惨劇の幕開け 長州第二奇兵隊倉敷襲撃隊 隊長 立石孫一郎
慶応2年1月25日第三代奇兵隊総管であった赤根武人が山口出会い河原で斬られた。  この時期第二奇兵隊の総督は清水美作(備中松山城主末裔)である。 実質的な 隊の責任者は木谷(世良)修蔵であった。 赤根武人の処刑は高杉晋作との路線の違いである。 武人は一旦脱藩したが故郷に舞い戻って来た。 その戻った武人に修蔵は会ったのである。 どこからバレたのか藩庁に伝わった。 慶応2年2月26日藩庁は修蔵を除隊処分とした。
木谷修蔵奇兵隊除隊仰付の事。
  浦滋之助家来 木谷修蔵
右趣有之、奇兵隊除隊被仰付候事
寅二月廿六日井上東市祐へ渡之
     詳しくは を参照

隊結成以来の重鎮が去った。 去った後、新修尾道市史第二巻 竹内隼太履歴書 頁513
「二年丙寅(慶応2年、1866)三月、防州岩(石)城山屯集の激徒事無きを憂い、 数名を撰び商売或は水夫を装い、商船を艤して尾道に来り、問屋業加口屋某を欺き、 品物を鬻ぐ(ひさぐ、売買の意)の風をなし、密かに幕史の宿所慈願寺を窺い、 且つ市内の状況を探り、而して、余が寓居を訪ひ、余に図て曰く、 幕軍国境に逼(せまる)りしより、対陣年を越え、我輩甚だ(はなはだ)無事に苦しむ。 故に先ず慈願寺を襲い、使番を屠り(ほふり)火を市中に放ち、尾道を赤道となし、 以て敵軍通運の便を別たんと欲す、君の意見果たして如何と」
注) 竹内は商船を艤してと書いている。すなわち、どこからか通運船を借り上げて尾道に来航したものと考えられる。
重鎮が去ったその隙に、立石孫一郎は討幕のさきがけを夢想したのか、下津井に向かった。  立石らは商船で乗り付けている。おそらく遠崎秋元家が手配したと考えられる。
隊内は好き放題の混乱を呈したのであろう。 総督清水美作の嘆願書が藩庁に提出された。 その要旨
私儀隊中之事情ニ疎く、緩急之節手配リ等ニおゐても難行届。為国家甚懸念ニ奉存候、修蔵儀当隊草創之時より万事委任候者ニ付、 何卒出格之御詮議を以、従来之寸功ニ被為対、早々帰隊被仰付候様、篤と御憐察之上、宜敷被成御沙汰可被下候、以上
    三月    清水美作(第二奇兵隊総督)
三月二十九日 木谷修蔵第二奇兵隊帰陣の事
寅三月廿九日林半七え下渡之

嘆願書は着任間がない林半七が届けた。   浦家一統への処分撤回の通知が届けられたのは4月6日のことであった。
立石孫一郎らの討幕蜂起の下津井会議は隊重鎮が去った混沌とした状況でなされた。
事件の発端   鬱積した不満   立石孫一郎
1.慶応2年4月3日 夕刻 この日天候:雨
       【農兵松次郎のいた森田家】
 慶応2年陰暦4月3日(05.17 木)遠崎(玖珂郡大畠町) に出かけて帰隊中の藤田武熊、嶋橘太郎他二人が、通りかかった農家に時刻を聞いたが、 その折農家にいた岩国領農兵松二郎が「昨日のこの頃」と答えたために腹を立てた隊士一行が松二郎を縛り上げ石城山に連れて帰ってしまった。
【写真注】 (森田家位置 33.58.35N 132.03.54E)
 写真の右手に延びる道が柳井市に通じる往還道。家は建て変っているが地所は往時のままだという。
 松二郎拉致の報告を受けた岩国側の農兵司令士が抗議すると、第二奇兵隊幹部は、 事件を起こした隊士を本営に謹慎させ、松二郎を釈放した。このことが脱隊事件の伏線となる。
 なお、大村益次郎史料中(P274〜)の本城藩人の供述書で藤田・嶋らは遠崎(脱隊の出発地)に剣術稽古に出かけたとある。
 幕藩体制について、人はその能力と努力によって人生を切り開けず、 移動の自由と物品の生産、販売もできなかった。 当然のことながら職業選択の自由などなく、門地出身によってのみ人間の値打ちが決められていた。  幕末、経済活動の活発化は商流を発達させ、 とりもなおさず情報伝達の速さとなってあらわれた。 下層農民について、 今日が生きるか死ぬかの瀬戸際にある以上常に暴力的暴発(一揆)に訴えた。 権力側(下級武士)に立つ者にも同じことがいえる。日本全体が経済的に行詰まっていたからこそ明治維新は起こりえたともいえる。

2.慶応2年4月4日朝 〜 4月5日午後8時頃
  【鬱積した不満】
石城山第二奇兵隊屯所跡の碑  4月4日(05.19 金)風雨甚だしと奇兵隊日記は記録する。 朝より隊士たちは、藤田武熊、嶋橘太郎の処分に抗議したが受け入れてもらえず 不満はくすぶり続けていた。 常々世良修蔵(当時元奇兵隊総督の赤祢武人と会ったという理由で除隊処分中)、 大洲鉄然(萩へ出張中)、楢崎剛十郎は隊幹部の立場を利用しての公金横領の噂があったと伝えられている。 (少なくとも私自身それを裏付ける資料は見当たらなかった)下級隊士は隊幹部を信頼できない心理状態にあったといえよう。
 4月5日(05.19 土)抗議の声は激しさを増し、林半七が話しても聞き入れられず(着任して間がない)楢崎剛十郎、 田村探道が説得に当たったが興奮した隊士には通用せず逆に二人は縛り上げられた。 幸い探道は縄から脱したが、剛十郎は小銃の台尻で殴られ営外に連れ出され斬首されてしまった。 切った首は石城神社の石段の上に置き現大和町塩田の庄屋井上宅に下っていった。
    【下写真 大和町塩田井上庄屋跡地】

井上庄屋宅から伝令が走り、同地に帰宅中の吉田(田熊)又太郎、森田与一郎らが脱隊に加わっている。
井上庄屋位置: 33.59.00.5 N 132.00.17.8 E
脱隊隊士一行は赤破線を下っていった。現在でもこの登山道は整備されて登山口にも標識があり約35分で屯所のあった場所に到達できる。

石城山屯所正門であった神護寺山門

首を置いたされる石城神社石段

石城山屯所配置 大和町史より
 

【立石孫一郎について】
−閑話休題−
 一説によると立石孫一郎は下級隊士や同僚の評判はよく、非番のときなど部下を引き連れて光市室積の歓楽街に繰り出したと伝えられている。
 倉敷敗走後の陰暦4月22日(06.05 火)夜、源吉(熊毛宰判室積浦小河内庄屋河内栄次郎存内{管轄}、 畔頭 [ろがしら、自治会長クラス] 山根嘉右衛門組 [班] 百姓、30才)に米の調達(5両支払い)を依頼した折り、 大黒屋というところのなじみ芸妓「小督」、「吉松」と酒宴を開いている。 小督は中々の美人で顔を拝むだけで5両の値打ちがあったと伝えられている。
 この小督さん孫一郎の祥月命日には墓参を欠かさなかったとも伝えられている。 また孫一郎以外には呼ばれても顔さえ出さなかったともいう。当時の芸妓は、遊女とは一線を画し、 女性のたしなみとしての茶、花その他芸事の教授が出来た。晩年は出身地の広島で亡くなったと伝えられているが確かなことは判らない。

この事件の主人公である立石孫一郎については、参考資料で示したように幾多の書籍、文献があるので参照されたい。 兵庫県佐用郡上月村で代々土地の大庄屋を務める大谷五左衛門義孝の長男として天保3年(1831)1月に生まれた。18才のとき岡山県倉敷市の豪商で町年寄を 務める大橋平右衛門正直の娘慶と結婚し、同家の分家養子となり大橋敬之助 と名乗った。この平穏な生活も元治元年(1864)11月で終わりとなる。  下津井屋事件はこちらこちら
 倉敷時代に立石が居住していた住宅は規模は縮小されたものの岡山県都窪郡早島町 に現存する。現在は森田平三郎氏が移築され住まっておられる。
正面の建物のところにかって下津井屋があった 文久元年(1861)以降、凶作が続き地方の米の値段が上がるなかで、当地の下津井屋吉左衛門が、米の買占めを行った。 買占めのため米価は上昇し貧民の生活は困窮の度合を増し、これをみかねて元治元年(1864)10月、瀧本屋三郎等十数人の連名で月番役附であった大橋敬之助の元に訴状が提出され代官大竹左馬太郎(注1)に上申し訴訟となった。結果、下津井屋は罪を受け入牢。 ところが代官を始めその他の役人が交代となり、新代官に桜井久之助が就任することになり、下津井屋は賄賂を使い吉左衛門は釈放された。 さらに敬之助が天誅組の戦跡を視察していると密告され、 身の危険を感じた敬之助は妻と3人の子供を残して出奔(12月17日)、倉敷から姿を消した。敬之助が姿を消した後、 浪士の一団が下津井屋父子を殺害し家屋は放火された。(12月18日)
  光市小周防真行寺 その後、敬之助は立石孫一郎と名乗り、同志の水島東九郎(清水宗義、総社清水家)の親戚が近い光市小周防真宮浄土真宗真行寺に潜伏した。 この真行寺には、熊毛宰判室積で5月3日処刑された桜井政太郎が虹川(地名)貞助子「釈義天居士」の法名を残す。
<== 写真左 山口県光市新宮 真行寺
  山口県では立石の義兄が入牢していたのを釈放するためとしているが、 大橋平右衛門正直は二男五女の子福者で長男は平右衛門直諒(大橋仁吉)で家督を相続。 姉「慶(けい)」が 孫一郎と結婚し西大橋家となった。義弟は当然平右衛門直諒(仁吉)であるが彼は犯罪を犯したこともなく投獄の事実もない。 当時大橋家は掛屋(代官所管轄内年貢銀を幕府に納入担当)を営み、犯罪を犯すような家ではない。 正直は妾との間にも子をもうけ妻妾あわせて四男九女があった。 ちなみに正直の室「源」は 津山二宮立石正介の実姉である。
(この件出典:立石正介とその周辺 原 三正/著 S59/06/05 発行)
孫一郎は母光(みつ)の弟で津山二宮立石正介(当主久達末子)宅に寄食する。 そして嘉永2年(1849)正月晦日大橋平右衛門(妻・慶の父)の婿養子(数え18才)となる。 義父平右衛門の男児は夭折し、仁吉は晩年の子であった。  そこで家督つなぎの婿養子として孫一郎と慶を娶せた。 時に、平右衛門43才。 長男仁吉(後の平右衛門直諒)は生まれたばかっかりであった。


慶の父正直の室(妻・源)は立石助右衛門久達の長女で立石正介の姉。
孫一郎の父大谷虎吉(五左衛門義孝)の室(妻・光)は立石助右衛門の次女でやはり立石正介の姉にあたる。 助右衛門は室との間に一男四女をもうけた。正介は末子。正介は二卿事件に連累し青森刑務所で明治9年(1876) 10月17日病死(腸チフス)する。 ときに53才であった。
孫一郎と妻慶は従姉妹にあたる。 当時の富裕層は濃厚な血縁関係で財産保全を図った。
津山 立石家系図

助右衛門久達――┬―源(倉敷村 大橋平右衛門正直妻)敬之助(孫一郎)妻 慶の母
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            ├―光(上月村 大谷五左衛門義孝妻)孫一郎母
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            ├―仲(江田定邦妻)
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            └―正介(家督相続、継嗣なし)

孫一郎に係る家系はこちら。 なお、立石が長州へ下るとき、二宮立石家より先祖が毛利隆景より拝領した刀と感状は、 清水家家宰難波家が保持していたが虎ノ門事件〔1923年(大正12年)12月27日〕後、難波作之進により立石家に返還された。 その返戻葉書が山口県光市文化センターに残る。ただし、刀はその後盗難あい立石家には残っていない。

上の画像は、『ふるさとの想い出写真集 278 著者名(森脇 正之/編,出版者 国書刊行会,出版年月1984.2』に掲載されている。
 
注1
転勤となった左馬太郎(下級旗本)さん。 今度は千葉県多古町飯笹(成田空港の東5Km程度) と北中村の代官になった。今も昔も転勤族は大変である。 この飯笹村 には京都見廻役となった松平出雲守(松平康正)が陣屋を構えていた。   飯笹村は、幕府領・本間・松平との相給地(年貢貢納先が複数)である。
左馬ちゃん江戸には近いものの倉敷と比べたら左遷であろう。単身赴任か家族同伴か史書は伝えていない。
代官の職務
一般的に田畑調査・年貢徴収・人別改・土木普請・救済などの行政と治安・民事裁判、軽犯罪裁判であった。
代官は大変そうにみえるが、通常村には自治組織や百姓代表の庄屋、総代など行政機構が整っており特別な激務ではない。 先例、慣例、慣行により行政を行えばよかった。
幕末沿海地方で侍統治機構の崩壊や対応不能が発生するのは、外国との折衝に過去の先例、慣行など教本がないことに起因する。
幕領の代官交替はスタッフ・ラインも総入れ替えとなる。代官所警備の小役人はそのままだったらしいが、吏員家族も含めて二十人程の人員が入れ替わる。

注)
処分の前段示達
世良修蔵らへの前段謹慎処分の示達は、2月23日に浦家にもたらされた。秋良敦之助・芥川十右衛門・木谷(世良)修蔵の三人である。修蔵は親類もなく、家もないため、松村兵馬宅を借上げ家来を監視役とし謹慎させた。
除隊処分の撤回
世良修蔵らの処分が撤回されたのは三月二十九日だが、柳井阿月の浦家にもたらされたのは、立石等の脱走の翌日四月六日のことであつた。
赤祢武人の件
慶応2年阿月浦家は元旦から赤祢武人の件に苦慮していた。元旦まず探索として、藩庁から林半七が捜査に訪れた。 翌日白井小助山口派遣が決定された。またその翌日(三日)には芥川十右衛門が山口に向かった。  1月13日、浦家秋良敦之助・芥川十右衛門・木谷修蔵が赤祢と会ったことについての取調べ命令が主人滋之助にもたらされた。 三人は主家慎申渡しを仰せ付かった。   浦家は赤祢の帰郷を藩庁に届けなかったのである。 浦家はピンチに立たされてしまった。この善後策を託されたのが白井小助である。 小助は山口に出向く。 まず村田蔵六(大村益次郎)に接触。村田は政事堂政府員と折衝し、「浦家の与り知らぬことである」という評議を取り付けた。 ただし前三人は無罪放免とはならなかった。 政事堂も迫り来る幕府軍との戦線構築に謀殺されていた。 2月8日、浦滋之助に第三大隊編成について山口出頭の命令が届く。 小助は、山口において、赤祢問題の処置と幕長戦争最終確認に謀殺されていたのである。
田村探道
石見ノ助とも名乗った。大島郡三蒲村徳正寺住職。同寺に探道着用の陣笠が残る。 この寺の役僧が東和町伊保田出身で処刑された桜井軍記である。桜井は備中より一足早く脱出し伊予中島で立石本隊と4月17日合流を果たす。
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