長州藩における重商派(俗論)政権の誕生と崩壊

藩政改革     尊攘派の動き     戦後処理内閣
元治元年長州は多事多難の年であった。
 長州藩にあって薩摩や土佐のように、強烈ともいえる藩主のリーダーシップがなかったために、 藩政改革は成功せず、時計の振子のように政権移譲が発生し常に動揺してしまった。
 天保2年(1831)に起きた防長大一揆は、参加人員にお いて日本史最大(統計によっては10〜13万人)のものである。彼らの要 求した商業的利益の追求は、封建諸制度との矛盾 (百姓に物品の販売権不付与。余談だが香川金毘羅宮の五人百姓 の物品販売は例外中の例外) と不満は大きく、政権担当者に幕藩体制は早晩崩れゆくものとの思いは持ったであろう。 この一揆のための改革の方向を探ろうとして防長風土注進案が作成上申され た。
年表をみてみよう。
文久3年4月(1863)徳川幕府、5月10日を攘夷期限と朝廷に上奏
  〃 5月(1863)上奏を受けて長州下関にて外国船舶を砲撃(10日)
  〃 6月(1863)長州、船舶砲撃に対し報復砲撃を受ける(1日)
  〃 〃 (1863)長州奇兵隊を編成 初代総管(督)高杉晋作(27日)
元治元年6月(1864)新選組による池田屋事件、吉田栄太郎(稔麿)討死
  〃 7月(1864)禁門の変、長州軍敗退(19日)、政権椋梨ら重商派(俗論)誕生
  〃 8月(1864)四國艦隊、文久3年の報復として下関砲台占領(5日)
  〃 〃 (1864)幕府、禁門攻撃に対し第一次長州戦争発令

  文久3年2月(1863)長井雅楽が、航海遠略策の責任を一身に負わされたかたちで、 尊攘派政権により自刃を命ぜられたが、藩士の動揺と民心の安定を図るために早急に藩の方針を打ち出す必要に迫られていた。 その結果、後世、文久の改革(文久3年1月13日決定)と呼ばれる施策が決定された。
【藩の支配機構の改革】
 従来の国相府(国許政府)と行相府(江戸政府)を廃止し月番の加判役が政務を統括する。 藩中央機関(内閣に相当)と地方行政機関を合併。 「政事堂」を開設し交通、通信に便利な山口に移転する。
【人材登庸】
 山県小輔(有朋)、伊藤俊輔らの身分制度における軽輩(卒)が「士雇(さむらいやとい注1)」の名目で武士に編入された。  6月23日に出された布告では「当今の事務に長じ、才器人望これあり、機密の参謀にも採用すべき人柄これあり候わば、 草莽の者にても苦しからず、見込みの人物の姓名等、嫌疑に及ばず相記し、封印を以て、 早々支配々々へ申出ずる様、仰せ付けられ候事」これにより下関の商人白石正一郎も武士となった。
注1 萩藩における士雇(さむらいやとい)とは、いわゆる後に武士と呼ばれる最下級ポストである三十人通(さんじゅうにんどおり)の一段手前の身分である。三十人通には定員があった。
【兵制と軍事力の改革】
 6月7日馬関戦争の危機のなかで高杉奇兵隊が出現した。なにもこれは高杉の専売特許ではなく、 このような草莽の者を戦力化する構想は、山口県玖珂郡大畠町遠崎の妙円寺の僧月性の「内海杞憂」で開陳されている。 境内の一角に立派な資料館が建っている。一見の要あり。
 
月性展示館で購入   有名な月性の男児立志詩を紹介する。

  男児立志出郷関   男児志しを立てゝ郷関を出づ
  学若無成不復還   学もし成るなくんばまたかえらず
  埋骨何期墳墓地   骨を埋(うず)むるなんぞ期せん墳墓の地
  人間到処有青山   じんかん到るところ青山有り

玖珂郡大畠町遠崎妙円寺境内
玖珂郡大畠町遠崎妙円寺 玖珂郡大畠町遠崎妙円寺 僧月性
幕末彼は山口県東部(周防)の人材リクルート担当の感を呈した。 戊辰戦争奥羽鎮撫総督府参謀の世良修蔵、 奇兵隊第三代総管となった赤根武人など有為の人材を発掘し浦家に送り込んだ。
みな、明治維新を見ることなく倒れたが山口県の維新史に大きな足跡を残した。 月性の功績や大である。
遠崎妙円寺位置 34.06.24N 132.08.46E

 以上の施策が場合によってはすぐ実行に移されていった。人材登庸において、 幕末他藩に抜きんでていたのは、攘夷を唱えたことと、その行為による挫折の結果必要迫られての改革であった。 長州の地勢的位置と、 久坂のような過激攘夷派の存在が明治維新革命を結果的に成し遂げたといえる。 さらに庶民の学力向上があればこそ、この人材登庸は可能であった。 余談だが世界史的にみても支配階級と被支配階級の識字率など学問的隔絶のない民族は珍しいといわれている。 (武士も元をただせば皆百姓であった。威張ることはない。)

 文久2年(1862)7月から久坂による長井雅楽(1819〜63)に対する弾劾は、 翌年(1863)2月、自刃によって幕を閉じる。藩命により「航海遠略策」をひっさげ京都に上り、 公家の夷人嫌いと、政治の主導権争いから脱落したために、日の目を見なかった遠略策であったが、 その責任を雅楽一人に押し付け、これまた藩命により不条理な死を強いた。 防長回天史によると血の海の中で絶命したという。
 久坂が文久2年(1862)7月に起早した「廻瀾条議」では、攘夷実行は幕府の威信を傷つけ、 同時に藩論を統一して士気を鼓舞する効果があると主張している。
 いくらこの攘夷という大義名分が成り立った文久3年(1863)の激動の時代とはいえ、 本気で攘夷を決行するとは、日本中が考えてもいなかった。攘夷を実行すれば誰がみても列強との戦争になることぐらい分かっていたからである。 この身悶えする程の攘夷熱は、諸国浪士の羨望の的であったが、彼らがなぜ攘夷に走ったのかは既に述べたとおりである。 繰り返すが背景を知らないと真因がぼやけてしまう。
 尊皇攘夷派は、下関海峡において狂気のうちに、文久3年(1863)5月10 日海峡通過の外国商艦船を砲撃してしまう。 このことにより、6月1日米国軍艦、5日にはフランス艦2艦が来襲前田砲台が占領されたが、 このとき武士たちが卑怯でまるで戦わなかったという評判がたった。
 この時の正兵(武士)の敗北と、幕府の第一次長州出兵による対応として、 もはや武士のみに頼っておれない状況となり、 また民衆の反封建的エネルギーと重商派(俗論、門閥武士)との主導権争い等も加わり、 高杉奇兵隊の出現となった。 翌元治元年(1864)8月5日四カ国連合17艦船の攻撃のときには、 奇兵隊はよく勇戦し、伝統的な階級制度の崩壊が目前に迫っていた。 但し断わって置くが奇兵隊が草莽の者でもよしとしたが、 隊内での身分差別が無かったということではない。隊士は認識票を付けるが、 武士(陪臣も含む)は絹布、他は綿布であった。 門閥武士には頼れない時世ではあるが高杉とて門閥武士の出身である。 そこに高杉の限界があった。奇兵隊総督であった「赤祢武人」が、 萩藩庁に出向き禁門の変の責任を取らせるとして、 野山獄に収監されている有能な政務員の助命と、奇兵隊存続の折衝中、 高杉の功山寺決起が起きた。その時、高杉は「赤祢ごとき土百姓にだまされるな」と叫んだと伝えられている。 彼に後の板垣退助にみられる平等思想はない。
 ここでいう「奇兵」とは藩士で構成される「正兵」に対するものである。 従前の藩士で構成される「正兵」は、 戦時の場合、後の禁門の変の部隊指揮統制でわかるように、藩の閣老が指揮した。 よって統帥権は藩主に属し現場指揮権は、便宜上のものでしかなく、 家格制度の陰影を引きずった部隊となる。根っこは中世の一族郎等の軍事組織となんら変わりない。 すなわち一族郎党武器自分持ちの小部隊を束ねただけの話である。
 この陥せいは、のちの第二次長州戦争のときの、諸藩の戦闘局面で諸藩側において明瞭となる。 近代集団戦に不向きなのである。 一方「奇兵」は、この間に「総管(督)」と呼ばれる司令官が介在した。 よって統帥指揮権といえるものを「総管(督)」が持ち隊員を掌握する。 そして補充・補給を考えて携行銃の統一化を図った。 ただしその銃は個人が買わされたけど。   慶応元年(1865)4月、密輸の銃器が手にはいるや家臣に伝家の甲冑を売り払い「鉄炮」を購入すべしと示達した。 概ね18〜20両であった。
 ここのところが旧来の軍事組織とまったく違うところなのである。 この奇兵隊の奇兵隊たることの由縁は兵制にある。書籍によっては、 この革新的兵制を見ずして用兵と兵士の構成だけをみている。噴飯ものである。
 尊攘過激派は外国の軍隊の火力を過小評価したきらいがある。 この過小評価癖と自己に有利に解釈する楽観論は、旧日本軍に連綿と引き継がれる。  過小評価癖と自己に有利に解釈する楽観論は、日本人固有の精神文化かも知れないと最近考えるようになった。
 下関砲台占拠の写真が何葉も残されているが、長州砲は滑腔砲である。外国船はアームストロング砲と兵は装条銃で武装していた。武器の違いは、太 平洋戦争の日本軍の三八式歩兵銃と最新式ミサイル程の違いがあった。
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 一方京都において尊攘派の浪士において天誅の名のもとに殺人が横行してときの元治元年(1864)6月、 新選組による池田屋事件が発生し、 吉田栄太郎(稔麿)、が闘死(池田屋から虎口を脱し長州藩邸まで辿りついたが閉門により邸内に入れず自刃したとある。)これも見方により窮鼠の自刃である。死ぬことに何の生産性もない。  この件で久坂たち激派の京都進発論は、大合掌となり、やがて禁門の変を惹起する。この変に奇兵隊は部隊として参戦しなかった。
 久坂は妻「ふみ」(吉田松陰の妹)に振り仮名付きの優しい手紙を残す。 この戦闘で、急進的尊攘派は壊滅する。久坂は真木和泉(忠勇隊総督、久留米藩)らと共に、 鷹司邸に追いつめられてやはり窮鼠の自刃を遂げる。 死ぬことにより結果の責任を取るという倒錯した考え方は、 これまた日本人固有の文化といわざるをえない。事後処理を放棄することが責任を取ることでもなんでもない。 これは逃避である。 命令に従った者のことをなに一つ考えない思い上がりの跳ね返り人である。
  この窮鼠の自刃は、旧日本軍に特徴的に現れ、航空機特攻という必死の自 殺戦法を作り上げた。経済の法則からいうと1名のパイロットを養成するの に現在の金額に換算すると2億円程の経費がかかると試算されているが、こ のパイロットを使い捨てにした。戦闘での死は鉄砲の弾に中るか否かの偶然 死である。だが特攻は前途ある青年に悠久の大義に生きるという虚構の美名を着せ、 志願というかたちの必然死を求めた。これは人道上許せない。
 この人命と経費の浪費は、いくら戦時とはいえ人類の名において許される ものではない。関大尉指揮による最初の特攻が行われたときその戦果を天皇に報告すると 彼は「そうかよくやった」と賞賛したという。人命の無駄遣いを「よくやった」とは信じられない。 正常な精神の持ち主とも思えない。
 さらに、昭和20年(1945)3月末、海軍及川軍令部部長は天皇に西南諸島方面(沖縄)の戦況に おいて「航空機をもってする特攻作戦を激しくやる」 と天一号作戦を奏上。天皇は「天一号作戦は 帝国安危の決するところ、挙軍奮励をもってその目的達成に違算なからしめよ」 と述べたという。 天皇は命あふるる若人の必然死さえ眼中になく、 かつ戦争指導部の成算なき企図を責めることもなかった。 そして、もう止めよとも決して云わなかった。
 そして沖縄戦(1945/04/01)に入るや菊水作戦の名の下に志願で入隊した青少年 (現在の中学、高校生) を司令の武勲を誇るための人間爆弾とし海陸合わせて1744機2605名を殺した。 軍統帥部は若者を単なる消耗品とした。そして 練習機「白菊(巡航速度約180Km)」まで特攻機として使われ16歳から25歳の青少年たち52人が不条理な 死を命ぜられた。
 この程度の航空機での特攻が有効であるかどうかという テスト(若者の命)に使われたと戦後の 戦史にある。強者が有無をいわせず弱者を矢面に立たせた。
 この強者は軍部とか 天皇を指してはいない。指揮官となった海軍兵学校出身者を強者とみた。 貧しく向学心に燃えていたが経済的理由で志願せざるを得なかった弱者を踏み台にしたと 思っている。
 あくまで指導部は特攻隊を「志願」であったという詭弁を弄する。志願なら なぜ1名を除いて佐官の特攻隊員はいないのか。なぜ将官の特攻隊員はいないのか。 なぜ、皇室関係者はいないのか。特攻を知らなかったとでも言うのだろうか。 単座1名の航空機以外に、艦攻、艦爆の副座にご丁寧にもペアを乗せて特攻させた。 佐官、将官が操縦できなくてもペアは組めたはずだ。志願が聞いて呆れる。愚弄するにも程がある。
 殉国の至情に基づく先に航空特攻があった。と公言して憚らない連中に聞きたい。 昭和19年9月、海軍は大森仙太郎海軍中将を特攻部長に任命し、同13日軍令部参謀源田実は 一通の電報を起案した。 「神風攻撃隊ノ発表ハ全軍ノ志気高揚竝ニ国民戦意ノ振作ニ 至大ノ関係アル処、各攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名(敷島隊、朝日隊) ヲモ併セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒ度・・・・・」 すなわち、特攻部長を決め、 特攻隊名まで決めて人間爆弾となる人選を行っている。 そして突入は10月25日。 この事実をどう説明するのか。 殉国の至情に基づく輩が勝手に酸素魚雷を組み合わせ 人間魚雷回天を製造し、これまた勝手に山口県大津島に訓練基地を作り、 潜水艦長とつるんで、勝手に出撃し自爆したというのであろうか。 志願が聞いてあきれる。
 かっての帝国陸海軍は兵が勝手に国家の資産である航空機と国家の資産である爆弾と国家の当時油の一滴は 血の一滴というほど貴重なガソリンをパイロットが盗み出し米艦に突入を繰り返えさせたのか。  兵が兵器を盗み勝手に使用することを黙認したのであれば犯罪の片棒を担いだことになる。 また、特攻兵は犯罪者となる。 特攻出撃で不時着帰還者を更に特攻に出している史実をどう説明するのか。
この国はかって国家と国民を破滅の淵に導いた戦争指導者を一度たりともその 責任を追求してしてこなかった。
1945年3月21日,大分県宇佐海軍基地の第721海軍航空隊「第一回神雷桜花特別攻撃隊」は,人間爆弾「桜花」15基を運ぶ一式陸攻15機,護衛戦闘機30機で出撃し、 特攻隊は全滅。これは「大和」海上特攻2週間前の悲劇である。 人間ロケット自爆部隊、神雷部隊(150名)のうち予備学生(学徒兵)・予科練(少年兵)の出身者は143名、 海軍兵学校出身者は7名。隊長 野中五郎少佐は二・ニ六事件「叛乱部隊長」の弟。 特攻隊を陣頭指揮し戦死した佐官以上の高級将校は、「桜花」部隊の野中五郎少佐ただ一人。 海軍兵学校出身者は,ほとんど特攻出撃していない。特攻隊の人選は、未熟練な学徒兵と少年兵に集中していた。「特攻は自然発生的な志願である」のなら、 なぜ(死後昇進ではなく)出撃時に佐官以上の高級将校が特攻しなかったのか?。

 昨今の官僚(厚生労働、社会保険庁) エリート(キャリア)がものを言うすべを持たない 弱者(国民大衆)を踏み台にしているのと同じ図式である。 丙種飛行予科練習生、以下乙飛、甲飛のノンキャリアの命を士官学校卒業のキャリアが弄んだと 誰が否定できようか。

 そして有為の青年を使い捨てにした将士(キャリア)たちの多くは戦後ものうのうと生き延び、かの青年を育てた親たちは 彼らに多額の軍人年金(戦病死、恩給に41兆円)を戦後支払い続け、そして時の為政者はのうのうと一億総懺悔とのたまわった。 結果的に使い捨てにされたといっていい。彼ら青年を育てた親こそ哀れである。彼ら特攻に散った若者に深い 哀悼の意を捧げたい。愛する者のために一身を投げ出し、ハイテク兵器の対空レーダーとVT信管付対空砲弾の弾幕の中をかいくぐり、 フィリッピン沖や沖縄近海の米艦船に突入し果てた。 出撃機数2367機。戦死2165名、突入機数244機。(レイテ戦記;大岡昇平著)ほぼ同数の至近突入があった。決して戦争を賛美するものではないが、 彼ら特攻に散った若人は民族の誇として誰かが永遠に語り継いでやらねばならない。

 自分が払う税金で自分の子供を殺した人間に多額の年金を拠出することにさしたる不満をぶっつけるでもなく、戦後の繁栄を寡黙の中に 底辺で支え続けた。彼らの孫娘たちは、悠々欧米に遊び、まるで貞操観念もなくイエローキャブと蔑称されている。 特攻で死んだ彼ら若者に本当に申し訳ない。

  この禁門の変の戦後処理内閣として、椋梨藤太に象徴される重商派(俗論)政権が誕生した。
 尊攘激派による行動が長州藩をして破滅の淵に立たせたのである。この内 外の難局(外艦による下関砲撃、第一次長州戦争発令)を乗り切る方策とし て、変に係わった軍事責任者の処断以外に誰が考えても、取るべき有効な施 策はなかったであろう。もしこの施策を反動、亡国と云うならば、どのよう な対案があるであろうか。軍事力は壊滅し装備は劣悪旧式であり三家老、四 参謀らには申し訳ないが(申し訳では当人たちには誠にあい済まないけれど) これ以外の施策はない。
 薩摩の西郷の斡旋がなく、本当に幕軍が山口県に大挙侵攻していたならば、 以降の日本の歴史は間違いなく別のものとなったであろう。少なくとも明治維新 は慶応4年になりようもなく、識者によると50年は後になったであろうという。

 この時、三家老の一人国司信濃は、徳山藩(長州藩支藩)預けとなっていたが、11月1 1日、周南市(徳山市)澄泉寺で切腹。23才の束の間の生涯を 終えた。
 妻は身重だったと伝えられている。この最期は防長回天史のなかで見事な 最期であったと伝えられている。
 通常、切腹は、腹を切っただけで絶命するものではなく、誰かが首を切り 落とすことにより被切腹者の苦痛を和らげるのであるが、信濃の場合腹を 切った短刀を持ち変え首の右から左に切っ先三寸位突き刺し左手で前に押し だし自分で気管を絶ち切ったという。この信濃こそ長井雅楽自刃のときの立 会い者なのである。これもまた運命にもてあそばれた不条理な死であった。
 注)介錯について。 慶応4年2月15日(注、明治元年は9月8日〜)、土佐藩士とフランス水兵の紛争に端を発した 堺事件における切腹が妙国寺で行われたが一等最初の箕浦猪之吉(25才)の介錯を馬渕某が 行なうが三太刀目でやっと首を切断したとある。後に述べる第二奇兵隊士の 斬首はそのほとんどを藤井関次郎一人で行なう。長州藩にあっても 余程の手だれの者であったのであろう。
 その血の海から、本書の隊士の斬首を実行した藤井関次郎が首を拾い上げ 血を洗い首桶に入れて玖珂郡周東町高森まで幕府検察使の実検に供するために 持参する。この重商派(俗論)政権は、高杉の攻山寺の決起とそれに続く、 権力闘争の結果脆くも敗北し、慶応元年(1865)2月重農派(正義)は政権を樹立した。 この政権は「武備恭順」の方針のもとに、装備の拡充と軍制の改革とを着々 と進めていった。一方これに気付いた幕府は同年6月第二次長州戦争を発令 したが、既にみてきたように諸藩とも財政基盤は脆弱を極め藩内の統治は一 揆の続発で気の抜けない状況にあった。
 幕府は、本気で長州と戦争が出来るだけの余力を持っていなかった。一方 では、倒幕の方針でありながら、政治折衝により解決を図るように見せかけるために、 長州側は正使井原主計(家禄2100石)、副使宍戸備後助があたりこの交渉団は4月22日 広島に到着したが、広島藩からは25日を期限に大阪に向かうよう要請され、今 後の交渉の困難と重大性に耐えきれず、正使井原主計は、藩庁の訓令待たず、 副使宍戸備後助を残したまま独断で帰藩してしまった。理由はともあれ藩の 使者としては全く非常識窮まるものであった。すでに門閥武士はこのように ふがいない存在となっていたのである。独断帰郷は、名誉を重んじる武士の 風上におけない存在であるが、封建制は常に弱者に過大な責任を押し付ける。 不名誉は、死をもってあがなうのが武士の名誉ある処し方であるはずなのだ が、彼は死にはしなかった。
(謹慎処分 封建制は上に甘く下に厳しい)
 長州藩は「武備恭順」の既定方針のもとに、だらだらと意味のない交渉を 続けていた。長引けば長引く程、軍備の拡充に必要な時間稼ぎが出来る状況 であり、序章で記述したように慶応2年(1866)1月下旬の段階では、既に薩 摩藩と軍事同盟ともいえる密約が成立し、薩摩は幕府側とはなりえず、他諸 藩も財政の悪化と一揆の多発により戦意はなく戦える状況ではなかった。先 述したように、それぞれの藩内の内政と経済が破綻を来していたのである。
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