| 平成13年1月20日、倉敷・総社市を取材。西岡が逮捕された由加山蓮台寺の茶店を掲載 |
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慶応二年四月十四日 七ツ時の状況 16:00時
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![]() 西岡・長尾捕虜 帰還経路 亀島戦の遺棄銃弾![]() |
| 慶応2年4月14日 午後4時〜 |
帰還まで
<= 大島郡久賀町 楢崎剛十郎顕彰碑清音村古地から東高梁川(現在の八間川)を下り、午後4時頃、河口の亀島渡しの東岸で舟を繋ぎ休憩しているところを突然幕兵の銃撃をうけた。 (銃撃開始は17時頃か?)慌てた隊士達は蜘蛛の子を散らすように東岸にのがれ材木屋の桐材の陰に隠れ応戦したが、 戦意を失い恐怖にかられた数人は主隊とはぐれてしまう。立石は命の欲しいものは俺に付いてこい叫ぶが逃げ去ったものはついに戻らなかった。 |
浅尾撤退時刻との舟での川下りについて 岡山藩に捕まった西岡・長尾の供述14日朝五つ(08:00)頃より追々井尻野を通り川筋を余程下り、古地村と申すところより川舟5艘へ乗込亀島渡 迄乗下り船中快寝居候所、八ツ(14:00)時頃不図発砲声致候に付驚起上り −−− 以下略−−−
時刻は、三者三様であるが、本城藩之介の「14日四つ(10:00)過頃、蒔田城出陣にて川舟にて三里計り下り」 を古地村四つと解釈すれば地下庄屋の奥書と符合する。 奥書の「扶持米相求」は別の周旋覚で酒津で兵粮米四石弐斗(675kg 100人の隊員の約9日分相当)と漬物一樽、 杉箸三百膳を購入。米代金28両、漬物1両、杉箸代一朱支払った。 この購入の間残った隊員は茶屋で休憩し近所の子供たちに菓子など配り交歓している。 川尻着船が16時頃、渡海船の手配などの時間を考えれば幕軍銃撃の時刻は七ツ半(17:00)頃と推定される。 ただ不思議なのは、本城が玉島繋船の幕府軍艦を目撃しているのに、川を下った船頭たちにはその記載が一切ない。 |
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慶応2年(1866年)4月14日を新暦に直すと5月28日(月)である。潮は大潮、瀬戸内の大潮は午前中が満潮。午後が干潮となる。
隊士が東高梁川を下ったこの時刻は最干潮にあたる。
よって河口付近では少し大きめの舟は着底し動きが取れなかったものと考えられる。
その情況で西岸から突然銃撃を受けた。
一方攻める幕府軍側にとっても攻めるに攻められず当然自然休戦となった。 ※ 海上保安庁による当時の水島港の潮汐は、17時15分が最干潮である。 |
| 現在東高梁川は八間川として名残を残す。おおむね国道430号線水島港湾合同庁舎付近が亀島渡し に該当する。明治32年頃の地図では海といっても差し支えない。砂州まで入れた川幅は 700mほどもあり、砂州に舟を繋いだであろうからそれでも西岸から600mもある。 当時の銃器では完全に射程外であった。それでも幕府側は威嚇の意味か射撃した。 |
隊士にとって幸運だったことは、ここでの戦闘で幕府側は深追いせず簡単に攻撃を打ち切った
ことである。残存した主隊はさらに夕闇に紛れて川を下っていった。亀島戦の遺棄銃弾発見(H14.06)
離散隊士達は三々五々福田新田に集結し下津井を目指した。この福田新
田の畑中で高橋謙次郎(注)は息絶えた25才であった。異郷で冷たい骸
を曝すことになる。一説には浅尾攻撃で重傷を負いここまできたが、大島屋元七方で介錯され遺体は 小麦畑に置いたとされている。また元七方では浅尾で戦死した戦友の法要が 櫛部坂太郎(事件サブリーダー)を法主として厳粛に行われたという。 (交差点右 三菱病院 遠くの山は亀島 道路中央が現在の八間川その昔の東高梁川の名残) |
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左の絵図は暴徒御処置一件にある挿し絵図 (山口県文書館蔵) 当時の東高梁川は八間川として名残を残す。 |
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(注)高橋謙次郎について 山口県文書館蔵、「倉敷暴動其外」の資料から4月16日松平備前守覚えとして 「福田新田之畑中ニにて手負行倒れ死一人、但右之通届出候後首ハ公儀御役人様 見分之上、御取帰被成候よし村役人より申出、死骸のミ残居申候、 所持之合印 奇兵隊 浦上為吉忠成ト有 となっているが、浦上為吉は帰還し斬首され ており別人である。暴徒御処置一件に出てくる人名をデータベース化したところ 177名となった。このデータベースの中に「高橋」は存在するが出身地及び所属部隊 は不明である。 なお角田直一著倉敷浅尾騒動記で福田新田で死亡は 「坂井謙之助」となっている。坂井は備後国本郷の人とある。第二奇兵隊騒擾関係文書での 坂井の死亡場所は4月15日倉敷中畝で自決。現地に葬とある。中畝(水島ガスの近く)について調査未了。 渡邊頼母/編 倉敷浅尾騒動史(大正8年9月20日発行)では中畝堤より二町ばかり内の小麦畑に中に年の頃三十四五 位の浪士体の死骸があった。左脇に三個所後ろに一個所の負傷あり、無刀にて懐中に 壱両弐歩を所持していた。と記されている。 岡山県側の史料に中畝での死骸二を見ていない。高橋の死亡日を14日、坂井の自決日15日と 一日のずれはこの場合問題ではなく、浦上為吉の合印をもっており、遺骸の服装を浪士体としており、途中参加の坂井でなく高橋と考えられる。 |
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下津井では、石田恵(17才)、山本茂一郎(14才・松野義助)、
が捕らえられ浅尾正之介(34才)が殺害された。もう一人橋本栄吉が虎口を脱した。 また由加山蓮台寺の茶店で、西岡龍太(35才)、長尾喜代熊(16才)が逮捕された。 彼らは岡山藩の物々しい警護の下で広島に護送される。 岡山藩への檻送命令は慶応2年(1866)4月19日注1に発せられた。首魁三人注2は広島へ。 その余は大阪奉行所へ檻送すること命じている。 倉敷浅尾騒動史によると、備前藩に対して4月19日付 室賀伊予守,永井主水正の連名にて、西岡龍太、長尾喜代熊(清熊)の檻送令が発せられた。 彼らは4月28日に広島で幕府側に引き渡された。 結局幕府の手に渡った佐波野三郎,西岡龍太,長尾喜代熊は広島藩に預けられ、6月1日に佐波野,西岡,長尾、ら三人は陸軍奉行に引き渡されている。 注1,注2 何れも倉敷浅尾騒動史。注2 重立候もの両三人。とあるが檻送は二人である。 |
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【京都大学付属図書館HP資料】 次の URL で山本茂一郎らの消息が判明したが現在は Web 全体が変更され閲覧は不能となった。 参考資料 "http://ddb.libnet.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/shaku/759180.html" |
| 京都大学付属図書館の資料から西岡龍太、長尾喜代熊、石田恵、山本茂一郎などの消息がわかる。石田、山本は大坂に護送され、西岡、長尾は広島に護送された。 だが大坂に護送された後の消息は不明であったが、 これによると石田は帰国後斬罪(場所不明)。山本は大阪の獄より釈放され戊辰戦争で奥羽鎮撫使総督府参謀の世良修蔵に従っていた。 |
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京都大学付属図書館 維新資料の釈文 倉敷一挙ノ人数 一 生捕 長州藩 帰国之上斬罪 櫛部坂太郎支配(浄専寺の長男ニテ武ニ長ス) 西岡蔵太 長尾喜代熊 (維新之節大坂獄より出て世良参謀ニ従ひ福島ニテ死) 防州 山本茂一郎(大島郡久賀村) 石田恵(防州小松村浄蓮寺徒弟 僧侶 帰国之上斬罪) 一 討取 防州熊 浅尾正之介 一 手負行倒死人 所持之合印ニ 奇兵隊 浦上為吉 忠成ト有 |
| ※小松村浄蓮寺に石田恵の法名は残っていない。 山本茂一郎の死亡場所はこちら |
![]() | 世良は、慶応4年閏4月19日長府報国隊士勝見善太郎とともに福島市北町にあった金沢屋に投宿していた。 世良の名誉のために付言する。金沢屋は妓楼とされているが、主街道(奥州街道)に面した場所に福島藩は妓楼として許可を与えていたのであろうか?。 招待の場所は福島藩が決めていた。彼は勉強家でおおよそ妓楼に遊ぶに相応しくない人物である。 仙台藩側に一方的に悪役にされてしまった。 仙台藩士ら12人が金沢屋を襲撃、2人を捕縛し翌朝有無をいわせず阿武隈川の河原で斬首した。 |
| 辞世も仙台藩側に峻絶されている。
さらに、翌20日朝、世良を尋ねて来た松野儀助(山本茂一郎、16才)と世良の従者繁蔵を斬殺した。 根底に奥羽列藩は敵対関係にあるとはいえ世良一行は使節団である。山本茂一郎こそ哀れであ る。 仙台藩はなんのために 使節団随員の(戦闘状態の捕虜ではない)16才の少年を殺害したのであろうか。 記録は松野儀助となっているが彼こそ大島郡久賀町出身の山本茂(太)一郎である。第一銃隊に所属して倉敷事件に参加した。 当時彼は14才であったのでどのみち斬首組みではなく帰還すれば釈放された。 運命は暗転し16才で命を落としたことになる。このような若人の犠牲があって明治維新はなった。 確認できる茂一郎の墓銘碑。福島市宮町「稲荷神社」境内。 墓碑正面に「長藩世良修蔵霊神」右面に「松野儀助 従者繁蔵」左面に「勝見善太郎」裏面に「慶応戊辰四月二十日」と記されている。また、宮城県白石市陣馬山にもある。 |
おびただしい犠牲により(維新)近代日本の礎は築かれた。維新は白虎隊のような旧守の思想で可能となったものでは断じてない。この事件はすでに記述したように世良が逃亡中の赤祢武人と秘密裏に会い藩庁にそれが露見し謹慎処分を受けていた最中に発生した。これも一言付言する。赤祢は脱藩亡命である。 亡命した者と会ったことが謹慎となるなら、高杉も禁門の変時に脱藩亡命している。帰国した高杉に面会した者は誰一人罪に問われていない。 長州藩の防州人(注、政権は長門側)に対する大いなる差別を感じる。 石田恵について「暴徒御処置一件」などに斬首の記録はない。ただし久賀維新公園の大洲鉄然撰の碑文に犠牲者として石田 の名があり殺害されたことは間違いないであろう。また浅尾正之介の出身地として防州熊とありこの「熊」は大島郡久賀の字(あざ)で 「熊本(久賀町維新公園付近)」がありここの出身者なのか?。さらに記録をよく見ると注釈文の墨色と書体が本文と違い、この部分について明治に入ってからの 加筆注釈ともとれる。慶応2年当時まだ指揮官呼称としての「参謀」という呼称はない。ただ文書のなかに「兵の駆け引き参謀をも掌る」という 使いかたはされている。この事件の冒頭楢崎剛十郎を殺害したが彼は「書記」という呼称であった。世良は「軍監」である。 この軍監が後の参謀という呼称に変るのか?。また変る時期はいつからなのか?。興味は尽きない。 |
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