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津山藩士井汲唯一と立石孫一郎並びに和栗吉次郎 下津井屋事件関連
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慶応2年(1866)4月中旬、備中の天地を震撼させた長州第二奇兵隊による倉敷・浅尾暴動事件が発生した。
首領は前代官大竹左馬太郎時代倉敷村年寄だった大橋恵吉(敬之助)こと立石孫一郎だった。
やがて、津山にこの事件が伝わるや城下は騒然となった。 大兵を率い孫一郎が井汲唯一を奪還する!!。 火縄銃を肩に作北農兵鉄砲隊は陸続と城下を かすめながら倉敷をめざして吉井川ぞいを南下した。 この様に住民の不安は頂点に達した。 | |||||||||||
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井汲唯一と立石孫一郎の関係 倉敷・浅尾を屠った浪士らが唯一奪還、来兵。という噂で城下は混乱を極めた。火付け役は幕府軍目付曽我権右衛門。 数万の兵が襲うと懸合った。 (丙寅初夏倉子城日記記述) 曽我権右衛門は4月14日幕艦翔鶴丸で玉島に上陸したが、どのような方法で津山に達し、 津山藩を半ば威したのか「倉子城日記」は一切伝えていない。 従前から旗幟がぶれている藩主松平慶倫(よしとも)に藩内尊攘派勢力を一掃させ、親幕藩政に舵切を切り 第二次征長戦への督戦の意味合いだったのかも知れない。 岡山県の歴史(谷口澄夫著)によれば前藩主斉民(8代・将軍家斉の第14子)を中心とした佐幕派と、 津山生え抜きの現藩主慶倫を奉ずる両派が生まれ藩論の統一が図れなかったという。 唯一死罪は藩論統一のための 強行手段だったのであろう。 唯一は、自裁という形で4月24日獄中に歿した。 享年37。 切腹を請うたが許されず古釘で喉を突いたとも伝えられている。 この暴動事件からさかのぼること三年前、文久3年(1863)9月末、津山藩(10万石)は唯一を拘禁する。 拘禁前の8月17日天誅組挙兵があった。 この事件に絡んだ拘禁だったと史家は云う。 家名断絶。 唯一が尊攘派で ならしたといえども、下級藩士でさしたる影響力はない。すなわち、津山藩尊攘派に心理的圧迫を与えるための 手段だったのであろう。 このようにみれば、唯一もまた幕末という時代の犠牲者の一人と云えるだろう。 注1) 曽我権右衛門は広島から幕府追討軍に従って玉島に上陸した。 出典:「丙寅初夏倉子城日記」 ※玉島地方史(中)「四月公儀御軍勢御止宿 慶応二年寅」大田茂弥/著によれば権右衛門は玉島升田屋に宿割りされている。広島から幕府軍艦で玉島に着ている。 注2) 維新後、唯一処刑の責任問題が発生する。簡単に家名復活がなされた。古釘の自決も捏造臭い。 ■ 登場人物相関関係 |
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儒学者 森田節斎師弟関係 倉敷での開塾期間 文久元年3月10日(1861)〜元治2年(慶応元年・1865)3月閉塾 |
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| 剣士 井汲唯一 師弟関係 |
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儒学者 森田節斎〔明治3年(1870)7月26日 58歳で没〕 儒学者、志士、大和五条生。三宅丈平,林孚一,島田方軒(泰夫)らの有志が備後藤江より迎えた。本町宮崎屋井上善左右衛門旧宅に塾を開く。名は簡塾。 短期間であるが吉田松陰も師事した。 入塾及び薫陶を受けた者は | |||||||||||
■ 天誅組の変(文久3年8月17日・1863年)に応援を策したとされる人物 立石孫一郎(大橋恵吉・敬之助) 津山藩士 井汲唯一
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■ 下津井屋事件に関わったとされる人物 立石孫一郎(大橋恵吉・敬之助) 和栗吉次郎(井汲恭平)
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■ 倉敷代官大竹左馬太郎時代同格(年寄)だった人物 和栗仁左衛門 植田孫太郎 大橋勝之丞
小山安右衛門 大橋恵吉(敬之助・立石孫一郎) | |||||||||||
原 與平
大橋平右衛門(恵吉義父・妻慶の父) 小野丹右衛門 (笠岡市史資料編上 P154)
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■ 倉敷代官所襲撃に関わった人物 立石孫一郎(大橋恵吉・敬之助) 伊庭清吉(平松精一)注) 倉敷側の資料に平松精一を伊庭(Iba)清吉と記するものがあるが、弓場(Yuba)の間違いであろう。郷土史家大森一治(倉敷市本町)は昭和4年4月から倉敷墓碑調査を始め佐々木家は近江源氏を祖とし弓術指南をし 因国(因幡国・鳥取県)の地名弓場を唱えたとしている。 | |||||||||||
■ 前出人物の関係者が代官所内に宿直していたとされる者 立石孫一郎 妻慶の弟(義弟) 大橋仁吉
小山安右衛門嫡子 小山虎四郎 | |||||||||||
和栗(板屋)仁左衛門養子 和栗保三郎 和栗(板屋)謙次養子 和栗元助(介)
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和栗(板屋)仁左衛門実家 阿賀郡中津井村 室 與十郎
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井汲唯一(利喜蔵、貫、幸右衛門、龍之介、淡水)の身分 新参御取立御徒士 二十一俵三人扶持(津山藩譜)。 父政智、母満壽。三男二女の次男。 長男政成(甲平)、 長女(夭折)、次男唯一、次女津那、三男執(後金田姓、一也、風琴) 父政智は帰心流剣術目録保持者(津山市史第5巻近世・P234)。 嘉永3年(1850)4月、心勝流槍術目録伝授。5月、理方一流剣術大目録伝授。 11月、江戸九段斉藤弥九郎道場(練兵館、神道無念流)に入門。 同門に長州桂小五郎(木戸孝允)などがいる。 小五郎と相前後して練兵館塾頭となる。 安政5年(1858)6月帰国。7月18日藩主臨席の他流試合で 圧倒的勝利を修める。 ちなみに八剣士と立会49試合中41勝6敗2引分である。 腕は中四国一と伝えられている。 唯一は四方に剣術の指導に出掛けた。 井汲唯一と立石孫一郎の接点 やがて大橋恵吉(敬之助)は唯一を師と仰ぐ。 その頃、倉敷に 武装蜂起論アジテーターだった森田節斎(儒学者、1811〜68/7/26)がいた。 彼は吉田松陰の師でもあった。 文久元年(1861)有力者に請われて倉敷で開塾。門弟は三百人にも及んだと伝えられている。 尊皇攘夷論の当代随一の論客だった節斎は安政3年(1856)に来倉。 元治2年(1865)3月まで倉敷に在住した。 唯一も孫一郎も節斎の門を叩いた。 孫一郎と唯一は節斎の下で同門となり、そして剣の師は唯一。 唯一の倉敷道場は倉敷古録派の代表井上家(宮崎屋・本町)の分家花(華)屋井上家であった。 清水慶一先生のページを参照下さい。 節斎の影響で両士とも肝胆相照らす尊皇攘夷論者に仕上がった。 刎頸の友の出来上がりである。 注1) 年号元治は元治2年(1865年)4月6日まで。以降は慶応。 注2) 唯一誕生は文政12年(1829)11月25日と伝えられており、孫一郎より4歳と1カ月年長である。 注3) 多数の節斎門下生が天誅組の変に加わっている。 大きな影響与えたと伝えられている。 幽栖(ゆうせい)日記(倉敷商人岡熊之助・翠竹)にみる唯一と敬之助 8月17日、天誅組の変発生。 唯一と敬之助はこの対応策に動いたが失敗に帰している。 「天誅組の挙兵を知ったとき、敬之助は剣の師井汲唯一などとともに板倉筑前介の家に会合し 応援の策を講じた」(吉備郡史下頁4041)とある。 敬之助らは対応に失敗したが大和五条の戦跡 を巡ったと伝えられている。 この戦跡訪問が下津井屋事件の伏線となってゆく。 そして、どのような経緯で井汲唯一を危険人物と認定したのか 判然としないが大坂で津山藩は彼を拘禁。 10月1日津山に護送。 当時の拘禁理由書を読んでも、 京都より病気を理由に帰国しなかったのはけしからん。程度にしか読めない。 それだけの理由で家名断絶武器欠所、屋敷没収、特別の憐れみをもって終身禁固刑。 岡熊之助は文久3年(1863)5月27日〜10月17日まで大坂・京都に滞在する。 熊之助在坂日記の条に唯一と敬之助の接点がみえる。 唯一が数回登場する。 |
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不快不面会趣ヲ、井汲子ニ頼ミ…」 |
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やがて熊之助は倉敷に戻るが敬之助がしばしば訪問したことがうかがえる。 訪問の目的は津山藩に拘禁され獄中にある
唯一の救援・救護策の相談だったようだ。
--- 閑話休題 --- 岡(銭屋)熊之助(翠竹)、唯一の倉敷道場の家主井上家はいずれも古禄派、 唯一と縁が深かった大橋(中島屋)敬之助、吉次郎(恭平)の生家の板屋(和栗)仁左衛門、 吉次郎(恭平)が襲撃に参加した下津井屋(阿部)、大原美術館で有名な児島屋(大原家)、 「倉敷今昔物語集」の著者西藤秀男の祖先灘屋(藤原)はいずれも新禄派の流れを汲む。 宇津蘇平(熊之助)の墓は倉敷本町本栄寺(倉敷市本町1-41)墓地 元治元年(1864)12月17日、敬之助倉敷出奔。翌18日、下津井屋事件発生 敬之助 33才 井汲唯一の救出を果たせず、立石孫一郎と名を変えて長州に脱出。そして第二奇兵隊に入隊。 隊の幹部となった。 森田節斎から受けた 倒幕の志捨てがたく、前後二回備中下津井に会し地元同志と密議をこらした。 注) 幽栖(ゆうせい)日記記述者岡熊之助の屋号は銭屋 |
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話を少しさかのぼる。 新代官桜井久之介へ敬之助(孫一郎)のことを下津井屋が讒訴したという情報は
和栗謙次(板屋謙次・和栗惟彰・羽栗淵)がもたらした。 森田節斎在倉当時和栗謙次も節斎に師事した。
やがて、和栗謙次は倉敷村でも名の通った尊皇家として知られるようになる。 危険を察知した敬之助は倉敷を出奔。 翌日、下津井屋襲撃事件発生。吉次郎も加わっていたと伝えられる。 浪士らが代官所を襲撃したとき近在の腕利きとされた 若者が宿直していた。 何回か当HPでも記したと思うが敬之助の妻慶の弟仁吉がいた。 敬之助にとって大恩ある和栗(板屋)謙次養子の和栗元助(介)もいた。 また、倉敷村年寄板屋(和栗)仁左衛門の養子和栗保三郎も加わっている。 なお、敬之助と下津井屋襲撃に加わったとされている吉次郎(後、井汲恭平)は和栗仁左衛門の末弟である。 倉敷時代に同じ年寄を務めた濱田屋(小山安右衛門)の嫡子虎四郎もいた。 さらに、和栗(板屋)仁左衛門の実家阿賀郡(英賀郡)中津井村 室与十郎の名もみえる。 まさか和栗元助(介)と吉次郎が同一人物ということはないだろうが親戚・縁者が代官所に詰めておりその中で襲撃を行った。 このことを襲撃前に孫一郎は知っていたのだろうか?。 |
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孫一郎による井汲唯一 奪還 当時の情宜を考えたらあり得ない話ではない。 岡山県には小藩が多かったが津山藩ほどの大混乱を起こした藩はない。 孫一郎の誤算は備中の参加者が皆無に近かったことだ。 わざわざ 大島郡和田の村上屋敷から旧式銃まで略奪同然に持参したがついには陣屋に遺棄してしまう。 浪士らは敵を攪乱する意図か宝福寺撤退のとき伯耆に向かうと唱えた。 そして宍粟方向に歩を進めた。 津山道に進んでいない。 孫一郎の脳裏に唯一のことがよぎったと考えるのが自然だが大義の前の小義に過ぎなかったのではないかと愚考する。 そして、城下混乱の原因は我にありとして唯一は自裁したとされているが、孫一郎に救出軍事行動は無駄と誰かが 伝達しなかったなら行動がやむものではない。 唯一が自裁した2日後、孫一郎も凶弾に倒れた。 倶に倒幕を志した二つの魂はあの世でどんな挨拶を交わしのだろうかとふと頭をよぎった。 「贈正五位井汲唯一君」には 「時ニ流言アリ長州ノ賊徒備中ニ在ルモノ将ニ来ッテ獄ヲ破リ君ヲ奪ハントスト 藩即チ戒心ス君コレヲ聞キ憂懼安ンセス上書シテ自裁セント請フ聴レス遂ニ獄中ノ古釘ヲ取リ喉ヲ刺シテ死ス」と記す。 慶応2年(1866)4月24日のことだった。 |
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| --- 以上井汲唯一関係おわり --- |
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▽恭平=天保7年(1836)前後生まれ(「歴史読本」新選組特集1994年夏号で菊地明氏が
文政5年(1822)生としているが誤り) 倉敷の商家板屋(和栗)の三男。元の名は和栗吉次郎。
慶応3年(1867)ごろから井汲恭平を名乗る(もっと以前の可能性もある)。
唯一の養子と称した。父は仁左衛門武尭、母はゆき(時松氏)。
吉次郎の人生の転機となる下津井屋事件はこちら。 敬之助とどんな約束があったのか吉次郎と伊庭清吉(平松精一と同一人物・浅尾で戦死)が従い大坂に奔った。 敬之助や吉次郎が大阪へ奔って最初に寄寓した本田(本多)大内蔵とは、 自称武者小路家の元家来で大阪松屋町のぜんざい屋の主人に扮し、土佐出身の天誅組の生き残りの池内蔵太、 大利鼎吉や土佐脱藩の浜田辰弥(田中光顕)、大橋慎三などと大阪城焼き討ちを画策していた。 愚輩Webサイトの記述は概ね出典が明かで閲覧者は図書館に依頼すれば眼にすることが出来る。 だがこれからの 記述は文献的裏付けが少ないことを承知されたい。 八.一八政変劇前に天皇大和行幸の先鋒として決起した天誅組同志三九人中二十人は土佐脱藩者である。 実に51%強である。 戦い敗れ多くは長州に逃れたが池 内蔵太(土佐、細川左馬之助)はぜんざい屋に潜居していた。 清水慶一先生の下津井屋事件(備中窪屋郡倉敷村の歴史) 小山家・浜田屋(窪屋郡倉敷村)はこちら --- 池 内蔵太 --- 禁門の変時忠長州勇隊所属その後遊撃軍参謀兼使番(慶応元年(1865)2月) 慶応元年坂本龍馬が亀山社中を結成するや請われてこれに参加。慶応2年(1866)5月2日ウイル・ウエイフ号(薩船名:太極丸)士官として搭乗中難破し遭難死。享年26。 田中光顕回想録で当時ぜんざい屋には数名の土佐人がいる。そうすると、下津井屋襲撃に参加した浪士も土佐人が加わっている可能性がある。 新修倉敷市史 第四巻 近世(下) P775 に気になる記述がある。本多大内蔵は元治元年(1864)12月9日、 「下筋に用向これある」として、下人の新介と土佐藩大利鼎吉・森・菅谷とともに出発、12月20日帰坂した。 大内蔵の妻れんは「倉敷商家のものを切り殺し居宅焼き払」と聞いている。 下津井屋への乱入者の中に覆面の者二人ありとしている。 その二人とは敬之助と吉次郎であろう。 この両名は倉敷では面が割れており覆面する必要がある。 そのあたりのことについてはこちらをどうぞ。 敬之助と大坂には奔ったものの、吉次郎は直に敬之助と袂を別つ。入った先は新選組。 剣を井汲唯一に習っているので剣一本で生きている連中の多かった 新選組にもなじめたのであろう。ここにには谷三十郎や弟の万太郎がいた。 父は備中松山(高梁)藩板倉家の家臣だったが浪人した。 兄三十郎は副長助勤、組長、副長などを勤めた幹部であった。 出典:総社市史 元治2年(1865)1月8日、吉次郎の情報に基づき、谷らはぜんざい屋を襲撃する。土佐の大利鼎吉が殺され、 本多の母と妻が捕らえられた。大橋敬之助は逃れた。 ただし、敬之助が当時ぜんざい屋にいたかどうかはっきりしていない。 |
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土佐の大橋慎三のことか倉敷の大橋敬之助のことか断定できないが、
「維新史料」第30巻(東大出版会)の西村兼文の「新選組始末記」には「○谷川辰吉反覆之事」という章があり
(谷川辰吉は吉次郎の新選組時代の変名)、被襲撃者の一人に大橋の姓を挙げ土藩としている。大橋慎三であろう。
危険を感じた敬之助は今度は長州に奔る。 <= 島田魁筆 「新選組英名録」 霊山博物館蔵 |
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一方、吉次郎はぜんざい屋事件を契機に新選組に入り、
谷川辰吉(辰蔵、辰三、辰造とも)と名乗る。辰三は兄の名だから、
兄との心の繋がりが強かったのであろう。
注) 吉次郎が新選組に入るのは「ぜんざい屋」事件後である。 慶応3年(1967)6月10日付けで新選組隊士は幕臣に取り立てられた。 このときは本名の和栗吉次郎を名乗っている。幕臣としての身分は見廻組並御雇。 倉敷代官所焼討余聞など書かれた、井上賢一氏は「吉次郎は慶応3年12月には新選組を脱走して井汲恭平と改名して 勤皇倒幕派に入り奥州征戦(戊辰戦争)にまで参加している」と述べ、吉次郎が恭平になったのを慶応3年末から慶応4年(1868)としている。 ある意味節操のない人物にみえる。 倉敷時代の森田節斎の門下生ではあったが節斎の過激思想に 共鳴するでもなく、敬之助との付き合いの中(剣術朋友)で瓢箪から駒的に 下津井襲撃に加わり大坂に逃亡したが、そこはまた節斎の影響を受けた超過激思想の集団だった。 恐れをなした 吉次郎が頼った先が谷兄弟のところだったのであろう。 新選組は価値観的に対立する者たちを斬りまくったが、 内部の主導権争いや、士道にもとるとみなした隊士に自裁という内ゲバを行った。 内ゲバの死者が上まわっていると 伝えられる中で吉次郎は生き延び際どいところで脱走。 どう取り入ったか今度は新政府軍に参加し東北戦争を 戦い抜いた。 |
| 和栗仁左衛門の実家阿賀郡(英賀郡)中津井村の室家、 名は直裕=和栗仁左衛門(備中村鑑上・倉敷村年寄)である。 室から代官所宿直者として 阿賀郡中津井村の室 與(預)十郎が名を連ねている。 恭平(吉次郎)の親戚である。 ところが、 恭平の新選組の記録を調べていたら備中 室 宅之介の名前があった。 備中で室姓は限定され 與(預)十郎の兄弟かも知れない。 |
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| 與(預)十郎は明治十八年(1885)六月六日歿年五十五。 代官所宿直当時は36才である。 | ||
| 吉次郎が井汲唯一の養子と自称した以降の家系 井汲唯一 == 恭平(養子) ‖──倉蔵(養子) 阿以 ‖─―┬─ 卓一 田鶴 ├-- 越次 ├-- 美弥子(山口) ├-- 千鶴子 └-- 正明 井汲恭平、明治27年(1894)1月2日死去。 史料・資料詳細について、東京都杉並区久我山在住ご子孫井汲多可史氏より頂戴した。厚く御礼申し上げます。 |
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