長 州 第 二 奇 兵 隊 の 誕 生
奇兵隊誕生     光明寺事件
 
第二奇兵隊の誕生までを、義天日記で追いかけてみる。
文久3年(1863)10月14日佐々木亀之助,阿月浦靱負家臣、秋良敦之助(貞温)
久賀村覚法寺僧、大洲鉄然義勇隊を熊毛郡上関に設立。
元治元年(1864)5月18日阿月浦靱負家臣、秋良雄太郎(敦之助長男)大洲鉄然ら大島郡久賀に真武隊を設立
元治元年(1864) 4月芥川義天、三国管嶺 熊毛郡田布施村に僧錬隊を設立。円立寺が屯所であった。
元治元年(1864)11月資金難により僧錬隊解散
慶応元年(1865) 正月白井小助、世良修蔵、芥川義天ら真武隊を久賀にて再編成(23〜28日)
芥川義典:柳井市阿月円覚寺   三国管嶺:大島郡大島町小松妙円寺。慶応2年1月、同寺には美作尊攘激派の一人櫻井新三郎が潜伏していた。前年秋開催された下津井会議に参加したと伝えられている。
 第二奇兵隊が誕生するまでに以上のような前史がある。 隊を創ったものの資金的裏付けがなかったために、僧錬隊は開店休業の状態だったことが行間から推察される。 慶応元年(1865)1月下旬、南奇兵隊の前身となる真武隊を白井小助を総督として誕生した。引き続き天造隊(1月28日注1))を合併し当初光市室積専光寺にその後同市普賢寺にと転陣した。 この時本書の主人公である立石孫一郎は、熊毛郡小周防村 真行寺に潜伏 していたが、 倉敷から行動を共にしたと思われる水嶋東九郎(清水宗義 総社清水家)平松精一郎(清一)を伴い合流したものと思われる。
 このあたりについて芥川義天誌(結成当時隊惣務補佐)では真行寺に屯在せし松本左内及び備中倉敷の住人立石孫一郎因州藩景山桂等が兵を率い来って随順す。是に於て室積村専光寺を陣営と定めとある。
すなわち、慶応元年1月下旬、当サイトの主人公である立石孫一郎は長州の幕末史に初めてその名を記した。倉敷側の資料では、倉敷本町薬種商林孚一(大阪屋注2)が準備した道中(通行)手形と、先祖美作立石孫一郎が作州岩屋城の戦いの戦功により毛利輝元より拝領した刀(一尺六寸五分)と感状を持参したと伝えられている。
注1) 天造隊 元治元年(1864)6月17日編成。熊毛郡室積の農兵団。同日真宗一派自力隊入隊許可。 慶応元年(1865)1月28日南奇兵隊に合併。
注2) 孚一は文化8年(1811)1月28日〜明治25年(1892)9月13日。明治13年(1880)に数えで70才と伝えられているので、下津井屋事件の起きた元治元年(1964)では54才である。 諱は易安。字は子審。号は梧蔭。家業は薬種商。窪屋郡長を務める。
立石孫一郎(大橋敬之助)が周防に降るとき持参した刀は光市小周防難波家にもたらされが虎の門事件(大正12年(1923年)12月27日)後、当主難波作之進より津山立石家に返還された。 戦後数回窃盗の被害にあい現在同家には存しない。
作之進が立石家に送付した感状封筒表書きとその裏面。右は立石家が確かに受け取ったという葉書の裏面。投函は大正14年(1925年)4月8日付である。
(注)立石孫一郎が持参した刀の長さ:一尺六寸五分
 
 光市室積 専光寺(発祥の地 真武隊)  光市室積 普賢寺(転陣の地 南奇兵隊)
光市室積 専光寺(発祥の地 真武隊)
位置 33.55.36N 131.58.15E
光市室積5−7−3
光市室積 普賢寺(転陣の地 南奇兵隊)
位置 33.55.21N 131.58.06E
光市室積8−6−1 
現在海商通りと呼ばれている通りに専光寺はある。やがてこの寺は手狭となり、 近くの普賢寺に営所を移している。現在立派な山門の先に普賢堂があるが、普賢寺はこの左手である。  結成当時の幹部は義天誌から重複するが掲載する。

 この隊はやがて3月13日、大和町石城山の神護寺(今は廃寺)に転陣し総督に奇兵隊総督の山内梅三郎が兼任というかたちで就任し、 白井小助、世良修蔵は軍監となって「第二奇兵隊」と改称された。転陣当時300人とも400人とも言われていた隊員も諸般の事情で定員100名と削減されることゝなった。  当初藩公認組織でなかったことで隊員がふくれあがったと考えられ、 天造隊まで吸収し膨れ上がった組織が藩公認組織として組み込まれたたことで隊員削減を迫られたと考えられる。 この隊員の大幅な削減は隊幹部にとって頭痛の種で、一方的な削減もできず窮余の策として隊員を二班に別け交替勤務の体制としたと伝えられている。
 給与や出張旅費など金銭に関する不満が記録されており、隊幹部と一般隊士とでは 社長と入社早々の平社員ほどの開きがあったものと思える。一方内訌戦終了後の長州新政体に 危機感をあらわにした幕府は第二次征長作戦開始。矢継ぎ早に各方面攻撃担当藩が確定しており、この情報は長州藩に同情的 な広島淺野藩によって逐一流れ、隊士は命を張っているという緊張感の中に置かれていた。

役 職 名 姓  名 出      自
総   督白井小助浦備後家来(陪臣)
軍   監世良修蔵浦備後家来(陪臣)大島郡椋野村庄屋
軍監兼書記大洲鉄然大島郡久賀覚法寺住職
書   記楢崎剛十郎平生大野毛利隠岐家来(陪臣)
書   記山県源吾児玉若狭家来(陪臣)
書   記小方謙九郎上関宰判室津 松岡源蔵支配(農民)
書   記田村探道大島郡三蒲村 徳正寺(僧侶)
輜 重 方三国管嶺大島郡小松村 妙善寺(僧侶)
器 械 方伊藤三助児玉主税家来(陪臣)
第一銃隊長松宮相良平生大野毛利隠岐家来(陪臣)
   隊尾引頭兵吉光市立野清水美作家来(陪臣)
第二銃隊長松村五六郎浦備後家来(陪臣)
隊尾兼応接方立石孫一郎備中倉敷庄屋 浪士
第一小隊長大伴三郎膳所藩(浪士)
   隊尾芥川雅輔浦備後家来(陪臣)
第二小隊長国行雛次郎浦備後家来(陪臣)
   隊尾牧沢武雄児玉主税家来(陪臣)
第三小隊長石田英吉土佐藩(※天誅組生き残り)
   隊尾岡 犖三上関宰判阿月(不祥)
第四小隊長櫛部坂太郎大島郡伊保田浄専寺長男(僧侶)
   隊尾徳蔵勝蔵(不祥)
第五小隊長景山 桂因州藩士(浪士)
   隊尾(不明) 
大炮 隊長坂田直亮浦備後家来(陪臣)
  司令士
隊務補佐
芥川義天上関宰判阿月円覚寺(僧侶)
霹靂 隊長赤禰謙次浦備後家来(陪臣)
   隊尾堀江芳介浦備後家来(陪臣)
本 陣 詰林 隼之助平生大野毛利隠岐家来(陪臣)
  〃  渡辺寛次児玉主税家来(陪臣)
  〃  宮本耕助熊毛宰判
  〃  兼崎勇治熊毛宰判
会 計 方土井英作周防三田尻
  〃  原田又助熊毛宰判室積村
  〃  荒木田太助熊毛宰判室積村
慶応元年(1865)3月の藩政府による諸隊人数定めは装備近代化のために避けて通れない問題でもあった。 3月15日真武隊解散、神威隊解散が告げられた。 続く3月16日、諸隊の定員総数千五百人とするため各隊総管を山口に召集する。   藩庁は3月18日付けで諸隊に必要な鉄砲数を手当てする旨通達を出している。 だが、あまりにも急な隊員削減は諸隊にも大きな影響を与えた。 八幡隊は隊員削減緩和願(3月19日付)が提出されている。
注)  山縣源吾の兄は大楽源太郎(山口県防府市台道出身・月性の門下生・忠憤隊結成幹部)である。 後に兄とともに明治4年3月16日久留米にて斬殺される。
実は、当初本陣とした普賢寺書院の奥の間(8帖)に銃弾痕4発が残る。床の間に向かって、
1発目。右手1枚目の障子腰板(厚さ5mm)を貫通し反対側障子腰板床面から220mm高を貫通。弾は1発で2個所に破口。
2発目。推定だが、右手鴨居と天井の土壁をぶち抜き、 左手鴨居下部、障子戸敷居の境目(床面1,800mm)に楕円形の没入口(破口短径20.5mm)を残す。
3発目。右手奥側の障子横桟木吹き飛ばし(一舛横桟木欠落・欠損)床柱に没入。
よって、弾痕は4発を数えるが、発射弾数は3発だろう。
■ 寺の口伝で、
来島又兵衛(現防府市宮市)遊撃軍総督と高杉晋作が一緒に宿泊(文久3年・1863年4月6日)したことがあり その時襲撃された。と伝えられている。
■ 襲撃の時期は
来島又兵衛は禁門の変で戦死(元治元年(1864)7月19日)しており高杉晋作は文久3年(1863)9月までは奇兵隊総督として下関にほぼ張り付いていたと考えられ、 諸隊結成前までは藩内政治主導権抗争はなく紛議発生は元治元年(1864)6月の新選組による池田屋事件で多くの長州関係者殺戮により進発激派とそうでない派との抗争がみられるようになった。
■ 藩内抗争による暗殺での銃撃であれば
高杉は京師進発慎重派の代表格で来島は進発激派の代表格。この両者を一度に葬り去ろうとしたと考えると、謎は深まるばかり。
■ 使用された銃器は
1.長州藩の記録で元治元年(1864)8月、四國艦隊、文久3年の報復として下関砲台占拠され欧米火器の性能差を知り、 萩商人梅屋七兵衛を他国人になりすませ長崎に派遣。
彼が調達した銃器千挺が長州に届いたのが慶応2年(1866)10月だった。
2.慶応2年(1866)1月末、薩長同盟が成立し、大村益次郎断簡で大量銃器調達が行われている。
3.銃弾破口、藩内抗争などから、文久3年(1863)年10月〜元治元年(1864)6月の間と考えられる。  日本へのミニエー銃(前装装条銃)の輸入は、文久3年(1863)年頃からと伝えられており、すでにこの年年初から幕長間の政治的緊張は増していので長州の地勢的位置からしても簡単には同銃が入手できたとは考えられない。 よって、すでに多量輸入されていたゲベール銃が使用されたとものと考えられる。
この時期の諸隊定員は前提がある。藩の方針を武備恭順(慶応元年3月23日)に決した。これを知った幕府は4月12日第二次征長令を発した。藩政府はこれに対応するために強力な戦力拡充を迫られたのであ。 この状況を考えれば、諸隊定員問題の無理解は諸隊側にも責任がある。藩政府は大村益次郎を軍事責任の中核と位置づけ、ハードの充実(鉄砲戦力)、ソフトの展開(士官教育)を模索していた。 そのような状況を斟酌することもなく現場ではどうも勝手入隊が引き起こされていたようである。 慶応元年閏5月21日付け「諸隊へ百姓町人無断入隊改て取締の事」という通達が出されている。
発 前原彦太郎(御用所役)、広沢藤右衛門(御用所役)、兼重譲蔵(御用所役)、山田宇右衛門(御用所役兼手元役)
宛 大田市之進(御盾隊)、石川小五郎(遊撃隊)、赤川敬三(膺懲隊)、佐々木男也(南園隊)、守永吉十郎(荻野隊)、白井小輔・木谷修蔵
通達
一筆致啓達候、百姓町人猥ニ入隊不相成段、去亥年(文久3・1863)御沙汰趣有之候処、此度改て別紙之通被仰付候付、其趣を以御沙汰候様ニと存候、恐惶謹言。  閏五月廿一日

実は前5月27日には村田蔵六(大村益次郎)が軍事改革の総責任者に抜擢された。  この軍政改革が他藩よりずば抜けいた点は、藩庁は銭は出すが口は出さない。で一貫していた。 すなわち蔵六の双肩に長州一国が乗っかかっていた。 いわゆる農商兵も藩の正規軍事力に組み入れたのである。
慶応元年5月は日本でも画期的な年となった。 同22日一通の通達が諸隊に送られた。 すなわち、「諸隊銃砲卒の者入隊中苗字帯刀差免の事」すなわち、姓名を名乗り刀を差しても構わない。という通達である。 若き長州藩の事務官僚はそれほどの危機感をもって第二次征長戦に対応した。 実質的な身分制度の崩壊の兆しがこの時期であった。

  【大和町塩田光明寺 (現光照寺)】
大和町塩田 現光照寺 最近改築された '97年までは往時をとどめていた。  慶応元年(1865)11月2日夕刻一般隊士が給与や武器不足に関する不満を藩政府に強訴しようとして集団で脱営し光明寺に立てこもる。(大和町塩田、現光照寺)俗に光明寺事件という事件を起こす。この事件を現光市立野に給領地を持つ清水美作が説得し鎮静させたことにより山内梅三郎に替わって清水美作が11月26日付けで第二奇兵隊総督に就任した。
 隊内にある、種々の軋轢と矛盾の表出がこの光明寺事件であろう。立石脱隊の萌芽と伏線とも思えるのである。 慶応元年(1865)11月7日幕府は彦根藩をはじめ31藩に長州征伐(布告は慶応元年4月12日)のための出兵を命じた。長州再征に備え幕藩体制擁護ではなく、やがて自分達の力で、新しい時代を切り開き曙光を掴もうとしていた若者たちはこぞって入隊したという。そうしたなかで表面上僧侶、神官、 農民で構成されている隊にとって、対幕戦を前にしての一方的な人員削減や、天下り幹部と一般隊員、また武士階級(陪臣ではあるが)との軋轢のため組織として破断界に達していた。
 
   既に述べたように隊内に封建体制を温存し給与に至るまで厳然たる差別が目覚めた農民隊士に待ち受けていた。社会体制そのものが、士農工商、 被差別部落民というように各階層とも分断統治を根幹政策として、長年培われた各階層蔑視の風土のかで全員が育っており、現在われわれが考え
真行寺
山口県光市新宮 真行寺
る小市民的連帯感は、みじんもその思考の中になかった。  明けて慶応2年1月(1866.1.21)坂本竜馬(注1)、中岡慎太郎の斡旋により薩長 同盟が成立し、過激な高杉の主張と考えを異にする赤祢武人が幕府に通じているとの嫌疑のもとに、現山口市出合河原で謀殺された。 この赤祢に柳井市阿月で会ったことにより、世良修蔵が除隊処分(2月26日)を受け、隊員とは心情的に疎遠な 林半七が奇兵隊から第二奇兵隊の軍監兼参謀として着任。隊士達は心のよりどころを失なっていたといえる。  更に3月6日付で白井小助も軍監参謀を仰せつかった。
慶応元年(1865)3月の諸隊人数定めで第二奇兵隊の隊員定員は100人。 この時点の諸隊定員は次の通り
慶応元年(1865)3月諸隊人数定め
隊名駐屯地人 員
御盾隊 三田尻150
鴻城隊 山口100
遊撃隊 須々万 250
南園隊 萩(暫し)150
膺懲隊 徳地125
奇兵隊 馬関375
八幡隊 小郡150
第二奇兵隊石城山100
集義隊 三田尻 50
荻野隊 小郡50
合 計1,500
5月26日諸隊の定員増員が行われ第二奇兵隊は増の125人


竜馬、慎太郎暗殺犯(1867.11.15)は京都見廻組佐々木只三郎・桂早之助・渡辺吉太郎、今井信郎とされている。見廻役は浅尾藩主蒔田廣孝である。今以て真犯人の探求が行われているが 容疑者の佐々木、桂、渡辺らは鳥羽伏見の戦いで戦死したことで藪の中となってしまった。小太刀の使い手だった桂早之助、渡辺吉太郎が実行犯で今井ら数名が見張り役と伝えられている。黒幕は 京都守護職松平容保と考えられるが、佐々木らの上司は見廻役だった浅尾藩主蒔田広孝であり、彼が全く知らなかったとも思えない。
黒幕として世上薩摩藩との話もある。すなわち倒幕に方針転換した薩摩は大政奉還をとなえる龍馬が邪魔になったという説である。龍馬は大政奉還もさることながら討幕に反対したことはない。逆に第二次長州戦争では同志とともに積極的に小倉口で長州藩のために戦っている。
戻る     進む     総目次に戻る

当サイトの写真その他記事内容等を自身のサイトに掲載する場合管理者の了解を取って下さい。
第二奇兵隊取材班
E-mail   お問合せ、ご質問はこちらへ
ADDRESS Kudamatu City S.K.P
Version 1.04 (C)Copyright 1999/2000

JOY Searcher    Yahoo!JAPAN    総目次に戻る    戻る    次ぎ