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| 1.慶応2年4月14日 真夜中 〜 翌15日 朝 |
櫛部と立石を含め23人は児島通生の本荘八幡宮神官三輪光都に会い彼の斡旋で通生(かよお)から多度津に渡海した。一方主隊からはぐれた者はそれぞれの方法で山口県に帰還した。 これについて山口県東和町誌(民俗学の宮本常一先生監修、著) に挿話が記述されているので興味のある方は一読を薦める。 隊士の多くは14日の夜半南畝から讃州多度津に脱出し、一部は多度津の海岸で15日の朝を迎える。 さらに翌16日丸亀の船を雇い西下し途中伊予北条市の沖合い(安居島沖)で空の日向の材木船を捕獲しこれに乗り組み22日祝島(上関宰判・山口県上関町)に係船する。 詳しくはこちらで |
| 渡辺知水編 倉敷浅尾騒動記によると通生(かよお)本荘(ほんじょう)八幡宮祀官三輪光都と立石孫一郎は同志で慶応元年(1865)秋開催された下津井会議に会したと書いている。 |
亀島の戦いが終わった14日夜、
主隊は大島屋元七宅で夕食を喫し、前述したように仏壇を開き法要を行った。
法主は櫛部坂太郎であったという。ここで帰還の船を手配させそれぞれ
乗り込んで出発した。別々の出発であったが落ちあう場所を定めていたようである。翌15日の午前2時頃、倉敷市呼松(児島郡福田村呼松)の名主である 田中五一兵衛宅を訪れ渡海の船を手配させたが多人数で乗れず、ここで数隻の船を出して くれるよう頼んだ。地元の伝承では、近くの八軒長屋の住人であった馬場由松も船頭 としてかり出されたという。 (八軒長屋屋敷跡は呼松に現存) 左の写真は現在の倉敷市呼松町の田中五一兵衛宅(倉敷市呼松1丁目8−19)。奥の軒に明治の面影がある。 (撮影 H13.04.07) (亀島〜呼松間直線で約3.5Km) 隊士は色々なチャンネルとルートで山口に帰還した。少なくとも亀島戦以降は隊の統制がとれていなかったことが推察 される。 4月14日夜児島郡木見村(後郷内村)の百姓家に浪士3人が宿泊をしたという。この3人は下津井で発見された浅尾正之助、石田恵、橋本栄吉かも知れない。 なお、倉敷浅尾騒動史(渡辺知水編)で池田伊勢の軍勢に一人射殺されたことが記されている。 |
| 風窓紀文附録備中騒動記,倉敷浅尾騒動史(渡辺知水編) | ||||
| 帰還船実行者 | 日 時 | 人 員 | 比率 % | 送り先 |
| 南畝 広吉 | 14日夜半 | 27 | 讃岐多度津 | |
| 南畝 木之蔵 | 14日夜半 | 13 | 讃岐多度津 | |
| 下村(児島郡) 駒之介 | 14日夜10時 | 7 | 讃岐丸亀 | |
| 計 | 47 | 50.54 | ||
| 下村(児島郡) 吉蔵 | 15日朝 | 4 | 讃岐多度津 | |
| 呼松 田中五一兵衛手配 | 15日午前2時 | 23 | 讃岐多度津 | |
| 計 | 25 | 26.88 | ||
| 小計 | 72 | 77.42 | ||
| 塩生(しおなす) 八十吉 | 15日朝 | 4 | 備後鞆の浦 | |
| 小計 | 4 | 4.03 | ||
| 南畝 友吉 | 4 | 大島郡久賀 | ||
| 南畝 藤十郎 | 17日夜船出 | 4 | 大島郡 | |
| 小計 | 8 | 8.06 | ||
| 下津井で逮捕,射殺 | 3 | 3.23 | (山本・石田捕、浅尾死) | |
| (下津井を脱出帰還) | 1 | 1.08 | 橋本栄吉脱出帰還 | |
| 蓮台寺(由加山)で逮捕 | 2 | 2.15 | (西岡、長尾) | |
| 玉島で確認できる数 | 3 | 3.23 | (佐波野捕,二人逃走) | |
| 小計 | 9 | 8.42 | ||
| 合計 | 93 | 100.00 | ||
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総社浅尾藩陣屋攻撃で次ぎの四人の死が確認できる。 ■水嶋東九郎(清水宗義)、 ■平松精一、 ■結城小六、 ■姓名不詳(雑卒体の者)、 15日中畝で遺体が発見された者1人。この5人を先の数字に加えると98人。 田中五一兵衛斡旋と三輪光都のそれぞれ23人を加算すると121人となり山口県側の脱走記録を大幅に上回る。 やはり、この23人は重複だろう。 |
| 帰還船実行者 | 日 時 | 人 員 | 比率 % | 送り先 |
| 南畝 広吉 | 14日夜半 | 27 | 讃岐多度津 | |
| 南畝 木之蔵 | 14日夜半 | 13 | 讃岐多度津 | |
| 南畝 友吉 | 4 | 大島郡久賀 | ||
| 南畝 藤十郎 | 4 | 大島郡 | ||
| 合計 | 48 |
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(注) 本荘八幡三輪光都斡旋と呼松田中五一兵衛手配の人数が同じく23人であり重複と考えられる。 隊士の渡海場所について南畝は亀島渡し銃撃戦が行われた直近である。 通生(かよお)は呼松の下、約6Km。本荘八幡宮がある。現在は単なる小さな漁港だが往事渡海業など生業にする者がいたと伝えられている。 下村は現在の倉敷市児島下の町である。 前述の23人を重複として、脱出に成功した者86人。銃撃戦の行われたその夜、南畝から48人。児島から脱出11人。塩生から4人。合計63人が備中、備前から立ち去った。 讃州多度津もしくは丸亀に渡った人数は74人。直接山口県(大島郡など)に帰還したもの8人。 |
![]() | 浅尾での戦闘で第二奇兵隊側は5人戦死しており南畝で1人の死亡を含めると隊員の合計は114人となってしまう。 時系列的なものが不明だが、本荘村三輪光郷斡旋と呼松の田中五一兵衛手配との人員がともに23人となっており、重複しているか、 若しくは本荘村三輪光郷の斡旋によって呼松の田中五一兵衛が動いたとも考えられる。そうなると帰還者は104人程度か? 当初からの脱隊は96〜97人といわれているが、山口県大和町塩田とか大島郡一円からも合流しているが、 |
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資料や町史などで確認できる参加者は6人程度であり、あえて重複したとしてそれらを差し引きしても人数が若干符合(3〜4人程度)しない。
一方完全に集団から離れ数名のものたちがいた。 彼らは由加山ルートや児島下村、吹上(下津井)に逃れ備中からの脱出に成功する。 一部が下津井で浪士探索線とらえられ銃声二発。 筒先の浪士は海面をあけに染めて倒れた。 |
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