2001年(平成13年)1月20日、倉敷、総社市を調査。代官所他の写真を新規に掲載。
長州第二奇兵隊 脱走浪士 倉敷代官所襲撃

1.慶応2年4月10日 夜半雨強し 早暁 午前4時
 この時期、第二次幕長戦争の開戦は秒読み段階であった。代官桜井もその件で広島に出張。帰還中であった。 すでに、長州進発が進行中であり、腕に自信のある警護人を多数所内に宿直させていた。
4月10日夜半雨が強く降っていたという。まだ少し雨がけぶる暁、長州の放駒は倉敷代官所を前触れもなく攻撃した。  死亡者九人。負傷は三人を数える。

 立石とその隊士にとっては、既にそこは戦場であった。倉敷市連島西之浦(角浜)で 武器弾薬を運搬する人夫を雇い一路倉敷代官所を目指した。明けて4月10 日早暁(午前5時頃?)代官所を襲撃する。 代官所は元倉敷紡績鰍フ事務所の位置で現在は、 アイビースクェアーとなり、美術館など立派に整備され観光施設とな っている。 一方的攻撃である。目指す代官桜井久之介は、前述したように広島に出張しその帰途にあった。 広島出張の目的は老中小笠原長行(唐津藩主世子)への兵站首尾報告などである。 長行は第二次長州戦争の指揮のため在広していた。


【淀屋場所: 備前焼ながやま 本町5-9】
倉敷代官所の碑  幕藩封建支配体制の体現機関である代官所襲撃の主目標は、代官を誅殺することであったが、その代官が不在であった。 立石は、脱隊後船舶等の手配等においてその計画に遺漏はなかったが、情報収集最終局面において大きな齟齬が生じた。 目指す代官は陣屋に居なかったのである。
 この襲撃で死亡した者は次のとおりである。隊士側に死亡者は記録されていない。
4月10日、この日宵から夜中にかけて雨がすこぶる降った。それが降りやまない中で襲撃を受けた。
代官所襲撃時刻について
風窓紀聞付録備中騒動 上(本城 温/著)
 連島で人足が30人ほど揃ったところで出発したとしている。その 時刻八つ時(午前2時)。 当地から倉敷まで東高梁川渡河があるが道程約9Km。 代官所到着は七つ半(午前5時頃)か。
そして「朝6つ時(午前6時)頃より砲声ハ止しか共、」としている。
倉敷暴動其外(山口県文書館蔵)
 戸川健三郎殿知行所より之届で「今暁六つ(午前6時)頃何者共相知倉敷御陣屋を相囲」としいる。
注) 現在は都窪郡だが往時倉敷は窪屋郡で東側に旗本戸川健三郎の知行所があり、そこは都宇郡だった。 その知行所のあった村であるところの帯江村史が発刊されている。  帯江村史では「十日暁天七ツ(午前4時)頃より倉敷陣屋に而、炮発音頻に致候付、--以下略--  村史の 記述で攻撃開始時刻は午前4時としている。
倉敷浅尾騒動史(渡辺頼母/編)
 連島を出発した浪士は道を急ぎ倉敷に着し直ちに代官所の門番を呼び起こした。 時既に午前4時頃〜 以下略
確たる代官所攻撃時間を書いていない。
第二次長州戦争における倉敷代官所の役割は、
1.管轄地域住民からの戦費調達(献金)。
2.米の確保と広島までの輸送。
3.まぐさ(秣)の集積と輸送。
倉敷代官所は津山市近郊(現苫田郡)の村落を管轄していた。 この地域は軍馬の「まぐさ(馬の食料)」の確保と倉敷までの輸送を担当させていた。
  代官所には、代官以下16人の役人がいるが、 このうち6人が久之介と一緒に広島に出張中であり、さらに3人が笠岡詰。よって6人が在倉していたが、 倉敷浅尾騒動史によるとその内の一人元締役田中東蔵は前日より近くの郷宿淀屋に泊まっていた。
 その他雇人で宿直していた者は24人、摂蔵の妻以下4人は宿直者の中に 入っていない。
この6人から前出の1人(田中東蔵)を差引きすると、所内には29人が居たことになる。 死亡者の内訳から、武士はいち早く逃亡し、職場に踏みとどまった最下層の者たちが死亡する。差別し続けられた農兵隊士が逆に体制内最下層者を殺すことに運命の皮肉を感じる。

【倉敷今昔物語集 西藤秀男/編 勁草書房】より作図
襲撃隊は入牢中の者を釈放する。 牢は船倉町にあった。 代官所から少し離れている。 入牢者7人、内3人がその場を逃れ4人が立石に同行したとされている。 勇蔵、礼助(介)、讃岐観音寺の能蔵、そして盗人の百蔵である。この時一旦釈放された船倉の勇蔵は裁可なき釈放は本意にあらずと役人に告げ家で待ったという。
また一書に牢内七人。勇蔵は家に帰り二人は逃去り、礼助(介)ら四人浪士に従う。 どの資料も三軒屋(水分峠北、備中国分寺近く)で「不埒有り、頸刎らるる」とあるのでほぼ、百蔵が殺害されたであろう。
近代世上風聞記抄録
義兄在獄の話は、神本備後(徳山市久米・14才)や吉田又太郎(旧大和町源城)などが吹聴したというのが通説で、 義兄在獄は山口県側の文献に多くみられる。 また、玖珂郡本郷村史には「実弟」とあり、 本郷教育委員会の誤植かと思い原資料を拝見したがやはり「実弟」とあった。 私的反乱脱隊罪を補強するために誰かが吹聴したものと考えられる。また、 文献、村史に齟齬があるのは捏造を物語る。

倉敷浅尾騒動史所載(頁41)  倉敷浅尾騒動史とはこちら
代官所宿直者の一人に大橋仁吉なる人物がおり、初名を仁吉、号を草秋、 彼の五十年前の夢と題し(頁127) 「奇兵隊が、代官所を襲撃して、観龍寺に引き上げて後、父平右衛門へ 幕府より預かりたる金を調達せよとの厳命があった故、やむなく五千両を出し 、又小山、大原へは幕府役人への賄賂を預り居るとの故を以て、小山千両、大原 五百両を調達したと云う。」
これが事実なら孫一郎の妻慶の弟が宿直人として代官所にいたことになる。  ただし、この中で「大橋分家養嗣子敬之介」とのみあり、慶の夫とは書いていない。 孫一郎関係系図はこちら
参考として「ごさんべえのページ 中島屋大橋家 (敬之介) を参照されたい。

左の画像は、倉敷の郷土史家だった大森一治氏が蒐集した『近代世上風聞記抄録』である。 いつ頃、誰が書いたのか解っていない。中貝摂三の妻を殺し、三島舒太郎(のぶたろう)忰や藤井屋善右衛門忰の焼死などが書いてある。その続きに入牢中の者は8人。残らず連れ出し。とあり、入牢者は7人でなく8人だった可能性がある。
※ 大森一治
明治十年(1877)五月二十九日〜昭和十一年(1936)六月三十日
倉敷市史には現在新修倉敷市史と、いわゆる旧版倉敷市史(永山卯三郎編著)がある。 この旧版倉敷市史近代記述部分の資料は一治が蒐集した。また文芸面は一治の筆になる。 大森家には一治が蒐集した膨大な資料がある。親子孫三代にわたって倉敷市史編纂に深く係わる。屋号は帯江屋、疎梅と号した。
倉敷代官所総数
出典;
 倉敷浅尾騒動史
【代官】 桜井久之介 (芸州出張)
【芸州出張】 逸見小十郎・直江喜平次・堀尾堅蔵・島野俊一郎・矢島藤太郎・佐藤忠五郎
【笠岡詰】 矢邊庄八・南條才次郎・松尾弘之助
【代官所内】 岡地謙一郎・長谷川仙助・同倅 良介・原 謙次・清水城三郎(代官用人)
【門番】 中貝摂蔵・同妻 お志代
【田中東蔵下女】 米屋きよ
【明倫館塾生】 塾生七人 室・太田・八藤・吉岡・小林・逸見・宮脇
【警固町衆】 十七人
【所外宿泊】 田中東蔵 前夜から郷宿淀屋に宿泊していた。
  淀屋:本町5丁目9番。「備前焼ながやま」その場所である。

【淀屋現況 備前焼ながやま】
  田中東蔵は、桜井代官帰倉をひかえ、前夜から郷宿淀屋で第二次幕長戦争における諸藩の軍馬の秣(まぐさ・馬の飼料)の広島への輸送等について、 苫田郡塔中村庄屋牧卯左右衛門と集計を行っていた。
左図は「高梁川50号(井上賢一/著)」頁265で文政年間〜天保年間(1818〜1843)の倉敷村の居住場所である。
郡屋も郷宿で、ここの伜山川清太郎は代官所の宿直だったが、無傷で脱出している。
なお、立石孫一郎が倉敷出奔の原因になったと伝えられている下津井屋(阿部)は、前神橋のたもとにあったと伝えられている。
郷宿は公事宿で、倉敷村には4軒あった。楢田屋寺見家,郡屋山川家,淀屋吉田家,戸田屋若林家。
代官所内戦闘員の確定   代官所に何人居たのか?
死傷者は次の資料から
出典:岡山県史 第二十六巻 諸藩文書 (S58.11.24) 慶応二年倉敷騒擾一件書類 田中家諸留
   備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書
死者9人 内訳
三島定太郎加茂屋金蔵こと川崎治昌,芳太郎こと小松原義矩,
讃岐屋眞喜太こと山川正之,禰屋武太郎下男松蔵,田中東蔵下女きよ,
中貝摂三(蔵)女房お志代,足軽大沢八郎,御手附長谷川仙助
負傷者3人 内訳
門番中貝摂三,賀陽郡真星村郷士警護人禰屋武七郎,倉敷村 百姓義助忰房次郎
   三人が記録されている。
「倉敷・浅尾騒動史 渡邊知水/編」では
【代官所内】 岡地謙一郎・長谷川仙助・同倅 良介・原 謙次・清水城三郎(代官用人)
【門番】 中貝摂蔵・同妻 お志代
【田中東蔵下女】 米屋きよ
【明倫館塾生】室與十郎・太田隆蔵・八藤慎一・吉岡庄次郎・小林虎一・逸見安三郎・宮脇照次郎
【警固町衆】 彌屋武七郎・大橋仁吉・小山虎三郎・和栗保三郎・和栗元助・山川眞喜太小松原芳太郎
       山川清太郎・木村松三郎・河野金蔵・永原勝五郎・吉村與一郎・古城柾次郎・児島輝之進
       都志廣四郎・板屋恒三郎(板谷常三郎)・三島定太郎
【所外宿泊】 田中東蔵 前夜から郷宿淀屋に宿泊していた。
なお数名の負傷者ありと書いている。
とりあえず名前が記載されている者の合計は33人(東蔵除く、32人)となる。
◇ 負傷者 ○ 死亡者
板谷常三郎
中備騒動記
晩年の板谷常三郎(倉敷田ノ上) 出典:「倉敷基督教会略史」

未刊だが、倉敷本町の郷土史家大森一治が蒐集した「中備騒動記」がある。記述は板谷百双軒で、一治はその注解で百双軒は弥兵としている。弥兵は代官所付属明倫館の稽古連中だったと記している。また板谷常三郎は弥兵の分家で西板屋だと書いている。
板谷弥兵
弥兵は現在の倉敷市田之上だが、明治期に二村合併し大高村となったが、この村長となった。
中備騒動記によると、桜井代官と一緒に広島に行き行動を共にした者として、都窪郡中島村舒太郎縄正(三島定太郎父)と同じく沖村小野時之助の名が見える。
沖村小野家
民右衛門正庸(天保7)―――時之助(明治15)―――品太(大正9)
現在沖村はなく、倉敷市沖である。

補注)
時系列は前後するが、三島舒太郎縄正と沖村庄屋小野時之助は桜井代官の耳目となって東高梁川を下る浪士の情報収集を行っている。
「風窓紀聞附録 備中騒動記(本城新兵衛(温)」では
【代官所内】 岡地謙一郎・長谷川仙助・同倅 良介・原 謙次・清水城三郎(代官用人)
【明倫館塾生】室與十郎・太田隆蔵・八藤慎一・吉岡庄次郎・小林虎一・逸見安三郎・宮脇照次郎
【御雇入】 彌屋武七郎・大橋仁吉・"小山虎三郎・和栗保三郎・和栗元助・山川真喜太・小松原芳太郎
        山川清太郎・木村松三郎・河野金蔵・永原勝五郎・吉村與一郎・古城柾次郎・児島輝之進
       都志廣四郎・板屋恒三郎(板谷常三郎)・三島定太郎
【死亡者で】 御役所同心八郎・彌屋武七郎僕松之介
風窓紀聞附録備中騒動記では以上の31人。
これ以外に次の者が負傷若しくは死亡している。
【門番】 中貝摂蔵負傷・同妻 お志代死亡 2人
【田中東蔵下女】 米屋きよ死亡 1人
3人+風窓紀聞附録備中騒動記名前記載者31人=34人代官所に居たことになる。
備中国倉敷陣屋異変之始末見分吟味御届書(田中東蔵)
倉敷村 百姓義助忰  房次郎負傷
彼の名は「風窓紀聞」にも「倉敷・浅尾騒動史」にもありません。
風窓紀聞 附録備中騒動記(上、下)本城温(慶応二年八月刊)
岡山県史第二十七巻 近世編纂物 岡山県史編纂委員会 S56/3/31発行
本城 温は立石孫一郎の儒学の師。また、総社市史近世史料編にも掲載がある。
早い段階で各種史料(資料)をまとめている。史料性は高く、これを基盤にし補完すれば暴動事件の全体像に迫ることが出来る。
本城 温は、玉島地方史(中)に掲載されている幕軍宿割帳の原本を見て書いていると思われる。 兵員数は過大に書いているが、派遣幕府軍について、玉島地方史(中)大田茂弥/著に『四月公儀御軍勢御止宿 慶応二年寅玉島宿割帳』と人名が書かれており、それと比較しても非常に正確である。

2.慶応2年4月10日 昼(天候:晴) 〜 12日 夕
 代官所を襲撃した第二奇兵隊は、近くの観龍寺を本営とした。ここには隊士が付けた 槍の傷跡が残されている。そして史跡として保存されている。  注) 観龍寺: 倉敷市 阿知 2丁目 25−22 真言宗御室派別格本山。 山号宝壽山。
観龍寺の小門にある隊士が付けた槍の傷跡 傷跡拡大
観龍寺通用門にある傷跡の説明では槍傷としているが、まず間違いであろう。人間が自然なスタイルで刺突武器として槍を通用門のあの位置に突き上げれば、槍を斜め上方に突き上げるはずだ。傷の削ぎは突き上げ傷ではない。よって銃弾による擦過痕と思える。 通用門、地表より 1,980mm すなわち2mの高さがある。
実は08年10月代官所で消失を免れた長屋出格子(縦約1.4m 横約1.8m)が倉敷市本町町並み整備事業で活用保存された。
保存先は
「倉敷民芸・店主野嶋雅弘氏」
住所:倉敷市阿知2-17-25
2寸5分(75mm)の松材を貫通している。
 

当時T字路突当りは高札場
 現在「倉敷民芸」店の左右にこの格子戸はある。現在左側の格子戸と右側の格子戸は本来は左が右で右が左だったそうである。弾痕は2箇所で、同店左の格子戸は縦算木左から5本目を擦過している。右格子戸は縦算木を貫通。後ろの部材に没入して銃弾は止まった。 貫通孔は約17mm。よってオランダー製のミニエー銃だった可能性が大である。  印が弾痕。

3.慶応2年4月10日 巳の刻(午前10時)
 観龍寺において兵糧の調達及び町衆に前述した軍用金を申しつけた。また、大橋家に使者を送り 妻慶との離別を持ちかけ大橋家より離別金三百両と酒肴が届けられた記録が残る。

彼らの去った後の代官所では多くの死傷者が残された。
倉敷浅尾騒動史に記載のある死亡者 
No 役 職出 身 等姓 名年齢態  様
 1役 人  長谷川仙介 48鉄砲にて脇を搏れ
(撃れ)四五日後死亡
 2雇 人倉敷村百姓
讃岐屋
山川真喜太
(山川正之)
18塀に圧れて即死
 3 〃 倉敷村百姓
藤井屋
小松原芳太郎
(小松原義矩)
27軒先にて深手即死
 4 〃 倉敷村百姓
加茂屋
河野金蔵
(川崎治昌)
21帰宅の後死亡
 5   中島村庄屋見習三島定太郎18大工小屋前にて即死
 6門番中貝摂蔵志津35元締役宅前にて即死
 7役所内足軽大沢八郎61即死
 8 役人田中東蔵下女きよ19鉄砲に耳を搏れ即死
 9雇人禰屋武太(七)郎僕松蔵65即死
以上年齢を除き姓名上段は渡辺頼母(知水)編倉敷浅尾騒動史による。
犠牲者の姓名 各史料の齟齬
旧版倉敷市史(5冊・S48/8)加茂屋文治嫡子 川崎金蔵としている。 新しいところでは、探古(たんこ)8号(倉敷地方史研究会・平成元年[1989]10月1日) 芳本重次郎(倉敷市)著「倉敷騒動の犠牲者」という表第で桜井代官が自ら筆を揮い墓碑名を認めたとして、 「節士 三島時政(定太郎)」、「節士 山川正之(山川真喜太)」、「節士 小松原義矩(小松原芳太郎)」、「節士 川崎治昌(河野金蔵)」と書いている。  ただし、三島以外は節死である。なお三島については後に造りかえたと伝わっている。 名前の( ) は筆者による。
つい最近、倉敷の郷土史家であった大森一治氏の著書「倉敷町史編輯日記」によると、昭和3年(1928)12月3日倉敷誓願寺の墓碑調査を行い、川崎治昌を確認している。
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