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長州第二奇兵隊 倉敷・浅尾騒動の銃弾と東高梁川河口銃撃戦
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| 平成14年(2002)6月19日調査 | |||||
| 第二奇兵隊による倉敷暴動事件のとき携帯したとおもえるミニエー銃の銃弾が
倉敷市福田地区(中畝6−1−20)の渡辺さん方に保存されていた。 ミニエー銃についてはこちら 福田地区は亀島の東岸にあたる。当時はこの地区のすぐ西に東高梁川流れていた。 渡辺さん方の付近が亀島渡しに該当する。この地区でこの事件最後の銃撃戦が幕軍との間で展開された。 | |||||
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進撃経路図は左図の通りである。撤退経過をおさらいする。
4月14日朝、浅尾藩陣屋から撤退を開始した。陣屋に不必要な武器や弾薬を遺棄
し身軽ににった隊士一行は、午前8時頃井尻野、真壁をとおり高梁川に向か
って撤退を開始した。午前10時頃(四つ)古地村(こち)の宇作方へ立寄り、その場に居合わせた
庄七・千之介に舟で東高梁川(当時の呼称は川邊川)を下って欲しいとの依頼をなしたが
同村には古舟壱艘しかなく、仕方なく、少し下った黒田村の舟3艘を借り受けた。その舟に乗りきれなかった隊士は
酒津まで歩きそこで2艘借り入れ、都合5艘で東高梁川を下り16時(七つ)頃亀島渡しに到着した。
川舟船頭に渡海船の手配を依頼していた最中、西堤より幕軍の銃撃を受けた。
一部の隊士たちは、戦闘から開放された安堵感からか川舟の中でうとうとしていた時いきなり 西岸から幕府軍の銃撃にみまわれた。あわてた隊士の数人は主隊とはぐれてしまうほどの 衝撃であった。 |
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戦闘経過について記録は少ないが、倉敷浅尾騒動史では材木屋の材木(桐材)を盾にして応射したとある。また大砲
で反撃したともある。 倉敷市呼松の高台から亀島方向を望むと亀島と呼松は指呼の間であり幕軍が戦意があるなら 日没まで小3時間も時間があり、本気で追撃戦を仕掛けていたなら戦意を失いかけていた 第二奇兵隊士は全滅の悲運に見舞われたであろう。 |
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銃撃戦が終息したのち、隊士たちは近くの大島屋元七宅の仏壇を開き、浅尾で失った同志の法要を行っている。それが
終わって、呼松の名主(庄屋)の田中五一兵衛に船の手配を頼んだのが4月15日の午前2時頃であったという。
田中家の伝承では、当主の五一兵衛は不在であったが、近くの八軒長屋(現在も地所は残っている)の住人を
船頭とし多度津へ渡海させたという。 疲れた隊士たちは田中家の中庭にある井戸水を美味しいといって飲んだとと伝えられている。 井戸についてはこちらをご参照。 |
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写真でおわかりのように弾体に3条の線がある。長州藩は当時薩摩藩の斡旋と坂本龍馬の尽力により
このミニエー銃を4300挺購入した。それが諸隊員に渡されたものであろう。 武器類は伝統的に本人の所持品であり 弾薬の補充の利便性で正式銃が指定され各人が購入させられた。 |
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ミニエー銃は先込式旋条銃で弾底(尾)えぐりに鉄の殻(または木栓)をはめ銃口より装填する。発射のガス圧で弾底(尾)
が拡張されそれにより、旋条にガッチリくい込み弾丸に回転を与える。保存されいてた弾丸を拝見したところ弾底(スカート)は拡張しておらず
未使用の銃弾と思える。 保存銃弾の口径から米国製ミニエー銃弾ではな くオランダ製であろう。 オランダミニエー銃諸元 口径16.6mm 全長1410m 施条4条。 |
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この福田の戦闘では、第二奇兵隊側に油断があり幕軍の不意の発砲で逃げ惑い隊士の誰かが弾丸を落としたか遺棄したものであろう。
この銃弾の経緯について福田史談会々報(第18号・第19号 S 55.01.10 倉敷市広江)
によると、当主利夫(69才)氏の祖父幸太郎氏が近くの大師堂(七年前に移転)で拾った。大師堂の柱にも
弾痕が残っていたと伝えている。なお、同市新田に移築された倉敷代官所
当時の長屋格子戸に残っていた弾痕に銃弾を差し込んだところ、ピッタリと一致したと伝えられている。 この格子戸の銃弾痕は2箇所。写真は倉敷代官所焼討余聞(井上賢一:著)に掲載がある。 この銃撃戦では幕軍は東岸に渡河せず早々に角浜あたりまで引き上げてしまった。 そして、同夜のうちにほとんどの隊士は呼松から丸亀、多度津へと渡海した。 翌日になって幕軍は渡河し福田地区の民家を一軒残らず捜索したが、1名の隊士の遺棄遺体を発見しただけであった。 |
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余談だが、東高梁川河口銃撃戦で幕軍の誤射により犠牲者三名が発生した。
作州(美作)西北条郡寺和田村庄屋 直一郎寅三十三才、
同国勝北郡山形(新野)村百姓 源次郎寅三十二才。 備中国浅口郡乙島村百姓
与兵衛*伜又兵衛寅二十才。(乙島の庄屋猪木久兵衛の子亦兵衛説あり 出典:苫田郡史 S02/06/30発行)
これについて、出典不明だが幕閣小野友五郎(勘定奉行)宛に、 佐々井半十郎 [代官期間 嘉永3年〜安政5年](1850/08/20〜1858/01/27)と 桜井久之介 [代官期間 元治元年〜慶応3年](1864/11/15〜1867/04/28)の 連名で次ぎの報告書が提出されている。(旧版倉敷市史10冊 P803〜804 永山卯三郎/著 S49/01発行)
「右之者共儀去る十四日備中国浅口郡亀島に於て砲戦の砌(みぎり)、
歩兵隊戸田肥後守(歩兵頭)、堀織部(歩兵頭並 注)」、為案内身命を不厭(いとわず)、
先立罷出候処、砲丸ニ而相果申候、依之此段申上候以上。」 |
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* こさんべえのぺーじで、又兵衛は、
父、與五兵衛義直。 墓には、 「節士猪木義基之墓 又兵衛 慕後藤又兵衛之勇烈自称又兵衛 父義直母中野 氏 玉真静仁清信士慶応二年四月十五日歿年廿」 銃撃戦は4月14日、夕刻であり、重傷を負い翌15日に死亡したものと考えられる。 よって、書々に、父猪木久兵衛や与兵衛と見えるが全て誤りで、與五兵衛義直が正しい。 |
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猪木義基自称又兵衛
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猪木義基(自称又兵衛)の墓は岡山県浅口市乙島中山の小丘にあった。猪木本家の墓は現在も同所にあるが、なぜか又兵衛の墓は分家の墓地にあった。
分家の都合で現在は廃棄されている。 前述したように、浪士追討のため広島から海路派遣された幕府軍の銃弾で倒れた。
又兵衛は、作北援兵隊として倉敷に駆けつけた山形村(津山市山形)安東源二と寺和田村(津山市寺和田)庄屋 小瀬直一郎らが浪士の動向を代官桜井久之助の下に届けたことで派生した。
時刻は、午後3時頃だとされている。地理に詳しい猪木又兵衛、安東、小瀬の三人は玉島陣所から追討幕府軍の先案内をかねて先発した。 2008年現在墓は撤去され現存しない。 |
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同所には又兵衛を祀る祠も残る。祠は玉島1011、福武一二氏の屋敷内にある。一二氏にお願いすれば気持ちよく拝見させて頂ける。
墓の左、後、右の三面に又兵衛を讃える撰が鎌田玄渓(博)によって刻されいる。 墓左に刻された文を紹介する。当然縦書きである。 猪木義基称又兵衛備中浅口 郡乙嶋村人父日義直中野 氏慶應二年官軍撃流寇 於連島義基為郷導己合乿 砲交発遂死之年僅二十時四 |
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鎌田玄渓 文政2年(1819)〜明治25年(1892)2月25日 幕末の備中松山藩士、漢学者・漢詩人 名は博、字は子文、通称は宗平。号は玉島(現・倉敷市)に移住した頃は浮鴎、玄渓または新里、篁園(こうえん)。 門弟に川田甕江(おうこう)や中島中洲(ちゅうしゅう)など錚々たる人物がいる。 |
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注)安東源治(源次郎)について 周旋覚(新修倉敷市史第10巻史料近世下 P1115) 作州脱藩坂部金三郎与(くみ) 申剣術門弟弐人子弟共三士、佐々井之人数ヘ援兵ニ加ンと罷越候処、合印無之ニ付見損し、三士共 佐々井兵之鉄炮ニ当り即死致す、との記述あり。 注)この報告書にある堀織部(歩兵頭並)は城織部の間違いと思える。進発当時将軍家茂は病臥中であり 大坂まで代理として一橋慶喜が担当した。その「御進発供奉御役人附」の歩兵頭として 12人の名がありそれでは「城織部・三百俵」となっている。 また、倉敷騒動制圧のために幕軍玉島に上陸のさい、玉島新町(現:中央町),仲買町に止宿したが「公儀御軍勢御止宿」控えで 西綿屋利右衛門方に7人の配下と共に止宿している。 出典:玉島地方史(中) H03/10/01 |
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小野友五郎 (勘定奉行) 数学家としての頭脳と卓抜した技術力、事務処理能力によって佐倉藩士から 幕臣に取り立てられ、勘定奉行という官僚としての最高位に抜擢された 幕末最高のテクノクラート(技術官僚)。咸臨丸の航海、 木村摂津守との海軍増強計画など日本海軍揺籃期の真の立役者の一人。 少し詳しくはこちら |
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