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【石田英吉(1839〜1901)】
この英吉こそ天誅組の生き残りなのである。潜伏先は、先述したように現久賀町畑能庄の西村俊夫氏の居宅
であった可能性が大である。当時は楢崎剛十郎宅であった。
生国は、土佐国安芸郡中山村(現安田町中ノ川)、藩医の家柄である。 文久元年(1861)大坂に出て緒方洪庵に入門、同3年(1863)8月、 同郷土佐の吉村寅太郎らの天誅組の挙兵に参加、重囲を脱し中山忠光と共に長州に 逃れる。翌元治元年(1864)7月の禁門の変には忠勇隊に属して進撃したが、 負傷し、再度長州に脱走した。この時、大島郡久賀に潜伏したと考えられる。 写真の左手には一時的に潜伏できる洞窟が現存する。
立石の脱隊事件が起きたとき、英吉は三田尻の海軍局に出張しており白井小助に
立石との連累(艦船奪取し立石と合流)を疑われた書簡が残る。
大伴三郎も同じく立石との関係を疑われた。(慶応2年(1866)4月8日四ツ半すぎ 確証のないまま小助は大村益次郎宛に手紙を書いた。内田伸編:大村益次郎文書) |
| 坂本龍馬結成の亀山社中は今風にいえばベンチャー企業であった。いわゆるノンポリでどの藩にも属さなかった。 社中最初の大仕事は長州藩が購入する鉄砲であった。ゲベール・ミニエー銃七千三百挺。 長州藩が購入したユニオン号は第二次長州戦争勃発直前まで龍馬をキャプテンとして亀山社中が運行していた。 長州藩に返還のため必然的に第二次長州戦争小倉口の戦いに参戦する。 この戦いも亀山社中のビジネスであった。石田英吉は砲手長として参戦。 この戦争は長州藩の勝利で終わり、亀山社中の業務は大打撃(運行供用の船舶が無い)を受ける。この状態を救ったのが龍馬脱藩の土佐藩である。 亀山社中は発展的解散し誕生したのが土佐海援隊であった。 |
【白井小助】初期第二奇兵隊結成時は総督、軍監は後の奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵。 小銃雷管の暴発で右目を失明。周防の独眼流と呼ばれた。 立石脱隊(1866/04/05)当時、世良修蔵が赤祢事件に連座し除隊処分,主家浦滋之助は逼塞、その他数名が 処分を受けていた。よって浦家臣団全員帰郷。 白井は山口藩庁に呼び出されたままであった。 文政9年(1826)7月24日儒者白井弥蔵の長男とし萩に生まれる。やがて 熊毛郡阿月に移住し万延元年(1860)郷校克己堂の会頭を務める。 小助は浦靱負(うらゆきえ)の陪臣(浦靱負の家来)で長じて「奇行逸話枚挙にいとま あらず」といわれた。幕末の長州藩にあっては人材発掘がどの藩よりも際だ っていた。志を同じくすれば一種対等の気分が成立し、この時期足軽であ った山県有朋、伊藤博文は士雇(さむらい・やとい注1)となり、白井は正規の武士(文久3年[1863] 7月4日)になっている。こ んなことは、この時期日本のどこにも存在しない。たとえば門地門閥にうる さい薩摩藩では陪臣風情が本藩の直参と対等でつき合うことなど夢にも見ら れぬことであり土佐藩にいたっては城下を下駄履き、かつ二本差で歩くこともできなかった。 よって、土佐の志ある青年は脱藩を試みた。元治元年(1864)9月5日、23人が奈半利川原で斬られた。 (野根山の悲劇、高知県安芸郡奈半利町) |
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維新後西郷隆盛は郷士団(小助のような立場の者)でもって警視庁をつく
り城下士団を近衛陸軍とした。のちに西南戦争が起きるが、薩摩の郷士団で
結成された警視庁抜刀隊は、政府軍にあって同郷薩摩軍に対し、今こそ父祖
の恨みを晴らす秋だと獅子奮迅の戦いを挑み勇名をはせた。差別は時に猛烈
な破壊のエネルギーを利害得失を越えて発散させる。
小助は嘉永6年(1853)江戸に遊学したがこのとき吉田松陰(二度目の遊学)
と同じになり江戸藩邸では起居を共にした。松陰は本藩の武士であり小助は家老
浦靱負の家来にしかすぎないが、松陰のことを「寅次郎」と呼び捨てにし二人は
親友となった。松陰をして「白井小助、甚だ志あり」と言わしめ、超人的ともい
える記憶力の持ち主だったという。 <== 山口県柳井市阿月 白井小助屋敷跡 | |||
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江戸遊学中は漢学は安積艮斎、兵学は佐久間象山、剣術は斉藤弥九郎に学んだ
と伝えられるが、小助にあってどれも本物となった様子はない。やがて松陰は
下田から米国軍艦に乗船しようとして失敗し、江戸伝馬町の牢につながれたが、
肥後の宮部鼎蔵と図って牢役人に金品を贈りそれがバレて、藩より謹慎を命じ
られている。その金は父から譲り受けた長船の長刀を七両で売り、そのとき
「刀は2本もいらない、鉄砲一丁あれば十分だ」との逸話が残っている。
文久2年(1862)12月高杉晋作らと攘夷のため品川御殿山英国公使館を焼 討ちし元治元年(1864)下関における四カ国連合艦隊との戦闘では奇兵隊参謀 として沿岸砲台を指揮し、この時の外国の火力の優秀さにいち早く気付き最 新の装条銃の装備に熱心であったという。 続いて戊辰戦争では北越戦線の参謀となり、山県有朋、時山直八とともに越後 口で戦い、長岡藩の頑強な抵抗にあいさんざん苦戦している。 山田顕義(北越海軍参謀、24)とは馬があったらしく若い山田をもり立て 慶応4年(1868)7月25日新潟太夫浜上陸作戦では前日佐渡小木港での テント船30隻(上陸用小型漁船)の調達に辣腕を振るい、よく若い山田を支えた。 彼ら二人のコンビネーションがあって完全なまでの上陸作戦となった。 この上陸方式をWW2で日米両軍とも採用。寸分の違いもない。 この二人の気質を 見抜いて活用した大村益次郎の慧眼や恐るべしである。 朝日山攻撃の 時山県は攻撃の時間(本人は時刻表現の違いを理由にした。攻撃は七ツ時(午前4時) とされていたが彼は午前7時に戦場到着)に遅れた。この 攻撃で同志で親友時山直八は戦死している。このあとあの有名な「狂介(山県有朋) の臆病者」の話となる。このことから山県は小助に対し一生頭が上がらなかった。 山県の妻は長府藩士の娘だが、酒に酔った小助は彼女に脱糞後の尻まで拭 かせたという逸話が伝わる。あまりのことに山県は友人の後の陸軍中将の三浦悟楼 (上関町室津に小方謙九郎の撰文の題額に名を残す)に二度と同じことがないよう に仲介を頼んだが逆にミイラとりが、ミイラになってしまった。 平生町宇佐木に小助に対する山県の撰文の碑が残る。疑いぶかい面の記録も残る。 |
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【三浦悟楼】 文久3年(1863)五郎の名で奇兵隊に入隊する。奇兵隊日誌 で隊法に背き謹慎処分を受けたことが記されている。また明治2年(1869)の脱隊事件では 「馬関において遊蕩をきわめ候不義の心底・・・」と弾劾されている。さらに後年井上薫(聞多) の推薦により朝鮮公使に赴任し閔妃(みんび)暗殺をやってのける。 この嘆願書には、三浦と同罪で滋野謙太郎(第一銃隊長)と、この他、久 我四郎、湯浅祥之助、杉山荘一郎、三好六郎、岩本勘九郎、安田豊、十川、 飯田など隊長クラスが弾劾されている。 脇道にそれついでに、立石脱隊事件が起きるや奇兵隊にもこれに続かんと して二番砲隊、岩本勘九郎の部下である波多野十吉、有田常蔵(乕蔵)が脱 走した。このあたりについては、別章に譲る。 話を元に戻す。 小助は、戊伸戦争帰還後も仕官を求めず熊毛郡平生町宇佐木に移住し子弟 の教育に尽くし明治35年(1902)6月18日77才で没した。 小助はひょっとしてさらに重大な山県の秘密、場合によっては赤祢武人の 謀殺の秘密でも知っていたのかも知れない。彼と富永有隣は維新後も官に就 くことはなく、小助や有隣は下輩、同志を蹴散らすような出世主義の木戸、 山県、伊藤たちに対し、決して敬称を使用することはなかったという。 小助の死を聞いて一番喜んだのは山県や伊藤博文かも知れない。 |
【富永有隣】生国は吉敷郡陶村、萩藩士。文政12年(1829)藩校明倫館に入り天保4年 (1833)13才で藩世子に大学を講じた。天然痘を患い右目を失った。天保1 2年(1841)ころ配膳役に進んだが、同僚のねたみを被り、嘉永5年(1852)阿 武郡見島に流罪となる。翌年野山獄に入れられ、吉田松陰と知りあい安政4 年(1857)松下村塾の助教となる。同6年(1859)吉敷郡二島に定基塾を開いた。 慶応2年(1866)第二次長州戦争には精武隊を率い石州口・芸州口に転戦し た。明治2年(1869)12月に冒頭触れた脱隊事件の首謀者となる。敗れて 翌年土佐へ脱走しやがて捕らえられ刑に服す。特赦により明治19年(1886) 帰国し、田布施において帰来塾を開き子弟の教育と著述に晩年を過ごした。 有隣は、国木田独歩の小説「富岡先生」のモデルである。彼は、明治33 年12月20日に80歳で没した。住居は廃屋となり当時の姿をとどめては いない。松陰の助教まで勤めた人である。脱隊事件の首謀者にされたが、脱 隊事件は、帰還兵を使い捨てにしょうとしたところに遠因を求めることがで きる。我々を人間として扱えという人間として当然の要求であつた。誰が考 えても非は政府側にあった。田布施町の旧家屋復旧への英断を望む。 平成12年その後の状態はと再訪してみたらすでに撤去されていた。 残念の一語に尽きる。田布施町の社会教育関係者は誰だろう?。壊したものは二度と 復元できない。話がそれついでに同じ事が山口県上関町にいえる。ここの旧家は 現在広島県下蒲刈町にある。世界の照明を集めた「あかり館」として残してある。 どちらも(上関町も下蒲刈町と同じ朝鮮通信使の寄港地)も過疎に悩む町とみた。 町起こしの一環として方や原発推進に夢を託し、方や文化振興(美術館や博物館) を図っている。文化という面で上関町に見るべきものは特に聞いたこともないが、 下蒲刈町にはそれなりにある。美術館などぜひ一度来島し両町の違いを実感して欲しい。 参考までに、第三代奇兵隊総督の赤祢武人の生誕の地と同町はいう。同地 三之瀬に生誕之地の碑がある。
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【赤祢武人】文久3年(1862)10月より川上弥一の後をうけて第三代奇兵隊総管となった 現在、岩国市新港より直行連絡船で約50分程で250所帯約500人の 漁業の島柱島に天保9年(1838)1月15日島医師父松崎三宅、母光恵の 次男として生まれた。15才のとき、現大畠町の妙円寺の月性の門下生とな る。16才のとき、月性に伴われて柳井市阿月を給領地とする浦家の家宰、 秋良敦之助に引き合わされ、克己堂に入門する。やがて浦家家臣赤祢忠右衛 門雅平の育(はぐくみ)となり、陪臣ではあるが武士の仲間入りをする。安政4年(1857) 20才のとき、小浜藩士出身の梅田雲浜の望南塾に入塾したが、師雲浜が 安政の大獄により逮捕されたために帰郷した。 帰郷した武人は、吉田松陰の教えを受ける。 文久2年(1862)12月、赤祢、高杉、伊藤、久坂、井上を含め12名と 共に攘夷実行の名のもとに江戸御殿山の英国公使館の焼き討ちを行った。や がて文久3年(1863)高杉奇兵隊の創設に参画し、同年10月、第三代総管と なり、元治元年(1864)4月23日、年表で示したように隊員(非武士階層) の士分格上申を行い武士の支配の世の中に風穴を開けようとした。禁門の変後、 藩政は重商派(俗論)となったとき、諸隊解散、前田孫右衛門ほか6名の旧政務員 の殺害を防止するために、時山直八と共に萩に赴き藩政府と助命の嘆願と諸隊解散阻止の折衝を行う。 |
この時、先にも述べたように高杉の功山寺決起が起き、旧政務員7名斬首、
清水清太郎の自刃は決行され武人の努力も水泡に帰した。長州にあって藩政
は、重商派(俗論)と重農派(正義)の二つの政治勢力があり、政権争奪の
争いが続いていた。この点について武人は、長州藩が置かれている国内、国
際情勢からみて蝸牛の争いするときではなく、挙藩一致し大所高所からこと
に当たるべきだとの考えを持っていた。このことが高杉晋作一派と決定的な
対立と争点となり奇兵隊を追われる。一説(巷説)では、芸者「おうの、後の「東行庵
主」を手にいれるための高杉による策謀と追放だったとも伝えられている。
武人は筑前から大阪へと亡命したが、やがて逮捕され新選組預けとなり、 近藤勇と広島まで道同しやがて釈放され、故郷の柱島へ潜伏する。 赤祢帰るの情報が山口に伝わるや、奇兵隊軍監の林半七に武人捕縛の命令を出したが、 半七は「赤祢の行方知れず、我その任にあらず」と辞退し、 代わってやがて本事件の裁判官となる槙村半九郎が捕縛使となった。 この潜伏中に、武人と同じ浦家の家臣である世良修蔵が会い、 やがて彼は第二奇兵隊除隊処分を受けていたさ中、 第二奇兵隊脱隊事件が起きる。一方武人は、慶応元年(1865)12月27日槙村によって柱島で捕縛され、明けて慶応2年(1866)1月3日、 久賀〜三田尻(防府市)まで海路を、のち陸路をとって山口の政事堂付属監獄に収監される。 |
武人の収監された場所は、山口市の国道9号線に一の坂川が貫流
する位置に西京橋が懸かっているが、その橋の手前を川沿いにさかのぼる。
町名で中河原町が政事堂の監獄の跡だという。
そして同月25日、一言の弁明も許さず、虫けらを踏つぶすがごとく出合
河原(椹野川と仁保川合流地点)で斬殺してしまった。以降この河原を山口
の人は武人河原と呼んだという。当時赤祢は武士であったので名誉ある死として切腹があるが彼に名誉ある死さえ与えなかった。 この赤祢の事件が、何度も繰り返すが今回の暴動の背景、遠因となっている。 刑場に引かれる獄衣に墨痕もあざやかに「真は誠に偽に似、偽は以って真に似たり」と記し辞世とした。 処刑当日、無用の摩擦を避けるため奇兵隊士に禁足令が出され、また殺害した彼の 腸を引きずり出し、遺体は通行者が確実に踏みつける場所に葬らせたという。 赤祢亡き後、士魂に裏打ちされた明治維新(革命)は、庶民の政治参入を 許さず昭和20年(1945)までの永きわたり国民と国家を塗炭の苦しみと破滅 に導いた。 昭和18年(1943)山口県柱島沖で、あまたの将兵を乗せたまま謎の爆沈を遂げ た、帝国海軍の戦艦陸奥は志を理解されずに処刑された武人に捧げた海の墓標であったのかも知れない。 現存する武人の墓は2個所、生誕地柱島の西栄寺の境内、柳井市阿月赤崎 山の中腹に養父忠右衛門雅平、養母の三條と一緒にある。 また終焉の地山口に慰霊碑 あり。 この墓の位置は、阿月の柳井支所前の観光案内板に大略図で表記され、地 理不案内の者では到底到達不能である。この山道も倒木を踏みわけ登ることになる。 '07年1月、史跡デジタル化の目的をもって阿月の地を再訪した。県道には墓に至る標識が建てられ、 道程も整備されていた。聞くところによると地区ボランティアにより年数回整備されているという。 この地の若者がその志に日本を変えたい。この無私の功が明治維新の燭光の灯火となったことを思えば末永く活動が続けられん ことを祈らずにはいられなかった。 墓は、基本的には、赤祢家個人の所有物かも知れないが、少なくとも明治維新 の先覚者であったことには間違いない。柳井市のなんらかの措置を望む。 1993年3月現在、生地柱島では、島の郵便局長を務められた中本節雄氏が、 武人の資料館建設に躍起となっておられる。 |
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![]() 注)赤祢武人の生誕地について 広島県下蒲刈町も 名乗りをあげ同町三之瀬に生誕碑があった。 父の出身は同町。 |
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下蒲刈町、赤祢武人の生誕地は郷土史家などの努力により否定された。
現在は撤去されたと報道された。(2004年1月撤去) 詳しくは、柳井市郷談会誌第29号(平成17年3月・赤祢武人の生誕地について,石永 雅/著)を参照されたい。 | |
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注1) 長州藩武士での出世 最下層は士雇(さむらい・やとい)その上が三十人通(さんじゅうにん・どおり)と呼ばれた。士雇は三十人通りに欠員が出来るまで留め置かれる予備ポスト。 よって士雇から武士の仲間である。 脱隊隊士を多く処刑した藤井関次郎の家格は検断。士雇の下に位置付けられている。この検断勤功を積むと士雇にすることがある。と書かれている。 報われることのない辛い役目である。 |
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第二奇兵隊取材班![]() ADDRESS Kudamatu City S.K.P Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000 |