| 平成13年1月20日倉敷市取材連島西の浦「角浜」風景を挿入。 |
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若き獅子たち 長州第二奇兵隊 倉敷代官所襲撃
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![]() 倉敷進撃図![]() |
| 1.慶応2年4月7日 正午(12:00) 伊保田解纜 天候:晴 |
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立石孫一郎、櫛部坂太郎、引頭兵吉らに率いられた、
弾けるような若き長州の獅子たちは、倒幕の気運みなぎる中、
東和町伊保田の浄専寺前の桟橋を離れ今や誰も押しとどめることのできない安芸灘を、
多くの隊士がまだ見たことのない備中の天地、倉敷をめざして東進した。
やがて一行は、三原市の須波(砂見)に到着したが、ここまでのルート
がよく判っていない。 浦靱負日記(注1)4月8日の記述に鹿老渡(かろうと・倉橋島東南端,伊保田からの方位34.5゚ 距離17.4km)に向かうとの風評が伝わった。 参考までに享保4年(1719)の朝鮮通信使のルートは、上関〜(津和地) 〜下鎌刈〜鞆浦〜牛窓である。 隊士の一向は4月7日正午に東和町伊保田を出港、同日中に須波に到着し ている。 伊保田から直線距離にして約80Kmである。ちなみ上関〜下鎌刈間が海上ルートで約74Km、 下鎌刈〜鞆浦間が約76Kmである。これがおおむね1日の行程であった。 須波で隊員たちは脱隊3日目の夜を明かした。 |
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−− 脱隊者の追跡 4月8日 大島宰判久賀勘場では 脱走隊は安下庄で米2石(300Kg)ほど積み込み、そのときの話で鹿老渡(かろうと・倉橋島南端部の港)に向かうと聞き。早速追手船を差し向けたが風向きが悪く追いつけずに帰ってきたという。 脱走者を仮に100人としたなら、米2石で約2日分の主食を確保したことになる。この食料の問題は後々まで脱走隊を苦しめた。 出典:浦靱負日記・山口県史史料編幕末維新3 |
| 2.慶応2年4月8日 午前8時 三原市近郊須波を発つ この日天候:晴 |
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明けて翌8日午前8時須波を出発し、この晩は福山市鞆浦の沖で仮泊する。 須波〜鞆浦間は約28Kmである。同地を真夜中に倉敷に向けて出発し 翌9日8時ごろ笠岡市の沖合い高島(この間約14Km)に船を着け朝食等を 済ませたのち、午後4時に目指す備中の天地、倉敷市連島西之浦に到着した。 ![]() |
| 3.慶応2年4月9日 午後4時 連島西之浦到着 (岡山県倉敷市) この日天候:曇 |
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【軍事力による幕府代官所の襲撃】 一揆を除いて軍事力による幕府代官所の襲撃は歴史上4回発生した。新潟 県の柏崎市は桑名領であったがここを生田万(いくたよろず)に率いられた 一統が襲撃し、史上名高い「生田万の乱」を加えると組織的軍事力の行使 という点で捉えたら 5回といってもよいかも知れない。この乱の動機は誠に 純粋で百姓の困苦と窮状を救わんとして立上がったもののその志が理解されずに 憤死した。 |
![]() | ![]() 【桑名藩柏崎陣屋】 新潟県柏崎市大久保2丁目5ー1 37-21-45-60N 138-32-43-60E ここの説明板には生田万が陣屋を襲撃したなど書かれていない。 |
| 2回目は、天誅組の変である。文久3年8月 (1863)14日、土佐の吉村寅太郎、備中の藤本鉄石、 三河の松本奎堂ら攘夷派の志士は中山忠光(忠能の子)擁し京都洛北方広寺で挙兵を決し、 17日大和(奈良)五条の代官所を襲撃。桜井寺を本陣とした。後、高取城攻撃に失敗し、 頼みとした十津川郷士が離反した中で、幕府の命を受けた近隣諸藩の攻撃を受け首謀者が次々と闘死し、9月27日挙兵軍は壊滅した。 虎口を脱した者は、盟主忠光を含め7人であったという。 この変の志も崇高といってよい。幕末その時代の空気が間違いなく人を創った。 |
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長州に逃げた忠光は、のちに長府藩(長州藩支藩)によって
暗殺される。
この7人の中に土佐の石田英吉や後藤深蔵(上田宗児)も含まれている。英吉の人生
はそのまゝ明治維新史である。彼は先述したように、
天誅組の変に破れて長州に逃れ、やがて禁門の変(忠勇隊、脱藩諸藩人で結成、総督久留米藩真
木和泉)に参加、
これにも破れて、第二次長州戦争時には、
坂本龍馬と共に関門海峡戦に参加した。やがて竜馬の海援隊に参加する。波乱万丈の人生で
ある。戦いに明け戦いに暮れた前半生であった。
政局は薩摩藩の策動もあり、俗に8月18日の政変と云われている中央政界からの長州藩が失脚
する事態となり、この時長州派公家7人が長州に逃亡
する。途中二人がはぐれ、いま五卿登攀の碑が周南市(徳山市)
親水公園の一角に建つ。その内の一人、沢 宜嘉は、生野の変の盟主となった。
3回目は、生野の変、天誅組の苦戦が伝えられや筑前脱藩の平野国臣が、 当時三田尻(防府市)に駐屯していた奇兵隊陣営を訪ねた。討幕の兵を但馬 生野(兵庫県朝来郡生野町)の代官所を攻撃することで、五条、生野と共に 呼応し世論をいっきに討幕へと旋回させるべく力説し、21才の総督河上弥 市、白石廉作ら8人が平野の呼掛けに応じ、10月2日夜、7卿の一人沢宜 嘉を奉じひそかに三田尻から海路上方に向かった。21才の河上では海千山 千の奇兵隊士を纏めきれなかったといわれ、後任に赤祢武人が就任する。 平野国臣の詩 「我胸の燃ゆる思いにくらふれば烟はうすし桜島山 」 恋詩ともとれる憂国の純粋さが、この変に参加した者の胸を打ったのであろう。 破れて彼は京都六角の獄で惨殺された。平野の志も誠に高い。 播磨(兵庫)に着いた彼らのもとに、天誅組の壊滅が伝えられ、平野はこ の段階での挙兵は、無駄死になると反対したが、河上が断固挙兵を主張し、 地元の豪農北垣晋太郎らに働きかけ、庄屋層に率いられた農兵約2000人 と10月12日、代官所を占拠した。奇兵隊を脱走した以上河上に帰る場所はすでに なかった。 この変は、味方に付けたと思った農兵の離反と追討軍によりわずか2日間で あっけなく壊滅する。 河上弥一ほか12人は生野のはずれ山伏岩で自決した。この死はなんの生 産性もない窮鼠の自刃であった。いたずらに死に急いだといえる。これも後生の歴史及 び山口県では「義挙」となる。なぜ立石率いる第二奇兵隊だけが暴徒と呼ばれなければ ならないのだろうか?。同隊の幹部(楢崎)を確かに殺害した。だが命に従った一般隊士 を殺害する理由はまるでない。 4回目が、第二奇兵隊の倉敷代官所襲撃である。結論から先に云うとこの 襲撃は暴動で犯罪であると山口県の歴史に位置づけられている。 5回目は、倉敷と同じ幕領日田の代官所を襲撃した。日田事件である。武装、装備も 半端であり、軍事力には違いないがある意味では組織だったと言えない面を 持つ。 日田事件は、世論が討幕に旋回する中で発生し、これも暴動であり犯罪と して、長州藩の弾圧の中で事件参加者は散華した。 |
| 4.慶応2年4月9日 午後8時〜10時 角浜 天候:雨激し 雨は午後5時頃から降り出し一晩中降った。 |
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午後4時角浜に着船した隊士たち20人ばかりが上陸し、その内5人程度酢飯屋(すしや)卯平方に来店。白木綿を裁ち切り鉢巻とした。
驚いた卯平はすぐさま庄屋三宅正平へ通報。正平は代官秋田重作へ事の次第を報告。
一方別の一隊17〜18人は広島屋石平宅へ。 更に午後8時頃庄屋三宅正平へ隊士10人ばかり訪れ
我々は備前岡山への使者であり、人夫50人ばかり差し出すよう依頼を行った。 1)庄屋三宅正平は情況を倉敷に報告せしめるため隣村片島村庄屋謙蔵へ報知。 2)隊士の一部は三々五々少人数で倉敷を目指して角浜を出発していった。 |
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![]() 現在の角浜(がどのはま) |
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| 写真左上 宰判庄屋三宅正平宅跡地 倉敷市連島西之浦厄神社参道に面して屋敷はある。 現在は大野酒造(株)となっている。後ろ姿の人は正平のひ孫あたる三宅鐘一郎氏。 右の画像は角浜(左上)と亀島(右下)渡しの位置関係を示す。 案内を頂いたのは郷土史家三宅昭三氏('01.04.07 取材・当時70歳・連島506−3) | |
| 5.慶応2年4月10日 午前2時 角浜 天候:雨小降り |
| 人夫が30人程度集まったところで、本隊は倉敷に向かい角浜を出発して行った。 連島西之浦から陸行9Km先に 幕府倉敷代官所はある。 |
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注1 浦靱負元襄(うら・ゆきえも とまさ)は上関宰判伊保庄阿月(山口県柳井市阿月)の給領主。幕末期靱負は当役・当職(国家老)・加判役など毛利藩の要職を歴任した。 慶応元年(1865)五月家督を滋之助に譲り官職を辞す。 よって各種情報が元襄にもたらされ膨大な日記を残す。 浦靱負の存在抜きに萩藩の幕末維新は語れない。山口県史史料編幕末維新3で主要部分が刊行された。 禁門の変後、浦靱負は家臣が諸隊に参加することを禁じた。 このことが第二奇兵隊結成の伏線となっている。 |
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