小瀬川口の戦い 彦根戦士の墓
慶応2年(1866)1月の政治状況
一橋慶喜と会津容保は長州藩の内政問題を政治・軍事問題化し、征伐を主張した。  当初諸藩は一会両者の進める政策に距離をおいたものの、政治的力関係のなかでずるずると戦争に荷担してしまった。  ところがこうした容保の行動にまず国元の宿老が異議を唱えた。  すなわち諸藩の大方は恭順の長州を討伐する大義名分に事欠いて、 このままだと長州の怨みを一身に蒙ることに危機感を表明したのであった。  ところが孝明天皇との政治取引で開国条約勅許を引き出し、軍事面の第二次征長戦に弾みがついてしまった。  幕府の長州処分案を受諾しない場合に戦争するというものであった。 これが慶応2年(1866)1月の段階であった。  詰問全権大使小笠原長行が下阪し広島に向かった。
長州再征
1.慶応元年(1865)5月16日、将軍家茂進発時に幕府が掲げた理由
 1)第一次長州征伐で服罪した長州で政変が発生し「激徒」が政権掌握したこと。
 2)その激徒らがよく解らんが悪だくみ企てていそうなこと。
 が主たる理由に挙げられていたが。
2.慶応2年(1866)1月に入ると
 1)禁門の変の責任問題で追加処分が必要だったが未執行である。
と目的・路線転換ともとれるニュアンスに変わった。  下広した小笠原長行は高杉・木戸らの激徒の広島出頭を命じた。 この場合長州不出頭=処分拒否とみなし武力行使→長州討滅というシナリオを考えていた。 この場合、板倉勝静(備中松山・老中) らは長州再征諸藩の総合軍事力と長州が保持しているとみられる 軍事力とその運用システムをも比較検討するリアリズムを持ち合わせていなければならない。 一方長州にどんな判断があったのかつまびらかではないが、いち早く海軍伝習所に藩士を派遣しものの、 海軍力増強に手を染めなかった。当時すでに巨大な海軍力や汽船船団を保有していた幕府の奢りからか、 軍事力比較考査の文献を筆者はみていない。 結果、賭場でサイコロを振るような、 イチカバチカの戦争に突入した。 幕府の武威の前に鎧袖一触と考えていたのであろう。
小瀬川口俯瞰図  慶応二年(1866)六月十四日  【下図 カシミールで作成】

錦川−小瀬−小方のルートが旧山陽道 大竹〜小方 約4km
   慶応二年(1866)六月十四日未明、 第二次征長軍芸州口先鋒の彦根藩木俣隊(彦根藩家老) 使番竹原七郎平は、従者二名と共に先陣をきって 小瀬川に渡ろうとしたが、長州軍の銃火を浴び河中に倒れ最初の犠牲者となった。 心ならずも、異郷に死んだ三士の遺骨は、長州の品川清兵衛によって、 その勇を讃える碑文と共に安禅寺に手厚く葬られまれた。
墓所 大瀧山安禅寺(曹洞宗)境内(和木町)

竹原七郎平が渡ろうとした現在の小瀬川
  対岸、広島県大竹市木野。
彦根は川中に斃れた七郎平の遺体収容もままならなかった。
七郎平後日談。死後130年(1996)大阪にお住いの子孫の方が この墓地を訪ね、香華を捧げたという。 
--- 竹原七郎平(陪臣)余話 ---
彼は陪臣である。従者1名は曽根佐十郎正儀。射撃を命じたのは「しゅう翼団」の品川清兵衛。 七郎平の懐には妻からの手紙か入っていたという。出陣後に子供が亡くなり四九日を済ませたこと。 無事な帰宅を願ってることなど書かれていたという。
彦根小瀬川の戦いこちら。   彦根の持参した鉄砲数はこちら。  幕府慰霊祭はこちら。

井伊・榊原軍は開戦一日にして敗れた。陸路藩境(芸州と長州)に向かった。幕府隊は海路岩国に向かうはずだったが なぜか動かず、小瀬川の戦いにも参加しいてない。榊原軍は宿営地であった海田市に帰陣した。
越後高田藩士の墓(明顕寺 広島県海田町/稲荷町)
 第二次長州戦争時、慶応元年(1865)12月10日に越後高田藩主榊原政敬軍が、 海田市に宿陣し、同2年6月14日に広島藩と長州藩の藩境にある小瀬川の戦いに出陣し、 大敗を喫した際、亡くなった34名の藩士がここに葬られていると伝えられている。
連城漫筆 三より
「八月七日、京坂の通り強き風雨、西国まで吹き至り、かつ川々高水・溢れ水、海岸高潮の国もこれあり。長防の 賊敵、大強風雨の紛れに夜討を仕掛け、井伊・榊原ことのほか敗軍。更に不意を得て敵を防戦すること 叶はず。鉄砲一発もせず逃げ迷い候由。甚だ見苦しき敗北ともっぱら評判これあり。」
台風の中、長防軍士の銃弾は逃げまどう幕府軍に浴びせられた。大野・宮内村境の戦い以降戦火は終焉を迎えた。 五月人形張り鎧武者の出番は全くなかった。 幕府止戦命令は、9月19日に発せられた。
小瀬川口 長州軍 河瀬安四郎戦闘報告書
 --前略-- 「何分甲冑夥しき事数知れず、火砲も十余挺隊中へ奪ひ候、 中ニもアメリカホード拾弐封度弐挺此分ハ余程の名砲乍併ライフルニ而ハ無之候、小銃ハ少く、 偶これ有り候もヤーグル又は倭筒にカンを付け候様の物にて無用の品のみ、 それ故戦争中にも小銃せり合は余程容易に候得共、大砲は思ひの外能く打ち候様相考えられ」 -- 以下略 --

大砲は米国製で立派なものだったが、しかしライフルは施されていなかった。また鉄砲はヤゲール(前装式施条銃)と和筒(火縄銃) で、分捕ったものの使い物になるものは無かった。と報告している。 彦根藩ともあろう大藩がなぜこれほどの装備音痴だったのだろうか??。

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第二奇兵隊取材班
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