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河谷鹿槌の自詠と第二奇兵隊日記
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| 河谷鹿槌は慶応二年五月四日、島田川畔光市小周防鴉迫尻で自決しているのが、翌五日発見された。彼は遺書を持っていた。 |
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遺書 先月五日夜、岩城脱走仕候者共罪科不軽次第尤奉存候共、先ハ軍鑑(監)・書記等処置不宜儀ハ一々難申尽、此儘ニては御國恩相貫キ候程義無元来、最早幕兵相迫り候趣ニ付、何卒御国之勇気他国え相触度、 備中ニテ且々実効相立候ヘ共、少人数ニ付往々持久之策相立兼候付帰国仕候処、不條之罪科御厳罰被付候段感心仕候付、此処ニて相果申候、死後可奉報御國恩候、以上 五月四日 河谷鹿槌 実信(書判) 国のため 立てし功も 今ははや はかなく消る 身とそなりける 墓標全景はこちら |
暴徒御処置一件 河谷鹿槌 遺書部分 ![]() |
参考までに、遺書自詠の冒頭「国のため」は墓標では「君のため」に書き換えられている。 隊士の中で唯一遺書を残して自決した河谷鹿槌は遺書の末尾に 「死後可奉報御國恩候」 死んで御国恩を報じ奉るべく候。 そして「国のため 立てし功も 今ははや はかなく消る 身とそなりける」と詠みあげている。 |
第二奇兵隊日記部分![]() |
第二奇兵隊日記では立石の私怨説である。兄が在獄しその救出だったと書く。系図的に立石の兄なる存在はない。
この兄在獄私怨説を吹聴したのは、幼少参加の神本備後(徳山市久米)や途中参加の吉田又太郎(大和町塩田源城)らだと伝えられている。
藩政府の意向でこの事件を矮小化するために利用されたのであろう。
第二奇兵隊日記で注目しなければならないのは、立石の兄在獄を救出しの下りである。 実は、第二奇兵隊暴徒御処置一件には、もちろん供述調書は掲載されていないが、立石の兄在獄の話は皆無であり、 引地峠(ひきじだお)で処刑された隊士たちの遺歌が残され、その中に「皇国のこと」「勤攘の事」と詠み上げたもの二首がある。 少なくとも彼らには、長州藩の枠を超えた国家像が念頭にあったことを物語る。 第二奇兵隊日記で逮捕された隊士らは「立石ニダマカサレ」と述べ「御助ケ下サルベク」流涕したと書いてる。 彼等は斬首という死の淵にたたされていた。生きたいばっかりに、つい立石にだまされた。 と口をついて出たのであろう。万に一つでも生き残れるものなら本心でもない言葉も口から出るであろう。 |
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適当な言葉が見つからないが、立石脱隊浪士の行った軍事行動は「政治的テロ」だったように思う。
動機不明瞭な「通魔魔的殺人事件」とは異質であり、存在もしない立石の兄在獄救出譚を捏造してまで
この事件に対処した。 第二奇兵隊暴徒御処置一件の記述者は脱隊事件の裁判長だった槇村正直である。 槇村正直(藩政府)は断然たる鉄案を下し禍根を断つ!としている。結果的に暴力には暴力で対応したのだ。
思想や信条で行動する場合、どちらが「正義か」を論争することはあまり意味を持たない。
藩政府代表槇村正直が隊士処断で俺たちが「正義だ!」と叫んだとて、
立石側も全く次元の違う「正義」を実行したに過ぎない。
立石に弁解の余地のない非があるとすれば、脱走する際、隊幹部であった楢崎剛十郎を殺害したことにある。
これは部隊内部の内輪もめで、当時の社会(長州藩諸隊相互)でそんなに珍しいことではなかった。
有名なものに奇兵隊と先鋒隊間での教法寺事件などがある。
長州内部でも思想・信条の違いで暗殺事件が多発しています。少なくとも「正義」と「正義」のぶつかり合いの話である。
このような事件を「どちらが正しいか」と一刀両断的に論争することは非常に危険だと小生は考える。
第二奇兵隊日記は日記の体裁となっているが、全てが時系列的な記述ではなく、 後からのつじつま合わせが随所にみられる。 前年(1865)の秋、第二次征長の勅許を得、幕府側は日を追う毎に長州に対する臨戦状態を加速させている。 そのような状況下、翌春(1866)立石等は尾道に竹内隼太を訪れ、征長戦兵站中継地の尾道襲撃計画を述べてる。 よって長州による倉敷代官所襲撃はいつ発生してもおかしくない状況にあった。 このようなことで襲撃当時も近在の若者を宿直させ臨戦体制(お粗末な体制だが)を敷き、代官所管轄下にあった苫田郡では農兵が組織化されホンに短時間で17ヵ村135人が倉敷に駆けつた。 庄屋クラスも6ヵ村7人に及でいるのだ。 倉敷・浅尾事件は、いつ発生してもおかしくない緊迫した状況で、長州藩としの軍事行動でなく、脱走した部隊の軍事行動だったところに特色がある。 後に発生した偽官軍とされた赤報隊幹部の末路も哀れであったが、この両事件とも似通った処罰を受けた。 時の権力者の意に反することは「悪」であり、権力者側が自らの価値判断による「正義」を振り回したのだ。 両事件ともそれに加わった若者は、命がけでこの国を変えたい。 そのような純粋な志を第二奇兵隊御処置一件に録されている河谷鹿槌の自詠に垣間見みることができる。 政治的な背景のある事件であるから、立石の軍事行動を「不正義」と決めつけるべきではないと愚輩は考える。 ただし、先の大戦さ中、立石孫一郎を「勤皇烈士」と顕彰したことはあまりにも政治的であり嫌悪さえ感じてしまう。 この事件で攻守双方、心ならずも生を断ち切られた庶民の方を悼む気持ちは人一倍持っているつもりですから、彼らが生きた証の事績や文物、墓碑などの記録を出来る限り後世に伝えたい。そのような思いから第二奇兵隊に係わった人たちのよい意味でのストーカーを続けて来たし、今後も続けるつもりだ。 |
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山口県文書館 史料の現物閲覧が可能です。その場合閲覧申込み票に【標題】【整理番号】が必要です。 館内で調べることが可能ですがネットで事前に調べることも出来ます。 文書簡易検索こちら。その場合整理番号は不要です。 【標題】第二奇兵隊暴徒御処置一件 【整理番号】 68諸隊一件72 【標題】 第二奇兵隊日記 【整理番号】 68諸隊一件135 |
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