子千之甫を青森に行かせ処置させた。
    注5 秋良敦之助の交友関係の中に、 尾道の政商で廻船問屋の竹内隼太がいる。文久3年(1863)8月17日天誅組の変が勃発するや情報交換のため隼太は柳井市阿月を訪れている。その時、秋良敦之助は天誅組の情況把握のため上方に向かい、隼太は敦之助と接触出来なかった。 立石孫一郎は隼太の思想を知って、慶応2年(1866)3月、第二回下津井会議に向かう際、尾道の隼太を訪れ、尾道の焼き討ちを提案し、隼太に拒否されている。
     すなわち、この時点で、三宅高幸(備中)秋良敦之助(周防)竹内隼太(備後)の関係が構築されている。 そして、阿月浦家臣団は、第二奇兵隊の中核をなした。 この倉敷・浅尾騒動に浦家臣団が全く加わっていない理由は、第二奇兵隊軍監だった木谷(世良)修蔵が除隊処分を受け、 かつ主人浦滋之助が藩庁より差控(逼塞)の処分を受けたことで、浦家臣団あげて今風に云えば謹慎したことによる。

    山口県防府市多々良 秋良敦之助墓所

    〔前列左敦之助、右嫡子雄太郎貞臣〕
    明治廿三年(1890)十月十六日暁防府市多々良荘で嫡子貞臣に看取られながら心筋梗塞と覚しき症状を呈し発症より3〜40分で卒。享年八十。
    生年 文化八年(1811)九月四日
    墓位置 34‐03‐49 E 131‐ 34‐ 54 N

    ○防府史料第三十三集 秋良貞臣日誌四より
    十六日 晴、一時前二十分ノ頃、父君ノ母君ヲ起スノ声二眠覚メ、其声ノ常
    二異ナル所アルヲ以テ起テ二階ノ下ニ至ルヤ貞臣ヲ呼へトノ声ニ應シ、直ニ
    至テ聞クニ胸ノ痛ミ甚シクシテ火ヲ以テ焼タカ如クトノ事ヲ聞キ直ニ医ヲ迎フ、
    其際大用便通アリテ床二復スルヤ又通シテ衣ヲ汚セリ、着替ヘスルトノ事ニ
    テ衣ヲ出シ帯ヲ解クヤ景状甚タ悪シク、水ヲ呼ハルルヲ以テ直二與フ、手ニ採り一掬直ニ眼冥シ眠ルカ如夕呼へトモ應セス、
    叫へトモ答ヘス、遂逝テ帰ラス、呼鳴悲哉、胸痛発シテヨリ僅ニ三、四十分間ナルヲ以テ医師ノ来ルモ事切レシ後ニテ如何ト
    モ詮スへ勿ク、只悲歎愁傷ノ外ハ無シ、夜ノ明ルヲ待テ平生・阿月・高森へ電報ヲ出シ、親族へ知報ヲ出ス、山根健索・山根
    治六・貞永知介直ニ来弔ス、各地知人へ知セ書ヲ出ス、夕時井上姉君束着、悲歎彊リナシ
    挽歌は三十五首を数える。明治32年7月11日、母を失ったが挽歌は二首。貞臣の父貞温の尊敬を垣間見る思いである。

    この頁の参考資料
  • 旧版倉敷市史5冊,10冊 永山卯三郎編著
  • 平野国臣 小河/扶希子著
  • 新修尾道市史第二巻 竹内隼太履歴書
  • 柳井市史(通史編)
  • 梅田雲浜遺稿竝伝 佐伯仲蔵編
  • 高梁川第50号 幕末倉敷村こぼれ話 井上賢一
  • 倉敷雑記3 森田平三郎著
  • 防府史料 第三十三集 秋良貞臣日誌 四

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