実録 ・倉敷代官所手附(代官所No-2)田中東蔵 死傷者検屍記録

一つ戻る 倉敷代官所襲撃
出典: 岡山県史 第二十六巻 諸藩文書 (S58.11.24) 慶応二年倉敷騒擾一件書類 田中家諸留
     備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書
出典: 岡山県史 第二十六巻 丙寅初夏倉子城(くらしき)日記
当時手附(書記官)であった田中東蔵による「備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書(死傷状況調書)」 で死者は長谷川仙介を除く8人である。そうすると東蔵によるこの検屍記録作成は18日以前となる。
倉敷代官所焼失個所絵図
戦わずして逃げたと伝えられている者に
大橋仁吉山川佐(清)太郎板谷常三郎(板屋恒三郎)・和栗保三郎・同元助・木村松三郎・永原勝五郎・ 吉岡庄二郎・八藤慎一・逸見保太郎・小林虎一・児島輝之進・太田隆造 の名がある。大橋仁吉は立石孫一郎妻慶の弟で大橋家嫡子。

死亡場所判明者
@定太郎 中島村庄屋舒(のぶたろう)太郎忰
  名は三島定太郎。
A金蔵 加茂屋文治嫡子。 名は川崎治昌。
B芳太郎 藤井屋善右衛門嫡子。
   名は小松原義矩。
Cきよ
D大沢八郎
残された絵図から武家屋敷に見られる長屋門であったことがわかる。 また、 打毀しの状況から唯一西側からは攻撃を仕掛けていない。陣屋からの逃走路としてあけていたのであろう。  旧版倉敷市史などでは、背後の稲荷山から攻撃を仕掛け、まず一隊は明倫館敷内に進入そこから 陣屋に入り正門に殺到。門番摂三を脅し錠を開けさせようとしたが、錠は 元締宅にありとし、隊士が打ち壊したとある。その際摂三を斬りつけた。
【墓の所在地・場所】
@ 平松精一 鶴形山北面佐々木家墓地。観龍寺脇を抜け遍路道を右手に進む。
A 誓願寺墓地。坂田屋礼助・河崎治昌墓。 水澤家大墓地手前左側。
B 本栄寺墓地。下津井屋夫妻墓(安部成章夫妻)・幽栖日記記述者 岡熊之助(宇津蘇平)墓。本堂脇を抜け最上段墓域。左奥安部夫妻。右墓域中程 宇津蘇平夫妻。
C 長連寺墓地。山川正之墓。御手附 長谷川仙助。足軽大沢八郎。
D 教善寺墓地。門番摂蔵妻お志代墓。儒者森田節斎娘阿孟(おもう)墓。
E 向山墓地。 田中東蔵下女 おきよ墓。 倉敷ユースホステル先左手三宅家墓地。
F 地蔵院向山墓地。小松原義矩墓。小町トンネル手前左手。脇道登りを進むと米屋おきよ墓に至る。
小松原の墓を起点に全行程を巡っても2.7粁程度である。小松原義矩墓→教善寺→長連寺→おきよ墓→本栄寺→誓願寺→平松精一墓。
疵受死人 中島村庄屋(三島舒太郎忰) 庄屋見習 定太郎 寅十八才
一、右乳ノ上より背中江抜鉄炮疵壱ケ所
一、右耳ノ下より左腮(あご)迄切込深切疵壱ケ所
一、右腮(あご)より咽江切下ケ竪(たて)横四寸程切落し疵壱ケ所
一、右乳ノ上長六寸深切疵壱ケ所
一、右乳ノ下より脇ノ下江掛長六寸深切疵壱ケ所
一、頭上長五寸三分深切疵壱ケ所
一、左鬢より耳江切下ケ長六寸深切疵壱ケ所
一、左目下より口江切下ケ竪(たて)横四寸程切落し疵壱ケ所
一、左乳ノ上より脇ノ下江掛長六寸深切疵壱ケ所
一、左乳ノ下長壱寸突疵弐ケ所
一、左二ノ腕長弐寸深切疵壱ケ所
一、同所長壱寸六分深切疵壱ケ所
一、左手の甲弐寸五分浅切疵壱ケ所
一、左股長三寸深切疵壱ケ所

【三島時政(正)墓】  倉敷市中島516番地
中島山実際寺境内
都合拾五所、衣類稽古着、小倉帯・同袴ヲ着、同帯を〆白木綿下帯を〆白縮緬「たすきを掛」、 御陣内裏門内ニ(大工小屋前ニ)相果罷在候
この若者は陣屋警護のために宿直していた。壮烈無惨な殺され方である。 右乳ノ上から背中に貫通銃創を受けている。 それでもなをかつ、これだけの傷を受けた。  更に、襲撃を知るや彼は「襷(たすき)」を掛けた。下着は白木綿をきちっと着用している。 よって旧版倉敷市史では唯一戦闘による死としている。
 丙寅初夏倉子城(くらしき)日記の著者(作州東北条郡塔中村庄屋卯左衛門か?。事件当夜淀屋に宿す)は、屍体の近辺に 彼の炮剣(ほうけん・鉄砲や刀)の類が一切無く奮戦の死としては不思議であると述べている。 世上色々うわさしあっているが 結論に至らなかった。と書く。
大胆な推理を行う。
これだけの傷は普通怨恨を疑わせる。定太郎はなぜ恨まれたのか。叔父は老中備中松山藩主板倉伊賀守家臣三島中洲。 旗本蒔田は三島中洲を通じて大名昇格運動を展開。猟官運動は成功し浅尾藩が誕生した。この事実を立石孫一郎は知っていたのではないか。 三島中洲への恨みを甥の定太郎に加えた。すなわち、隊士の中に若しくは連島で参加した者に定太郎の顔見知りがいた。それを孫一郎に伝えた。 よって苛斂誅求を加えたと考えたならこれだけの傷の説明がつきそうだ。
旧版倉敷市史(10冊)頁751によると父三島舒太郎縄正は桜井代官と行動を共にし九日笠岡まで帰り、その際、暇乞いをし中島村自宅への道を急いだが玉島の手前の親戚宅で一泊したという。 根史料 河本本 備中騒動記
三島舒太郎縄正の父寿太郎の妻は浅口郡大谷村小野光右衛門以正の娘「柳」。小野家を継いだのは四右衛門必正。四右衛門必正は前年(慶応元年12月7日没)に死去。縄正は叔父の墓参のため立ち寄ったと考えられる。 四右衛門必正の次が慎一郎中正。浅尾藩より農兵応援の急使を受け派遣することになる。
実際寺境内三島時政(正)の墓には、叔父(寿太郎の次男三島貞一郎毅,父縄正の弟)三島中洲の撰文が三面に刻んである。中洲三十才のとき、備中松山藩に仕えた。のち板倉伊賀守勝静は老中となった。その頃旗本だった蒔田広孝家臣垪和麻之進は大名昇格運動を三島中洲を通じて板倉勝静に工作。晴れて文久3年(1863)12月に1万石の高直し成功する。 中洲の母は大谷村庄屋小野光右衛門以正の娘「柳」である。
中洲37才のとき倉敷・浅尾事件が発生。時正父縄正は桜井代官と共にあり、息子の死を知りながら帰宅できなかった。時正の弔いは5月朔日だったという。
出典:旧版倉敷市史10冊頁62。   中洲は後二本松学舎を創建。
垪和家文書:総社市史編纂史料 第二次報告書 S56/3/30発行を参照されたい。なお同頁121の後ろから7行目
「垪和氏と三島氏の関係は中州のは浅尾領、大谷村庄屋小野家の娘であり、」とあるが正しくは
「垪和氏と三島氏の関係は中州のは浅尾領、大谷村庄屋小野家の娘であり、」が正しい。
中島村三島家と大谷村小野家
中島村三島家
父 三島寿太郎 妻「柳」は浅口郡大谷村小野光右衛門以正の娘。 天保8(1837)年2月10日江戸浅草に病没。
子 三島舒太郎縄正 桜井代官と共に広島に出張。笠岡まで一緒に帰る。
   ※ 代官に暇乞いをし大谷村小野家に立ち寄る。
孫 三島定太郎(時正)は代官所で4月10日払暁、死亡。
大谷村小野家
父 小野光右衛門以正(屋敷跡及び屋敷は金光教管理、同家文書も同)。
   ※ 娘「柳」が三島寿太郎に嫁す。
子 小野四右衛門必正は慶応元年12月7日に死去。
   ※ 三島舒太郎縄正は、帰倉途中、母「柳」の弟に当たる四右衛門必正の墓参に訪れたか?
孫 小野慎一郎(当時28才) 庄屋で浅尾藩より農兵急派依頼を受ける。
金光教開祖川手文治は小野光右衛門以正に学び、大きく感化を受けた。川手家は大谷村の名門であり文治は養子。 文治は慶応2年、領主浅尾藩より神職許可を得た。 こと、教祖文治に係ることは金光教学という教学(機関)誌に最大もらさず書いてある。
 都窪郡中島村三島家
 寿太郎―――┬――舒太郎縄正―――――――┬==三島正續(竹太郎・実父同族日笠兼政)
 天保8   |  明治32        |  室縄正長女菅 − 夫妻に実子なし
  室小野氏 |  室三村多喜       |
 (以正娘柳)|  桜井代官と笠岡まで   ├――二女延
       |  一緒に帰る。      |  日笠栄昌(竹次郎・日笠分家)妻
       |              | 
       |              ├――定太郎時正 
       ├――貞一郎(中洲・毅)   |  慶應2 代官所宿直闘死
       |  旗本蒔田(廣孝)家   |        
       |  を浅尾藩(大名)にする ├――三女和野
       |              |  日笠虎次郎(実父日笠兼政) 妻
       |              |
       ├――増           └――四女光野
          日笠栄顕妻          大橋良三郎妻
   
         一人息子定太郎の死去に伴い、長女は同族日笠兼政の子正續を養子に迎える。
          中島村三島家は児島郡藤戸村日笠家と重縁を繰り返す。
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     ※ 三島家出典:「三島中洲の学芸とその生涯」
都窪郡中島村三島貞一郎が当代随一ともいわれる儒者となり山田方谷が藩財政を切り盛りする備中松山藩に雇われ三島中洲と名乗った。そして藩主板倉伊賀守勝静は文久2年(1862)3月15日幕府老中となり中洲は勝静の信任が厚かった。 この期に寄合旗本だった蒔田家は猛烈な大名昇格運動を行う。 第一段階で大名並みの軍役を差し出し老中の機嫌を伺い昇格運動を展開するも幕閣から何の音沙汰もなかった。 次なる作戦は信任厚い三島中洲を通じて昇格運動を行い前述したように高直しに成功し晴れて大名の仲間入りを果たした。この時藩主廣孝は15才。
出典:総社市史編纂史料 第二次報告書 昭和56年3月30日発行
 浅口郡大谷村小野家
 光右衛門以正――┬――柳
 安政5     |  三島寿太郎妻
         |
             ├――四右衛門必正――┬――慎一郎中正(浅尾藩救援農兵派遣) 
         |  慶應1     |  大正9
         |  室下野氏    |  室川手氏
         |          |
          ├――武七      ├――女
         |  窪津家へ養子  |
 
 ※ 小野家出典:ごさんべーのぺーじ

疵受死人 倉敷村 百姓(加茂屋文吉伜)金蔵 寅廿一才
一、右肩長三寸突疵壱ケ所
一、鼻より下唇江掛深切疵壱ケ所
一、背中長壱寸程ツゝ、浅切疵六ケ所
一、左豁(かつ)より腰江「掛長三寸深切疵」切疵壱ケ所
一、右手甲長壱寸程ツ、浅切疵四ケ所
一、左同所同断疵弐ケ所
一、右股長壱寸突疵壱ケ所
一、首後口「より左右耳下迄長八寸深切」疵壱ケ所
都合(ママ)所「木綿袷同」伴レ(かえり点)襦・小倉帯を〆、白下帯解、首後より 「左右耳下迄」切込候ヲ疵結ひ、御本陣相果罷在候
乱闘の中で下帯も解けている。逃げようとしたのか、また倒れた後にか背中を六ケ所も突かれている。
注) 加茂屋文吉(治)嫡子。 名は川崎治昌。弘化2年(1845)生まれ。

 墓石正面 節死川崎治昌之墓     【裏面】
而宿直本邑官舎者凡三十人治昌
直ちに本邑官舎に宿する者凡そ三十人 治昌

與焉其四月九日長之乱入百三十
いずくんぞ それに与(くみ)す 四月九日 長の乱入 百三十

人夜来襲官舎其勢猛烈事起不意
人 夜来たりて官舎を襲う その勢い猛く烈しく 事不意に起こる

即皆倉皇失措治昌與同直三人
即ち皆あわて措を失う同直三人治昌に与す

死之時年二十一法諡曰應挙敬義
これ死のとき年二十一 法(のり)の諡(いみな) 應挙敬義と曰(いわく)
金蔵こと川崎治昌の墓は誓願時境内にある。 浅尾で介錯された礼助の墓の西、現在は五基集合墓となっている。
渡邊知水編 倉敷浅尾騒動史で名は河野金蔵となっている。
注) 郷土史家角田直一氏が1970年(昭和45年)倉敷新聞に倉敷浅尾騒動記の連載を始めた頃、川崎治昌の墓は集合墓でなく独立していた。

疵受死人 倉敷村 百姓(藤井屋善右衛門忰) 芳太郎 寅弐拾七才
一、右頭上竪(たて)横三寸浅切落し疵壱ケ所
一、額より鬢江掛長四(三)寸深切疵壱ケ所
一、首後口より腮(あご)下迄切下ケ疵壱ケ所
一、右肩竪横弐寸五歩浅切落し疵壱ケ所
木綿袷・取縞袷・同襦袢を着、小倉帯ヲ〆、白木綿下帯、小倉袴を着、 御本陣庭相果罷在候
額より鬢まで切り下げられたのが致命傷であろう。
注) 藤井屋善右衛門嫡子。 名は小松原義矩。
墓正面
節死 小松原義矩之墓
左面、陰面、右面に撰がある。
菩提寺 地蔵院(真言宗)
墓地位置(場所)
倉敷市阿知3丁目20−17 地蔵院 向山墓地(小町トンネル手前左高手)
小松原義矩の墓 碑面
[墓表面]
節死小松原義矩之墓
[墓左面]
小松原義矩小字芳太郎法諡大雄忠岩
居士義右衛門義忠之子也慶應二年       行末は空白1文字
幕府伐長之役縣令 櫻井君以運糧祗
役于[芸]而宿直夲邑官舎者三十人義矩
其一也四月九日長之亂人百三十人
[墓陰面]
夜来襲官舎事起不意則皆倉皇失措男
女奔潰而義矩與同直三人皆死之時年
廿八(歳)数日而 櫻井君歸自[芸]追悼不巳   倉敷市史では廿八の次の歳が余分
親吊於其家又賜手筆於其碑面事達於
 大府大府賞其志節賜賻金十兩其家
[墓右面]
永世稱姓帯雙刀免其廛租銘曰與生而
有辱弗如死而得榮受夫大賚永觀厥成     倉敷市史では受が脱落
疵受死人 倉敷村 百姓(讃岐屋与右衛門敬之忰)
         眞喜太 寅十八才

一、右豁(かつ)下突疵壱ケ所
一、外面部惣身焼爛疵所不相分候、御手附田中東蔵殿長屋焼跡ニ相果罷在候
豁(かつ)とはどこの部位なのだろうか。字義から類推すれば右胸か?  体躯は焼けただれてどこが致命傷になったのか解らなかったと記録している。
別書に陣屋内焼失家屋の片付けは4月16日からとあり、それまでは行方不明であった。
注) 屋号讃岐屋。 名は山川正之。  
本町大阪屋(林孚一)と郡屋(郷宿・山川)とは親戚。
墓位置(場所)
倉敷市船倉町1666番地 長連寺境内墓地。本堂裏手直近
正之の板碑には次の撰がある。
慶応二年 幕府有伐長之命 縣令櫻井君
以運糧祇役于芸而宿直本邑官舎者三十人
山川正之與焉其四月九日長之乱入百三十
人夜来襲官舎其勢猛烈前用砲火續以長槍
大剣放火舎時天未明事起不慮則皆倉皇     5文字目 は於の俗字体
失措踰溝奔竄而正之及同直三人死之時年
一八越日数 櫻井君歸自藝追悼不已親吊
於其家且賜手筆於其碑面事聞於 大府大
府賜賻金十兩其家永世稱姓佩雙刀免其廛
租賞志節也正之小字眞喜太法謚曰淳譽義
雄與右衛門敬之之子也爲人恭順謹愨頗能
劍術邑人惜之神崎廉爲之銘曰下竭其力上
美其衷死而有知将不悼其不幸於土中
墓碑の文字は代官櫻井久之介が書いたと記している。撰文は三島中洲と伝えられている。

疵受死人 賀陽郡真星村 禰屋武太郎下男 松蔵 寅六十五才
一、左耳ノ下より右耳ノ下江抜鉄炮疵壱ケ所
一、右耳後長壱寸突疵壱ケ所
木綿縞袷・同襦袢を着、小倉帯ヲ〆、白木綿下帯ヲ〆、武太郎居宅ニ相果罷在候
頭蓋部への貫通銃創が致命傷になっている。
疵受死人 御私手附田中東蔵下女 き よ 寅十九才
一、首後口より咽江抜鉄炮疵壱ケ所有之
衣類木綿袷・同襦袢を着、下帯八まきを〆細帯ヲ結ひ、御陣屋西囲外の堀中江下々成相果罷在候
頸部後ろから咽への貫通銃創だが、彼女は塀を乗り越え堀りの中で絶命している。
注)倉敷ユースホステル(倉敷市向山1537-1)南側米屋三宅の墓地。墓石には「米屋おきよ」とある。
GPSお持ちの方参考までに、34-35-28-6N 133-46-31-5E   観龍寺ご門徒という。
向山(むこうやま)
倉敷旧市内の南側にある標高100m程の丘陵性山地。 西面、南面は墓地である。 昭和10年(1935)から市の大字。

墓石
正面 智道妙散信女
右面 慶応二丙寅四月十日
左面 米屋おきよ
観龍寺門徒という。
「きよ」なる女性は、山本賢一著「倉敷代官所焼討余聞」で「米屋きよ」としている。倉敷村近在で屋号が米屋の主立った家は酒津村と西之浦である。
実は、第二奇兵隊浪士一行が上陸した連島西之浦には三宅定太郎(高幸)という筋金入りの攘夷激派がいた。立石孫一郎は三宅の手引きで西の浦に来た、と。いかにもありそうな話だが、 実際海路を倉敷となれば、玉島か西之浦のどちらかであろう。玉島は幕領、諸藩領が入り乱れて、備中綿の集散地で繁華である。 西之浦は東高梁川(現在は無い)の西岸にあたり、陸路倉敷代官所まで9Km。 三宅定太郎高幸(明治15年没・1882年)の屋号は米屋、分家が玉島にもあった。のち、第二奇兵隊(浪士)追討で在広島幕府軍が当地に派遣され、玉島米屋にも宿割りが課せられた。
高幸の祖父高雅もビックリするような筋金入りの尊攘家に成長し、梅田雲浜、平野国臣などと交わり、家産を傾け討幕運動に挺身した。しかし、維新後は外山・愛宕事件に連座して終身刑となる。明治13年(1880年)に特赦で帰郷して、以前から交遊のあった 高崎善兵衛の子五六(いつむ、岡山県知事)のはからいで岡山県修史編纂事業に関わっている。  出典:岡長平著「巷説岡山開化史」  詳しくはごさんべえのぺーじでどうぞ。

疵受焼死人 御私足軽ニ而(して)門番中貝摂三(蔵) 女房 志津 寅三十五才
一、左腕切疵壱ケ所
一、同所鉄炮壱ケ所
一、外面部惣身焼爛疵所不相分候
左腕の切り疵と鉄炮疵が致命傷とは思えない。体躯は焼けただれて いると記録しているので焼死であろう。
手附田中東蔵役宅の傍らに倒れ焼死と伝えられている。
注)倉敷 教善寺(船倉町1604)南側墓地にある中貝家墓石の俗名は「お志代」とある。
GPSお持ちの方参考までに、34-35-30-3N 133-46-24-7E

浄土真宗 清江山教善寺(倉敷市船倉町1604)
■「備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書(死傷状況調書)」
彼女の名はなぜか「志津(しづ)」とされている。
■「丙寅初夏倉子城(くらしき)日記」(岡山県史 第二十六巻)
彼女の名は「小皆(こみな)」とされている。
■芳本重次郎氏 探古第八号(平成元年十月一日発行・倉敷地方史研究会)
彼女の名を「お志を」としている。
■井上賢一氏 高梁川 第48号(平成2年12月20日発行・高梁川流域連盟)
彼女の名を「お志茂」としている。
■その他の資料・史料、書籍
単に、門番摂蔵妻としている。

墓碑
正面 釈妙祐信女
左面 慶応二丙寅四月十日
俗名 お志代

焼死人 御私足軽 大沢八郎 寅六十壱才
但白骨ニ相成、御役所・湯呑所之辺ニ焼死、白骨ニ相成罷在候
別書に大沢八郎遁んとして門内を走り、終ニ湯呑所ニ押入ニ隠れて焼死。世人皆懐中に 黄金があり、惜しんで焼け死んでしまった。 小心憐れむべしと伝えている。

疵受人 御手附 長谷川仙助 寅四十八才
一、但右二ノ腕鉄炮壱ケ所
二ノ腕以外の負傷はない。
倉敷浅尾騒動史で脇を撃たれ四、五日に死亡とある。 二の腕を銃弾が貫き悴良介と共に沖村に逃れ、亀次郎宅にて養生をしていたが 出血が止まらず4月18日に死亡した。 (この件、旧版倉敷市史5冊 S48/08)
【墓場所略図】
長谷川仙助の墓は船倉町1666番地長連寺境内にある。山門を入り直ぐ右手、在任中倉敷で亡くなった代官墓の最奥寄せ墓左端。

代官所付属牢屋跡地
 墓碑正面 長谷川光命墓
 左面 通称仙助慶応二丙寅
     年四月十八日卒 法号
     寶壽院義芳光命居士
 右面 読むことかなわず。
 後面    〃

旧版倉敷市史5冊(永山卯三郎編/著・S48/08)で仙介は傷口の出血が止まらず4月18日死亡したあり、当然云えば当然だが墓の死亡月日も4月18日である。

<= 代官所付属牢屋跡地

長連寺。曹洞宗。山号五台山。倉敷代官として在任中亡くなった代官の墓五基がある。  代官の交替は属吏も同じく交替した。在任中亡くなった属吏の墓も仙介墓と同列の集合墓に数基確認できる。
また船倉町には代官所付属施設の牢屋があった。
現在はブランコなど子供用の遊具が置かれている。

疵受人 御私足軽 門番 中貝摂三 寅四十五才
一、左中指より小指迄爪江切落し
一、左股前より後口江抜鉄炮壱ケ所
一、右二ノ腕長四寸深切疵壱ケ所
一、背中長五寸深切疵壱ケ所
一、左耳より腮(あご)江掛長三寸深切疵壱ケ所
一、左二ノ腕鉄炮壱ケ所
2発も鉄炮玉を受けたがいずれも致命傷にはなっていない。強運である。
摂三は中風であったと伝えられている。妻お志代さんを失い途方に暮れたことであろう。

疵受人 賀陽郡真星村 郷士 警護人 禰屋武七郎 寅三十四才
一、但右耳より後打口江抜鉄炮疵壱ケ所 その他どこにも傷を受けていない。鉄炮玉が耳をかすめただけであった。

疵受人 倉敷村 百姓義助忰  房次郎 寅弐拾弐才
一、右股より左股江打抜鉄炮疵壱ケ所 その他どこにも傷を受けていない。股の貫通銃創を負っている。

下津井屋夫妻墓・岡熊之助(宇津蘇平)夫妻墓
正面
安部成章夫妻之墓
右面
元治元年甲子12月18日
正面
宇津蘇平夫妻之墓
明倫館
天保5年(1834)4月、代官所内に造られた学問所。 明治初年一時期崇広館改称した。
東大橋家(中島屋)の次男として生まれた大橋徳蔵(洞隠・北大橋家祖)は京都に出て猪狩敬所に学び森田節斎と同門になった。後、節斎を倉敷に呼び寄せる一人となる。 徳蔵(洞隠)は明倫館が崇広館と改名されてから助教を務めた。温順謹直(富裕層出身故か)と伝えられ、節斎とは同門といえ大言壮語的性格とは相入れないものがあった。と伝えられている。
立石孫一郎妻慶の父平右衛門正直から三代前に東大橋家が分家した。 徳蔵の父は東大橋家三代目源助。徳蔵はその次男に生まれた。母は神辺菅波氏の娘で以登。長男金平は多病で早世したが、その子が幼少なので家務を守り成長したのち、徳蔵が北大橋家初代となる。妻は小田郡三成村の片山家の娘。

林浦女
林浦(旧姓山川)
郡屋 山川清太郎
郷宿郡屋山川家。清太郎も宿直していたが難を逃れ脱出した。のち錬蔵(清兵衛知敬)を名乗る。社会学者山川均の父。均の姉「浦」は倉敷本町薬種商(大坂屋)林孚一の孫源十郎(甫三)と結婚する。
源助孚一 ― 源助懐徳 ― 源十郎甫三(妻・山川浦) 郡屋山川家と讃岐屋山川家は大坂屋を間にして重縁を繰り返す。
 大阪屋             (子)      (孫)          
 林源助孚一――――――――┬―源助懐徳―――――源十郎甫三
 立石孫一郎へ長州への   | 讃岐屋山川多賀  妻山川浦(郡屋)
 紹介状を渡す       |            
              ├―源十郎伴臣
                讃岐屋山川多賀
                 多賀は源助懐徳が若死にしたので弟伴臣に嫁す。

 郡屋(郷宿)        (子)
 山川清太郎(清兵衛知敬)―┬―浦
 代官所宿直脱出      | 大阪屋 林源十郎妻
              |
              └―均(明治期社会学者)

 讃岐屋            (子) 
 山川与右衛門敬之―――――┬―多賀(源十郎伴臣妻)
              |
              └―眞喜太正之
                代官所宿直死亡
巷説、林源助孚一が下津井屋事件後、立石孫一郎に長州への紹介状を書いたと伝えられている。
出典:ごさんべーのぺーじ

小山虎太郎
元治元年、下津井屋入牢直後倉敷代官が櫻井久之介に交替。その際下津井屋阿部(成章)家の親戚で豪商だった小山安右衛門側の賄賂が効を奏し下津井屋は釈放された。 この小山安右衛門の伜が小山虎太郎である。 清水慶一先生の小山家の系図はこちら。
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第二奇兵隊取材班
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