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![]() 事件の発端 携帯銃器![]() |
| 1.慶応2年4月6日 午前6時 大畠町遠崎着 |
脱隊隊士たちには対幕戦に備えて武器の充実と待遇改善という説明がされた。
彼らは夜道を大和町塩田→三輪→田布施町→大畠町と歩き途中で帰宅中の隊士を加えながら
翌朝6時には遠崎村妙円寺(大畠町)に到着した。 |
一方山に残った隊幹部の一人能美重蔵が、楢崎の行方を探索していると陣 門の石の上に首を見つけ手分けして体の部分を捜しだした。 以下、修訂防長回天史からこのあたりの隊幹部と政府側の動きを追ってみる。 事件は5日の夜発生した。政事堂には、6日の夜、石城山の第二奇兵隊で 異変が起きたとの一報が入ったが事件の全容をつかむまでには至っていない。 そこで幕府との応接連絡担当者の広沢藤右衛門(この事件の担当国務長官。第二次長州戦争の長州藩停戦協定代表) は、7日未明山口を発ち、彼らの動静を探るために上関(熊毛郡上関町)に向かう。途中、隊 員の脱隊の報告と前後策を協議するために、山口政事堂に報告に向かった林半七に出 会った。出会った場所は宮市(防府市。だとすると山口から18Km地点)あたりであろうか。この時、広沢は彼らが国 外に出ることも予想される状況だけに、このことは幕府に伝えるべきである との考えを半七に託し、 |
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広沢は上関で脱隊者の捜索に当たった。彼らがどこ
に蒸発したのかこの海上交通の要路にいても皆目行方が分からなかった。防
長回天史には、日ならずして帰ると記されている。
広沢が山口を出発したのが7日未明、途中で半七に出会い若干の打ち合せ
と、三田尻(防府市)から飛船(当時の海上タクシー、防府市富海は有名であ
った)を利用したとしても上関到着は夜であろう。だとしたら、脱隊隊士
たちは、すでに、この日の正午東和町伊保田を出帆している。 | |
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角田直一著「倉敷朝尾騒動記・初版本」では、現大畠町遠崎の庄屋 高杉家の援助があったと記述しているが、
現在の高杉さんの住居は、当時は秋元家であり、
この秋元家の支援があったのであろう。先述したように午前6時に遠崎に到着し午前10時には100人近い人間が出帆している。
力ある人の支援と援助がなければ出来るはずもない。 倉敷襲撃計画は、偶発的要素を含みながら計画的に実行された側面を持つ。ここが立石の私怨説の震源に思えてならない。 また、近年刊行された「大村益次郎史料(H12.03.10)内田伸/編」に脱隊隊士であった本城藩人の供述が掲載されており、 その中で嶋橘太郎、藤田武熊らは4月5日に遠崎(玖珂郡大畠町)まで剣術稽古に出かけたとある。 先述したように第一の事件はこの遠崎からの帰途余田村(田布施町余田)で発生した。 事前に渡海船の準備をさせたのかも知れない。 立石孫一郎が、下津井で二回にわたって会議(年表参照)を行い討幕(倒にあらず)の機会を伺っていた史実は無視できるものではない。 |
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隊結成当時惣務補佐であった芥川義天日記(柳井市阿月円覚寺僧、毛利家家老浦知行地)
慶応二年正月中旬条 国事に関し義夫は大島郡小松村妙善寺に至り桜井新三郎に会見す。 「夙(つと)に新三郎尊攘の事に尽粋し慶応元年秋より備前児島郡に同志を会し長州藩の困危を救護するの策を講じ 〜 以下略」 の記述があり、下津井近辺に立石孫一郎の考えに近い同志のいたことを記述している。 |
| 2.慶応2年4月6日 午前10時 遠崎解纜 |
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午前10時頃には、五隻(注1四隻)の帆船に分乗(98人?)し遠崎を出発した。
その後柳井市阿月の沖合いで舳先を山口でなく、東の方向、屋代島に向けことで、
総社(浅尾)撤退中、下津井付近で岡山藩軍に逮捕された西岡龍太は、その
供述調書の中で隊長にどちらに向かうのかと尋ねている。
幹部からの答えは、讃岐(香川県)に向かうという内容であった。 西岡龍太の上官は編成上折本耕造になっている。 |
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(注1) 遠崎を発した隻数 多く五隻としているが、山口県文書館にある南奇兵隊事件では遠崎から発した船は四艘。安下庄(大島郡旧橘町)に着く前に航行中の一艘を奪取。都合五艘で安下庄に着いたとしている。 |
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−【余談】− 折本耕造は記録上(暴徒御処置一件)では当初からの脱隊者であるが斬首組に入っていない。 記録の誤謬か、あるいは途中からの参加者かも知れない。 というのは姓から大島郡出身者である可能性がある。折本の出自について書かれた ものは何もないが、本城藩人の兄の備忘録(室津白浦の項、参照) に「折本八左衛門」なる記述がある。また記録で折本吉之進という人物がおり、彼は「遊撃軍」となっている。 折本八左衛門は「吉之進」の父なのか?。東和町船越の本城(隊士本城藩人の系)さんの話では「吉之進」は 間違いなく船越村であるという。折本耕造については出身地不明。 |
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| 安楽寺に着く前に一つ事件が事件が起こった。立石脱走隊は武器・弾薬を持ち出したが食料を持ち出してはいない。旧大島郡大島町戸田の沖合で上関二三屋の五十石積み程度の船に搭載していた米を奪い取った。 その米を戸田で搗いたと白井小助が大村益次郎に慶応2年4月7日付けで報告している。 |
| 3.慶応2年4月6日 午後13時 大島郡橘町安楽寺着 |
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大島郡橘町安楽寺には午後1時頃に到着し休憩をとった。
橘町安楽寺は浄土真宗である。また櫛部坂太郎の母(為江)の実家でもあった。
ここに部下を引き連れた若干26才の坂太郎が現れたのである。
得意満面の坂太郎の顔が浮かぶ。
この事件を調べ始めた当初なぜ橘町の安楽寺に立寄ったのか皆目見当も付かなかったが、
大島郡東和町伊保田の浄専寺を取材中にこのことが判明した。
このとき立石は、このまゝ山口に嘆願に行っても役付きの者を殺害した以上、
受け入れられるはずもなく殺されるだけだと説明し、
そこで倉敷の幕府代官所を襲撃し義兵を挙げ、
それを手柄として藩庁に嘆願してはどうかと提案し大方の者はそれを受け入れた。(第二奇兵隊記録:山口県文書館蔵) 立石の脳裏には文久3年(1863)の天誅組と生野の変に続く第三の倒幕に立ち上がった自分を認識したであろう。 すでに討幕の機運は瀬戸内海地方のいたるところに充満し、慶応2年(1866)3月立石孫一郎は、 第二回目の討幕蜂起の会議を岡山県下津井で開催し、その内容から自分が倒幕蜂起すれば仲間は見殺しにしない読みを持っていたとしても不思議ではない。 彼にとって天誅組の郷土出身者藤本鐵石は、遠く仰ぎみる英雄であった。 そして自分もそれに続く今、たぎる血潮は一刻も早く備中倉敷へと心は飛んでいた。 七ツ時(16:00)安下庄出帆。 |
| 注)
私見 安楽寺で立石は倉敷襲撃を伝えたのか? 第二奇兵隊記録にある「幕府の領地である倉敷の代官所を攻め、〜」の信憑性について。 残された資料は ■第二奇兵隊記録(山口県文書館) 「吾等岩城山ヲ出ル時書記楢崎剛十郎ヲ殺害シ 〜 備中倉敷ニ行キ代官所ヲ打破リ、」 ■総社市史近世資料編 浅尾騒動付録頁1048〜 岡山藩に逮捕された「西岡龍太、長尾清熊」 浪士口書之事(供述調書)より 「方角も迷ひ候故、尋候得者、大島へ立寄、夫より讃岐江参候様申聞候処、同九日連島へ上陸、夫より倉敷江参り、同夕直ニ陣屋へ押懸、〜以下略」 にみられるように、安楽寺では讃岐へ行くとしてる。 ■本城藩人の口書(供述調書、大村益次郎史料,内田伸/編 徳山マツノ書店 2000/3)頁274 「安楽寺に兵粮認メ直様乗船〜以下略」 「九日昼八ツ時、備中連島え着船、 此所にて櫛部坂太郎申には、是より五十町奥に大ナル陣屋有之、今夜打払候間、各覚悟いたし候様申聞せ、 是より内は為何議も不承知候処、前段之令にて初て承り当惑いたし候得共、 其期に至り候て隊長之令故支度相調候事、」 となっている。 残された2通の供述調書で安楽寺で倉敷代官所襲撃は伝えられず、連島 に着いて聞かされ是非もなく襲撃に加わったことと思う。 藩人は安楽寺で倉敷襲撃を伝えられず、連島で知らされたと供述しています。 襲撃をどこで聞こうが罪科の軽重に影響 するとは考えらず、山口嘆願の目的は対幕戦の武器不足や給与不満の陳述であると伝えられており、 隊士は安楽寺で讃岐行きを伝えられ、困惑のあげく沖家室での脱走など発生したのであろう。 安楽寺は藩人の供述どおり、腹ごしらえと在島諸隊士への連絡だったかも知れない。 ほかに、安楽寺で襲撃計画を知らされたという 信憑性に足る資料を見ていない。今後の研究が待たれるとろである。 |
| 4.慶応2年4月6日 午後8時 大島郡沖家室島 |
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この話に当初の目的を逸脱した行動に疑問を抱いた秋田五郎、吾妻左源次は東和町沖家室で離脱する。
時刻は午後の8時頃だったという。離脱したこの二名も4月26日、脱兵処罰案超えて室津白浦で殺害された。 なんのことはなかたった。槙村と林半七は彼ら(秋田、吾妻) を殺害することに意味を見いだしていたのである。 このとき河村利右衛門、竹田宗之進の二名も離脱している。 彼らは処刑されなかった。裁判官槙村半九郎と林半七の本音が見えてくる。 百姓と行動を共にする武士(但し彼らは陪臣である)は許せなかったのである。 |
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吾妻左源次について 裁判官槇村半九郎は吾妻について元岩国藩当時浮浪。と書いている。 実は元治元年(1864)1月に発生した上関義勇隊士らによる加徳丸事件で名前の出る東左源太と同一人物かもしれない。彼は事件を起こした後に義勇隊から脱走。行方がわからなくなった。 |
| 5.慶応2年4月7日 午前2時 |
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4名離脱した倉敷襲撃隊は、翌7日の午前2時ごろ屋代島(大島郡)東端の南側の大島郡東和町油宇村(一部の文献では、玖珂郡由宇町と混同し、
岩国領の由宇としているが間違いである。)に着き、その日一行は同地に泊る。
峠(陸路1Km)ひとつ安芸灘側に越えれば東和町伊保田である。
午前8時には伊保田にむけて途中潮待ちをしながら午前11時ごろ到着した。
伊保田は坂太郎の生家の浄専寺がある。このとき久賀から津川信介、岡本清之助が
新たに加わった。安下庄(大島郡橘町)に停泊したとき一部の隊員を下船させのか、
村上(村上水軍の末裔)の屋敷よりミニェー銃より一段古いゲベール銃21挺分取り伊保田(大島郡東和町)で積み込んだ。 |
| 【脱隊移動概念図】 |
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| 記録によれば、このゲベール銃積込みは誠に手際がよく、 安楽寺に着船したとき、一部の隊員を降ろし津川・岡本を誘いながら村上屋敷に向かわせたとも考えられる。 謎としては、岡本は久賀(橘町とは反対側)であり、 橘町安楽寺とではかなり距離がある。どの様な連絡勧誘方法を取ったのであろうか?。 一部の資料ではこの時(油宇村で)20余名下船させたとある。 |
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-- 閑話休題 -- 東和町和田とその隣の内入地区は村上水軍(海賊)にゆかりの地であ る。内入には、豊臣秀吉が殺そうに殺せなかった村上武吉の墓もある。詳し くは、城山三郎著「秀吉と武吉」を一読されたい。 このゲベール銃は、朝尾藩陣屋を撤退するときにそのほとんどを現地に遺 棄する。古い銃器が使い物にならないことぐらい襲撃隊には判っていたはず で、この銃は倉敷に上陸した後、彼の地の同志に与え武装させる目的があっ たのではなかろうか。 第二奇兵隊員が立石孫一郎指揮のもとで、藩庁に嘆願に赴くというのが初 期行動目的であった。対幕戦における武器の不備について記述している書籍 や文献を多く見るが装備に関して藩庁は非常に早く対応している。 そして彼らは、7日正午12時頃幕藩体制を象徴する倉敷代官所襲撃にむ けて伊保田を解纜し備中の天地にはしった。 注) 祝島に帰還した立石は上図@で室積に4月22日四ツ(22:00)上陸。次にAで下松市魚ケ縁に上陸。 ■ 【銃器について】 ゲベール銃 Geweer オランダ ゲベール銃は、天保2年(1832)に高島秋帆が長崎で輸入した。ゲベール とはオランダ語で小銃を意味する。幕末最も多く輸入された鉄砲である。模 倣銃は国内各地で製作され、元治年間以降国産のみで十分間に合うようにな った。 |
前装滑腔の洋式銃は全てゲベール銃と呼ばれた。弾薬の装填は、まず火門
に雷管をかぶせ静かに撃鉄を下し、弾薬包の端を歯で咬みきり装薬を銃口よ
り注入し、次にさく杖で弾丸を包紙と共に押し込む。弾丸は、球形の鉛玉で
口径は17.5ミリ、重量は26.3グラム、弾丸と火薬の包は「パトロ
ン」と呼ばれた。(上段)
ミニエー銃 Minie rifle フランス 1846年フランスの歩兵大尉ミニエーは椎実形鉛玉の底部にくぼみを設 けて鉄の殻(または木栓)をはめ、発射時のガス圧によつてこの鉄の殻(または木栓)が弾丸に押し込まれ、弾 丸のスカート部を拡張しライフル(施条)に喰込ませる方法を考案した。こ のためゲベール銃に比べ射程と命中精度が向上し照準器が有効となった。装 填はゲベールと同じく前装である。 本銃は文久3年(1863)頃からわが国に輸入され、第二次長州戦争は、幕 府の多くの藩はこの銃を装備していた。 ミニエー銃とゲベール銃との300歩(約228.6m)の距離における命中 度の比較は、ミニエーで44%に対して、ゲベール銃ではわずか8%にすぎ ない。「1歩(ばつ)=2.5ft 日本ライフル協会 所壮吉氏に聞く」 |
| 幕末輸入小銃諸元 | |||||||||
| 銃 名 | 製造国 | 仕様 | 施条 | 口径 | 銃長 | 重量 | 弾丸重量 | 備 考 | |
| ゲベール | geweer | 蘭 | 前装滑空 | 17.50 | 1,499 | 4.00 | 26.30 | ||
| ミニエー | minie | 〃 | 前装装条 | 4 | 16.60 | 1,410 | 39.23 | ||
| 〃 | 〃 | 米 | 〃 | 3 | 14.50 | 1,410 | 三ツバンド | ||
| 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 3 | 〃 | 1,195 | 二ツバンド | ||
| エンフィールド | enfield | 英 | 〃 | 5 | 14.66 | 1,250 | 3.88 | 1853年 | |
| 出典:図説古銃辞典 著者:所荘吉 出版:雄山閣 | |||||||||
| Enfield | 鳥羽minie | 英 | 前装装条 | − | 16.00 | 1,246 | − | 1868年 | |
| 本銃は長府博物館蔵 二つバンド。サイドハンマーの右下に TOWER 1868 | |||||||||
![]() 山口県山口市鋳銭司郷土館展示 Minie rifle (2バンド) 倉敷・浅尾騒動で使われたでミニエー銃の銃弾が保存されていた。詳しくはこちらをどうぞ。 |
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山口市鋳銭司郷土館展示の Minie rifle は山口県の伝世品ではない。大阪の古物商より求めた。 同じく Minie rifle は美東町教育委員会にも有ると されているが、筆者はその現物を見ていない。 現在のところ、大村益次郎が購入したと足りる現品は山口県に存在しない。 |
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脱走した隊員数 ► 下津井で岡山藩に逮捕された西岡龍太、長尾清熊の供述調書では 100 余人 ► 脱隊浪士の将校であった本城藩人の兄兵助の備忘録では 94 人 |
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藤本鐵石 備前岡山藩士。 文化13年(1830)3月17日〜文久3年(1863)9月25日。 名は真金。脱藩し天誅組総裁。大和国十津川で戦死。 |
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村上亀之助屋敷からのゲヘール銃請取りについて 大島宰判屋代島に給領地を与えられた村上は二家ある。いずれも毛利藩寄組(最高家格)で慶長6年(1601)周防大島に給領を得て和田に落ちつき元武、景親の二家に別れた。 景親家は和田に田屋をかまえ元武家は屋代に田屋を置いた。伊保田には村上一族島家が居を構えた。 両家とも三田尻で御船手組として屋敷(防府市警固町)を与えられた。 安政2年(1855)萩藩分限帳(萩藩給禄帳・樹下、田村編・マツノ書店 S59.8.1発行)によると、屋代(旧大島町屋代)村上亀之助は船手組一で石高 2,393石4斗2升4合で当時45才であった。 屋代の田屋は旧大島町屋代川地である。 一方もう一家が村上河内の系である。石高は1,655石4升5合。主たる給領地は和田(旧東和町和田)である。現在和田に居を構えるのは景親の系(河内)で旧屋敷は現在地より山手であったと伝えられている。 現在屋代村上家とは全く音信が途絶えたとは現当主の弁。 ご参考までに両村上は本家、分家の関係ではない。 両家とも毛利から采邑地(知行)を与えられている。 亀之助屋敷からのゲベール銃はその日記で請取と書いており、購入したのかも知れない。 村上家について詳しくは大島町史を参照されたい。 脱走第二奇兵隊日記で、村上亀之助屋敷よりゲベール銃を貰い受けたと記述している。 この村上屋敷は分限帳でみる限り屋代である。 なお、槇村正直(半九郎・第二奇兵隊脱隊騒動担当裁判官)第二奇兵隊出陣中日記、慶応2年(1866)6月14日条、村上亀之助責口三蒲とある。その中で西村上の兵二小隊とあり、この西村上は屋代(小松村・屋代)を主たる給領地とした村上筑後(亀之助)であろう。 すなわち、これらは両村上と記述している。 |
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