薩摩藩倒幕転向の理由考査・人間の普遍的行動規範
富裕(大庄屋)百姓の動き     普遍的人間の行動規範
1.薩摩 経済的自立を果たすために。
 【討幕に方針転換した要因考査】
安政6年(1859)横浜、長崎、函館の三港が外国船に解放された。鎖国時代の薩摩は琉球(沖縄)を 中継とする密貿易(地理的特殊性で幕府の了解は受けていた)で莫大な利益を挙げていたが開国の 後、来航船のほとんどが公認された横浜に向かい薩琉貿易は急激に衰微し、 薩藩財政に暗い影を投げかけて来た。当時でも500万両とも云われる借金を抱えていた薩藩にとって 看過出来ない重要な問題であった。少なくとも1850年頃までは幕府と良好な関係であったが 元治元年(1864)、京都で開催された参与会議で慶喜と島津久光が鋭く対立した。対立と財政的困窮。やがてそれは自己 の財政的確立を図るための討幕へと進む。

 薩藩は、慶応元年(1865)3月、新納、五代、寺島の三名の使節、15名の留学生を英国へ派遣した。使節団は英国外務省に幕府の貿易 独占排除と貿易の自由を働きかけた。以前のように薩琉貿易で利益を挙げたい。この一心が 1867年パリで開催される万国博覧会に「薩摩太守政府」で出展する背景にある。
貿易独占権を占有されてたまるか!  討幕ダーが薩摩であった。
一方長州は年貢により疲弊した藩内を立て直したい!  よって攘夷ダー。結果下関海峡 の敗戦で攘夷をかなぐり捨て倒幕に転換した。
 後ほど述べる人間の普遍的行動規範は、自らの利益になることの方向に指向 される。外国との交易により商品の流れが、権力(この場合藩)と結託した旧来の 特権商人や役人の手から、藩末端収奪地主層でない 在郷商人や貿易商人へと流れを変えてきていた。
 一方輸入は、英国はすでに産業革命の成功で、繊維の工業化は急速に進み 東洋に販路を求めていた。この分野を担っていた日本国内の製造者と、流通 業者は大打撃を被っていたのである。攘夷はこのあたりのことが整理されな いとなかなか理解できない。
 繰り返すが開国により貿易額が急劇に増大することになるが、その事が民 衆の側に結果的に国内の消費物資供給不足と物価騰貴を招いた。外国人さえ 追い払えば、昔の安定した生活に戻るとの思いが攘夷の思想の根底にある。 長い間鎖国政策をとったため、外国との貿易や貿易の結果の物価騰貴など 過去に体験しておらず、また儒学の教義として経済や通商を軽ろんじ、 当然の帰結として経済金融政策の専門家も育たず、 有効な施策をとることもできない状況であった。また民業(百姓)の自由な 売買を禁じたことも物価騰貴の根幹部分であ。農民搾取に立脚した武士支配の 最大の矛盾点が幕末に露呈した。 (百姓は旅人の要に供する「わらじ」など限られた物品の販売しか許されていなかった。)
 讃岐金比羅宮に参拝された方ならご存じと思うが、石段中程に小商いをする「五人百姓」と いう方たちが存在する。封建制にあって官許(藩が許す)の特権で、本当に例外的存在で あった。だから現在でもその誇り?を引き継いでいると筆者は思う。

 そうした中で発生した桜田門外の変(井伊直弼の暗殺)に民衆は喝采を送 ることになる。
 なお水戸浪士による直弼暗殺の本当の理由は、将軍継嗣問題に端を発した藩主に 対する侮辱に起因する。この場合殺害の動機はあまり問題ではなく、強権政 治の終えんを意味したことで日本史の中で、この暗殺は大きな位置付けとなっ た。
 経済といえば外国との金銀交換比率(日本1:5 外国1:15)の違いにより外国 人による多量の金買い(銀と交換)が発生し、短期間に50万両ともいわれる多量な 金の流出となった。経済のこのような破綻を抜きにして幕末の政治と下層民衆の心理は 語れない。

2.薩摩藩は単純攘夷である
文久2年(1862)8月21日、現:横浜市生麦付近において、帰藩中の薩摩藩の行列(大名行列)に日本の慣習を知らない外国人(英国人)を斬ったに過ぎない。この事件から薩英戦争に発展した。当時の日本経済は内需完結型経済構造であったが 開国により、商流の大変革が発生。諸物価騰貴しとどまるところを知らず庶民は生きる希望さえ失っていた。 外国人を追い払い旧来の生活レベルに戻すべし! とした攘夷思想とその根幹部分が全く違ったのである。

3.富裕(大庄屋)百姓の動き
 長州藩では、文政12年(1829)に産物会所を設置し、村役人(庄屋層)に売買の独占権を与えて 特産物「防長の四白(米・紙・塩・蝋)」の生産・流通を統制していた。
 長州において重商派(俗論)は藩財政の確立のために、梅田雲浜の献策をいれて、構想として自らが貿易、流通商人 を担おうとしていた。
 ただしこの構想は庄屋層の猛反発にあい頓挫する。これを実行されると 既存権益が吹っ飛ぶからである。(下図商流の仕組み概念図参照)
 高杉の政権奪取の武力ほう起の軍資金は、仁保津(にほつ現在の山口県小郡町)の 大庄屋林勇蔵が調達した。 やがて元治年(1865)1月8日後に庄屋同盟と呼ばれる庄屋、地主、豪農層28名が決起諸隊 を支持した。小郡下郷庄屋、銃陣頭取の赤木新造は「正義派のお方がお倒れなされては国家は此ぎり」 だから「若し御家来衆の御手でやれないという事ならば、 新造の手を以って百姓一揆を起こして国家を回復しましょう。」とまで言い切った。彼らは山口県での内訌戦 に後方支援の軍需物資輸送に従事した。
 富裕百姓層は、小郡の大庄屋林勇三に象徴される重農派(正義派、旧来の本百 姓優遇策)支持の方針は彼らのみが、過去からの特権を守ってくれるとの思い があればこそ自らの有利となる方に組したのであった。高杉は庄屋(親方)優遇策を提示した。その場合子方(水呑百姓)は悲惨であった。山口県は幕末奇兵隊といって士農工商誰でも入れる 軍隊を作ったぞーすごいだろー。が大方のHPである。中身は下層農民収奪を高杉が保証したことで資金や人夫を調達した。 下図の生産者はほとんど生産の利益を享受できない小作農であった。庄屋、豪農層とは親方、小方の関係で収奪されていた。
 防長大一揆では、最下層の小作人はさらに下層に位置づけられていた「穢多」といわれていた人たちをも襲撃する。 ここに封建制の最大矛盾が噴出する。民衆の不満は下にも上にも向かう。馬鹿な経営者の無策はリストラといって下だけに向かう。
【領主・小農・市場 概念図】
  封建領主は商と農を完全に分離し、商流のすべてを統御した。
 貢米が郷蔵へ収納され、年貢皆済状が下付されると貢米は蔵米となる。蔵米入札は 米穀の販売権独占行使で、これによって特権商人の統制が貫徹されている。封建制は農商の分離を貫徹したので生産者が 消費者に直接売買し金殻を得る手段を封鎖していた。ただし、物々交換はこの限りでなかった。
 貢納完了期貢納米の入札が行われた。この場での落札価格がおおむね1年の米価となった。不作や凶作に見舞わられた農民は 貢米の不足は拝借金を受けるか、富農商から借金をした。このことは、不足分だけ貢米の落札価格で借金することを意味する。 よって農民は、貢米の落札値に左右され、米の安値を期待するという矛盾を生産者でありながら有した。不作で落札米価が高騰すればその分借金の額がふくらんだ。 これらの要素で農民没落のスパイラルに陥った。小作(隷属農民)構成比率はこちら
 (出典:日本近世史の地方的展開)
 そして、明治政府は財政基盤確立を富農に置いたことで、彼らの優遇策を推進した。

【商流の仕組み概念図】
商流の仕組み概念図
 長州藩にあって高杉を筆頭とする重農派(正義)のみが本百姓優遇策を掲げていた。 (2)の流れ重視
 このことは藩の末端収奪役人となっていた大庄屋層を遇するものでしかない。
 年貢の米は物納でなく金納であつたので納付するまでに米相場に回し利ざやをかせいで 自らの懐に入れていた。
 福沢諭吉はこのあたりのことを見事に論破し、すなわち「立国は私なり、公に非らず」とみなした。 誰一人、本音のところで利益を度外視して行動する者はいない。
各藩とも大阪蔵屋敷をもち相場をみながら換金を図った。 ただし、当然市場原理の世界で、相場が下がれば欠損(償還不能)を生み、 差損が発生する。日本全国米の価格が基軸通貨であったので、 米耕作不能百姓は換金作物を貢納させた。 山口県奥山代宰判にみられるように紙(ミツマタやこうぞうが原料) を納付させ大坂で相場にかけた。差損が発生した場合。 生産者の負担とさせた。 よしんば余剰生産物が発生しても生産者自身による 自由販売は認めなかった。よって貧農がはい上がるための財の蓄積ができない仕組みとなっていた。

3.人間の普遍的行動規範
 武士の世界においてことさら名誉を重んじたことは疑いの余地はないが、 彼らはそのことが自己と子孫の将来に利益があればこそ彼らの規範としたに すぎない。話は変わって、ときに名誉ある死として自刃があるが、視点をか えれば、窮鼠の立場かまたは、やけくそか、それとも自らの家にとって利益 になるかのいずれかであろう。死ぬことに生産性の意味を見いだすとしたら 最後の例のみでる。  やけくそについて、比喩になるが先の太平洋戦争において多くの将兵が玉 砕という無益な死を展開したが、大方の場合、後方に陣取る幕僚の無能のた めに前線では、飲むに水なく、糧食弾薬はもちろん医薬品さえもなく、座し ても餓死しかありえず、武器弾薬を送れといえば、インパール作戦の牟田口 ではないが、弱音を吐くと罵った。万に一つの勝機もなく、窮鼠かやけくそ の選択肢しかありえなかった。どの選択肢も死しかなければ、やけくそのそ れこそ性急な突撃を日本人は選ぶであろう。
 日本史のなかに真に生産性のあった自決や自刃の例を私は寡聞にして知ら ない。潔よさとは言葉をかえれば「やけくそ」なのである。 一般的に人間の普遍的行動規範は、
                            OUTPUT
                       1――――――
                            INPUT

 この公式で表される。使ったエネルギーより得られる効果が大でなければ ならない。なかには損得抜きで行動するではないかと言われるご仁がいるか も知れないが、そんなものは永続することはない。富農農民層であれ商人で あれ、はたまた武士であれこの公式から逃れ得られるものではない。
 幕末長州の諸隊にこぞって社会の下層民(封建制度の中では農民)が入隊したが、彼らの行動規範も この公式の例外ではなかったのではなかろうか。
 @武士になって社会的な活躍の場を得たかったのか。
 A自己の将来の生活基盤を確立したかったのか。
 Bフランス革命のように庶民の政治的参入を目指したのか。
 奇兵隊の栄光のみが語られ、この当然なされていなければならない視点で歴史をみることが、過 去数々発行または刊行された山口県の明治維新史に欠落している。よって諸隊に入隊した 百姓の若者の階層分析された資料が存在しない。学者の怠慢なのか?。本気で喧嘩しても仕方のない ことだが作家の 早乙女貢氏があらゆる機会に記述されるように奇兵隊の隊員は 食詰めた農家の次男や三男以下の無学無教養の輩という表現となる。彼は歴史家 でないと見過ごされない部分である。
 私が調べた限り、第二奇兵隊に入隊していた農家の息子たちは食詰め者の二三男で もなく、ましてや無学無教養の者ではなかった。 この部分についての考証は別の機会に譲る。
 本論にもどす。明治維新革命において薩長芸藩の果たした歴史的役割は大 きいものがあるが、幕府は内政・外交・経済のすべての面で行き詰まり、 民心は離反し、すでに政権を持ちこたえられない状況であった。ドミノ倒しの最初の 駒を誰が最初に倒すかだけの状況であった。

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